ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の縋りつくもの

 
  楽山の縋りつくもの
 
 ヨブ記についてのツイートを見た
 2021年01月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27656269.html
 
 
楽山は、自分で書けないことを認めているかのように、過激な反キリスト思想の、宗教学者の言を、引用してきました。これこそが、楽山の無理解を表しています。
 
また、こういう記事を書くことに、反論・弁明が一度も成り立たなかった楽山の悲惨な無知と無恥と無視と無反省が表れているのです。これこそ、心で聖書を読むことのできない、つまり、良心を持たない欠陥人格の宿命であります。
 

*まえおき
ヨブ記に関する一連のツイートを見つけたので、ここに感想をメモしておきたい。
これらのツイートは、昨年12月30日あたりから、数日にわたって書かれていて数が多く、そのすべてに感想を書くのは難しいので、特に印象に残ったものについてだけ書くことにする。

 
他者の言葉と、他者の権威に、頼るしかなくなった楽山の、小蝿のような器と、自分と同じだと思ったら、鵜呑みにしてしまう自主性の欠損が表れています。勝手な欲望の思い込みで同じ方向だと思い込んだ人の言論の沼に呑まれて、溺れてゆく楽山です。
 
主体性を持たず、自分ではない名前に縋りついて、信仰をけがしてゆく姿勢は、悪意というものの行き着く末路を暗示しているようです。こちらとしては、どうしようもなく、そういう楽山の悲劇を、この約2年と同じように、記録に残してゆくしかありません。
 

ヨブ記の論理
 まず、ここではヨブ記全体が簡潔にまとめてあって有り難い。

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
1月1日
結局「ヨブ記」が描いているのは、①たとえ絶対神を信仰しても納得がいかない不条理が存在すること、ヨブは②人間らしく理由をぎりぎりまで問うたが、③不条理の事実を受け入れ、④自己の基盤を呪わず、しかし⑤世間の因果応報説の言いがかりには徹底抗戦した、ということです。筋は通っています。
 」
ヨブ記は、冒頭部の神と悪魔のやりとりなど、トンデモに思える場面も無きにしも非ずだが、それでも物語の中の論理としては筋が通っているところは魅力である。トンデモなのに筋が通っているというのは、ひどく矛盾しているようではあるが、それだからこそいい。

 
不条理は存在します。ゆえに、人は宗教を求め信仰によって耐えようとします。自己の基盤が宗教であるなら、神に徹底抗戦など出来ないことを知っているからです。ここにしか筋道はありません。
 
人の不幸と自己正当化について、神への徹底抗戦と言い、筋が通っていると言う人に尻尾を振っている出来の悪い飼い犬のような楽山は、神を、余計なことを言う敵として抗えると考える時点で、既に、キリスト教理解からは、激しく逸脱して地獄の底無し沼に向かっているということです。
 
ずっと今まで嘘と詭弁で人心を惑わせようと陰謀をめぐらし、自我の快楽のために信仰をあざけり、自我の勝ち気分を求めて、他者の言に縋りつく楽山こそ、総ての信仰者にとって、懲らしめるべき敵であり、駆除するべき害虫なのです。
 
まさに、楽山の、仰向けに転んだ虫ほどの理解で、天空と地上を語る傲慢の、醜い姿であります。
 

*キャラ設定?
ここに書いてある「ヨブの強気は必要な演出」とは、つまり、「ヨブの強情はキャラ設定である」ということだろうか。

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
色々ご質問があったので、フォロウしましょう。Q神父が言った《ヨブは神の前に自己主張しすぎた》というコメントについて? Aヨブが単に謙虚だったらそもそも「ヨブ記」が書かれる意味がない。ヨブの強気は必要な演出であり、背景には神観念の歴史的変化がある。そういう力学として読解すべきです。
 」

 
楽山は、批判を全く読んでいないか、読んでも理解できないのでしょう。私は、ヨブは、強情ではないと書きました。だから、信仰の危機を表す登場人物として、神に選ばれました。ゆえに、ヨブは私たち人間であるからこそ、意味があるのです。
 
それを、人間について、何も理解できていない楽山は、マンガのような宗教理解の、実は、無理解の果てに、またしても、いちゃもんを並べることしか出来ていないのです。実に悲惨です。
 

