ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

疲労性病原

 
  疲労性病原
 
   2019年12月17日
   自己肯定、自己受容、自己変革…
   http://mn266z.blog.jp/archives/22632914.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
自分は何の責任も負わず、他者には疲労を与えるだけの病原とも言える文章の体質。
 

*自己肯定
 木地雅映子さんのツイートを見てたら、自己肯定感にとらわれることに注意喚起する記事が紹介されていた。

木地雅映子
@KijiKaeko
むむ、今どきの『自己肯定感』の高い低いは、あの古臭い『ネアカ』『ネクラ』の子孫みたいな文脈で語られて、ネクラはだめだネアカになれ!っていう圧力になってるってことなのかな。そりゃ害にしかならないな。
ネクラはいいぞ。
https://t.co/k0uc4jXGsx
2019/11/04 10:42:39
・「自己肯定感」にこだわる母親たち、わが子を息苦しくさせるワケ
 」
たしか、『嫌われる勇気』では、自己肯定は、自分にできないことについて、「自分はできる、必ずできる」と自己暗示をかけることで、これはある意味、自分に嘘をつくことだとして批判してた。それに対して、自己受容については、できない自分をありのままに受け入れた後で、どうしたらできるかを考え、行動することだから、よいことだとしてた。

 
引用した部分だけでも、圧力になってはいけない、ということは読み取れるでしょう。
 

この記事でいう「自己肯定感」というのは、このうち前者について語っているようでもあるが、後者について語っているようでもあり、どうも判然としないのではあるが、そのどちらにしても、必ずこうでなければならぬと一つことに固執している状態は窮屈だろうし、苦しいだろうな。
こうなるとまさに、「「閉じた世界」から脱出する」ことが必要になってくるわけだ。

 
書かれた術語に限って言えば、反対命題を強引に自他に押し付けることが圧力になります。したがって、自己肯定感が圧力でないなら、自己肯定とは区別するべきです。自己肯定は、機械的で乾いた術語のニュアンスになり、「感」が付く付かないで、誤解の幅が違うことを、楽山は分からないようです。
 
つまり、自己肯定感は、自己受容に近く、自己肯定と違って、無理やり反対方向に持ってゆくことではなく、出来不出来を問わず自分を、ありもまま認めることに他ならないでしょう。何を肯定するかと言えば、生きることに他なりません。
 
楽山の、閉じた世界から脱出する、というのは、それだけだと、大袈裟で、まるで自分で新しく生まれ直すみたいで、とても、一般的に通用するとは思えません。
 

*自己変革
 上記の記事中、この辺りは、自己変革について疑問を提示しているようだ。
どのようなキャッチフレーズが登場したかを振り返ってみると、「自分を愛せなければ他人を愛せない」「あなたが自分を好きでなければ他人に愛されるわけがない」「自分を愛せるように」「自己肯定感を高めるための法則」「自己肯定感の低いあなたに足りないもの」などなどです。

 
自己愛の強い楽山にとっては、好ましく、垂涎の的になったのでしょう。しかし、自己の欠点に気づかなくなる可能性という致命的な欠陥があります。まさに、楽山において、そうなっているのです。
 

共通点は、多様な説明や切り口があるにもかかわらず、最終的には自分で自分をどうにかできる、しなければならないという考えに帰着することです。

 
楽山は、わざわざ、圧力を強いる言葉の引用に換えてしまっています。ひどいです。
 

一見、自分は自分次第という希望を与えるように思えますが、最後は自分しかいないというどん詰まりの考え方ではないでしょうか。まさにこれこそが、自己選択・自己責任の罠なのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4

 
このように、どん詰まりということは、圧力に負けそう、ということです。
 

自己変革にしろ、自己責任にしろ、一面の真理を有しているのはまちがいないのだろうけれども、上にも書いた通り、こうでなければならぬと強く思い込んでしまっている場合は面倒なことになりがちだ。

