ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教と楽山

 
  アドラー教と楽山
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン‏
 https://twitter.com/PositiveSalon
  への、私の批判記事「アドラー教について(14)」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12573546714.html
  を加筆して再録。
 
 
楽山は、以前、盛んに、アドラー教の宣伝をしていました。そのことを、過ちだったと訂正したことはないと思います。楽山は、カルト的な完全自己中になっています。その関連で加筆しています。
 
個別の多様性を考えず、後先を考えずに豪語して、そのあと、折り合いをつけるための言い訳という、人間の言葉の不完全を思うならば、先ず、豪語を避けるべきなのですが。
 

【憎い人を忘れる7つの考え方】
1. 自分の為に許してやる
2. 過去は過去に置いてこれる
3. 悪い人だと早く知れて良かった
4. 嫌いなら、無理に関わる必要は無い
5. 憎い人のことを考えたら、相手の思うツボ
6. 他人と過去は変えられない
7. 好きな人を大切にする

 
憎い人と悪い人を、カルトと置き換えたほうがよいかもしれません。決めつけて、現在と未来を固定して、人の迷惑を考えなくなっている楽山と置き換えてもいいでしょう。
 

嫌われることを恐れていれば、あなたは永遠に幸せになれない
幸せになる為には、嫌われる勇気が必要です
嫌われることを恐れずに、ありのままの自分で生きるべきなのだ
嫌われないように、他人の顔色を伺って生きていては何も楽しめない

 
嫌われて平気でいて、仲間だけで褒め合うのもカルトの特徴です。楽山が、シャロームに無条件で同意することに表れています。これで幸せになれるのでしょうか。他者に、とんでもない徒労を与えるだけになっているのですが。
 
嫌われても、否定されても、何も気にしないようになったら、楽山のような、人間とは思えないような、人間の神経も精神も持っていないような存在になるでしょう。
 

自分よりも他人を優先して生きる為に、あなたは生きていない

 
このような発言が、自己中体質を促進するでしょう。楽山に至っては、他人より自分を優先するにとどまらず、他人を無視して自分の満悦と慢心だけを、むくむくと膨張させる人になっています。
 

未完成のままでいい
完璧なんて目指さなくていい
というより、完璧な状態なんて実現されません
もしあなたが完璧な状態を分かっているとすれば、それは空想の産物です
何でも揃って、何不自由しない状態なんてこの世に存在しない
いつだって、幸せは今この時にあり、やりたいことは今やるべきです

 
確かに、人間は、未完成だから成長が必要ですが、
この文脈が、アドラー教から出てくるのでしょうか。
幸福を保証するかのような断定と豪語を繰り返している中で。
 
完璧でなくていいという保証は、
失敗と批判に対する責任逃れの予防線ではないでしょうか。
 

他人は他人、自分は自分
他人が自分をどう思おうと、何を言ってこようと、そんなことはどうでもいい

 
どうでもいいのでしょうか。参考にしなくてもいいのでしょうか。人の言うことは、どうでもいいから聞かないよ、と言っている文脈になります。そうして、楽山は、人間性を失って、他人など、どうでもいい人になっています。その結果、楽山自身も、人間ではなくなっています。
 

そんなことを気にかけて、自分の気持ちに嘘を付いてはいけない
自分に嘘を付いて、やりたくもないことをやらされていると思いながら生きるなんてバカバカしい
自分で自分を制限しているだけです。

 
やりたいようにやれ、と言っているようなものです。楽山みたいに。
 
教えられたとおりに、やりたいようにやって、突き進んで、失敗したときの責任をだれがとるのか、という問題になるでしょう。一喝するだけでおさまらないときは、逃げる用意でもしているのか。
 
それとも、楽山のように、全く責任を感じない無反省・無責任・無神経な人になれと言っているのでしょうか。そして、誰にとっても、疲労だけを与える迷惑因子になっています。
 

人はあなたが思うほどに、あなたのことに興味を持っていません
あなたが勝手に馬鹿にされてるとか、変だと思われていると思い込んでいるだけです
みんな自分のことで精一杯なんです

 
他者の思惑に左右されてはいけない、他者に依存してはいけない、ということは、誰でも言うことです。しかし、今まで言ってきたことは、興味などという範囲ではないですね。
 
楽山は、他者の意見も思惑も忠告も批判も、無視して、人間を、やめているようです。
 
教えるならば、うまくいかないときの対処も教えることが必要です。人が伝えるいかなる教えも、薔薇の花園を約束するわけではありません。だから、謙虚になるわけですが、それが、アドラー教に見られるでしょうか。
 
楽山は、薔薇の花園にいるつもりなのでしょう。実際は、罵声を浴びせられ、糞便を投げつけられても仕方ない状況ですが。
 

人の噂を楽しむ人達は、あなたに興味があるのではなくネタを探しているだけ
そんな人達、相手にしてはいけません。

 
楽山みたいな人のことでしょうか。確かに、反省もせず、責任も負わず、ネタにして茶化して遊ぶだけの楽山のような人は、相手にしてはいけません。
 

あら探しなんかしてないで、良いところ探しをしましょう
どんな物事も、良いところを見ようとするのか、悪いところを見ようとするのかで意味が全く違う
あら探しをしてしまうのは、あなたの心が曇っているだけ
あなたが偏見を持たずに、良いところを見つけようとすれば、世界は幸せな場所に変わる。

 
良いところだけを探して、悪いところを無視するのは、悪を野放しにすることです。そうすれば、楽山のような自己中は、大助かりでしょう。しかし、その分、犠牲者が増えるのです。
 
まるで、ブログ主自身に対して、批判せずに良いところ探しをせよ、と言っているかのようです。
 
それが幸せというのは、文句を言われたくないカルトの特徴です。あら探しをするのではなく、思考を深く掘り下げることは、いかなる場合も、自分を支配されないために必要です。
 
反省もせず、責任も負わず、過ちを認めずに、怠けていると、楽山のような、体質的な、自己満足疾患になってしまうのです。
 

好きでもない人と仲良くしなくていい
人生で出会える人、付き合える人の数は限られている
人との関係を雑にするべきではありませんが、目の前の人達が全てではない
あなたに合う人、あなたを好きになってくれる人はいくらでもいる
どうでもいいような人達と、惰性で付き合い続けることは時間の無駄

 
惰性で付き合い続けることと、好きでもない人と仲良くすることを、同一に考えているようです。惰性で付き合うことは、依存の強迫観念において起こり得ることですが、それは、好きでもない人とは限りません。また、今は苦しいけれど我慢するということもあるでしょう。
 
楽山のように、都合のよい文言だけを求めて、苦言や批判を無視する者は、何の説得力も魅力もない惰性だけの人間になっています。
 
好きでもない人と仲良くする必要はないとして、好きではないと、いつ、判断するのでしょう。最初に好きでないと感じたときに、仲良くしないと決めてよいのでしょうか。
 
好き嫌いと、正邪を、混同して、楽山は、無視を行使します。その結果、楽山を好きでもない私によって、今まで2年、これからもずっと、その邪悪さを批判されることになります。
 
軽々しく、教えだからと、付き合いを断ってしまうことの責任を誰が負うのでしょうか。実際には多様なケースがあるのに、一律に短い言葉で断定することの弊害を恐れないようです。
 
