ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

荒らしの楽山

 
  荒らしの楽山
 
 
  聖書について思うこと(中村圭志氏のツイッター
  2022年01月16日 楽山日記(LD)
  http://mn266z.blog.jp/archives/31794477.html
 
 
節操も、理路も、共感も、何もない、無分別に、荒らしのような無神教徒の引用をしてくる楽山です。自分で書くと、下種の根性がバレるからでしょう。しかし、他者の悪い根性をバラしているのですから、楽山は、最終的に、誰からも軽蔑される路程を、丁寧に踏んでゆくようです。
 
 

*聖書とは何か?
 ツイッター上にて、次のツイートがされていた。

 
聖書の話を、そのまま、あるいは自分で捻じ曲げて、受け取っています。聖書を学ぶのに、学習方法というより、学習する精神を失って、史実として扱って、揶揄し否定するだけです。よほど、キリスト教に怨念を持っているのでしょう。最初の話は、コピペしにくいので省略します。画像も省略します。
 
 

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
オークワード聖書をちょっと見てみましょう。
表紙はノアの箱舟海上に死屍累々。助かった動物さんたちはなんだか楽しそう。ノアはお気楽に唐笠つきジュースを飲んでいる。
勧善懲悪の御伽噺のはずなんですが、残虐さを何とも思わない義人ノアの姿は現代の子供たちには見せられないわけです。

 
大人であれば、説明があれば、聖書に象徴されている神の意志を、不十分でも、常識的な範囲で感受してゆくでしょう。一方、楽山のように、大人になれなかった未熟は、悪意をもって悪い心象だけを吹き込んでゆきます。道理で、聖書からも神からもキリストからも、人からも、良きものを見い出せないわけです。
 
 

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
先に紹介したロトの処女の娘の強姦許容の話と同様、現代と人権意識が異なるので子供に説明できない箇所も何か所か取り上げられています。
出エジプト21。奴隷は財産なので鞭で打っても1日2日生きている限りは神のお咎めなし。即死の場合はお咎めあり。
絵は昔のアメリカの奴隷農場となっています。

 
聖書の大昔の話を、キリスト教はこういうことをするんだぞ・・という煽りの見せ方です。悪意が明らかな絵とともに、おとしめて悪く言うのは、荒らしに似ています。印象操作のの悪意が見えた時点で、議論どころではなく、ドアをドンドンドン!と叩いて威す凶暴な悪党が来た!・・ということになります。
 
 

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
もう一つ紹介しましょう。
申命記22。男が処女の娘を強姦したところがバレたなら、父親に銀50払うべし。娘は強姦男の妻となるべし。男の意のままになったのでもはや離縁は禁止。
この絵本では男が父親にドルを渡して、ワゴンの中で強姦せんとするところ。原理主義者はこれを実践するんでしょうか?

 
大昔の、民族の掟(おきて)みたいな話と、大間違いの原理主義者?の犯罪をあげて、そのことが正しいかどうかが、キリスト信仰の是非に関わるでしょうか、否です。無神教徒の、こういう発言は、いちゃもんに過ぎません。既に、シャロームで10年、楽山で3年、うんざりするほど、経験済みのことです。
 
 

中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
聖書は人類史の史料として、ホメロスなどとともに図書館で読めばいいのです。しかし良き家庭の導きの書だとされている。が、実際には子供には読ませられない。もっとも信者は実際には聖書は読まない。読まないのに都合にあわせて聖書の権威で世の中に文句をつける。だから無神論者に文句を言われる。

 
聖書は、歴史の史料以上に、宗教と信仰の聖典ですが、100%理解した人はいません。聖書をもって、史実がどうこうと騒ぐのは、聖書の意味も意義も理解していない楽山と同類の人です。背教者の例をもって、信仰を全否定するのは、妄想の為せるわざであります。引用する楽山は悪魔性のサディストです。
 
 

*被害
一連のツイートで指摘されていることはどれも興味深いが、その中でも特に、聖書を読まずに「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々の話は予想外だ。
こういう人々のために、無神論者らはやむなく聖書の権威を打ち砕くために聖書を批判することになっているのだとすると、聖書はとんだとばっちりを受けているということであるし、一番の被害者といえそうだ。

 
聖書に、信仰者に、害を与えているのは、楽山です。今回は、自分では、何も書けないから、無神教徒の言を引用して、文責を逃れようとしています。引用して批判しなければ賛同ですから、その責任は、どこまでも、いつまでも、楽山に着いてくるのです。楽山は、信仰と宗教の言論を邪魔しているのです。
 
背教者の話を事実として予想外だと言い、そして、こともあろうに、無神教徒の不可効力を説いていますが、無神教徒の楽山は、悪意の企みの文章しか書いていません。聖書に「とばっちり」を与えようとしているのが、楽山と無神教徒であります。恐ろしい詭弁です。
 
「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々というのは、考えてみると、妄想的思い込みを信仰と呼んで、訂正不能の、実際は、偽善者かつ背教徒だと思います。ですから、思い込みの自己中病質の楽山や無神教徒と、よく似た構造の体質ではないかと思われます。信仰者に権威はありません。
 
 

