ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルト予備群2

 
  カルト予備群2
  
   去年の記事を現時点に合わせて加筆修正しています。
 
 
シャロームshalomは、現在、所在不明ですが、
キリスト者そして元牧師と称しながら
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい
と言っていた人です。
これはキリスト信仰とは真逆の信条であります。
つまり反キリストであり、個人カルト教祖です。
受け入れられて広まれば
権威という実行力を持つ社会悪となる危険があるということです。
 
楽山は、元HS信者と言い
HSを批判しているらしいが
キリスト教を否定する記事を書いています。
しかし一方で
あたかもキリスト者であるかのような
芝居がかった記事を書いたりもします。
 
つまり楽山は
一定の一貫した主張の方向を持たず
その時その時の思いつきだけで茶化しているだけであり
持ち前の何の糧にもならないような
ああでもないこうでもないと言うだけの
私が名付けた "ボンヤリ言語" とともに
また言葉面だけで
文脈もブログ記事の流れも何も変わっていないところの
見せかけだけの嘘の反省言葉や謙虚芝居などの
私が "トホホ言語" と名付けている白々しい言い方を合わせて、
訪れる人を油断させてを望ましくない方向に誘導する
という自らの悪意の自己顕示欲を満たそうとします。
 
楽山は恐らく
宗教など何も信じてはいないと思います。
 
楽山は
上にあげたシャロームの信条を無条件に味方するのだから
キリスト教について何も知らないばかりか
恐らく信条など持っていない。
楽山は
神がいるならなぜ悲劇が起こるのかなどと
神が自分の都合に合っていないことをもって
キリスト教の神を否定しています。
楽山は
恐らく若い時に抱いた疑問が今も疑問であり続けて
進歩も学習する姿勢もないのでしょう。
 
神がいるならなぜ悲劇が起こるのか
私は知りませんし、そのような問題の解決が
宗教や信仰にあるとも思いません。
しかし実際に
悲劇が起こる地上であるからこそ
折々の癒しと生きる力が必要であり
キリスト者は信仰を求めるのです。
楽山の理路は逆であり
信仰の理路も共感も持っていないということです。
 
つまり
何ごとも克服できないまま
名のある言論者の記事を恣意的に引用して
キリスト教に文句だけを言い
何の解決にも勇気にも結び付かない否定を書いて
ただ自らを言論者として高めようとするだけです。
それは名のある看板を悪用する醜い因業でしかないのです。
 
楽山の言うことを
キリスト教とキリスト信仰だと思われてはたまらない
という動機で、批判を書き続けています。
 
楽山やシャロームのような者は
自尊はあるが謙遜のない者として
誰とも共感できず共有も成立しないために
うわべの言葉だけ丁寧で謙遜を装い柔和な評論家に見せかけているが、
その狭小で偏向した思想の中身は一方的で訂正不能である分だけ
真剣な言論者に対しても真面目な求道者に対しても
糧を与える代わりに精神の疲労を与え
無駄な時間を費やさせる悪意の病原と言えるでしょう。
 
シャローム
その信条の固着から
うわべの丁寧語と聖書語とは裏腹に
恐ろしい敵意と怨念とを表してきました。例えば
「stさんの信頼を失っても、わたしに失うものは全くありません」と自尊と優位を誇り、
「邪推と妄想はstさんの専売特許」と、根拠のない決めつけを語り、
「stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか」と、嫌らしい丁寧語の当てつけで、お仲間という数を頼んでの皮肉を言うなど、正常な理路を失って、むしろ、相手に打撃を与えようという悪意の意図だけがあからさまになります。
しかし、カルト信条のシャロームの仲間の数が多いなら、それは、そのまま、社会の脅威なのです。
 
そういうことで、シャロームの本音を読み解いてきて、
シャロームは、人間にとって大切な多くを失いながら気づかず、
理路も共感も皆無であると判断するに至っています。
 
楽山は
つい先日2つの
だらだらと長いだけの記事によって
悪口の機関銃となることを自ら証明しました。
それは批判などとは程遠い嘘と決めつけと我執が見え見えの
とても醜い記事でした。
 
楽山は
そのアドラー教と呼んでいる信条
すなわち
気に入らないことは総て無視して
自分の軸だけで散発的に反応して満悦している自己中であり
自己愛性パーソナリティ障害と考えれば
理路の幼稚さや共感の欠如や罪悪感のないことが説明できるでしょう。
 
この二人のそれぞれの
反キリストとアドラー教において
その主張の方向性は酷似していて
実際に仲間として動いていることから
同一成りすましの疑惑も続いています。
そうでなくても濃密な仲間であろうと思われます。
 
二人に共通しているのは、自尊過大、無反省、無根拠、無責任、理路の欠落、詭弁による誘導、嘘吐き、共感性の欠如、訂正不能学習障害、自己中心、根拠のない確信、うわべだけ優しさを装う世辞と丁寧語による偽善、ときに漏らす本音の憎まれ口、他罰的、認識の未熟、異常の自覚がない、罪悪感の欠如、思想家気取り、高等感情の鈍化、等々があります。
 
総じて、謙遜の言葉は使うが、わざとらしく、白々しく、実際には、謙遜・謙虚・敬虔の欠片もないことが文章と文脈を検討することによって明らかであります。
 
 
信仰は、思いこみではないと書いたように、根拠のない確信を打ち砕く方向に力を持っています。全知全能の存在を恐れるゆえに、思い込みの先入観への我執や誤った確信を戒める心と姿勢を、敬虔と呼びます。言い換えると、神の前で、自分は高いとか、大きいとか、分かってるとか、知っているとかは、言えなくなるということです。
 
もちろん、逆方向の誤りに行ってしまう場合もあり、日々の祈りにおいて、告白し、反省しなくてはいけません。信仰は、そのために与えられ、そのことが、信仰者としての成長を可能にします。
 
神様からの恵みだからと、人間として為すべきことのうち自分で出来ることも怠って、神に任せます、と言うなら、それは、シャロームと楽山の怠慢の迷路に似てくることを肝に銘じたいと思います。
 
 
私たちは、自由意志を持っています。神が、人間に、それを望まれたからです。
 
私たちは、自由意志で、信仰告白をしてキリスト信仰の世界に入り、キリスト者になるのです。
 
ゆえに、人間が、神からの賜物である自由意志を軽視しては、信仰は成り立たないのです。
 
折に触れて、神が、自分に何を期待しておられるのだろうと考えながら生きることになります。でも、答えが、いつもはっきり分かるとは限らないので、決めつけてはいけません。分からないときには、祈り、赦しと癒しと導きを祈り願います。そこから始まったのだから、そこで終わるのが、キリスト者の生き方です。
 
祈るしかない、という時が、折々にあります。
 
 

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            忘れてはいけないこと
 
 
(2019年10月21日)
(2020年10月24日、加筆修正して再録)
 
 
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