楽山は、全く責任を負わず、反省せず、訂正不能になって、破壊が酷くなっています。付き合いがなくても、行為がなくても、邪悪は、批判されてゆくのです。
 
弊害として、出会って、ちょっと不満を感じるたびに、目の前の人たちが全てではない、好きになってくれる人は他にいる、惰性で付き合い続けない、時間の無駄、などと思っていたら、次から次に、諦めが早すぎて、我慢することがなく、腰を据えることがなく、理想と満足を求めて、どこまでも、いつまでも、放浪の人になってしまうでしょう。
 
楽山には、生きる軸となるものが、全く見られません。
 

人は勘違いをするのが当たり前の、愚かな生き物です
人は自分のフィルターを通して、物事を知り、判断をしています

 
このことは、独りでも起こることですが、アドラー教も、自己中と思われる要素をその教えにも持っています。特に自己愛性人格障害者において勘違いをすると、正当化の根拠を得たかのように完全な他者無視の自己中になっている者がいます。
 
楽山がそうです。色眼鏡でしか物を見ず、しかも、それを、真理のように語って、自己満足して、反省することなく、責任を負わず、訂正不能で、成長せず、その結果、自己正当化の詭弁だけが、症状として、症例のデータとして、山のように積まれてゆくのです。
 

人それぞれ違うのが常識であり、みんな同じであることが異常なのです
孤独を恐れるあまり、多くの人達は常識を正解だと思い込んで苦しむ
自分の頭で考えて、自分の人生を生きよう。

 
続く言葉で、人それぞれと、人によって違うという話にすり替えています。そして、アドラー教は、独りで判断するように言っているのです。上で、勘違いが当たり前と書いているのに。
 
その教えの結論が、自分の頭だけで考えようなら、それは、自分で満悦する楽山のような人間です。都合のよいことだけを拾って来ては書き、都合の悪いことを無視して、楽山は喜びだけで、周りは迷惑だけです。
 

自分が知っていることが全てだと思ってはいけません
自分の知っていること、認知できる範囲はこの世のほんの一部に過ぎない。
だからといって、他人とは分かり合えないと考えて切り捨てるのも早計。
無理に同調する必要はありませんが、お互いに折り合いを付ける努力をすることに意味があるのです。

 
まるで、予防線にもならない、体よくまとめただけであり、同時に、苦しい言い訳のようです。
 
自分の頭で考えて、自分が全てではない、他人とは分かり合えないと考えて切り捨ててはいけない、無理に同調するな、折り合いをつける努力、・・これは、主張の方向が、散乱しています。
 
単方向に豪語してきて、言い逃れをして、自尊と自己の正当性の保証を求めているようです。引っ込みがつかなくなって、折り合いをつけようと八方美人的に苦しい言い訳を貼り付けて、辻褄合わせをしている姿ではないでしょうか。
 
人間の言論の正しさを豪語で伝えようとすると、豪語そのものが乱れて、豪語して言い訳、突出して折り合い、という、収拾が付けられなくなるという縮図を見ているような気がします。
 
いまだに、アドラーという名前を掲げ、アドラーの写真を載せて、心理学という学問の名前を付けているようですが、元々、アドラー心理学という学問の紹介であるなら、豪語して教える態度はないはずです。
 
ずっと、世界を変える幸福の約束のように、強気で言っては、引っ込みがつかないような伝え方であることが、心理学という学問ではなく、アドラー教と呼ぶしかない宗教活動であることを示しています。そして、無責任豪語は、カルトの特徴なのです。
 
 
その無責任は、しっかり、アドラー教宣伝者である楽山に、無反省・自己中とともに受け継がれているようです。人は人・・で、あるいは、それは相手の課題・・で、人に囚われないだけではなく、人を無視できる心性は、人の心情が分かっていない表れとして、いつも呆れます。
 
楽山は、こちらが、無反省だと批判すれば、反省という言葉だけ書いてくる。こちらが、共感がないと書けば、共感という言葉だけ書いてくる。そして、その前と後で、何も変わっていないことが、嘘であることの証拠となってゆくのです。
 
理路の正当性は、論理性だけではありません。特に、宗教や信仰の真実については、いくら理屈をこねても、そこに人間の心の共感性がなければ、言論は成立しません。楽山には、それが、見られたことが全くありません。
 
だから、楽山の言は、人を苦しめることは出来ても、人にとって助けとなるような糧には全くならないのです。そして、糧となるための努力さえも見られないまま、自己弁護・自己正当化の言を、だらだらと虚しくつないでゆくしかないのです。それが、自己中に染まった者の大きな災いです。
 
楽山には、シャロームという仲間がいて正体は偽牧師でしたし、アドラー教の自己中を信奉していたこともあって、また、無反省・無責任・無理解・無神経であるために、自業自得の結果として、病質者とカルトの印象がつきまとうことになります。
 
 

     f:id:stdsts:20210208232444p:plain

            果実は邪悪の共鳴
 
 
(2020年02月08日、同日一部修正)
(2021年02月09日、再録+、同日さらに修正)
 
 
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楽山の独り言

 
  楽山の独り言
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8621012.html
 
 
また、性懲りもなく、楽山は書いてきます。しかも、何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。折れないのも、書いてくるのも、無反省・無責任と同じく、病質の症状なのです。だから、楽山の言は、全否定しかないのです。
 

*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。

 
議論は双方向のはずですが、楽山は、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。
 

*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。

 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、楽山の気安く甘い見方です。
 
楽山との話は、世辞で終わらせない限り、永久に終わりません。こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害者意識でしかありません。ふつう、無反省・無責任は、議論で成り立たない、ということが、楽山には分からないのです。
 

事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。

 
楽山が相手だと、水をかけ合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、時間を奪われるというのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。総て、罠です。楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 

意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。

 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っているのに、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、自らの非を認めることがありません。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きていてはいけない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで、失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。
 

人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。

 
楽山については、人格を中心に問題としてください。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、良い方向に変わってゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、それが、楽山の趣味なのです。ですから、真剣味はゼロです。
 

悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。

 
楽山の勝手な気持ちで、キリを設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにするでしょう。食い下がれば、ストーカーと言うでしょう。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 

分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。

 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。
 
「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病気の人格です。
 
こういう人は、それこそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の罠にはまらないようにしてください。
 

その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。

 
楽山は、反省しない人です。ひょっとして、ボクって、ヨワくて、オチャメでしょ、という、受けねらいでしょうか。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたところです。楽山には、欲望はあっても、教訓はないと思います。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきたに過ぎないのです。
 

*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。

 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 

*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。

 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、理論であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。
 

HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。

 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。
 

したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。

 
意見を交わすのに、反対意見を排除する目的で、楽山は書いているのでしょうか。排除されるのは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかもしれないかなあ・・とでも言いたげに。
 

こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。

 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 

まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。

 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで締めています。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。
 
一切、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか。否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。
 
事実を言い、評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいることを敷衍して、警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、人格を含めた否定だけをして、深入りしないようにしてください。楽山は病気です。
 
 

  f:id:stdsts:20210208015700p:plain

               股の間の黙考
 
 
(2021年02月08日)
 
 
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楽山の自己賛美

 
   楽山の自己讃美
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/27961485.html
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。
 
執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 

「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」

 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。神に試されたのではなく、自らの因業によって壊れているのです。
 

「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」

 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、神以外に寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。こういうのを、パラドックス・逆説と言います。しかし、信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山が、無反省・無責任でありながら、無罪であるかのように、高慢なのは、神に対しても、人に対しても、欺きであり、背教以前の、反キリストであることを、自ら証明しているのです。
 
