ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

共感の主

 
  共感の主
 
 
キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。
 
宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。
 
人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。
 
一部に、福音書の、物や肉体の超常的な奇跡に驚き、ひざまずくのが信仰だと思っている人がいるようです。共感できないことを仰ぐのは、力ある御方の業だからでしょう。そこに共感できるものがないために、そういう信仰は、感謝と讃美だけになってゆきます。
 
さらに、超常を仰ぐだけならば、人生において、現代、殆ど起こらない奇跡を、起こるんだと思い込む信仰?になります。そういう信仰においては、大仰な讃美が鳴り響くことになります。一方で、日常の苦難からの悲しみに共感するセンスから遠ざかってゆくのです。その典型はカルトに見られます。
 
 
神は人知に働きかけます。しかし、人知は、心を砕いて、神に祈るだけです。つまり、人が思うところに、神はいません。人知で、神を追いかけることは出来ません。神は、人が祈るところにおられます。
 
祈ることもしないで、神を云々する、つまり、人知で神はいるとか、いないとか、論じたつもりで語っても、それは、神に届きません。人の思い上がりに、神は近づくことはないからです。無神教の信者は、いつも偉そうに語りますが、神について、何も語ってはいないのです。
 
神を知らないし仰ぎもしない者が、神について、多くは、その不在を語るとき、その神は、無神教信者の頭の中で料理されるのを待っている無神教の飼っている概念とイメージの神?の偶像に過ぎません。それは、とても、無駄であります。信じないところに、否定するところに、神がいるわけがないのです。
 
つまり、無神教徒は、神の不在について、証拠がない、根拠が無い、などと言って、笑いながら、神を、酒の肴にでもするのでしょう。しかし、証拠と根拠が人に分かる神?など、どこにも、いつまでも、いないのです。むしろ逆に、無神教徒こそは、空しく、神の偶像を追いかけているのです。
 
 
人間の、最も深い情緒は、共感であります。共感こそが愛であり、人を生かす宝物です。共感がないところでは、辻褄が合っても、人は感動しません。かつ、そこに神の恵みが存在しようがないのです。感動を伴わない神の恵み、賜物、魂の奇跡などは、神の永遠をもって、ありえないからです。
 
 
共感のない者は、理屈だけを並べてきますが、そこには言葉の表面的な意味の争いしかありません。楽山のような悪意のペテン師は、流れを無視して、細かい文脈に他者を誘導し、そこで混乱させ疲労させることで、相手が退却するように仕向けます。そして笑って言うのです「疲れたんじゃないのですか」・・。
 
 

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              信仰 共感
 
 
(2022年02月01日)
 
 
 
  計りかねて
 
好意のつもりなら
少々的(まと)が外れております
的をずらしたのは私(わたくし)ですが
 
心配のつもりなら
少々押し売りに似ております
心配させたのは私ですが
 
同情のつもりなら もう
どこかで虫唾(むしず)が走ります
虫唾も固唾(かたず)も
呑(の)んだのは私ですが
 
あなたが悪いわけではありません
できることをしたのだ
という聖句もあります
 
残ってしまった拙(つたな)さ脆(もろ)さが
贈られた文字列のように
何もお返しできないだけなのです
 
 
  冬の仕掛け
 
朝のタイマーが
銀の針の仕掛けを夜明けに渡すころ
私はまだ蛍光灯の下に座っていた
そして私のそば近く
いつも顔を合わせるだけの無神経な
部屋の時計や写真や絵や
物言わぬ同居人たちと
あとどれくらい
坐っていられるかを相談するのだが
私は遂に横になる
 
しばらくは窓辺に身を寄せて
漏れ入る冷気に触れようとしたり
あきらめて仰向けになり
 
この世で最も愛した人が
磨かれたナイフで
冷たい返り血を受けながら
この胸を突くのを
今ならいい今なら
これで最初で最期なら
と足跡のない雪原に横たわり
 
いまさらのように悔いのひとつひとつを
数え始めたりしながら
凍みる冬の一日にも
焼けるようなひとときが
瞼の奥へ冷めてゆくのを待っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できないし、詫びても、反省と書いても、冗談のように軽く、その後、まるで変わらない楽山です。訂正不能の自己愛と自己中によって、人を、偉人でさえも、深みのない話のネタにして、趣味的にいじくってきました。楽山は、遊びだけの視野で、信仰も真実も、平気で踏みにじる男です。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので変わることはないでしょう。批判記事を書くのは、楽山を変えるためではなく、誰も楽山に関わらないように、異常性を広く知らせるためであります。楽山がHNを変えれば、また分からなくなりますが、私は、今できることをしています。
 
楽山が誰かに賛同しても、共感性はありません。楽山には、約3年間見てきても、罪悪感、共感、悔いる心などの高等感情がないと思います。楽山の、賛同も、批判も、冷静な理路と深い情緒から生まれてはおらず、自分に都合のよいように書くのです。つまり、自己顕示欲からの芝居に過ぎません。
 
私は、インパクトのある言葉を求めています。キリストの言葉は、長い文章ではなく、インパクトのある言葉です。本になるような長い文章で、専門用語を並べられても、長いゆえに、心に響くということはないからです。インテリぶって書いてくる楽山の文章は、だるいだけで、何のインパクトもありません。
 
 
 
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