ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の鈍感

 
  楽山の鈍感
 
 「第七講 ヨブ仲保者を要求す」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年08月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25724165.html
 
 
楽山の、腹黒さ、陰険さ、理解力のなさ、読後感想の嘘臭さ、共感のなさ、にもかかかわらず、インテリ気取り、まともに見せかける芝居、ほめ言葉の世辞、など、自己愛と自己中に無反省に生きてきたゆえに起こるところの、総じて鈍感さからの、様々な人間的欠陥と慢心による悪意が表れています。しかも、だんだん増悪してきています。
 
これだけ長く批判されてきて、何も答えられないために、当てつけだけをしてきて、あとは無視する、という、気に入らないことは無視しましょう、というアドラー教を実践して自己愛と自己中に固まっているのが、楽山です。キリスト教には、そのような教えはありません。なのに、キリスト教について書いてくるのです。
 
結局、楽山は、聖書も、真面目には読んでおらず、理解も共感もしておらず、信仰という大きなテーマに、そして、聖書に、しつこく砂粒を投げているだけなのです。楽山は、自分の表現と説得力を全く持たないので、いつもいつも、煩雑さ~迷惑だけを与えてきます。
 
何のためにもならず、参考にもならないのが、楽山の記事の特徴ですが、しかも、大部分が引用元の字面だけで、説明も記事中に引用することもしない不親切な書き方です。楽山が独りで自己満足したいだけだからでしょう。公表せずにいられない自己顕示欲の奴隷であります。
 

第七講を読んだので内容をメモ。
第9章の研究。
ヨブは「真の神を嘲ったのではない、友人の称する所の神を嘲ったのである」「彼らの信ずる如き神を彼は信じ得ないというのである」。
ヨブ記の中枢はいうまでもなくヨブ自身の言である」。
「懐疑は決して信仰を否定するものではない。大なる懐疑のある所ならずしては大なる信仰の光は現れない」。

 
懐疑は、信仰者も非信仰者もいだくものです。率直な疑問は誰でも持っているでしょう。しかし、楽山が言ってきたのは、率直な疑問ではなく、いちゃもんとしか言えないものです。
 
文句を言って、それで収まらなかったものだから、今度は、歩み寄った姿勢で、自らに向けられた批判を、バカにしているだけなのです。根腐れとは、こういうものを言うのです。この楽山とだけは、議論も話し合いも成り立ちません。代わりに、トラウマのような疲労が残るのです。
 

20-21節の言葉と、コリント前4.4の言葉は「精神を一にする」。
33節で、ヨブは人と神の間の仲保者を求めている。19章25節でも同様。

 
恐らく、内村鑑三の引用を書いているだけでしょう。自らの記事に引用もせず、説明もしないのが、楽山の、疲労を与える病質であります。楽山が、人情の機微を持っていないからでしょう。人の気持ちが分からないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
9:20
たといわたしは正しくても、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。
たといわたしは罪がなくても、
彼はわたしを曲った者とする。
9:21
わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。
わたしは自分の命をいとう。
9:22
皆同一である。それゆえ、わたしは言う、
『彼は罪のない者と、悪しき者とを
共に滅ぼされるのだ』と。
 (ヨブ9:20-22、旧約聖書
 
ヨブは、自分の正しさを言いたいのでしょうか。罪がないのに曲がった者とされたと言いたいのでしょうか。神が、罪のない自分を滅ぼすと言いたいのでしょうか。
 
神が滅ぼすのは、目的をもって、味方のふりをして、信仰者をおとしめるために記事を書いている偽善者であります。
 
 (コリント人への手紙、口語訳)
4:4
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
4:5
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
 (1コリント4:4-5、新約聖書
 
自分で、神の裁きをしてはいけません。それは、いずれ、神が起こすことです。人は、できることをするのです。それが、悪しき言に対する批判であります。
 
楽山は、主なる神が、隠されたことを明るみに出して裁くこと、すなわち、あらわにして神の力をもって強制的に神の敵を滅ぼすことと、言論にて批判することとの区別さえ出来ていないのです。
 

仲保者について新約では、テモテ前2の5、ヨハネ一の2の1、へブル12の24。
9章2節には「人いかでか神の前に義しかるべけん」とある。義人無し、一人だに無しということ(詩篇14.3、ロマ3.10)。これは「新約の中心問題」。

 
また、楽山は、聖句の引用個所だけを書いて、説明なしです。こちらを疲れさせる自己中の腹黒さなのでしょう。
 
義人はいない、ということは、新約だけではなく、キリスト教とキリスト信仰の中心課題であります。何故なら、罪の性質から、罪の悔い改めの必要性に、つまり、信仰に直結しているからです。
 

