ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無恥なる天狗

 
  無恥なる天狗
 
 自分の判断力を過信しないということ 
 (モンテーニュ『随想録』)
 2014年03月15日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512384.html
 
 
(ネットより)
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne [miʃɛl ekɛm də mɔ̃tɛɲ], 1533年2月28日 - 1592年9月13日[1])は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者[2]。モラリスト懐疑論者、人文主義者。
、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。17世紀のデカルトパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。

ミシェル・ド・モンテーニュ - Wikipedia


 

どんな人足でも、無知な女でも、自分相応に分別をもっていると考えなかった者は一人もいない。われわれは容易に他人のうちに、勇気、体力、経験、敏捷、美貌などの優越性をみとめる。けれども、判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない。
(『世界の大思想7 モンテーニュ 随想録(エセ―)下』松浪新三郎訳、河出書房新社、昭和48年、p.211)

 
楽山は、「自分相応に分別を」持っていません。自分不相応の高慢を持っています。その表れが、無反省に書いてきて、人の言うことを聞かず、一切、責任を負わないことなどです。この性質が、自己愛性パーソナリティ障害NPDであり、実質無き思い上がりの惨劇となっています。
 
「判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない」・・言論の達人ならば、発言ごとに、逐一、根拠を述べることが出来るでしょう。楽山は、一度も、そして、ひと言も、根拠を示すことなどできなかったのです。
 

これには首肯しないわけにはいかない
自分は、まったく、ここで指摘されている通りの人間である

 
楽山は、全く、上に指摘された人間ではなく、そこから、ほど遠い未熟と怠慢の典型例です。
 

自分なりに、謙虚さは大事だと承知しているつもりだし
過去に判断をまちがったことも何度もあるというのに
それでも
「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」
という自惚れを捨て去ることはできないのだから
我ながら懲りないやつだなあと思う

 
楽山には、丁寧語でごまかすだけで、謙虚さの欠片もありません。「「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」という自惚れ」という自覚があるなら、訂正・修正もするし、懲りるはずなのです。楽山自体が、既に、節穴なのです。
 

自分の判断力を妄信することなく
物事を冷静に見極めるというのは
本当に難しい。

 
妄信をやめることが難しいなら、言論しないことです。冷静に見極めるなど、できるはずもないからです。その無自覚の結果として、楽山が書くたびに、冷静も真理も真実も裏切って、ゆがみと偏見と詭弁と嘘の醜態が、あらわになってきたのです。
 
 
 
 思いと言葉
 楽山日記(LD) 2014年03月15日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512385.html
 
 

古い壁画のなかには
外気に触れると
急速に劣化して
ダメになってしまうものもあるという
秘めた思いも
これと似たところがあって
言葉に出した途端
ダメになってしまうものもあるかもしれない。

 
楽山においては、秘めた思いが、偽りと不合理に満ちて、腐っており、表した言葉が、嘘と詭弁に満ちて欺いていると思います。秘めた思いなどは、つまるところ、楽山においては、隠し事に過ぎず、最初からダメであり、言葉を公開すれば、このように醜悪になります。
 
 
 
 昼と夜
 2014年03月16日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512387.html
 
 
昼と夜ではなく、表と裏の顔を持つ楽山です。柔和芝居、同情芝居、謙虚芝居、など、数えきれない三文芝居で、大根役者の楽山が、何か書けば、必ず、恣意の、作為の、詭弁と嘘が、着いてくるからです。まさに、虚偽は、楽山の衣服であり毛皮であり毛嚢なのです。
 

電車の窓は
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつります
自分の心も
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつるようです

 
知恵の足らない者ほど、ちょっとしたことに、無駄な意味づけをするものだと、詩か何かの本に書いてあったのを思い出します。楽山は、外界も、自分の姿も中身も、ほとんど見えてないことが、今まで楽山が書いてきたことに表れてきたのです。
 