演出といえば、冒頭部で、ヨブは義人であったということが強調されているのも、「義人の苦難」という不条理さを際立たせるための仕掛けなのだろうと思う。
ちなみに、これと似た演出は映画でもよく使われている。たとえば復讐ものでは、こういう展開はよくある。

 
ヨブが義人だというのは、世間的に、当時の宗教世界において、戒めや燔祭などを決められたとおり守っていた、いわゆる善人だったということです。そののち、神の試みによって、自己正当化の罪を犯します。そして、神の介入によって、目覚めることになります。
 
そのことを、自分を含めた人間の罪の性質の問題として受け取れない楽山は、同じような境遇でも自覚したことがあるのか、神に対して、訂正不能の否定を向け続ける因業に支配されています。つまり、際立っているのは、楽山の不条理と悪意だけです。
 

主人公は善人であり、友人知人からも信頼され、妻子とともに幸福に生活している。
ところがある日、主人公が遠出をしているときに、家で留守番をしていた妻子が惨殺されてしまう、何の罪もないのに。
主人公は復讐の鬼となり、犯人一味を追い詰めてゆく。
そういえば、「鬼滅の刃」でも、これと似た構図になっていた。冒頭部で主人公の善良さを強調することで、その後の悲劇の不条理さを際立たせるという手法。

 
分かると思いますが、楽山は、聖書ではなく、「鬼滅の刃」というフィクションの勧善懲悪の物語と同じレベルで、信仰を考えていることが明らかです。実際には絡み合う善悪の要素を、いかに安っぽく考えているかを、楽山自身が表しているのです。つまり、楽山が誰を引用しても、楽山にとっては娯楽であり、真実からは遠く離れているということです。
 
正直言って、楽山は、信仰というテーマで、なんて不条理で、くだらない文章を書いているのだろうと思います。ずっと、そのことについて、根拠といっしょに書いているのに、分からないのです。
 
何の罪もないのであれば、信仰者であったヨブは、神に最後まで従ったはずです。これも書いたのですが、楽山が、いかに人の意見を読まないかが表れています。
 
ヨブが試されたのは、薄い殻のような楽山レベルの従順ではなく、神への信仰なのです。それゆえ、大きなテーマとして、ヨブ記が今も残っているのです。
 

*屁理屈
これは自分にもよく分かるなあ。本当にその通りだ。

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
神学の歴史は破綻の歴史です。素朴に神を信じていたら、神概念に矛盾がたまってきた。そこで神学者が新たな神学をひねくりだす。「ヨブ記」が暗示する因果応報の破綻は、とりあえず「死後・終末後の審判」の発明で回避できます。善人がこの世で不幸になっても来世が幸福なら因果の帳尻があうからです。
 」
宗教教義は破綻と補正の繰り返しだとか、因果応報は人の一生だけでなく、過去世のカルマや来世(死後)の裁きを仮定すれば辻褄を合わせられるというのは、過去に、とある新興宗教を信じていた自分としては、大いに思いあたるものがある。

 
低次元の因果応報の辻褄によってしか宗教も信仰も考えられないのは、まさに、楽山であります。全く理解から遠く、かつ、理解しようともしないで、楽山は、自分の妄想的なマンガ的思想を、他者の言葉を借りて、批判されても答えずに、懲りずに書き続けているのです。
 
信仰は、神の国、即ち、天国を書いても、今を生きるためであり、楽山のようにマンガのような空想に遊ぶためではありません。以下の表現も、楽山は、理解しないし、理解できないでしょう。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書
 
神の国を、超常にこだわって見つけようとしても見つからない。それは信仰者の日常の心に働いているものだという解釈を書いておきます。

  
毎度毎度、楽山の程度の低い話には、うんざりします。ひきつった顔で、マンガのような、あらすじを、唾を飛ばしながら、わめいてくるのですから。
 
楽山は、大昔に超常奇跡が、事実としてあったか無かったかに拘泥します。そのことが、既に、楽山の考える信仰が奇跡信仰・超常信仰に過ぎないことを表しています。大事なことは、超常ではなく、人間が生きている日常にあり、人間の心に起こっているのです。
 