 
圧力になることが望ましくない、ということだと思いますが、楽山の理路が、上のほうの「共通点は・・」において、おかしいです。主旨を理解できていないのかもしれません。
 
楽山は自己愛が強いので、圧力は必要ないのかもしれません。そして、その通り、自分の欠点に気づかなくなっています。
 

人にはそれぞれ個性があり、抱えてる事情もちがうし、さらにはたとえ同一人物でもタイミングということもあるものだ。その時々によって、その人にとって自己変革や自己責任が必要なときもあろうが、それとは反対にそんなものは要らないときがあるのは当然だ。自分を変えるべきときもあれば守るべきときもあり、自分でやるべきときもあれば他人を頼っていいときもあるみたいに。

 
楽山は、ゴチャゴチャと書いていますが、当たり前の場合分けに過ぎません。しかも、自己変革や自己責任という、さらに圧力をかけて、網羅したい願望で、楽山自身の発言の安全弁を強迫的に実行している感があります。
 
そんなことよりも、唱えて圧力を生む言葉は、助けにならないということです。心を求めず、言葉だけを求める人は、言葉が圧力になっていることが既にある場合が多いでしょう。
 
それにして、楽山は、圧力をかけたいのでしょうか、抜きたいのでしょうか、「・・必要なときもあろう、・・要らないときがある・・もあり・・もある」という書き方では、何も語ったことにはなりません。このようなボンヤリ言語の書き方だから、責任逃れでしかなく、中立を装うだけになるのでしょう。
 

でも、あまりに強く一つことに執着して、こうでなければならぬと思い込んでしまうと、この辺りの臨機応変さがなくなるから苦労することになる。
その意味で、この言葉はよく納得できる。

 
当たり前のことを繰り返すだけの楽山の言は、恐らく、何の納得も与えない。細部まで書かねば、という脅迫性があり、そのせいで、芯を外してゆくのが、楽山の筆致なのでしょうか。
 

そもそも万人にあてはまる子育ての「正解」はない。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128

 
で、結局、これだけでは身も蓋もないことを引用しています。ならば、楽山は、書かなければよいのです。引用元にも失礼です。実質のないナルシシズムのなせるわざなのでしょう。
 
どっちつかずに言えば謙虚だと思っているようだが、どっちつかず・・は、展開も進展もなく、何の一石も投じていない、すなわち、書かなくていいことを、かっこつけて書きました、テヘヘ、ということにしかなりません。
 

結局のところ、人生、教育、価値観、人生観など、人に関するものは、こうでなければならぬと一律に決めつけることはできず、人それぞれとしか言えないことがほとんどではなかろうか。ここは自分もうっかり忘れてしまうことがあるのではあるが、よくよく自戒したいと思う。

 
一律に決めつけることができないのは当たり前のことです。しかし、今回、今までもずっとそうですが、人それぞれを結論にすれば、何らかの部分的なインパクトを与える文章にもなっておらず、結論も、おざなり、というより、なおざり、であるから、書く必要など、どこにもないのです。読者をバカにしているとしか思えない。
 
さらに、その責任逃れのように、「よくよく自戒したいと思う」と書いていますが、この、反省や謙虚さを装う筆致が随所に見られるけれども、その結果が、どこにも表れたことがありません。これが、楽山の、いい加減な、そして、極めて偽善的な、ボンヤリ言語という理路の放棄なのです。
 
自戒や反省という言葉を書いたからいいじゃろ、という安易さは、決して謙虚ではなく、自己中の勝手な予防線に過ぎません。自戒より、自壊していると思います。楽山の、このような記事は、自己愛性自己破壊、そして、他者にとっては、真に受けると、どうしようもない堂々巡りを与える疲労の病原だと思います。言論の恥と害毒です。
 
 
  こうであって欲しくない
 
   「こうであって欲しい」という押しつけ:2019年12月17日
   http://mn266z.blog.jp/archives/22633050.html
   楽山日記(仮、倉庫)
 
 
少なくとも、楽山の言うようにだけは、分かってもいないことを得々と語るようにだけは、なってほしくない、という記事になっています。むしろ、何かを批評するときには、こうであって欲しくない、という記事になっています。
 