楽山においては、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 

神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。

 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E8%80%85-97469
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、分かりにくい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになっています。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。
 

「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」

 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり神のみに寄ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が仲保者になるというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山には、起こりようのないことですが。
 

「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」

 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。
 
ここでの無神論は、神はいないと、平気で、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。
 
神亡きがごとき悲劇の地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを認めて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。
 

「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」

 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、それらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は、表れてくるのです。誰も、この楽山に関わらないことだけを願ってやみません。
 

「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」

 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義を守れ、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 

「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」

 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。
 

この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。

 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。
 

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い

 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開。
 

ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。

 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、自分の天才ゆえと思っているのでしょうか・・背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と、自らを高めようとするとは見苦しい。楽山は、知られるべき実績ゼロの、病質者です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、2年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化しているだけです。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 

     f:id:stdsts:20210206234613j:plain

            おわりなき あざむき
 
 
(2021年02月07日)
 
 
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楽山の卑怯

 
  楽山の卑怯
 
 KENTO氏による楽山批判(2)信仰を守るための議論!
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月04日
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8599929.html
 
 
HS側の言い分を云々するつもりはありません。ネットにおける公害として、楽山の卑怯さを指摘してゆきます。
 
何かを正そうという意志は、責任を負います。しかし、楽山は、人に優っている自分、という快感を得たいだけなので、いっさい責任を負いません。
 

*反論あり
KENTO氏から、また反論ツイートがあった。
今回は、スクショではなく、文章をコピペしてから、自分の感想を書いてみたい。
(注 ツイートは細切れになっているが、それだと見難いので、ここでは文章をつなげてコピペすることにする。またツイートに引用されていた楽山の文章は、緑色に変えた)

 
楽山は批判に対して感想を書くのだそうです。ふつうは、弁明とか反論とかいうところですが、楽山には、そのような責任に相応しい知性と感性がないので、またしても、感想じゃから・・と、責任を回避するつもりでしょう。
 

*被害者?

>この議論のテーマは、咲也加氏の卒論についてであって、楽山の人品についてではないことを再確認してほしいと思う。


HSアンチ諸氏と対話すれば、
アンチ氏は概ね必ず「人格や性格を非難された」と言って被害者側に回り込もうとします。

 」
私が言っているのは、議論のテーマは盗用問題なのだから、それについて話しましょうということ。
不当に人格批判をされたという意識はない。ぶっちゃけ、こういうことはよくあるので、もう慣れた(笑)。

 
このように、楽山は、笑っています。それで、もうそういうことは言えないんだ、と思ったら、楽山の思うつぼです。楽山の不正は、総て、楽山の人格が原因です。「(笑)」でごまかされずに、徹底して、楽山の欠損人格を追及するべきであります。
 

*見当外れ

HSアンチ諸氏は「心の中」を見られるのが恥ずかしく、 
その「恥ずかしい心」がツイートの原点にある事を指摘されるのが痛いのです。
だから、一生懸命「心」を隠そうとして「人格や性格を非難された」と言い、話題を「心」から遠ざけようとします。
 」
これは見当外れ。
KENTO氏自身がそういう考え方をしているから、他の人もそうだと思い込んでいるのだろう。

 
楽山に限っては、人格から見てゆかねばなりません。人格を批判し、性格を非難するべきであります。別の問題に、逸らそうとする楽山の誘いと挑発に乗らないことが大事です。
 

*繰り返し

さて、繰り返しになりますが、私が主張し続けている事は以下のⅠ~Ⅳです。
Ⅰ.お茶の水大学の広報が出した見解によれば咲也加様に卒論盗用の事実はない事。
Ⅱ.楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事。
 ・楽山氏は「学術論文とは何なのか」が分かっていない。
 ・だから「論文の引用とは何なのか」が分っていない。
 ・そして「卒業論文とはどのような位置づけの論文なのか」も理解していない。 
 ・だから、卒論指導をする教員の役目も理解していない。
Ⅲ.楽山氏の理屈はHSアンチが多用する次の手法である事。
 ・信憑性が保証されていない様々な情報の中から、
 ・自身に好都合な部分だけを切り出して継ぎはぎし、
 ・無理やり理屈を創り出して、自身に好都合な結論を誘導する。
Ⅳ.信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の心の在り方の問題である事。
 」
これらはすでに議論済みと思うが、一つツッコミを入れるとすると、「楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事」という文章は間違いだよ。ここは「役不足」ではなく、「力不足」とすべきだ。

 
ものが言えなくなると、小規模?の知識をひけらかして、ごまかそうとする典型です。焦点を逸らす意図が明白で、つまり、何も言えなくなりましたという楽山の自白です。
 
>・「役不足」と「力不足」の違い - 社会人の教科書
 
(ネットより)
役不足(やくぶそく)とは。[名・形動]1 俳優などが割り当てられた役に不満を抱くこと。2 力量に比べて、役目が不相応に軽いこと。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BD%B9%E4%B8%8D%E8%B6%B3/
 

*盗用問題の答えは心にある?

当たり前の事ですが「咲也加様の卒論問題の答え」は、
・ネットの中、
・大学の見解、
・大学に問い合わせた時の電話やメールの回答内容、
・私と楽山氏の議論、
にはありません。
その答えは「咲也加様を中心とした当事者の心の中」にあります。
なので、私は始めから「咲也加様の卒論は盗用か否か」という不毛な議論はしていませんし、その必要もありません。
 」
この誤魔化し方は、棒氏(――氏)と同じだ。
棒氏は「アンチはみんな嘘つきだ」と言う。
アンチ諸氏は「どこがどう嘘なのかを具体的に示せ」と求める。
棒氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、最後には「アンチは自分の心に嘘をついている」と宣言。

 
楽山は、自我に執着し、自己愛から、自己正当化のために、自分にも、他者にも、平気で、嘘を吐いてきたのです。楽山に、まともな心はないと思います。
 

今回はこうだ。
KENTO氏は「盗用の事実はない。盗用報道に信憑性なし」と言う。
楽山はその根拠の提示を求める。
KENTO氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、理屈をこねた後、「この問題のこたえは、当事者の心の中にある」と宣う。
どちらも、事実関係の問題を、心の問題にすりかえてる。
すでに多方面から指摘されているけど、「棒氏=KENTO氏」だね。

 
楽山の最も苦手とするのは、心の問題なのです。楽山には、正常な人間としての、みずみずしい心が無いからです。私は、ずっと、そのことを書いてきました。これからも書いてゆきます。
 

*判断理由

私は以下の①~⑤(+⑥)の理由から咲也加様は盗作・盗用を行なっていないと判断しています。。
①咲也加様ご自身が「私は盗用しました」と懺悔していない事。
②総裁先生から「この程度の引用で怒るのかな?」といった趣旨のご発言があったと記憶する事。
③大学の裁定が、咲也加様には何もなく、指導教官が罰せられた事。
④大学の見解が「無断借用」である事。
⑤新潮の取材に対する大学の回答には○○○〇研究が絡んだ一定の疑問がある事。
⑥大学が公表したとされる書面に対する私個人の見解。※詳細を知りたい信者さんはDMを下さい。
 」
盗作、盗用、パクリを判断する際には、まず現物を見比べた上で判断しようと考えるものだ。
でも、KENTO氏は、現物を比較検証するというもっとも重要なことは避けて、盗用はなかったとするための材料を集め、理屈を積み重ねてる。これじゃ、ダメだよ。