「人は罪に生れ罪に育ち罪に歩みて、いかに奮闘努力するも神の前に己を義しくすることは出来ない」。ではどうしたら義となることができるか。救われ得るか。「この難問題は実にヨブ記の九章二節にその源を発したのである」。
「すべてキリスト教の大真理はヨブ記の中に発芽している」。

 
引用するだけで、自分で、何も説明のできない楽山の無知と無恥が、引き続き、表れています。つまり、楽山は、記事を書いて当てつけるのが目的で、自分では何も読み取っていないし、ゆえに、書いていないし、書けないということです。
 
 (ヨブ記、口語訳)9:2
「まことにわたしは、その事の
そのとおりであることを知っている。
しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。
 (ヨブ9:2、旧約聖書
 
神の前に正しい人はいない、義人はいない、ということです。義人ぶっているのは、いい子ぶっているのは、まともなインテリぶっているのは、楽山だけということです。
 

ここではヨブ記新約聖書の関連を多く指摘している。新約聖書を理解するには旧約聖書の知識が必要だといわれる理由がよく分かる。

 
旧約の成就が、新約で表されているわけですから、関連しているのは、当然なのです。大雑把に言えば、旧約は、神と人の違いを、神の力と業(わざ)の聖句によって示しており、新約は、キリストの、命を惜しまない愛と共感を、その犠牲の悲しみを通して示しています。
 
楽山には、そういう共感の情緒が欠けているために、字面だけで、世辞を言って済ませるしかないのでしょう。前に、キリスト教を、おとしめておきながら、信仰に新約も旧約も必要なことを、今さら、内村鑑三の引用によって、よく分かるなどと、世辞の字面だけを言っています。
 
ヨブは、本音を、神にぶつけています。楽山は、分かったふりをして、ここでだけ、批判をおとしめるために、「よく分かる」と、神に世辞を言っています。神に世辞が通用するでしょうか、否です。
 
神に対しては、正直な祈り以外、通用しません。
 
楽山は、新約聖書旧約聖書も、本気で読んだことはないと思います。だから、何も分かってなどいないと思います。それを裏付ける証拠ばかりを、滑りに滑った自己愛で、出してきています。神に世辞を言って、それを記事にして、人をだまそうとする、まさに、神と聖書を悪用した詐欺行為です。
 
楽山が、ときに、読者をだまして、自分を受け容れさせようとする台詞は、反省、トホホ、そして、「よく分かる」、言えなくもない、かなあ、ていうか、などがあり、ボンヤリ言語と呼んでいます。何も分かっていないことが明らかなのです。神の前に、いけしゃあしゃあと偽りを言って、楽山は、平気な人なのです。
 

ヨブが神を嘲るかのような発言をしたのは、あくまでも友人の語る神に対してであって、真の神に対してではないというのは、ぜひとも覚えておきたい。

 
いいえ、ヨブは、神に訴えているのです。楽山の、きれいごとの辻褄合わせに、だまされないでください。ヨブ自身が、どうして、友人の語る神に対して語る必然があるでしょうか。ヨブは、ひたすら、友人の忠告の浅さのために、ひたすら、神、その御方に、訴えています。楽山の聖書理解は、嘘っぱちです。
 

巷では、神についての議論の際に、相手の語る神について意見をすると、「神を冒涜した」「不信仰だ」と怒られることがある。相手の語る神について意見を述べただけで、真の神についてあれこれ言ったわけではないのに、そういう結果になってしまったりする。そんな風に怒る人は、「私は真の神を知り、語っている。これに受け入れないのは、真の神を受け入れないことだ」と思い込んでしまっているのだろう。自分はそうならないように注意したい。

 
楽山は、ここで、本性を表して、自分に都合の良いように、こちらに当てつけてきます。ここが、楽山の意地の悪さです。そして、さらに、楽山は、自分はそうならないように注意したい、と侮辱しています。
 
こういう言葉を見るたびに、楽山の性根に吐き気を催します。既に、楽山は、最悪なのです。楽山の心の中に、神はいません。批判者よりも、オレが上だ、と刷り込みたいだけなのです。
 
世の中には、腹まで黒く、骨の髄まで、腐った者がいるということです。そういう者は、インテリぶって、知性で語っているように振る舞いますが、下種の根性は、その拙劣な理路の中に、表れてくるのです。
 
私が、たとえ、楽山批判のために、おかしくなっても、決して、楽山に近づかないでください。楽山は、怨念を嘲笑いに変えて、芝居と詭弁によって、仲間を作ろうとしているのです。
 
楽山は、神について、神がいるならなぜ悪があるのか、など、あれこれ言ってきました。それは、中学生レベルの低次元の不平不満ですが、こちらの説明など見ることもなく、自説の延長で、神とは何かを得々と語って、結局は、キリスト信仰を否定したいのだと思います。
 
