ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

宗教を語る軽口3

 
  宗教を語る軽口3
 
   「信仰は母性?」再録+
    https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12536084241.html
    「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
 
   http://mn266z.blog.jp/archives/22511962.html
   楽山日記(仮・倉庫)2019-10-1
    を改めて批判。
 
 
過去記事の再録+です。楽山は、性懲りもなく、前に書いた記事を、批判に答えたことは一度もないくせに、また載せてきます。改めて批判せざるを得ませんが、楽山の、こういう習癖は、自画自賛で、人の言うことを聞かないナルシストの特徴のようです。
 
言い張って、言い張ることだけで、満悦するのでしょう。シャロームに体質が酷似しているので、成りすましを疑っています。いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。しかも、楽山は、キリスト信仰の、例えば、赦しについて、何も理解していません。
 
 

『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。

 
キリスト教を「〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが」と説明する短絡が、楽山の高慢なナルシシズムの特徴でしょう。父性だ、母性だ、あわせもつ、いずれとも、人は、神と違って不完全なのだから、決めつけてはいけないことです。
 
外からやって来て、信仰者でもないのにクリスチャン芝居をして、一方では、キリスト教とキリスト信仰を、自尊の分かってるつもりの思い上がりの軸から、深みのない思いつきの猥雑な文章で、おとしめることを止めない。逆にそれが、信仰に反する悪意の人という証拠となっているのが現状です。
 
いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。ましてや、キリスト信仰を、まるで、オモチャにしているような楽山に、言えることなど何もないのです。
 
在って在るもの、すなわち、神を、楽山は、まるで、身近な現実の物ででもあるかのように軽く決めつけて済ませたいようです。楽山は、キリスト教についてもキリスト信仰についても、今までの経過から、何も知らない者です。無知で、それでも語ろうとする無恥なのです。
 
 

でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。

 
「考えてみれば」・・楽山は、キリスト教について、何も考えていないと思います。まるで、思いつきのような軽口だけで語ってきた楽山です。そして、ここでその根拠と言ったら、マリア観音なのです。楽山という思想家気取りは、軽く軽く、仏教まで軽口の巻き添えにするつもりでしょうか。
 
 

それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作キリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。

 
さておくのだそうです。なのに、図々しく、「遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されない」という部分肯定ですが、何も信じていない楽山は、その否定肯定を、どのように、考えたのでしょう。楽山の学者気取りの書き方には、理路も根拠もありません。
 
そして、遠藤周作が、キリスト教を日本人に合うように仕立て直した、みたいなことを言っています。これは、同氏に対する侮辱になるでしょう。楽山は、いかなる納得にも至らない、妄想的先入観しか持っていないのに、批判を無視して、くどくどと信仰を否定し続けています。
 
遠藤周作キリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと・・・それほど気にしなくてもよい・・かもしれぬ」・・この気持ち悪い婉曲の筆致は。当たり障りが嫌なら、書くなということです。
 
こういう筆致では、反論しても、暖簾に腕押し、という感じで、答えることも今までなかったわけだし、楽山の文章は、何も得るものがなく、気取りだけの、しみったれた文章になり、実に、思考と読書の意欲を減退させるものだと思います。感動とは正反対の、まがい物の災いです。
 
同氏の信仰観は一部読んだことがあります。奇跡や超常には否定的なのかもしれません。そこにこだわっていると信仰を見失うというような書き方には、賛同しますが、超常の奇跡は、あったとも、なかったとも、断言することは人には出来ないのが人間の節操です。
 
超常奇跡については、肯定でも否定でもなく、人間は、はっきり "分からない" と言うべきなのです。
 
 

また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。

 
人間の母性について、本を読んだからと、そこから、神の性別を語ろうとするのは、楽山の浅薄な愚かさであり、ましてや、信じてもいないのだから、まるで深みがなく、読んでも、時間を奪い、疲労させるだけであり、迷惑以外の何物でもないのです。楽山は、自己顕示欲の亡者でしかありません。
 
 

これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。

 
まるで聖書が分かっていない考え方の楽山です。聖書の目的は「母親へのすまない」でしょうか。何を考えているのでしょう。親子の情は、むしろ、キリストの使命からすれば、はっきり分離するべきことだと思います。著しく的を外して、ゴシップを語る楽山です。「いたたまれない心地」・・楽山は平気で嘘を吐きます。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
エスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47
それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48-50
エスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12:46-50、新約聖書
 
キリストは、個人的な親兄弟と、信仰の親兄弟は、はっきり分けていたのですし、そのことが必要な立場だったのです。全く、楽山の貧弱な話には、あきれることばかりです。楽山は、何か、母親への、すまない気持ちでもあるのでしょうか。およそ、誰にも、すまないとは思わない楽山ですが。
 
 

さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。

 
楽山の本音として、神とキリストを、奇跡も起こせない無力へと、おとしめたいのでしょう。そして、キリストを何か、犠牲になった人として、母親的な、やさしい慈愛の人を持ち出して、か弱い無力なキリストとキリスト教にしたいのでしょう。明らかに訂正不能の悪意の目的があります。
 
