ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神がしないこと2

 
  神様がしないこと2
    2013年02月25日の記事を再録+
 
 
相当に昔の記事の再録+必要なら修正・・ということです。
 
全知全能の神がしないことは何でしょう。最初は、「出来ないこと」という題でした。罪を認めず、悔い改めないで、かつ、傲慢な人は、救いを求めていないので、救われないでしょう。しかし、これは、必然か、裁きであっても、出来ないこととは言えないので、「しないこと」に改めました。
 
 
全知全能の神を創造すること。創造できたとしても、どちらも全知全能ですから、意思も判断も行動も同じになる。それは唯一神と同じことです。神は唯一であると同時に総てであるという言い方も出来るかもしれません。三位一体も、そういう受け取り方をしています。
 
 
全知全能の絶対者である創造主、神は、御自身が造った人間を含めた被造物を壊すのに、これこれこういう訳だからね、云々と、いちいち説明する義務はないのです。
 
これには例えば、
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、生ける者に対してだけ発せられた言葉であって、神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられる。ただ、どう統べられるのかは、地上では、分からないということだろうと思います。
 
ゆえに神は、人知を超えて、死者を含めて、すべての者を救う・・ということが言えそうに思われます。つまり、死は、壊されることではないのかもしれない、とも思います。しかし、このことに、地上での完璧な理解と説明は存在しないと思います。
 
死者の救いについての推測や想像としては自由ですが、それを結論や確信とすることは、これこそ生きている間が全てとしか思えない人間性から乖離して、人に分かりもしない神の意志と行為を、人が人知を超えて結論付ける、という、神の領域への、成り立たない越権行為と言うべきでしょう。
 
神の救いは、完全には、地上の人には理解できないのです。人には、神がすべての人を救っているとは思えないのです。神の幸いならば、キリスト者は、既に、潤い、温もり、共感、愛として受け取っていると思います。それは、絶対孤独からの解放という救いとして、人に起こります。
 
神への想いから離れられない人を、キリスト者(クリスチャン)と呼びます。
 
 
聖書を読むことも、聖書を文献的考察や歴史的背景から、また文脈から考えることも、一言一句を文字通り受け取ることも、神や聖霊について「感じた」「聞いた」「癒された」も、人の直感や霊感も、人の側の信仰の受け取り方、即ち、解釈に過ぎません。
 
私たちは、私たちの心で、言葉も、御言葉も、解釈して受け取っています。そして、生き方を判断し、努力し、生きています。
 
神の業(わざ)を、人が確認する根拠は人の側にはありません。人の確信は、神については不可と考えます。即ち、信仰は、確信ではないということです。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら、信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら、人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、決して神の確信ではなく、罪深い心からでも、神への深い想いによって生きるのです。何が救いか分からないところで導きは進行しています。
 
キリストを好きになった原初の信仰から、すでに罪深い思いでした。しかもそれは絆(ほだ)されるように、否応なしに、私の自由意思を左右したように思えることがあります。
 
キリストは、赦される罪と、赦されない偽善を、区別しました。聖書には、神によって全ての人が救われるのではなく、キリストの敵となりキリストを殺した偽善者が赦されないことを伝えています。しかし、罪が赦され救われるためには、正直に祈ることだけが、必要十分条件であります。
 
今の時代にも、反キリストが、あざ笑いと、偽善と、幼稚な詭弁と、虚言をもって、言葉だけ丁寧に丁寧に、神を否定し、信仰者を侮辱してきます。彼らは、不正直で神を侮ることをもって、救いからは外されるでしょう。
 
しかし、信仰者ではなくても、神が、良心のある人を選んで、信仰を通さずに、何からの使命を与えることは、否定できません。救いの可否は、信仰の有無だけではないような気もします。
 
私は、自分の信仰観をブログに書いています。私という人間の意見に過ぎないので、訂正不能ではありません。もっと良い考えがあれば、感動とともに、修正するでしょう。30年以上、何度考えても、他に考えようのないことがあり、そこが変わることは考えられないので、書き続けています。
 
つまり、信仰は、訂正不能ではないけれど、変わることのないところ、変えてはいけないことが、やはり、あるだろうとは思います。そこを、外してしまうと、もはや信仰ではないようなことがあるのです。信仰は "愛" と同じことですから、言葉で完璧に表すことは出来ないのかもしれません。
 
 

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            絆(ほだ)される、絆(きずな)
 
 
(2013年)
(2021年12月14日、再録+)
 
 
 
 バカとモンスター
 
いかなる道を選んでも
 
集団や組織の中で
しきたりや規則に染まりながら
(マニュアルは指針であって心ではない)
いずれ競争を強いられ
慣れる人もいるだろうけど
 
たとい孤高を目指しても
孤高は孤独な孤立なのだが
 
いかなる道を選んでも
 
論理に身を投じる人は
論理つまり理屈だけだと
人間離れしたモンスターになるから
論理バカを自覚することが救いになる
 
情緒に身を投じる人は
情緒つまり感情だけだと
感情的なモンスターになるから
情緒バカを自覚することが救いになる
 
「バカ」が
とても人間的ならば
 
専門は
専門バカを自覚することによって
改めて我に返り
人間に戻れるだろう
 
「バカ」を忘れて
専門の権威を自負するようになれば
「権威」というモンスターになる
 
「バカ」を自覚する人
自覚せざるを得ない人は幸いであり
 
自覚しない人と
自覚してるつもりだけの人は
災いであります
 
論理でも情緒でもなく
人間であること(ヒューマニティ)から離れず
人道からの道理を求めて止まない経過と結果が
たとい路上でも小屋でも豪邸でも
呆けた口笛のの自由な散歩だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
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