 
私について言えば、キリスト教について、愚にもつかない幼稚な屁理屈を積み上げてきた楽山です。その記録が私の記事にあります。しかも、無反省・無責任で、自らの快楽と、自尊の満悦のために書いているだけだということが明らかになっています。ケチを付けて優越感に浸るのが趣味の楽山です。
 

*目的

楽山氏が力説するように、
・ネットの意見は盗用が多数、
・週刊誌の取材で盗用と記された、
という見方は、 
あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎないものであり、
こうした事柄だけで物事を論じてはならないと思っています。
但し、そもそも楽山氏は卒論問題を論じたいのではなく、
「HSを貶めることができるなら、その手段を選ぶ必要はない=信仰を穢したい」と考えているだけの事と察します。 
一方、私は「信仰を守りたい」と考えているだけです。
 」
私が、盗用と判断したのは、こちらの比較検証記事を読んだことが決定的だった。この記事を読めば、マスコミ報道も、幸福の科学側の反応も、よく理解できる。

 
楽山は、長い文章を書きますが、他者の長い記事を理解できていないと思います。楽山は、聖書を読んでも、神学書を読んでも、的を外して、けちを付けるか、悪用してきたことが明らかになっています。身の程を知らない背伸びだけの楽山です。
 
(リンクは省略)
 

ただ私は、現物比較をして、この記事が正しいかどうかまでは調べていない。この問題にはそこまでの関心はないので。

 
このように、楽山は、難しいところや複雑なところを、考えることができないのです。それを、関心がない、という言い方でごまかしていますが、批判しておきながら、それでいいのでしょうか。
 

だから、もしKENTO氏でも、他の誰かでも、現物の写真の提示とともに、このブログ記事に間違いがあることを証明するなら、いつでも判断を改める用意はある。
私の第一目的は、「信仰を守りたい」でも、「信仰を穢したい」でもなく、ただ事実を知りたいということにあるから、そういうことになる。
あとは、ツイート中に「あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎない」というのは、「葉末」ではなく、「些末」の間違いだろう。

 
キリスト教について、事実も真実も信仰も、小学生レベルのいちゃもんをつけて、中心となる問題を、恥ずかしいほど外して、得意になっているのが、楽山その人です。
 
ここで、また、言葉の間違いを指摘して、思いやりを示したつもりで、話を濁しています。ふだんは、思いやりの欠片もない冷淡な詭弁屋の楽山ですから、目先を変えるための、ごまかしに過ぎません。
 

*見たまんま

そして、私から見ればですが、
楽山氏の言い分(=ネットの意見を集約)は「偏りが過ぎるもの」であり、
私の言い分(=上記①~⑤、及び⑥)は「ある程度は妥当」と思う次第です。
また、上記Ⅰ~Ⅳは「本件に関わろうとする者のど真ん中」に刺さります。
つまり、楽山氏が何をどう論じようとも、
私は①~⑥とⅠ~Ⅳを繰り返せば大半の方は付くと思う次第です。
 」
私は大したことは論じていない。パクリはパクリだという見たまんまをいっているだけだよ。
一方、KENTO氏は、信仰を守りたいという自分の目的に都合のいい情報を集め、そのための理屈を積み重ねてる。

 
「いっているだけだよ」と、楽山の言い方が、荒くなっています。キリスト教について、成長しない固定観念の先入観で都合のいい偏見をネタにして、さらに、嘘を吐いて、詭弁を弄して、罵ってきたのが、信仰などどうでもよい楽山であります。
 
楽山は、パクり・パクり・見た、と言っていますが、本を見ても、聖書を見ても、キリスト信仰をけなしたいという自分の目的に都合のいい情報を集め理屈を積んだつもりで、あまりにもお粗末な文章しか書いて来なかったのが楽山です。つまり、見ても、見えていないのが楽山です。
 

*別問題

信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の問題です。
私はHSアンチ諸氏に期待をしてはいません。
しかし、早く気付いて欲しいとは願っています。
 」
信仰を守るか穢すか、修行するかしないかは、盗用があったかなかったかとは別問題だ。

 
楽山は、自分が、批判していることを忘れているようです。そういう立場に立っているという自覚がないのでしょう。自分は中立だという甚だしい勘違いによって、責任逃れをするのは、今に始まったことではありません。
 
無反省・無責任で、楽山は、何の責任を負う意志も持ちません。こういう人は、相手にしないのが一番ですが、人格の問題は、非常に迷惑であるために、私は、批判を続けているわけです。
 

もしこれらを関連づけるとしても、「信仰を守り修行をするためには盗用があったとは認めることはできない」ではなく、「盗用があったとするなら、現実は現実として認めなければならない。その上で、ではどうしたら信仰を守り修行を続けられるか考えよう」とすべきだと思う。

 
楽山は、自分が当然のごとく期待した勝ちに基づいて、相手の返しのお手本をわざわざ書いているようですが、自分が正しいからという前提の慢心が表れています。
 
楽山は、誰もが自分が決めた道徳基準に従うべきだと思っているのでしょう。これは、楽山の総ての言に表れてきたことです。夫婦げんかの仲裁か小学生が我を張るようなものです。
 
自己愛性パーソナリティ障害の特徴であり、議論する気などないのです。自慢したいだけの無反省・無責任の未熟者が、こうあるべきという規範を定めて見せるのは、見苦しい限りです。穏やかな筆致の裏には、ガチガチに凝り固まった訂正不能の岩石のような自己正当の前提があるということです。
 

*問い合わせ

(最期に一言)
私がHSアンチ氏から入手した文書が大学の公式見解であるなら、
これは教授会を経た「組織」としての動かし難い決定事項です。
楽山氏が自信満々で言うように、
 」
(楽山)KENTO氏は、大学は盗用はなかったと認識しているというなら、直接問い合わせをしたら済む話だ。盗用があったとは認識していないという回答メールをもらえたら、KENTO氏の見解の正しさは証明され、決着がつく。

というものではありません。
こんな事は社会の常識と思いますが・・・
 」
文書の末尾には、問い合わせ先が書いてある。文書に解釈が分かれる箇所があったら、問い合わせをするのは当たり前のことだろう。
また文書にある日付と、こちらのブログにある週刊誌記事の発売日とは、ほぼ同じ時期になっている。

 
楽山は、ホラー映画のアニメの感想から宗教を語ったことがあります。そういう楽山なら、週刊誌記事を根拠に批判記事を書くのは、まだ、マシなほうでしょう。・・笑える。
 
(リンク省略)・インチキの系譜 - Algorab archives
 

この二つを合わせて読むならば、大学側は個別の問い合わせには、直截的に「盗用」といい、改まった文書では幾分やわらげて「無断引用」としたのだろうという推測ができる。大雑把に言えば、本音と建前ってこと。
これを否定するには、直接問い合わせをしてみない限りはどうにもならないよ。

 
どうにもならない、という言い方で、自己正当化を図っています。責任を、他者へ、他者へと持ってゆく楽山の責任逃れなのです。いつの日も、反省するのではなく、相手の負荷を増やし、疲れさせることで、言い逃れてきたのでしょう。乗せられないように気をつけるべきところです。
 
