ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の自己賛美2


   楽山の自己讃美2
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/27961485.html
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
 

「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」

 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
 (ヨブ記旧約聖書)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:6、旧約聖書
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。楽山は、神に試されたのではなく、自らの悪意と欺瞞の罪性と因業によって壊れているのです。
 
 

「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」

 
楽山は、どうしても、ヨブを罪がないのに苦しめられたと決めつけたいようです。ヨブは、豊かな暮らしのために高慢になっていた可能性があります。また、ヨブ記は、試練が悔い改めによって、信仰の実となるという話なのです。
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、ヨブが、神以外に訴える相手がいないという寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山は、無反省・無責任の自己中でありながら、無罪であるかのように高慢で、神に対しても、人に対しても、欺きを表し、反キリストであることを自ら証明しているのです。自己正当化のために、ヨブ記を、無罪なのに神が苦しめると言う楽山は、聖書をも誤読し曲解しています。
 
楽山が、悔い改めることがなく、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
 

神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。

 
楽山が、妄想的自己中の反キリストであるのは、ヨブという聖書の人物を引き合いに出して、無罪だと自己正当化するような、罪人の自覚が全く見られない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E8%80%85-97469
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、神を対象にして、ぬけぬけと保身の正当化を図る冒涜者らしい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。笑止です。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになります。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。自己満悦のための聖書の悪用は、神も最も嫌うところでしょう。
 
 

「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」

 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり、神のみに寄って依ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。信仰の「し」の字も知らない楽山は、詭弁で邪魔をしたいだけです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が救うというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。神は、人に試練を与えることで成長を促しますが、その試練を完全に無視して、文句だけを言っているのが、楽山です。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山が、試練の自覚もなく、救いも拒んでいるだけなのです。
 
 

「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」

 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。罪ある人が、罪を認めて、信仰の義を与えられるということに気づかず、神に不満だけをぶつけている楽山は、足らざる者らしく、ヨブ記の字面と言葉遊びしているだけです。
 
ここでの無神論は、神はいないと、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。神を信じているからこそ、神に、なぜ?と問わずにいられないことを、理解できない災いが楽山です。ヨブではなく、書くことで、楽山が、神の敵、救いの敵となっています。
 
神亡きがごとき地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを悔い改めに導いて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。
 
反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。ここまで、悪意で、神と信仰を汚して、何が得られるというのでしょう。楽山が手にするのは、誰も近づいてはいけない異常人格の自己満足だけであり、楽山は、自らの鼻をほじって笑っているだけなのです。
 
ヨブ記は、罪のないヨブが試される話ではなく、人間の罪と信仰の話であり、また、ヨブが富を回復するのが救いではなく、ヨブが悔い改めて信仰を新たにすることが救いなのです。楽山は、神と取引でもするような高慢な立ち位置が目立ち、恐れも共感もないことが、ここでも表れているのです。
 
 

「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」

 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。正義は、神のものです。人が自らを正義と思い込むようになるから、神に文句を言おうとするのです。そういう罪は、人間一般の罪であります。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないのでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、人格障害からの悪意が表れ、サイコパスらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は表れてくるのです。楽山は、他者を書いたつもりで、寒くなるような自らの悪意を漏らし続けるのです。無神教と背教の宣伝者、楽山に、誰も関わらないことだけを願ってやみません。
 
 

「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」

 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義に歩め、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、忍耐し、待ち望む信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、利得だけを考えるような、心の深みのない偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
 

「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」

 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。「光明全視界」は、大袈裟だと思います。それは、神のものです。
 
 

この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。

 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、闇に棲み、光を無視し、楽山の言う丁寧語のごまかし言葉では、スルーして、逃げまくっているだけです。
 
闇の底というのは、闇を経験し悔い改めて神を知るという意味なら分かりますが、闇をずっと行って掘り下げれば光が見えるという意味ではありません。楽山の世界には、いかにも気安い嘘が闇を覆い尽くして、光をさえぎっているだけです。
 
 

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い

 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の嘘っぱちの本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。低級です。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開か、と同時に、楽山の底も見え見えになってきます。楽山は、生まれて育って、今まで、一度も、真実を語ったことがないような気がします。
 
 

ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。

 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、そして、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、人に理解されない自分の天才ゆえ、とでも思っているのでしょうか。背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と悟ったかのように、自らを高めようとするとは見苦しい限りです。楽山は、知られるべき実績ゼロの病質者です。楽山が、罵倒されることはあっても、誰にも理解されることはないと思います。それが、楽山の因業です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、3年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化して、楽山を、ますます見苦しくしてゆくだけなのです。楽山には、しんみりとした悲しみの情がないと思います。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、崩壊しながら、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、自己愛による訂正不能の性質を持っているので、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
 ※
 
真善美について、人は、努力することしか出来ません。その結晶が、作品となり、人生となるのです。真善美の完全な結実は、いつも、すべて、神に任されています。人は、できることをして、悲しくてたまらないときは悲しみを、神に、正直に捧げることが信仰であり祈りであります。
 
 

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            自己賛美の澱(おり)
 
 
(2021年02月07日)
(2022年02月08日、再録+加筆)
 
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
「私とトラブルになった人のヤバイ個人情報集まるのよねー。」
これは情報収集能力を誇ってるのかもしれんけど、見方によっては、「私たちは、本人の許可無く、個人情報を横流ししてます!」という自爆になってるね。

 
誰と誰のトラブルかはさておき、批判には本人の許可は要りません。自爆ではありません。迷惑で有害で病識のない楽山に対しては、トラブルの情報を限りなくドンドン書き込んでほしいと思います。詭弁屋で嘘吐きの楽山は、言論の世界にいてはならない人です。
 

★こも/楽山日記3
ちなみに、かつてのブログ村騒動で、もっとも驚いたことの一つが、こういうことに罪悪感を感じてないらしい信者たちが散見されたことでした 顔文字(しかめっつら)

 
楽山は、何を驚いているのでしょう。楽山こそは、無反省、無責任、無神経で、高等感情がなく、罪悪感を少しも感じていない人です。こういう人こそ、決して許してはいけないと思います。精神病質、人格障害、精神の詐欺師、異常人格のペテン師なのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の「そんな風」は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、単方向に気に入らないものを罵倒し、それを丁寧語で、インテリであるかのように、まじめに言っているかのように、見せかけるペテン師の生業(なりわい)に過ぎません。楽山特有の悪と偽善です。だまして悦に入る時が過ぎ去ることを祈ります。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
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