知らないこと(改)2
知らないこと(改)2
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らない自分を弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために否定できなくなった人が、信仰者となります。
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、祈る日々に、何かを学んでゆくことが、その人なりの人生と信仰の成長であります。
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではないので、人間において完成することはありませんが、生きる "道" となっています。
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま地上で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に生き、いつの日か、帰るのです。
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。神秘体験は、人間としての感動体験に他ならない。
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」・・信仰の義と神の義の混同。
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」・・自己正当化・無罪化は反信仰。
「教えを守って完全になれる」・・パリサイ人と同じ完全欲の偽信仰。
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖となり、王となり、あるいは、使徒となった人々です。
(マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:28、新約聖書)
↓
(マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
新共同訳は嫌いです。女 → 他人の妻、という書き換えは、キリストの教えを、守りやすい道徳に変質させる邪悪な意図を感じます。信仰は、道徳ではありません。キリストが、守れないことを承知で言っていることを忘れてはなりません。
それに、「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
ゆえに、罪なき人は、一人もいない。だから、正直な悔い改めの祈りが必要なのです。
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
守れる、完全になれる、という方向性に走っては、前に、完全欲のカルトが、勝ち誇ったかのように喜んでいました。これは、神への冒涜であり、背教です。
完全なのは、ただ神お一方のみです。
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間らしい感動ではなく、人間を人間として成長させることはないからだ。
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストの愛と共感を忘れられず、キリストから離れられないのである。
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、教理的な概念以外、何も表したことにはならないからである。
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。教条は心の面倒を見ない・・ということの表れた弊害である。
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴という希望によって、アガペーを既に受けている。
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけません。
これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのです。
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、かつ、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
(2019年06月04日、同日一部修正)
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
(2021年06月08日、再録+)
知らないということを知るべきなのに
無能の面
計算される数式の値として作表される
片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい
脆い仮面であるのかもしれない
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
紐で括るか
内側で噛みつくか
今は今
記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない
(90年代か)
楽山の記事
救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
2021年06月04日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/29349642.html
に対する批判について補足。
恵みの体験について、楽山は、
「この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。」
と言っていました。
神からの恵みの感覚は、「多少の」で修飾できるものではありません。原体験としての宗教体験であり、信仰の原初となる有無の体験です。だから、楽山は、謙虚のつもりで書いて、結果、大嘘を吐いていることがバレるわけです。分かるのではなく、分かったようなふりをすることの崩れ方です。
楽山が「多少の経験はある」と書いているのは、楽山のホラー超常気分の空想で、何やら神秘的な気持ちになったことを言っているに過ぎないと思います。それは、気分次第の一時的なもので、宗教的な恵みの体験ではありません。その証拠に、楽山は、変わらず、今も、反キリストです。
楽山は、何でも、経験している、分かっている、自分の視野に納まる、という立場で書いて、受け入れの器を演じているのです。しかし、その自己顕示と不正直によって、楽山は、さらなる不祥事を加え、こともあろうに、それを自慢する結果となっている醜いピエロなのです。
分かってるふうを装い、知識人を装い、他者を言いくるめようとする楽山の企みは、このように、言葉の端々に、破綻が表れ、そのみすぼらしい安っぽさが、あらわになります。命果てるまで、嘘を吐き続け、一生が虚偽になり、共感せず、共感されないペテン師、楽山の因業が表れています。
神からの恵みは、楽山の言うような超常体験でも神秘体験でもありません。「多少」あるとか無いとかではありません。神秘は、神の秘密であり、人が知ることは出来ません。
神からの恵みは、人間としての感動体験です。支えを失った者が、支えを与えられる、という、絶対孤独からの解放とでも言うべき体験なのです。
(2021年06月08日)
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
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