ゆえに、大事なことは、聖書が、そう書かれるしかなかったことで、何を伝えようとしているかであります。それを受け取れば、奇跡がどうのということは、終末まで保留できることです。その一番大事なことを受け取っていないという証拠を、楽山は、自ら証明してゆくだけなのです。
 


中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
終末思想があれば、宗教の因果応報思想の破綻はいちおう回避できます。しかしそういうアンチョクな方向で満足できない人は、因果応報の問題点にこだわり続けるでしょう。「ヨブ記」自体は、「神は人間の推理を超えた存在だ」というオチで逃げ切っていますが、それで解決ついたことになるのやら?
 」
どうにも解決不能な問題については「神は人間の推理を超えた存在だ」とすればけりをつけることができるというのも分かる。自分は宗教を信じていたころも、退会後も、相変わらずこの論法を濫用しているので。

 
引用された宗教学者が、キリスト教を正当に論ずるのならば、必ず、安直でない話になるはずですが、そういう人ではないようです。アンチョク、オチ、という書き方に表れています。
 
人知を超えた神という言葉は、人が、神に比べて劣っており不完全であるという身の程を弁えるために存在します。人知を超えているところに、人知は及ばないことを知り、神に比べて不完全であることから罪の性質を持つことを知るためであります。
 
カルトは、まず、神を知りたがります。楽山も、同類であり、さらに病質者なので、神を知ったという傲慢があり、宗教も信仰も、全く正当に理解できないのです。宗教的な総てを駄目にしてゆく作業を続けているに過ぎません。
 
それにしても、楽山は、ヨブが救われたことを書きません。あざといやり方です。自分に都合のよいところだけ書いて、主張して、あとは不感不応なのです。ずっと、そうです。人間として、欠陥だらけの楽山です。どうか、楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 

*因果応報の限界
「神と悪魔のイタズラ」「お伽噺的設定」とは、すごい表現だが、話の内容については、その通りだと思える。

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
そもそもは神と悪魔のイタズラなのですから、ヨブのほうが正しいわけです。善因善果・悪因悪果の因果応報を信じている友人たちのほうが間違っている。「ヨブ記」に哲学的側面があるとすれば、この「因果応報説が成り立たないこともある」というお伽噺的設定がそれです。人間の推理が及ばないこともある
 」
神が悪魔の挑発にのせられてヨブを苦しめることをよしとする場面は、あまりの不条理さに呆れてしまうのではあるが、「因果応報説が成り立たないこともある」というテーマを強調するための舞台設定としては合点が行く。ヨブの苦しみが不条理であればあるほど、このテーマは際立つだろうから。
こういう見方はヨブ記を神聖視する熱心な信仰者からは反感を買いそうではあるが、これはつまりヨブ記の作者は、宗教家、思想家としてはもちろん、物語作家としても素晴らしかったということなのだろうと思う。
以上、一連のツイートにはこの他にも興味深い論点が語られているのだが、とりあえず本記事ではここで一区切りとしたい。 

 
神よりも、人のほうが正しいと言っている、この宗教学者は、キリスト教も信仰も理解できていないことの証拠を表しています。それを肯定的に引用している楽山は、とっくに同類の反キリストです。
 
神の意志と行為を、自分で決めつけて信じるのは、自分信仰です。また、神の意志と行為を、自分で決めつけて、おかしいと否定するのも、自分信仰です。信仰者は、ただ、神の導きにしか寄る辺がなくて、疑問を抱えながらも、キリストゆえに、神を仰ぐ人々です。
 
不条理な苦しみや悲しみは、この現実の中に、いっぱいあるでしょう。楽山は、不条理が赦せないようだが、神が不条理を試練として与えるのも許せないようです。
 
楽山が信じてもいい神は、楽山の都合に合わせて恵みだけを与える神のようです。そのような神は、どこにもいません。当たり前のことですが、楽山の信じることの仲間には、誰もなれません。だから、楽山は、吹き込んで、だまそうとしてきます。
 