*立場
とはいえ、こういう指摘を読むと、とても自分には聖書に書いてあることはすべて正しいとすることはできないなと思う。もちろんだからといって、すべて間違っているとすることもできないのではあるが。
聖書に対する立場は人それぞれではあろうが、自分は先入観によって全肯定することも全否定することもせず、また禁忌事項をつくることもなく、人類の古典として謙虚に学びたいものだと思う。

 
否定肯定をぼかした楽山のボンヤリ言語です。楽山の責任回避の筆致です。書いてあることは、何の糧(かて)にもならない読み方が正しいと言っているようなものです。「正しいとする」権限は、無反省で無責任の自己愛性人格障害の楽山にはありません。謙虚ではなく、引用も含めて、恐ろしく傲慢です。
 
楽山は、先入観しか持っていません。肯定も否定もしないなら、意見に成っていないので、書かないことです。肯定しても、否定しても、それぞれ責任があります。責任を負わずに両方言うことは、ただの、いい加減な人でしかありません。そして、それを繰り返してきた楽山は、正常人ではないということです。
 
聖書の心を読み取れない楽山が、正しいと言っても、間違っていると言っても、何の価値もないことです。無神教徒の力を借りているだけですから、楽山は、ますます、言論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だという証拠を、自分で積み上げているのです。
 
人間は、自らの信仰も守れないほど不完全です。ゆえに、信仰者は、知性と感性を精いっぱい使って、できることして、結果を正直に祈って、神に委ねます。ということは、自らの言動が間違っていて、神に裁かれることを恐れながら、なお、絶対孤独からの解放を恵まれ、救いと希望を祈り願うのです。
 
楽山は、他者を利用し、別の他者を傷つけて、無視スルーで、のんきに生きているようですが、最後には、報いとして傷つけられる日が来るでしょう。神を持ち出さなくても、楽山の生き方は、人の世の非道として、いずれ、無知と無恥とを告発され、逆に、廃物として破壊される必然なのです。
 
 

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                無神教徒の精神病理
 
 
(2022年01月18日)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白
信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
※ 信仰についての議論
 
普通の理路で考えても信仰の必然を説明することは出来ず、信仰は、何より個人の、体験、特に精神生活上の体験に基づくので、現象や史実の皮相の事実や論理によって、ない、不当、などと言えば、そのまま発言者の、未熟と歪曲が、指摘されることになるでしょう。
 
ゆえに、宗教と信仰は、科学をもってしても、また、超常についての空想を前提に考えても、語れるものではなく、人間の心について共感のない者が語ることは、無理な否定になり、侮辱になり、嫌がらせになって、頑迷な屁理屈による妨害として、偽善と見なされるでしょう。
 
 
 
  二人のはぐれ者(創作です)
 
伝道を志しながら心を病んでしまったキリスト者がいた。少しばかりお金があったので当座の生活には困らなかったが、毎日気がふさぎ寝込むことが多く「自分など死んでしまえばいい」と思うこともあった。そのキリスト者の家に盗人が入った。
彼は何をやってもうまくいかず失敗の繰り返しで自暴自棄に陥っていた。刃物をキリスト者に向け
「金を出せ」と迫った。キリスト者は、
「盗人にやる金など一銭もない。欲しければ私を殺して家の中を捜せ。」
「命が惜しくないのか。」
「逃げられるものならば逃げる。だがまわりには誰もいないし、あなたは力が強そうだ。どうやら、かないそうもないゆえ観念した。それに・・・もうよい。」
キリスト者は目を静かに閉じた。キリスト者は目を閉じたまま、盗人はキリスト者をにらみつけ刃物を握ったまま黙っていた。
長い沈黙が続いたのち、盗人が言った。
「い、命を粗末にするな。」
「あなたがそれを言える立場かね。」
「本当に命が惜しくないのか。」
「もう・・・・どうでもいいんだ。」キリスト者は少し悲しげに言った。
「ちっ」と盗人は舌打ちをして刃物を床に捨てた。
「やめた。何て野郎だ。全部でなくても、少しばかり、まとまった金さえ出せば済むものを。お前、少し変なんじゃないか。」
「他人の金を盗んでどうするつもりだ。それに生活のための金を得る道なら他にもあるだろう。」
「どうするって、まとまった金があれば天国さ。何だってできるじゃないか。」
「金をいくらか持っていても私のような者もいる。いちばん大事なものは金ではない。」
「じゃ何だって言うんだ。」
「大切なものは多くはない、むしろただ一つだと書いてある。私もよく理解しているわけではないが、今あなたに刃物を捨てさせた何ものかだ。」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても間違っても、正す精神を持たない楽山は、他者の言を利用して、自らの整わない頭と心を、よこしまな方向へ、自ら導いてゆきます。この世はウソに溢れているという私のブログタイトルですが、楽山は、真っ赤な嘘を使って、人より上にいられる気分を、生き甲斐のように求めてゆくのです。
 
楽山は偽善者ですが、偽善は善よりちょっと悪い感じ?・・ではありません。悪を、善に見せかけることであり、悪よりも、偽装という悪が加わるところの、より悪であり、最悪なのです。これより悪質な悪を知りません。大きな犯罪は、大方、偽善であります。楽山は、その、偽善者なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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