全く、楽山は、人間の不完全や罪の性質を真剣に考えようともせず、史実を解明したかのような思い上がりから、信仰を好きなだけ捻じ曲げてゆく意図があるのでしょう。自己愛性人格障害は、分かっているという前提しか持っていない、という表れです。
 
楽山の書いたものを、私が読むのは、参考としてではなく、どれほど、楽山が、いい加減な文章を書く人であるかという情報を、広く知らせ拡散したい、ということ以上の目的はありません。
 
 

ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。

 
(ネットより)
ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF
 
キリストは救い主、マリアは聖母ですが、楽山は、キリスト信仰を捻じ曲げるために、共感を装って、マリアに祈りたいなどと言っています。こういう楽山には、表面的な意味を読むとだまされるので、今までの嘘と詭弁という偽善を前提としなければいけません。
 
今までの経過も合わせると、楽山は、浅はかな感傷で鑑賞する態度しか持ち合わせていないと思います。それで、このような祈りという言葉をか書いてくるのは、信仰を、真剣に考えるということをバカにしている者の態度であり、神を知らず、キリストを知らない者だということです。
 
まるで、かっこつけるみたいに、キリスト教文化を知っているかのように語る態度と、さらに、恐れを知らずにズカズカと信仰の話を突き付けてくる無思慮と無分別は、信仰者でないのはもちろんのこと、求道者でもないことを示しています。楽山は、共感するようなことを書きながら悪口を挟んで歪めてゆく反キリストです。
 
楽山は、結論だけで、求める道などはないのです。キリスト教文化をネタに自己顕示したいだけだとバレてしまうのです。実に、傍迷惑な部外者、そして、宗教を上から見て味見したかのような見かけ倒しのインテリ気取りと言ってよいでしょう。発言の信頼性はゼロです。
 
 

三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。

 
楽山は「キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども」と言いながら、「自分の場合は根が多神教体質にできているせいか」などとネチネチ書くのです。キリスト教多神教は、両立することはありません。楽山の読書は、物見遊山と、ひやかしの社寺参拝のようなものです。
 
つまり、楽山は、茶化しているかのように、不真面目に宗教を捉えて、どうでもいいキリスト教へと誘導してゆく企みの偽善者なのです。さらに楽山は「全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもする」と言っています。楽山は真摯に祈ったことはないと思います。
 
キリスト教を婉曲的に否定しておきながら、かつ、多神教体質と言いながら、神聖に対して祈る、などと言うことが成り立つこともないのです。嘘っぱちであること明らかです。こういうところから、楽山の悪意が明らかになってきました。自分中心の精神世界にしか生きられない楽山が表れます。
 
悪意をもって、キリスト教を揶揄する者は、キリスト信仰の節操も何もお構いなく、まともを装って、刷り込んでくるようです。楽山は悪意の宗教家気取りそして批評家気取りとしか言えません。さらに、人の言うことには、何一つ答えることの出来ない劣悪な卑怯者なのです。
 
さらに、酷い詭弁として、楽山は「変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり」と言って、人間が変わることが、始終力んでいることだと言っています。また、楽山のどこが「自然の流れ」なのでしょう。醜い悪口に過ぎません。
 
これこそ、宗教も信仰も、まるで分かっていない者の言であり、いい加減な思考で、宗教をもてあそんでいる自己中の、のぼせ気分の力みであります。信仰には、力みは、ありません。なんという、いい加減で、悪意に満ちた低劣な心得で、冒涜の悪意の反キリストの限りを尽くそうとしていることでしょう。
 
今まで、批判されてきたにもかかわらず、それを無視して、受け取ることなく、反論も弁明も出来ないまま、また、同じような偏見だけの記事を出してくることからは、自己顕示欲と意地で、自説を通そうと言う執拗なキリスト信仰への憎悪としか受け取れないものであります。
 
 
神の性別は、誰も確定できるものではありません。いくら論じても結論は出ませんから、個人によって、イメージにも若干の差は出てくるでしょう。そして、信仰者は、そのことも神はご存知だと、考えるべきでしょう。
 
楽山は、聖書から何も読み取っていません。だから、本を読んだ、批判するなら本を読んでからせよ、などという煩わしいクレームをつけてきたりしますが、読書自慢の自己顕示に過ぎません。聖書を学んでいない者が、学ぼうとさえしないのが楽山です。
 
楽山が、学者や小説家の書いたキリスト教の本を、いくら読んでも、川に落としたティッシュの行方を、ああでもないこうでもないと考えるようなものです。体験も思考も感性も浅すぎる中学生が、自慢したいがために、高慢で軽率な脳天気で、ゲームをしているようなものにしかなりません。
 
キリストとマリアの関係においては、マリアの神への従順と、キリストの人間への共感と愛が、父なる神による救いにつながる神の計画の主軸となっています。マリアも、そして誰よりも、キリストも、溢れるばかりの温かい人間性を持っていました。
 