洞察は皆無、共感も皆無の楽山です。楽山が、映ったというも思い込みを、外に反射させないでください、人に見せないでください。それは、とてつもなく有害です。
 

自然はうまいことできているもんです

 
楽山は、うつる自分の姿が、自然だと言うのでしょうか。楽山こそ、邪悪さのために不自然な世迷言を書いてきた人です。ですから、ここも、その一つなのです。何やら、哲学者の達観や警句であるかのように書いて、実際には、汚れた自分の尻を吹いているだけの楽山です。
 
 
 
 楽山日記(LD)
 2014年03月16日
 天の倉に富を積むことの是非
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512388.html
 
 
楽山の悪意は、底を知らず、天を知らず、地を知らず、無節操に、言葉を乱用して、他者の心を壊してゆくのです。宝や倉の代わりに、楽山の地底の牢獄の罪状が積まれるだけなのです。
 

他所で
天の倉に富を積むことについての
いろいろな意見を読みました
たしかに
天の倉に富を積むことを意識しすぎるのは
よくないかもしれません

 
よくないのではなく、意識しにくいということです。何故なら、天を知らないからです。ゆえに、天に宝を積むとは、地上の富を求めてばかりいる災いと不幸を明らかにするために語られているのです。地上の富は、大方、欲望によるものだからです。
 
そんなことも分からずに、底意地が悪く、かつ、理路も情感も弁えない楽山は、「天」を、詭弁の具材として悪用しているのです。そうして、楽山は、だまして使う従者、即ち自らの奴隷の数を積みたいのでしょう。楽山は、地上の最も悪質な狩人の部類であります。
 

トンデモ解釈ですし、嫌味な見方ですけど
天の倉のことばかり気にしている人を見ると
金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいという教えは
地上の富に執着する人ばかりでなく
天の蔵に執着する人についても言っているのかもしれない
という気がしてきます

 
「天の蔵に執着する」という言葉を机上でいじくる詭弁です。誰が、それを明確に意識できるというのでしょう。地上の富だけでなく、楽山のような甘言による詐欺的説教に頷くことも含めて、この世の偽りの富や慢心よりは、もっと求めるべきことがあるだろうという意味に受け取っています。
 
トンデモ解釈は、詭弁屋の楽山の持ち物です。そして、書くたびに唾のように撒き散らすのです。それが、いかに汚いかを、暴いてゆく必要があるゆえに、楽山批判は続いています。天の蔵に執着するのではなく、楽山のように、有頂天自己愛執着にならないことが何より大切です。
 
 
 
 真実か? 幸福か?
 2014年03月19 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512389.html
 
 
得意気に、デタラメな言葉を、次から次へと並べて、あげつらって、詭弁を吐く嘘吐きの楽山です。だまされないように願います。
 

真実と幸福とは、必ずしも両立できるとはかぎりません。
幸福のためには、真実を知らない方がいいときもあります。
真実を知りたいなら、幸福をあきらめなければならないときもあります。
真実と幸福、どちらも同時に手に入れられたら、それはとても運がいいことだと思います。

 
真実を知ることの幸福を考える、ということを出来ない楽山です。だまされて幸福になることを想定してしまう楽山です。まさに、真実を知らせず、幸福っぽい丁寧語を吐いて、だまそうとしている楽山だからでしょう。
 
実に、質(たち)の悪いペテン師、楽山の、吐き気のするような詭弁です。真実も幸福も、運ではありません。人間が真摯に求めるものです。真摯、誠実、良心、などのない怠慢な楽山には、縁のないのが、真実と幸福です。
 
 
 
 2014年03月19日 楽山日記(LD)
 無神論は信仰か
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512390.html
 
 
身の毛がよだつ詭弁屋の楽山です。
 

無神論は神はいないという信仰にすぎないという意見があります。これには一理あるかもしれません。けれども、わたしは、これとは違う考え方をしています。無神論は“ほぼ”現実であり、そんな現実を直視した上でもなお神を信じるのが信仰ではないかと思うのです。

 
神はいないということを現実だという前提で語ることについて無反省かつ無責任な楽山です。人間の日常ではなく超常については、生きる縁(よすが)になるかどうかだけが問題です。楽山の、無神論が現実を前提として神を信じるなんておかしい、ということを材料にする悪質な誘導です。
 

