ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の寄生

 
  楽山の寄生
 
 内村鑑三と進化論
 楽山日記(LD)2021年01月19日
 http://mn266z.blog.jp/archives/27751312.html
 
 
言っても何の解決にもならないことを、楽山は、言い続けています。こういう人に、キリスト教と信仰を言われるのは、名刀だと言って実は鈍(なまくら)刀を自慢げに見せられるようなものなのです。
 
内村鑑三は、宗教伝道者であり、科学者ではありませんから、つまり、進化論についての宗教人の立場がテーマになるわけですが、そういう問題を、キリスト教も信仰も理解していない反キリストの楽山に、何を言う資格もないと思います。
 
当たり前でない楽山だから、そういうことをしていいと思うのでしょう。楽山は、また、有名人をネタにキリスト教を揶揄~否定したいのでしょう。
 
信仰者でもない者は、信仰の幸いを知らないのだから、否定でも肯定でも、信仰を語る資格はありません。楽山のような自己顕示欲だけの者は、遠慮がない分、なおさら、災いでしかないのです。
 

*メモ
岩波書店の『内村鑑三選集〈5〉自然と人生』を読んでいたら、進化論について触れた文章があったので、ここに抜き出して簡単な感想をメモしておきたい。
*神の意思と生物の進化

天然に在りて天然以上の或者が顕はれつゝあるのである、天然は自から進化しつゝあるのではない、神が天然を通して御自身を顕はし給ひつつあるのである
(「進化と自顕」内村鑑三著)
 」
天然とは自然のことであろうか。
どうやら内村鑑三は、生物は進化するとしつつも、その背後には神の意思があると考えているようだ。

 
その神の意志を、つぶさにモニターすることは、人間には出来ません。楽山は、神の意志に逆らいたいようだが、実際は、楽山は、楽山がでっち上げ思い込んでいる神?の意志、つまり、我執から、神を見ているので、内村鑑三の意志さえ受け取ることは出来ないのです。楽山の言う神の意志は、紙の石です。
 
どこにも行けず、誰にも説得力のない、命のない作りごとの立場から、内村鑑三を見ているので、何も受け取ることは出来ないのに、またしても、評論家気取りで、有名人と肩を並べている自分を見せたいようです。
 
偉いですね・・とでも、言ってあげると、鼻汁噴き出しながら、オギャーとでも笑うのでしょうか。そういう自分を、みじめだと感じて、恥ずかしがって控える、という性質が、無反省・無責任の楽山には無いのです。ゆえに、病質者としか思えないわけです。
 
ふつう、非信仰者には、キリスト教について語ることに遠慮があって不思議はないのですが、反キリストの楽山には、それがありません。神への、そして、キリスト教への怨念から、今までもそうでしたが、否定するために、故人であることをよいことに、今回も、伝道者を餌食にしようとしています。
 

*目的

余は神の存在を認めざる進化論を信じない、もちろん斯かる者を信じない、然れども進化の在る事は確である、進化は在る計画の漸次的発展である 〈省略〉 余は真理の種を地に投じ、永久に其成長を待つ、而して是も亦何時かは進化し即ち発展して麗はしき花と美味き果と成りて現はるゝ事を信じて疑はないのである、実に然り、余も亦進化論者の一人である。
(「進化論」内村鑑三著)
 」
ここでも生物の進化は事実であるとしつつ、その背後には神の意思、計画があるとしている。さらには「麗はしき花と美味き果」という目的があるとも。

 
内村鑑三は、自分もまた進化論者とまで言うのは、科学者ではないのだから、言い過ぎの感はありますが、進化論は信仰を否定しない、信仰は進化論を否定しない、という懐の広さを表しています。あとは、讃美の言葉です。
 
科学と信仰は、平行線です。求めるものが違うので、交わることはないのです。お互いを侵さないようにすることが大切でしょう。
 
楽山は、反論していないようですが、内村が進化論を認めたことを、何かの足掛かりにしたいのかもしれません。素直に見せかけた文章を書く楽山に、素直さはありません。
 

*信仰者

生物は皆塵より出て塵に帰る。如何にして生命が塵を摂て現はれし乎、其順序方法を究むるのが生物学である。進化論は造化説明の一に過ぎない。而して進化の原因と目的とに就て教ふる基督教は其説明如何に由て動かない。進化論は今日の所、其大体に於て真理であるやうに思はれる。然し乍ら基督教は進化論に依るも依らざるも真理である。
(「進化論と基督教」内村鑑三著)
 」
生物学は「どのように」という問いに答えようとし、キリスト教は「なぜ」「なんのために」という問いに答えるものだということだろうか。
こういう考え方からは、内村鑑三は信仰者だということを強く感じさせられる。

 
自然科学一般に言えることです。昔、物理の先生が、授業のはじめに、物理学は、なぜ起こるかではなく、どのように起こるかを追求する学問ですと言ったのを思い出します。これは、一般的な真理なのですが、楽山は、内村鑑三が、生物学の話をしたら、信仰者だと強く感じるのだそうです。楽山が、宗教と信仰を理解せず、軽く扱っていることが、こういうところにも表れています。
 
宗教と信仰は、人間が生きるために必要なものだから、科学を包含する必要はないのです。そういうことは、神に任せればよいことです。
 
ただ、嘘と詭弁で、良からぬ先入観を与える欠損人格の楽山は、決して、包含してはいけない存在です。科学の知識もなければ、信仰理解もなく、他人の言葉を悪用して、自己満悦を求めているだけの楽山は、真っ向から真実に反しています。
 