そういう身勝手で自己中の楽山が、病質者ゆえか、救われそうにないものだから、自らの不幸を神のせいにして、反キリストの獣になっているのでしょう。
 
そして、いくら私が批判記事を書いても、批判が山のように積まれてきても、答えず、弁明しないまま、楽山が山のように記事を重ねるのは、やはり、病的な感受性の欠如による不感不応があるからでしょう。
 
シャロームの批判記事は約10年分、楽山に対しては約2年分、蓄積されて、偽善者についての資料になっているのですが、なおも、批判記事を書くことになっています。
 
楽山は、現実検討能力がなくなっているのかもしれません。その辺、現実より、超常とホラーが好きということと関連しているのでしょうか。読者をだませると思っているのでしょうか。常識では考えられないことです。
 
健康なブロガーは、反論はするでしょうが、和解も図りますし、そういうことなしに、長く書き続けて、それによって、長く批判されるということはないでしょう。和解も、もはや、不可能ですし、これほど、楽山には、解決する意志がなく、自己絶対に凝り固まっているという証拠でしょう。
 
楽山は、また、書くのでしょう。そういう、人を困らせるだけ、というのが宿命だからでしょう。私は、楽山の記事に反応して、必然をもって、批判記事を書くだけです。まあ、こちらとしては、何を書こうかと考える手間が省けているということです。
 
楽山については、無反省、無責任、無理解、嘘、詭弁、等々、何も変わっていません。まともな記事は、一つもないです。人間的な温もりも潤いも持たず、狡猾さだけで生きてきたような人です。
 
楽山は、反キリストの自己中であり、その異常なパーソナリティによって訂正不能となって、次から次に、自らの不治を表し続けています。決して近づかないでください。
 
 
楽山が神を否定するのは、2次元の蟻が、2次元の神?を想定して、けなしているようなものです。蟻は、3次元の存在を想定できません。つまり、自分より高次元を、自分より高次の存在を考えることができないために、存在しないと言っているわけです。
 
楽山は、自分と同じ存在様式のものしか考えることができません。ゆえに、極めて、気楽に、安易に、神を規定してしまって、それ以上の、真実の神に思いを馳せることができないのです。
 
こういうことは、知性と感性の貧困から起こってきます。その貧困を来たらせるのは、過剰な自己愛であり、その自己愛が、自己中という低次元に、人を縛るために起こります。俗に、視野が狭いとか、想像力の貧困とか言われることです。
 
そういう者に限って、自意識だけが高く、思い上がり、自分は、学者レベルのインテリだという気取りによって、他者の上に立とうとしますが、能力の貧困は、誰の目にも明らかとなり、誰にも相手にされないために、ついには、怨念だけで、陰謀をめぐらして、見かけだけを装うことで、自己満足することになります。
 
前にも書きましたが、
聖書の言う心貧しいとは、余計な先入観がないこと。新しいものを受け入れる器であります。
精神が貧困だというのは、余計な先入観しか持たないことです。新しいものを、新しいと気づかず、古くて不快なものと見なして捨ててしまって、高次元に立ったつもりになります。
 
楽山は、自分を、人間を、超えようと勘違いして、宗教と信仰を、マンガ・アニメ・ホラー映画のようにしか受け取っておらず、超常現象の固まりであるかのように霊?を信じる信じないとかでしか考えていないような見なし方をしています。
 
いちばん大事で、いちばん必要な人間理解が、まるで成り立っていないために、理解が子供じみて浅くなって、堕ちた自らに気づかず、無理な背伸びをしているのです。
 
だから、卑しい者の常道として、言葉面が自分に似ている意見とその名前に縋りつくしかなくなって、慌てふためくように、自己満足するためのあがきのように、手段を選ばず、吟味も出来ず、本を、実はゴミ箱であっても、漁って、こともあろうに、わざわざ臭いものを拾ってきて、こんなに分かっていると自慢するしかなくなっています。
 
楽山には、自他の産物である腐ったゴミが、とても美味しい匂いと味として感じられるのでしょう。それを、あたかも、まともな言論の糧であるかのように、学者気取りで言われるのは、非常に迷惑です。当然、それは、腐ったゴミ以外の何ものでもないのです。小さいものをバカにしてきたゆえに起こるところの、思想の味覚障害です。
 
 

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           すがりつく者
 
 
(2021年01月13日、同日一部修正加筆)
 
 
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