楽山と正面から遣り取りをするのは、やたら、異常に、疲れるということです。それを手段とし、相手が疲れるのを待っているのが、楽山という卑怯者です。
 
楽山を説得しようとしたり、楽山と、まともな議論が出来るなどとは思わないでください。楽山は、議論や批判をツールとして、快楽を、満悦を、自分が上だという優越感を、味わいたいだけなのです。
 

*まとめ
今回のツイートを読む限りは、KENTO氏がこの議論をしているのは、信仰を守るためであるらしい。
結局のところ、盗用はあったとする記事は嘘だと言い張っているのは、なんらかの証拠があってのことではなく、信仰を守るためなのだろう。
ためにする議論」をしているから、盗用の有る無しという事実究明はそっちのけで、信仰がどうした、心がどうしたという風に話をそらすのだろう。
信仰を守るためには、事実と論理に基づく対話をすることができないのだとしたら、気の毒なことだと思う。

 
楽山と対話するのは、非常に危険です。楽山が与える病的疲労は、もはや、精神衛生の問題です。楽山のほうは、ごまかしと責任転嫁だけの詭弁の技を持っています。それは、楽山の、実に傍迷惑な、病質者としての、生き方なのです。
 
誰からも相手にされなくなるであろう楽山は、自らの蟻地獄に嵌ってゆくわけですから、気の毒です。・・もちろん皮肉です。
 
楽山の、同情のような言い方は、総て、嘘です。誰とも、和解できない人だと思います。楽山は、優越を感じて、他者を下に見たいだけの人です。そのための、やさしさ芝居なのです。
 
私としては、いかなる真実も宗教も、ゴシップのような話におとしめる楽山ですから、彼が、撤退するまで、いや、誰からも信頼されなくなるまで、そのいい加減さを批判するのに、遠慮するつもりはありません。
 
もう一度、言いますが、問題は、楽山のパーソナリティ・人格にあるのであって、他の事実とかは、個々の派生に過ぎません。どうか、疲労を避けてください。人格が訂正不能に壊れている楽山に煩わされないでください。まともに相手しないでください。
 
今までと同様、スクショは省略します。私は、病気になりたくはありません。やたら長いのは、楽山の策略なのです。術中にはまらないように、心から願います。
 
楽山の言は、意気とか説得力とか共感とかの深みがありません。せいぜい、通念的で、そこに嘘と詭弁を加えて、めんどくさくして、相手を疲労させてゆきます。
 
恐らく、楽山は、何事にも、実感がないのではないかと思われます。楽山の書いたものに、生き生きしたエネルギーを感じたことがありません。
 
楽山は、ねちねちと執拗に、話の方向を本筋から逸らし、歪めて、クレームまがいのことを言い続けて、相手を疲労させ、その気力を奪う人、いわゆるエナジーバンパイアだと思います。
 
楽山は、十年批判している偽牧師のシャロームの仲間です。シャロームは、神を褒めればいいじゃろ根性でボロを出しました。また、シャロームは、荒らしの易坊と仲間です。この、楽山、シャローム、易坊の三者については、同一人物の成りすましではないかという疑いもあります。いずれにしても、実際には、反キリスト、反宗教、という共通点があります。ネットに巣食うならず者です。
 
 

       f:id:stdsts:20210205235623p:plain

              きたない
 
 
 2021年02月05日
 KENTO氏による楽山批判(3)有効な反論なし
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8606503.html
 一部抜粋して批判します。
 
抜粋して批判を入れておきます。実感がまるでない観念の遊びに逃げている楽山です。
 

*心と信仰
最後に、ちょっと脱線して、心と信仰について書いてみる。
まず一般論として、信仰を第一にして現実をあとまわしにすると、信仰に合致しない現実は認められなくなったり、そういう現実と信仰を合致させるために屁理屈を重ねるようになるものだ。

 
楽山は、信仰と現実を分けることができるそうです。実際は、分けられず、現実を生かすために信仰があるわけです。宗教を、空想の理屈でしか考えていない楽山らしい詭弁です。
 
その上で、信仰に合致しない現実というものを考えるのだそうです。合致させるために屁理屈を重ねる、と言っています。
 
信仰と現実についての実感もないまま、論理の表面を滑らせているだけなので、実感のない観念的な話に堕ちています。心など、どこにも書かれていません。
 
楽山は、こう言う書き方しか出来なくなっています。時間の無駄なので、理解に努めることはしないほうがいいでしょう。
 
現実が厳しいために、信仰があるのです。屁理屈ではなく、切実な欲求があって、信仰は生まれます。楽山は、何も分からないので、観念をころがして遊ぶしかないのです。実に空疎です。
 

一方、現実を直視した上で信仰を持つ場合は、現実を直視するのを拒否したり、屁理屈を重ねることはある程度回避できる。その結果、心にかかるストレスは軽減され、病まないですむ。

 
現実を直視できない楽山が言っています。そして、相変わらず、屁理屈を回避できるという屁理屈の観念的な言い方に堕ちています。
 
心にかかるストレスについては、経験からの感想が必要ですが、何の具体的なことも語れない楽山は、他人事のように、病まないで済む、などと軽口で済ませます。何を語ったことにもなりません。
 

今回の件でいえば、KENTO氏は前者の立場であり、咲也加様は盗用はしないという信仰から出発し、それに反する現実は、やっきになって否定したり、屁理屈を重ねて信仰に合うように改変しようとしてる。これは現実直視する前に、自分の信仰を絶対化してしまったための悲劇といえるだろうし、この点、KENTO氏は可哀想ではある。

 
躍起になって自己弁護と自己正当化をしている楽山です。「やっきになって」「屁理屈」「絶対化」「悲劇」という決めつけの乱暴な短絡をして、「可哀想」という言葉で、相変わらず、自らの優位を、説得力もなく、言うだけ、言っている感じです。説明・説得のない結論への観念的短絡、こういう人に付き合うと、いつも、見下されることになるでしょう。
 

ちなみに私も、HS信者だったころはこういう落し穴にハマってた。とほほ。

 
トホホ言語について、批判してきましたが、楽山は、よほど気に入っているのか、これで読者を魅了できるとでも思ったのか、また、使ってきます。
 
落とし穴に嵌った経験を持つ人は、立ち直り、生きることに必死だから、嘘と詭弁を使うことはないでしょう。芝居もしないでしょう。つまり、ここは、本当の信仰というものを知らない楽山の大嘘です。白々しいことです。
 
楽山は、説得力のある文章を書けないために、しつこいだけの投稿ストーカーになっているようです。見苦しい限りです。どこにも響くものがありません。決して関わらないでください。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23-24、新約聖書
 
思い上がっている者は、富んでいる者と同様に、救いを拒むことになります。楽山の言は、ラクダが針の穴を、通ろう、通ろうとしているようなものです。無駄なのです。
 
 
(2021年02月06日)
 
 
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楽山の白々しさ

 
  楽山の白々しさ
 
 KENTO氏による楽山批判
 2021年02月03日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8590946.html
 楽山が書いている部分を抜粋して批判します。
 
 
また、長々と、ツイッターを引用する楽山です。あちこちに迷惑をかけているようです。楽山だけが、何も気づかないで、しらばっくれているのか、病気の増悪なのか、・・否、楽しんでいるわけです。
 
楽山は、理路が組み立てられない、理路が読み取れない、心が無いから感性がない、自己中の無反省の理路で、責任を負わないでいいと思っている、という、とんでもないブロガーですから、何か言って来ても、問題にしないようにするか、批判するしかない存在です。
 