ダーウィン

進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論と是れである。無神的進化論は天地は其れ自身にて、より大なる能力と智慧の指導なくして、無限に進化すると云ふのである。之に対して有神的進化論は云ふ、天然に其れ自身を発達するの能力はない。天然自体が自働体でなくして受働体である。進化は神が万物を造り給ふ途であると。そしてダーウイン自身が無神的進化論者でなくして有神的進化論者であった。
(「二種の進化論」内村鑑三著)
 」
内村鑑三はこの後、ダーウィンは有神的進化論者であるとする根拠を並べているのではあるが、ここは疑問に思う。もしダーウィン内村鑑三の言う通りの考え方をしていたのであれば、ダーウィンとウォレスとを対立的な立ち位置におく見方が生れようもなかったのではなかろうか。もっとも自分はダーウィンのことについては詳しくないので、はっきりしたことは言えないのではあるが。

 
引用において、ダーウィンは、神を、天然と同一視していることになります。この時点で、宗教と信仰からは離れるのです。自然科学は、人間が生きるということを語るのがテーマでも目的でもないからです。そこを混同しているところに、楽山のような詭弁屋が付け入ってくるのです。
 
楽山は、ダーウィンを詳しく知らないと言いながら、ウォレスとの対立というようなことを、好き勝手に言っているわけですが、これが当たりでも外れでも、楽山の高慢な、神学・科学両方の、学者気取りだけは、顕著に、いつも表れてきたのです。謙虚芝居を随所に挟んで、なおも、楽山は、自己満悦を求めて、他者を惑わし続けるでしょう。
 

*疑問
生物の進化の背後には、神の意思と計画があったと仮定した場合、疑問に思うことがある。それは寄生バチのような惨い生物が存するのにはどのような意味があるのだろうかということである。
生物は神とは関係なしに生まれ進化してきたとすれば、どんなに惨い生態を持った生物がいようがおかしくはないが、生物は神の意思と計画によって生まれ進化してきたとすると上のような疑問を持たないではいられないのだ。「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」と。
内村鑑三はこの辺りの問題はどのように解決したのだろうか。ひきつづきその著作を調べてみたいと思う。

 
悪意に相応しい、いちゃもんのネタを与えて、楽山のように良心を持たない詭弁屋という惨(むご)い生物が、神の国に行けないようになるためかもしれません。これは、皮肉です。
 
それにしても、いかなることでも、いちゃもんのネタになれば、拾って話題にしたがる楽山の偏りと歪みが表れています。他者の意見も批判も完全に無視している単方向から、この偏りは、奇抜ではなく、猟奇的であります。そう、楽山の世界は、現実離れ、人間離れして、猟奇的なのです。
 
寄生する害虫は、他にも、たくさんあるでしょう。この世に寄生して人を侮辱する楽山もそうです。これも、我が身を見ようとしない楽山への、皮肉です。
 
あんまり、くだらないと、皮肉以外、書きたくなくなります。人間に起こる悲劇では、神を否定できないものだから、今度は、虫ですって?・・暇にしても、質が悪すぎますし、悪意以外の何ものでもないでしょう。
 
「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」・・宗教と信仰を知らない者は、こういうことを、宗教の本質のようにこだわります。そうして、人間としての生き方を台無しにしてゆくのです。
 
誰の本を読んでも、その解答を得ることは出来ませんが、楽山は、否定的に、できた(ようだ)、答えに近づいた、・・などと、ボンヤリ言語で言い始めるかもしれないので要注意です。
 
良心のある人々のために書いておきますが、害虫のような人が引き起こす災いも、そのために、人が、神のほうを向くためであります。害虫のような人は、神のほうを向くことをしないわけですから、むしろ、何ゆえ、神は、楽山のような猟奇的な人を造ったのか、という問題になるわけです。
 
楽山は、あらゆる災いを持ってきては、神の不在と反信仰の方向へ、疑問によって誘導し、愚痴のようにこぼしてきます。楽山が神を信じるためには、神が楽山個人の欲望の理想世界を築かないといけないようです。それは、ありえないのです。
 
的外れの信仰理解を、いつまでもネチネチと書くのではなく、神に縁がなく、理解する気もないならば、宗教・信仰については書かないことです。
 
楽山こそ、人間世界の、寄生バチであります。エサを求めて止まない楽山に、寄生されないようにしてください。決して相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください。
 
孫悟空が、お釈迦様の手のひらから逃れることができなかったように、楽山は、神の手のひらで、死にかけの寄生バチのようにジタバタしています。
 
広く見ているつもりでも、楽山は、目の前の自己矛盾にも気づかなくなったようで、そのために、悪意だけと分かるような記事しか書けなくなっています。我執によって書き続け、我執によって壊れてゆく楽山であります。楽山の悲劇の惨(みじ)めさを、楽山だけが知りません。
 
楽山は、無反省・無責任・無理解・無成長で、人の迷惑を省みません。ですから、楽山には、根拠のある自尊がありません。代わりに、根拠のない過剰な自尊だけをもって振り回してきます。つまり、楽山には、もはや、人間としての尊厳がないのです。
 
こういう人は、誰を思いやる立場にも立てないし、立ってはいけないということです。どうか、世辞や丁寧語に、だまされないでください。楽山は、自ら増長する方向しか持っていないのです。
 
楽山のような反キリストが、神への反命題として得々と語る話は、結局は、なぜ、楽山のような反キリストが生まれてくるのかという謎について、それこそ酷い迫真を見せるかもしれません。
 
 

     f:id:stdsts:20210120235933p:plain

                     寄生
 
 
(2021年01月21日、同日一部修正)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html