宏洋氏のツイートをみてると、ちょいちょい共感できるものがあるけど、これもそう。

宏洋@映画『グレー・ゾーン』クラウドファンディング実施中!!
@hiroshi19890224
大川隆法総裁先生の息子なのだから、こうあって欲しい」
幸福の科学の信者さんはそれしか言いませんでした。大川隆法本人含めて。彼らにとって『宏洋』という個人の人格には何の意味も価値も無かった。
だからそんなものはクソ食らえと思っ… https://t.co/aNQlYVceYg
2019/11/05 02:00:03
 」
ちなみに、のんさんの歌(歌詞ノマアキコ)にも、これに通ずるものはある。

ちょっと待って寄ってたかって
あたしのあれこれ決めつけないで
あなどるなかれ ベビーフェイス
ホントのあたしを知らないくせに
・のん やまないガール 歌詞
 」
こういう押しつけ、決めつけ、過干渉などは、有名人に対してのみならず、程度の差はあれども、一般人の間でもある。ふつうの親子関係、友人関係、恋愛関係などでもざらにある。

 
押し付け、決めつけ、過干渉のことを言っているようですが、あの人も、この人も、と有名人を上げることが、楽山の身勝手さを浮き彫りにしています。
 
押し付け、決めつけ、過干渉は、楽山が、知識も理解も感じるところもないのに、宗教、特にキリスト教について、やってきたことです。当然、的外れとなり、批判対象になるのです。
 

もちろん宏洋氏が述べているように宗教でもある。むしろ宗教では一般の場合よりも、その程度は激しいだろう。宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだから。

 
宗教が・・ではなく、楽山が、分かりもしないのに、宗教について語るな、ということです。自分の欠点を考える、他人の身になって考える、ということが全然できない楽山の他罰的な性癖なのです。
 
「宗教は人に対して、ああしろ、こうしろと命ずるものだ」、というのは、未熟で理解力が足りないくせに、文句だけ言ってくる楽山の自己中の、それこそ、偏見に満ちた決めつけです。本当に、楽山という人は、書けば、必ず、思慮の浅さが浮き彫りになってきます。
 

ほんと、価値観の押しつけという点では、宗教はやっかいだ。まともな宗教であれば、ある程度は、個人の個性を尊重してくれるだろうからよいとしても、カルト宗教はそうじゃないから困る。

 
価値観の押し付け、宗教は厄介だ、というのは、楽山が真の宗教を全く知らないから、起こってくる偏見からの悪口であります。楽山は、いつも、そうです。
 
押し付け、決めつけ、厄介は、評論家気取りでありながら、知恵の足りない楽山のほうです。共感力がなく、ピント外れで、意地だけ執拗に強い自己中なので、霊が分かるっぽいと言って、オカルトやカルトについて書きながら、まるで、宗教に、特に、キリスト教について理解のない自分を弁えません。
 
楽山は、いつも分かってるふうに、宗教についても、常識人のつもりで図々しく書いてきますが、感性も知性も洞察力も不十分であることを自覚しないため、正面を向いて理路を説明することができず、被害的・他罰的に苦情を言うか、この記事のように婉曲的に当てつけることしかできない、しかも、それが、的外れであって理、認識不足であったり、まるで、言えてない、という結果に終わります。
 
訂正不能に自己の能力を過大評価して、反省もしないで得々と語ると、こうなる、言い換えると、反省力があれば、こうはならなかっただろう、という典型になっています。
 
楽山は、「まともな宗教」のことを、全然、理解していない、ということが今までの記事で明らかになっています。勝手に、カルトと宗教を分けて、自分はカルトじゃないと言い張っているだけです。こういう自覚も反省もしない人が、宗教に関わると、いちばんカルト傾向が強く、厄介なのです。
 
自己中心、訂正不能、という性格は、いちばん、身勝手な人格と妄想的に偏った自己信条を無自覚に作ってしまいます。何故なら、反省をする代わりに、意地を張り、いちゃもんをつけ、なじり、けなし、当てつけをする、ということを繰り返すしかなくなるからです。
 
 
(2019年12月19日)
 
 
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