楽山とシャロームは、だまされて信用した数多き人々によって、責任を問われなくてはなりません。それが無責任男とペテン師が負わされる宿命であります。
 
楽山とシャロームは、一日も早く、宗教・思想などの真実の追求というテーマの言論から、消えなくてはいけない人です。彼ら自身が、身の程を弁えることは、一生ないでしょう。病識のない彼らに対しては相手にしないことしか出来ません。
 
私はキリスト者(クリスチャン)のつもりですが、その立場から見ても、楽山の無反省・無責任は、公害です。キリスト教を侮辱し、のちに、お祈り芝居をするなどは、悪魔性の産物です。楽山の悪趣味にさらされている人々は、犠牲とならないように、楽山を根こそぎ否定してください。
 

もともとは「咲也加氏の卒論は盗用か否か」という議論だったのだが、いつのまにか「楽山の心がけの問題」にすりかわってる。

 
楽山は、自身の心に触れられると困るので、事実関係に絞りたいようですが、誰から言葉が出ているかを考えれば、言論者の心の問題を分けることなど出来るわけがないのです。楽山の策略に乗らないようにしてください。このようなテーマの分け方にも、楽山の根腐れの詭弁が表れています。
 
楽山については、事実関係より、心のほうが、いつの日も、問題としてメインなのです。ずっと心の無い楽山です。楽山の人格は、ホラーです。いつもそこから楽山の言は始まるからです。
 

楽山はHSと咲也加氏に悪感情を持ち、貶めようとして屁理屈をいっている、そんなことは止めて謙虚になって精進しなければならないというお説教。

 
いかなる説諭も、心が無いので無視する楽山に、謙虚と精進を求めるのは無理です。その迷惑な実績だけが、2年間、積まれてきました。
 
楽山は、恐らく、鶏のように、その時その場で発言し、すぐに忘れてしまうのかもしれません。だから、平気で、言い放って、省みず、責任を負わない、という人間離れの技が可能になるのでしょう。良心の欠片でもあれば出来ないことです。
 

信者のなかには、議論で不利になると、とたんに「あなたは心掛けが悪い!」という説教をはじめる人がいるけれども、KENTO氏もそのパターンにはまってる。

 
楽山は議論など出来ません。議論には、知性と感性が必要ですが、楽山は、どちらも持っていません。嘘と詭弁の痴性と不感性の偏見で生きているような人です。
 
また、いちばん、嫌らしくて、相手を疲労させるすべを、楽山は心得ているのです。それに、高等感情が鈍麻しているので、心に、いかなる衝撃も受けません。
 
楽山を人間と思ってはいけません。温もりと潤い、思いやりと悲しみ、という、人間を人間たらしめる人間性を持っていないのです。
 

この議論のテーマは、咲也加氏の卒論についてであって、楽山の人品についてではないことを再確認してほしいと思う。

 
楽山の人品に問題があるからこそ、大いに罪も悪も偽善も働いてきたのだから、ここで、逃してはいけません。分けられないことを、あたかも、別のものであるかのように平気で分けてくる詭弁にだまされないようにしてください。楽山については、いつも、人品・人格が問題を起こします。
 
楽山が何か語るとき、必ず、楽山の人品・人格の問題が前景に出る必然があります。逸らそうとする楽山を、そう言えばもっともだ、問題は別、などと思ったら、だまされている証拠です。楽山の言の、総てにおいて、問題なのは、楽山の人品・人格です。そこを外してはいけません。
 

私は、HS信者が「盗用報道は信じない」というのは理解する。

 
楽山は、何も理解してはいません。理解すると言っているだけです。楽山は、平気で嘘を吐く男ですから、平気で心にもない "理解" を示して、自分の皿に人を載せようとしてきます。
 

「HSは正しく、間違ったことはするわけがない。だからHSを悪くいう報道は信じない」というのも理解できる。何を信じ、何を信じないかは、人それぞれだと思うので。

 
これは、信条を語っているのでしょうか。身びいきではないのでしょうか。ここに、人それぞれを持ちこんでいる楽山ですが、事実関係に関わることではないでしょうか。
 
楽山の、人それぞれ、という意味は、楽山が、嘘も詭弁も平気でやってきたことを正当化するためです。また、自己正当化に他者を利用しています。楽山は、何も信じていないのに。
 
楽山においては、嘘・詭弁・悪いことも、人それぞれ、ということになる正当性を持つのでしょうか。こういうことを平気で書いてくる楽山を許してはいけません。
 

でも、KENTO氏は「盗用はなかった」「盗用報道は嘘だ」という風に、信じる信じないの話ではなく、事実関係について主張している。「盗用はなかった」「盗用報道は嘘だ」というなら、その証拠を提示してほしいと思う。
某アンチ氏の記事は真実を伝えてなかったから、盗用報道も真実を伝えていないというのは理屈にも、証拠にもならない。

 
サディストと言っていい楽山は、このように、人を責めているときが、いちばん快感なのですが、理屈にも証拠にも反応するだけの人間的感性を持っていないのです。楽山の人品に人倫はありません。
 

この件に関してネット検索すれば、盗用はあったとする記事しか出てこないことはすぐ分かる。盗用はなかったとする記事なんて見当たらない。

 
盗用の問題などは、個別の、事実かどうかの問題ですが、楽山の病質の問題は、今まで、そして、これからも、ずっと継続する問題であります。無反省・無責任の楽山に関わってはいけません。このことは敷衍するべきであります。こういう人は、そういう、すり替えで生きているのです。
 

したがって楽山は、自分に都合のよい記事ばかり集めたのでなく、ネット上には盗用はあったとする記事ばかりで、盗用はなかったとする記事は見当たらないというのが真相だ。

 
楽山にとっては、盗用の問題にとどまってくれれば、いちばん、楽なのです。実際は、嘘と詭弁で、人の心を、いためつけるのが快感の、自己愛性パーソナリティ障害、つまり、サイコパスであります。
 
柔和を装う文章にだまされないでください。一生涯、決して、相手にしてはいけない人格です。見つけたら、マークして、警戒を、敷衍するべき病質です。
 

KENTO氏の書き方だと、ネット上には盗用はあったとする記事、なかったとする記事が混在しているにもかかわらず、楽山は盗用はあったとする記事ばかり集めたかのようだけども、これはKENTO氏の思い込みにすぎない。

 
楽山は、話が自分の病質的人格の問題になるのを避けるために、事実関係だけに集中させたいようです。楽山の人格は、遊んでいるだけで、解決しようという気は全くなくて、相手が物を言えなくなるのを待っているだけです。楽山の心底においては、人のことなど、どうでもいいのです。
 

また楽山が紹介した記事には、幸福の科学側の反論コメントも紹介されており、必ずしも一方的なものではない。

 
楽山の言は、自己正当化と保身ですから、いつも、一方的です。言論に登場してはいけない危険人物です。人間をエサにして、釣りをして楽しんでいるのです。趣味なのです。楽山にとっては、いつも、どんなに重い問題も、趣味なのです。中身はありません。自己愛性が、自己愛を満たすために、他者を餌食にしているのです。丁寧語にだまされないでください。
 

