ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

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アドラー教について(6)2

 
  アドラー教について(6)2
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
    2019-05-23 【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
    加筆修正して再録。
 
 
アドラー心理学は、自己中促進カルトだと思います。ゆえに、ブログに書いて、アドラー教と呼んで警戒を呼び掛けています。日本人アホ化計画とも呼んでいます。
 
丁寧語は見せかけで断定や豪語が多いのも、カルトの宣伝に当てはまります。ぴったり当てはまる者がいます。彼は、アドラー教の宣伝者です。やめたようなことを書いていましたが、自己中、無反省、無責任のままです。
 

アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。

 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか。この記事の、数々の暴走気味の発言は。
 

本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。

 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。
 
何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることに、ぴったり結び付いてくるのです。
 

まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。

 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、課題の判定は、そんなに容易くはないと思います。
 

アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」

 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。相手の課題に自分が含まれ、自分の課題に相手が含まれる場合を考えていないようです。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えません。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら無視するしかありません。そこまで、確かめたほうがいいと思います。簡単に決めてはいけないことです。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 

自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。

 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれてくるでしょう。そして、豪語と断定に走るようになります。
 

課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。

 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、お世辞以外、あまり快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を絶対に無視するなと言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オレの何を知ってるっていうの?と、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視してなかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 

「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」

 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返すことは、アドラー教の「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こってきます。
 
そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 

こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。

 
本当に嫌がらせなのかをどうやって確認するのか、厳しいこと言われたら嫌がらせだと短絡するようにならないかどうか、といったことについて、リスク回避の対策がなされていないと思います。
 
もちろん、なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。
 
人の気持ちは、複雑なものがありますから、自分の都合だけで、安易に決めつけてはいけないということです。
 

できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。

 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。
 

絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。

 
相手に分かり合おうとする気持ちが無い、自己愛の強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性パーソナリティ障害の病的ナルシシストや、サイコパス精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、どうしようもないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ぼこぼこに殴るのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に覚えさせる、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人はいる、ということを言いたいだけです。
 

あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。

 
相手を逆上させてしまう、と言っていますが、つまり、相手のことを気にしているわけです。また、意見を言うことは当然であり、介入ではありません。介入するような暇は、ふつう、ないのです。
 
介入と言わなくても、他者を考えないで生きることは不可能でしょう。他者を思いやるとき、他者の課題を考えることもあるわけです。
 
上については、そこまでする人は、よほど奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしていると強迫的に思い込んでいる人でしょうか。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする言動は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
課題の問題ではなく、精神衛生の問題だということを、私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的としています。
 

また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。

 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。つまり、一般的に、背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 

上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。

 
そんな訳ないと、言葉だけで言っても、歯切れよく、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、むしろ、受け取らせる側の責任という課題でしょう。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、無視できるでしょうか。
 
人と人は反応し合って生きています。課題の分離をしてもしなくても、相手によっては、結局、逃げるしかない場合があるでしょう。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。
 

「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。

 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛の強い人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 

自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。

 
ですから、注意点として、個人が、きっぱり、これは、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつも直ぐにできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するでしょう。
 
逆に、いけ好かない人と思われ、自分に、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
  
いちばん気持ちのよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。その先には、無反省で無責任の自己中人間の人格破壊が待っていると思います。蔓延させてはいけないのです。
 
 

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             あおり
 
 
(2019年10月31日)
(2020年11月13日、一部修正再録)
 
 
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