つまり無神論は現実にすぎず、信仰はその現実(無神論)を超えるものではないかという考え方です。わたしはこんな考え方なので、神を信じることも、信じないことも同じ信仰だとして両者をならべることは、信仰をこの世の現実(無神論)のレベルまで引きずり落とす行為のように感じられます。

 
信仰が現実と無神論を超えるもの・・なんて、楽山は毛ほども考えていません。神はいないのが現実じゃから、信じるほうがおかしいじゃろ・・という方向への誘導です。信仰を引きずり落としているのは、楽山であります。
 
神について、信じることと信じないことを、並列できないのは、信じることには祈りなど言動と務めが伴い、信じないことには楽山のような怠慢が蔓延りやすい、という違いがあるからです。嫌らしい詭弁を使って、信仰を貶めようとしてくる反キリストの楽山を決して相手にしてはいけません。
 
 
 
 いろいろな神様
 2014年03月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512392.html
 
 
神様は、楽山の未熟が語るような「いろいろ」ではありません。
 

この世界を創造し
人々を見守り
祈りを聞いたり
時には奇跡を起こすこともある
慈悲深い神様

 
これは誘導としての世辞です。
 

この世界を創造したあとは
人々を見守ることも
祈りを聞き届けることも
奇跡を起こすこともなく
何の干渉もしない神様

 
何の干渉もしないか、しなかったか、これは、人間には分かりません。楽山の視野に、洞察力がないために起こる先入観であり、神否定のための砂を蒔いているのです。このように、楽山は、いつも、全能の神を、俯瞰するような態度で見下しています。そこには、一片の洞察もありえないのです。
 

この世界の秩序のもととなるものであって
霊界法則などの超自然的なものではない
物理的な法則としての神様

 
楽山には、前から言っているように、心がありません。ゆえに、神についても、人についても、心についても、物理法則などと言ってしまいます。「霊界法則などの超自然」・・こういうものだけを、楽山は、神と呼んでいるために、宗教も信仰も、人間離れしてゆくのです。
 

正直な感想を言えば
一つ目の神様には
どうしてこの世の悲劇を放っておくのだろう
と疑問に思わないではいられませんし
二つ目の神様には
さみしいような、物足らないような心地がします
三つ目の神様は
その存在にこれといって疑問はありません

 
神を仮定したうえで、楽山は、バーゲンのように、自分の好みと必要に合うかどうかを考えています。楽山は世界のことなど考えていませんから、結局、実際には、どうして自分の悲劇を放っておくのか、という疑問~怒り~怨念だけがあります。自己愛性人格障害の特徴と言えるでしょう。
 
楽山が、捏造する神には、何の真実味もありません。全部、楽山自身だからです。慈悲深いという嘘、鑑賞しないという嘘、それは、摂理も理路もない楽山なのです。詭弁を書いて、詭弁の神を否定して、自分がいかに偉いかを語るピエロ、それが、楽山です。
 
 

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               曇天境地
 
 
(2021年10月06日)
 
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
 
切られたものが見当たらない
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
 
目の上にピッ
何かが撥ねた水滴
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
 
  狂気の椅子
 
狂気は病院にではなく
病人にでもなく
ありふれた口や顔が
集まり離れるところ
いつも何気なく
さりげなく
何事もないかのように
様々に色を変えて働く
 
個がなくなるとき
同時に声を変色させ
同じ色に眼を曇らせ
手を上げ押し寄せ
叩き痙攣する
 
個が過剰になるとき
刃物を探り
爆発の炎に燃え
殺意の来客を迎え入れて
白昼から密談する
 
ここに狂気がある
同じように正気がある
一皮むけると切符を握り締めて
どちらかが口になり顔になるのだ
 
危うげに揺れる明け暮れに
虹色と土色の暇(いとま)を転がしている
誰もが一度ならず腰を触れ
誰も見えない椅子の上
 
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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