信者は、相手方の主張、意見をきちんと読まずに、思い込みであれこれ書くことが目立つけれども、KENTO氏も例外ではない。

 
楽山が、相手の主張を、まともに受け取らないことは、既に、私との遣り取りと批判記事で明らかになっています。楽山は、極めて通念的な思い込みが固定していて、その偏見を超える何ものにも感性も知性も働きません。ゆえに、無反省・無責任で、学習と成長が全くできない異常者です。うそ臭く、生温かく、ぬるりとした退屈な筆致に、だまされないようにしてください。
 

*ヒント
KENTO氏は、大学は盗用はなかったと認識しているというなら、直接問い合わせをしたら済む話だ。盗用があったとは認識していないという回答メールをもらえたら、KENTO氏の見解の正しさは証明され、決着がつく。
また、事実盗用はなかったというなら、資料を集めて調べたらいい。たとえば、下のブログ記事にはページ数も書いてあるので、もし記事に間違いがあるなら、現物の写真を提示して記事は間違ってると証明したらそれで済む。

・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 」
KENTO氏は、事実盗用はなく、大学もそのように認識していると主張するなら、上のようなひと手間かけないかぎりは、楽山の心がけがどうだとか、アンチがどうだとかいったところで何も変わらないよ。

 
楽山が、何か良い方向に変わるということはあり得ないと言っていいでしょう。その負の実績が、少なくとも2年間にわたって、私のほうにはあります。
 
楽山に対しては、排除して、排除して、決して、関わってはいけない男です。個人カルトの病質者、そして、宗教と信仰を感受する感性を、毛ほども持ち合わせていない男、それが、楽山です。心がけの「心」がない人です。
 
楽山は、いかなる真実追求の場にも、いてはいけない人です。楽山は、追及されるべき対象でしかありません。楽山こそが「何も変わらない」のです。口先にだまされてはいけません。
 
体のいいことを言って、否定したかと思えば、賛同めいたことを書いてきて、結局、断定していないから、責任問題は生じない、などと、平気で言ってくる無反省・無責任ぶりです。
 
問題は、事実がどうこうではありません。問題は、楽山が言っているということです。楽山を相手にすることは、古びたヨレヨレの皺だらけの皮革の臭い切れ端を相手にするようなものです。反応しないのは、楽山に、血も涙も温度もないからです。
 
しかも、どこまでも、思い上がる訂正不能の自尊を持っています。したがって、何を言っても正当な反応は返ってきません。しかも、この臭いは、慣れてしまうと、伝染します。
 
楽山の言を、なんとなく、理屈が通っている、と感じたら、伝染している症状です。楽山の言を、一日も早く、見なくて済む日が来ますように、祈っています。
 
 

     f:id:stdsts:20210204234134p:plain

                      冷血
 
 
(2021年02月05日、同日一部修正)
 
 
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アドラー教について(12)2

 
  アドラー教について(12)2
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学
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 再録+
 
 
おもに「嫌」ということについて語っています。
嫌われる勧め?でしょうか。
相変わらず、短絡と豪語の目立つブログ主です。
 

悪口言って作った仲間は、仲間ではなく負け犬の集まりです。
自分の劣等感に負けて、健全に努力することを放棄して悪口によって優越感に浸って現実逃避してるだけ。
人は悪口を言う人を信頼できません。
次の悪口のターゲットになる危険性が高いからです。
つまり、群れているだけの臆病者なのだ。

 
悪口を言って、いいことは何もないということです。
言えば、言われる、という現象。
悪口を言ったことのない人は、あまりいないと思いますが、
負けたことのない人は、ほとんど、いないでしょう。
 
悪口は、負け犬の始まりなのです。
注意するべきは、負け犬とは、負けた犬、または、負けてしまう犬のことであり、
負けを認めることとは全然違うと申し上げておきます。
 
悪口と批判は全然違います。前者は根拠がなく、自分のためであり、後者は根拠と道理を示し、かつ、自分のためだけではないことが多いからです。
 
「負け犬の集まり」「臆病者なのだ」・・記事のこの部分こそ、説明というより決めつけに近い書き方ですから、紛れもなく悪口でしょう。
 
ちなみに、勝ち負けに拘泥(こうでい)しない生き方もあるということも申し上げておきます。
 

嫌われるよりも、好かれる方がいいとは限りませんよ。
嫌われた方が自分のやりたいことができるじゃないですか!
好かれようとしていたら、自分のことより他人を優先しなくてはいけません。
自分らしく、自分の幸せの為に生きることを選ぶなら、さぁ嫌われよう。
嫌われる勇気は、幸せになる勇気。

 
自己中の臭いがします。乱暴な筆致です。
 
結果としては、好かれるほうがいいわけです。
 
「嫌われた方が自分のやりたいことができる」とは限りません。
ますます、やりにくくなることもあります。
 

他人からの嫉妬の強さは、あなたの魅力の大きさを表します。
それだけ嫉妬されるということは、あなたがそれだけ魅力的ということです。
人は誰でも、魅力的でありたいと本心では思っている。
嫉妬を嫌悪することは、自分の魅力を嫌悪すること。
嫉妬心からの陰口を言われたら、あなたの勝ちです。

 
嫌われることを、何故か、嫉妬に置き換えています。嫌われることは、嫉妬からとは限りませんね。悪いことばかりしても嫌われます。乱暴なだけでも嫌われます。下に見て豪語して教えようとする態度も嫌われるでしょう。嫌われることと嫉妬を同列で考えることは出来ません。
 
嫉妬ではなく、心底、嫌うことがあります。
そこには、相手についての、嘘、偽り、悪、卑怯、という負の評価があります。
 
そういうことの受け身、つまり、そういう嫌われ方は、それこそ、嫌で、避けるべきことです。
 

他人が自分をどう思うのかは他人が決める他人の課題であり、自分で決められる自分の課題ではありません。
他人が自分をどう思うのかを変えようとすることは、他人の課題への介入であり、変えられないことを変えようとしても辛いだけ。
他人の課題には介入せず、自分の課題にも介入させてはいけない。

 
"課題の分離"を出してきました。
 
他人が自分をどう思うのかを気にしなくなると、事態が、さらに悪化することがあります。
 
他人がどう思うのかを考えることは、思いやりであることもありますから、
介入などと言って、全部、無視してよいものでしょうか。自己中の臭いがします。
 

世の中、嫌われた者勝ちですよ!
嫌われることで、人は自分らしくなれるのですから。
嫌われないように生きるということは、他人都合で生きているだけ。
嫌われる勇気を持つことで、多くの人達が嫌われないようにして損ばかりしていますが、あなたは自分らしく生きて幸せになれる。
得ばかりです!