救い主キリストについてはもちろん、マリアについても、大事なことは、私たちに何を与えたかであります。そのことに全く感受できない者が、父性だ母性だとか、無力だとか、拙劣な文章を書いてくるのは、退屈を超えて、迷惑を超えて、有害なのです。楽山は、自分の生い立ちを悩むべきでしょう。
 
以上のように、信じる気もない者が、なんだか評論家気取りで、読書自慢のために、言葉と理屈と浅い情緒で、知ったかぶりをして賢者を装うのは、見苦しいかぎりです。バレてもバレても続ける楽山の不感不応の精神病理が明らかになるだけだと思います。
 
神について、父性か母性かという印象は、信仰者によっては、あって不思議はありませんが、全知全能・絶対完全・永遠不変という神の性質は、性別を、はるかに超えていると言わざるを得ないのです。楽山は、人や物を考えるのと同じように神を考える傲慢不遜を表しているに過ぎません。
 
 

      

             殺風景 偏見しか語れない
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年12月21日、再録+加筆)
 
 
 
  キリストの神格と人格
 
父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです 所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
 
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
 
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました
 
 
  母を見るとき
 
車のハンドルを握りながら
実家から遠く離れた町で
知っている人など誰もいない街角の
歩道を行く高齢の女性に
母の後ろ姿を見てしまうとき
ひととき失われる場所と時間は
母の曲がった背中のように
あまりにも脆く
儚く過ぎて
あとには彼方に残したまま
見捨ててきたかのような
小さな水たまりが揺らいでいる
 
 
  肉体
 
うたた寝から目覚めると
顔にゴムのような棒が触れる
左手で掴(つか)み上げると
紛れもなく右腕だ
運動も感覚も麻痺している
圧迫による一時的な麻痺
しばらく伸ばしておけば回復するのだが
腕枕・寝返り・捻れ・圧迫?
よほど脆弱らしい神経
 
よほど相性が悪いらしい
骨格と神経
脆弱なのに
相性が悪いのに
長いこと世話になっている
肉体は今も
髪も髭も爪も
伸びては切り
伸びては切り
伸び切った
と切れかかるものを受け止める
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」という人間共通のものではなく、楽山は、自己愛性人格障害による欠陥からの罪と偽善です。楽山の存在は、「自分もそんな風」ではなく、反省せず、学習せず、成長しないゆえに、楽山に固有に起こっている病的で特殊な、自他を傷つけるところの残酷な災いであります。
 
楽山は、こういうときの常套手段として、芸能などのお気楽リツイートを重ねて、ごまかしています。楽山には、まともな信仰も思想もありません。快楽原則と、教祖願望だけで、地上を渡ってきて、これからも続けるつもりなのでしょうか。
 
人間は不完全です。ゆえに罪を犯します。しかし、人間は、後悔し、反省することが出来ます。ゆえに、人間は、成長することが出来ます。しかし、中には、後悔せず、反省せず、ゆえに、成長しない者もいます。自己愛、自己中、自己満悦に、浸って、そこからしか物を言わない者です。
 
楽山を批判しても、読解力が自己愛性パーソナリティ障害によって自己中の訂正不能になっている楽山には無駄でしょう。楽山にではなく、一般の読者が楽山に近づかないように、楽山の病質を批判し続けています。誰も、楽山に、近づいたり、関わったりしてほしくないからです。
 
 
 
箴言5章、旧約聖書
人の歩む道は主の御目の前にある。
その道を主はすべて計っておられる。
主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり
自分の罪の綱が彼を捕える。
諭しを受け入れることもなく
重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
https://ameblo.jp/rakunakanji/entry-12714323634.html
 
 (箴言、口語訳)
5:21
人の道は主の目の前にあり、
主はすべて、その行いを見守られる。
5:22
悪しき者は自分のとがに捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
5:23
彼は、教訓がないために死に、
その愚かさの大きいことによって滅びる。
 (箴言5:21-23、旧約聖書
 
 
 
 楽山のツイッター
 

★こも/楽山日記3
@komo266
流れから行くと、これは他の人に向けての発言だと思いますけど、一応、自分の立ち位置を書いておくと、
私は基本的に過激より穏健、急進より漸進を選びたい性格なので、撲滅というような過激なことは求めてないです。
2022年12月19日

 
楽山は、穏健を装っているだけです。実際は、自己愛性パーソナリティ障害NPDからの決めつけばかりです。楽山にとっては、批判は理屈遊びに過ぎず、かつ、キリスト教に対しては、小学生レベルの偏見です。それを、丁寧語で刷り込んで、だましてきます。ゆえに、百害あり、楽山の思想は撲滅するべきです。
 
 
楽山は、自己愛性人格障害だと思います。記事が停止しているようですが、既に問題やトラブル山積の人と集団よりも、今は潜伏して正義の評論家気取りで、丁寧語で語る分だけ、本性において、より悪質な偽善であり、言論から、さようなら楽山と思える日が、一日も早く来ることを望みます。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をコピペ)
 
 
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