強く言いたいのは、非信仰者が、神について、正直な疑問を呈するのと、楽山の企みは全く違うということです。ここでだけ、楽山は殊勝な求道者の芝居をしています。
 
楽山は、発言の軸を持っておらず、自己顕示欲だけで書いて満悦する人です。楽山は、自らの不埒(ふらち)なふるまいに責任を負いません。こちらが、それに、いちいち合わせていると、作業が煩雑になり、惑わされて、疲れて、気が狂って、死んでしまうでしょう。そういうのが、楽山の与える害なのです。
 
ですから、言論には、軸が必要です。それは、私にとっては、言うまでもなく、キリスト信仰でありますが、義人はいないのだから、成り行きは、神にお任せして、そこで言論し、尽きてゆくことになるでしょう。
 
一方、軸を持たないまま、無礼、侮辱、当てつけ、皮肉、思い込み、先入観、無視、不感不応、鈍麻、軽口、嘘、詭弁、世辞、など、矛盾と的外れで溢れてくる不祥事が、楽山の言説なのです。
 
また書いておきますが、楽山は、偽善者シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条に賛同しました。これは、キリスト教ではない、むしろ正反対です。
 
現代でも、いや、現代であるから、なおさら、道に迷い、救いを求める人は多いと思います。何も気にしなくていい、という宗教に、救いの要素があるでしょうか、否です。
 
つまり、楽山とシャロームキリスト教は、キリスト教を、無価値と見なして、おちょくっているに過ぎません。その根底には、宗教というものに意味など認めようとしない執拗な嫌悪と敵意が込められているのでしょう。
 
ですから、楽山とシャロームは、キリスト教は、何も気にしなくていい、何をしてもいい、どうでもいい、つまり、何も信じなくていい宗教だという見なしです。著しい的外れです。
 
だから、シャロームと同様、楽山は、キリスト教を知ってなどおらず、ネタにしただけの、偽善者の仲間でしかないのです。総ての楽山の言は、笑いながら、人をだますための、嘘、詭弁、そして、ごまかしの類だということ以外、考えられないのです。
 
楽山は、中立、中庸、偏りのないバランス、などを気取って、ああでもないこうでもないと、結局、要領を得ない怠慢な不注意と、思慮と情緒の鈍麻に陥っているようです。
 
人間には完全な中立などあり得ない、という自覚が、楽山には、まるで、見られません。しかし、楽山自身は、中立の立場に達し得ているという原始的ない思い込みの自覚に嵌っているようです。この辺は、自己愛性人格障害の症状なのでしょう。
 
現代の偽善者は、聖書のパリサイ人のような明確な悪と偽善ではなく、柔和と中庸の見かけを装った、心なきケダモノです。人格と人間性を大事にするなら、それこそ、彼らを、有志をもって批判を浴びせながら、実生活においては、完全に無視することで、孤立させる以外にないのです。
 
楽山とシャロームには、さらに仲間がいると思います。彼らは、徹底して、宗教の価値を、おとしめる者たち、信仰を無にしたい者たち、つまり、極めて、丁寧に侮辱してくる、現代であるがゆえに、最も厄介な、愛と自由に対する迫害者、それこそ、キリスト者の立場からは人類の敵と言うしかないのです。
 
一方、巷では、いたるところに、一見、丁寧だが、結局は、話を聞いていなかったり、鈍感で、自己中で、訂正不能でありながら、ぼんやりしていて、教えられたことだけを真似して、それ以上を考えず、感受性というものが抜けてしまったような、目先の趣味にだけ生きているような類型を見ることがあります。
 
そういった風潮の中に、カルト的な自己中の影響~風潮とでも言うべき安易さが増えて、あたかも蔓延しているのではないかと感じることがあります。人間関係が希薄になるだけでなく、今まで以上に、思慮と情緒が、特に情熱の明瞭さが、鈍く壊されてゆくような感じをいだくことがあります。
 
その場合、人間に関わっているというより、書類を見ているような、情緒の薄い対象との関係になっているのかもしれません。私が、しばしば使う言葉としては、温もりと潤いのなくなる症状です。そこに、自己中、自己愛、病的ナルシスト、さらには、サイコパス傾向があるのかもしれません。
 
クールなのではなく、一見クールに見えるところの、コールドであり、うすぼんやりとして緩徐に進行する、意識されないトラウマのようなものかもしれません。したがって、その根底には、氷かドライアイスのような冷たさと無関心があることになります。このことは、まだ、傾向であり、まとまった言説にまでは至っていません。
 
ただ、その一部に、楽山とシャロームのような、ある種の自己中・自己愛のカルトの働きがあるならば、それらカルトが、天命の裁きによって運ばれ、衰退し、滅亡に至って消え去る時まで、巻き添えにならないために、決して関わることのないように、近づかないように、お願いいたします。拝。
 
 
(2020年08月02日)
 
 
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