 
嫌われた者勝ちと言っていますが、嫌われたままで、勝ちだというのは、
自分だけ幸福であればいいという考え方につながる自己中です。
人間は、何を目指して生きているのか、ということを考えるべきでしょう。
 
自分らしさは、他者との人間関係の中で、生まれるものです。
他者を全く無視したところに自分らしさは存在しません。
 
得ばかりです!・・これは、カルト的宣伝文句です。
 

自分を嫌っている人がいるあなたは
幸せ者です
嫌ってくる人は自分から
「私は嫌な人だよ」と教えてくれている
嫌な人に好かれたいですか?
むしろ関わりたくもないでしょう?
人生で仲良くなれる人の数と、好きな人といられる時間は限られている
嫌な人は相手にしないで好きな人と関わっていよう

 
気に入らないことは無視しましょう、という教えと同類のようです。
 
嫌う、ということは、その理由・原因を抜きにして考えてはいけないことです。
 
嫌な人が、一生涯、嫌な人とは限りません。
 
ブログ主の、豪語するための短絡が、かなり、きついようです。
 

今がどれだけ辛くても、何も心配することはありません
人間は忘れる生き物だから
人は今まであった辛いことも過ぎ去ったことは忘れていくもの
だから、何が起きても必ずどうにかなります!
忘れられないことがあっても、それ以上に忘れてることはいくらでもある
忘れているから意識していないだけ

 
初期に考えることを怠ると、一生忘れられないこともあります。
 
「必ずどうにかなります!」・・激励が空回りしています。気合いだけ。
 

嫌われようと、どう思われようとそんなの関係ない
嫌う嫌わない、どう思うのかは相手が決める他人の課題です
自分ではどうにもならない他人の課題に踏み込んで、心を悩ませるなんてどうかしてます
そんなことは気にせず、自分がどうしたいのか、何がやりたいのかに周りが見えなくなるほど集中しよう

 
どこかで聞いた「そんなの関係ない」ですが、相手のことを、自分の課題として、思いやる、ということはしないのでしょうか。ブログ主は、喧嘩ばかりしている集団にいたのでしょうか。
 
相手がこちらを嫌うかどうかは相手の課題、しかし、こちらが相手を思いやるかどうかは、こちらの課題です。
 
そして、周りが見えなくなるのは、あるいは、周りを見なくなるのは、また、それでいいと思うのは、自己中の道。
 

人にどう思われるか気になるなら、この3点を意識しよう
1.他人は自分が思うほど、自分に興味・関心は無い
2.他人の意見はどれだけ親しくても、適当である。自分にベストな助言ではなく、1番無難な意見しかくれない
3.他人はあなたの人生の責任を取ることはできず、あなたも他人の人生の責任を取れない

 
1.2.は、例外もあると言うことです。無視していいということにはならない。
3.について、例えば、思いやることは、責任を取ることとは違う良心の働きです。
ブログ主は、人間関係を、実に、雑に捌(さば)いて、語っています。
 
他者のことで自分が思い煩うほど悩まなくていいとは言えますが、
それで、他者を気にしないで生きることを正当化は出来ないと思います。
 

悪口を言う人は、自分のことから目を背けたいだけ。
自分の人生に絶望していて、自分のことに集中できないから他人のことが気になるのだ。

 
相手に、余計な見なしを決めつけています。ここの、目を背けるか、絶望するか、集中できないか、全部、相手の課題です。他人の課題に介入して見なしを決めつけているのは、誰でしょう。
 
このように、自分の課題と、他人の課題は、はっきり区別できない場合が多いのです。それを、勢いで斬ってしまうのは、短絡と言います。
 

他人のあら探しをして、悪口を言うことで自分はまともなのだと自分で自分に言い聞かせている。
そうやって、自分を正当化することを生きがいにしているのだ。

 
弁明や反論と違って、自己正当化は、いつでもどこでも、醜いものです。
自己正当化は、同時に、あら探しを伴うことが多いです。
 
しかし、ブログ主は、また、相手を決めつけているわけです。こういうことは、個別のケースにおいて、根拠を示して言うべきことです。
 

付き合う人は取捨選択しよう
人は誰と関わるのかで、性格も人生も何もかもが変わる
後ろ向きな人達と付き合えば、人生も性格も消極的になり、悪い事ばかり起きる
前向きな人達と付き合えば、人生も性格も積極的になり、良い事ばかり起きる
限られた人生の時間を誰と過ごすべきなのか、よく考えよう

 
それは、付き合わないで決められることではないでしょう。
 
人間として生きるということは、ある程度の傷を負うということです。
 
前向きに見える人が、あるいは、強く勧めてくる人が、また、物わかりのよさそうなことを言う人が、自己中であることもあります。引きまわされて疲労だけしか残らないこともあります。
 

不機嫌になって、八つ当たりしてくる人は相手にしなくていい。
自分の機嫌を良くするのか、悪くするのかを決めるのは本人の課題です。
わざわざ不機嫌になる人は、周りに気を使わせて支配しようとしているだけ。
上機嫌は意志、不機嫌は惰性。
顔色をうかがって気を使ったら、相手の思うツボです。

 
こういうことも、理由・原因を知ることは必要です。
 
おかしいですね。機嫌を良くしよう、悪くしよう、とか、本人が決めるのでしょうか。
 
「上機嫌は意志、不機嫌は惰性」・・でしょうか。短絡した豪語の断定が過ぎて、意味不明になってゆくようです。
 

誰かに嫌われたからって、それが何だっていうのです?
その人の好みに合わせて、あなたは自分を変えてしまうのですか?
あなたは自分の為に生きているのです
その人に認められる為に生きている訳ではありません
嫌われたのなら嫌われたで、ご縁がなかったと割り切って、新しい出会いを探しましょう

 
相手の好みに合わせて自分を変えるのではなく、何ごとにつけ、反省と考察は必要ということです。でないと、新しい出会いで、また同じことが起こる可能性があります。
 
ブログ主は、他者をすごく嫌いになるような、自分の個人的な経験か何かに執着しているのでしょうか、無人島で生きたいのでしょうか。それは、読者の課題ではなく、ブログ主の課題です。
 

嫌いな人とは、距離を取る
こんなに簡単で、誰にでもできる一番の悩み解決の手段を取れない人が多すぎる
人を嫌うこと、誰かに苦手意識を持つこと自体は悪いことではない
嫌いだからって、傷つけたりすることがいけないのです
お互いに相容れないのなら、無理はしないでしっかりと人間距離を取ろう

 
ここで、傷つけることが出てきます。傷つけ、傷つけられることを避けるために、他者を無視する自己中になることが必要でしょうか。違うと思います。
 
総じて、精神衛生の問題を、豪語で解決することは出来ないと思います。誰よりも、ブログ主が、嫌な記憶~トラウマを抱えている傷だらけのように思われます。
 
苦手意識は、誰でも持つことがあるでしょう。自然と遠ざかるのであって、傷つけ合いを避けるために、距離を取ります。アドラー教だから距離を取るわけではありません。
 
誰に対しても、自立した人間同士としては、距離を取るのは当たり前のことです。
距離の取り方が難しいのですが、他者無視と自己中に短絡しないようにしてください。
 
なお、ずっと批判対象の楽山は、最近は書かないようですが、元々、アドラー教の宣伝者です。
 
 

   f:id:stdsts:20210203235120j:plain

                     自己中の渡り
 
 
(2020年01月30日、同日一部修正)
(2021年02月04日、さらに加筆)
 
 
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信仰の情熱2

 
  信仰の情熱2
 
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12571374874.html
 を再録+
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と書きました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません。
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
他者を無視すれば
やがて自分が無視されます。
ひどくなれば人間扱いされなくなるでしょう。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を
犠牲となって歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
 
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに正直に
でもどうか本心で祈ってください。
 
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 

   f:id:stdsts:20210203001313p:plain

              祈りと情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
 
 
 
※追加記事: 

  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8579485.html
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 

次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
http://lejaycassismango.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。楽山は書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの褒め言葉で、自らの不全を隠しています。
 

この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。

 
楽山は、断定できません。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるでしょうか。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなのです。
 

KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。

 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が言っています。楽山には、誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。楽山に関わり、楽山をまともだと思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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