ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妄想

 
  楽山の妄想
 
 信者とアンチの議論を読んでみた
 2013年03月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512122.html
  ずいぶん前の楽山の記事を見てみます。
 
 
楽山の、宗教についての皮相な見方が、9年前の春から変わっていないことが表れています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習能力がないのだろうと思います。春になって、元気になってほしくない人です。批判というか、このような、症例報告みたいなことも書いてゆきます。
 
 

例のごとく、「幸福の掲示板」を通って、「 『幸福の観測所』さんの思考パターン」のコメント欄を見ました。感想をちょこっと書いてみます。

今の総裁を仏教徒仏陀と認める仏教徒がどのくらいいるか。
さらに、キリスト以上と認めているのが、どのくらいいるか。
という質問は、幸福の科学は立宗20数年しかたっていない。
ということは、仏陀が悟りを開いて20数年、イエス・キリストが死後20数年後にどういう評価だったのか。
という、質問と同じだ。
たわけ。
(*一行空けになっているのは読み難いので詰めておきました)
 」
☆ この論法はよく聞きます。けれども釈迦は悟りを開いて間もなく、いくつもの教団の教祖と弟子をまるごと帰依させたといいます。大国の王からも敬意を表されたといいます。

 
最近の楽山と比べると、丁寧語の、ですます調で書いていますが、基本的に変わりはないようです。宗教を、人物評価と同じように、どれくらい偉かったかという見方ですが、その教えの中身について、何も書けない楽山です。
 
 

またイエスは、多くの大衆から支持され、ユダヤの王となってユダヤ民族を救うことを期待されたといいます。その勢力は、宗教権威者たちが脅威を感じるほどだったようです。

 
キリストの目的が政治ではなかったことは、十字架によって明らかですが、キリストが何を伝えているのかについて、全く考察できない楽山です。しかも、知らないということの謙虚さも弁えずに、キリストが、仏陀が、と語ろうとするのは、楽山が、自身の自己顕示欲の厚顔無恥を表しているということです。
 
今も、変わっていません。信仰がないならば、信仰の良し悪しは分からない、という節操が、自己愛動物の楽山にはないのです。他者のことなど考えず、とにかく、思いつくままに、他者の評価など全く気にせず、偉そうに書けば、自己満足してしまうのでしょう。
 
 

一方、大川隆法は、上のようなことはまったくないのではないでしょうか。どこかの教団を丸ごと帰依させたことも、外国の元首から敬意を表されたことも、大衆から王(政治家)になることを求められたことも、宗教権威者に脅威ととらえられたこともないのではないでしょうか。

 
このように、アンチHSに気に入られるために、ORをけなすことに専念しているのです。その尺度が、「帰依させる」「敬意を表される」「王になることを求められる」など、世俗の現象を挙げて、教えの深さの評価に触れることが出来ない楽山です。身の程を知らないことの浅ましさを表しています。
 
 

このように見ると、釈迦、イエス大川隆法三者について、宗教活動をはじめて少しした時点での実績を並べると、大川隆法は、釈迦やイエスを上回る存在であるとは決して言えないと思います。

 
上のような、本質を何も知らないまま、世俗からの評価だけで書いて、とにかく、ディスればいいという気安さで、洞察も考察もなく、口を抑制できずに、弛んだ蛇口のように、言葉を漏らしてゆくのが、楽山なのです。思いつき以上ではない楽山の発言を、どうか受け取らないでください。
 
 

(信者)
「先生に自分の都合で幻想を投影して甘えれば、幻滅したり、大川隆法はただの人間だっていいだすんだよね。」
(アンチ)
「神ではない人間を神だと主張しているのが信者で、人間は人間だと言っているのがアンチなんですが。
はっきり言えば、人間を肉体人間としか認識できないのがアンチ最大の間違い。
神であられる方を神と主張しているのが信者で、神であられる方を人間と貶めているのがアンチです。
聖者も人間だっていうのは一面の理解であって聖者は人間でありながら人々に神の実在を知らしめる存在なんだよね。」
(*同一テーマの発言を、任意に抽出しました。赤はシンパ発言、緑はアンチ発言です)
 」
☆これらのやり取りを見て、若者の恋愛を思い出してしまいました。恋人と付き合いはじめて間もなく、「自分は、ありのままの彼女(彼)に恋してたのではなくて、自分好みに理想化した彼女(彼)に恋していたらしい」と自覚するというやつです。

 
近ごろの若いもんは・・という、爺のようなことを言っています。大きな疑いがあります。今まで、読者をだましてきた楽山ですから、女性もだましてきたのではないかという「やつ」です。それと、楽山は、自分を妄想的に「理想化」した立場から、宗教と信仰に、不遜なことばかり言ってきました。
 
 

視点を変えれば、「この人は、自分好みに理想化した僕(私)を好いてるだけで、本当の僕(私)のことはちっとも分かってない」ともいえます。
そしてこの発見から教訓を得るならこうなります。「誰かを理想化した上で、愛し、信じたところで、それは本当に誰かを愛し、信じたことにはならない」

 
宗教の話ですが、人を理想化して神を語るという発想は、ふつう、出来ないし、しないものです。超常が大好きな楽山は、超常と日常の区別が、つかなくなっているようです。自分を妄想化したうえで、愛したつもり、信じたつもりになっても、本当に愛し信じることにはならないのです。
 
 

信者さんの発言を見ると、どうも上のような勘違いがあるように思えます。信者さんは、ありのままの大川隆法ではなくて、自分なりに神格化した大川隆法を信じているのではないかということです。

 
ありのままの他者を、はたして、知ることが出来るものでしょうか。気安い楽山の人間観が表れています。それに、ありのままではなく、正体を、隠そう隠そうとしてきたのが、他ならぬ楽山というペテン師なのです。楽山を信頼しないでください。
 
 

誤解を恐れず、はっきり言うと、自分の心の中で、神格化した大川隆法と、理想化した自分(選ばれし自分)とをからませて、いろいろ空想し、自慰にふけっているのではありませんか。

 
ずっと、評論家気取りで、教祖願望で、空想の自慰にふけっているのは、他ならぬ楽山その人であります。独りの部屋ではなく、公共では大変迷惑なのです。
 
 

中高生の子どもでさえ、片想いの相手と一回デートしただけで、「なんかちがうな。あたしは恋に恋してたみたい」と覚ったりするのですから、中高年の信者さんも「なんかちがうな。どうやら自分は信仰に酩酊してたらしい」と気付いてもいいのではないかと思います。

 
そこまで悟る中高生が、どれほどいるのでしょう。三文芝居臭いことを言って、分かりやすくしたつもりでしょうか。片思いと信仰を同一視するなど、真っ向からの信仰への侮辱になるわけです。つまり、楽山は、宗教と信仰を侮辱したくてたまらないだけなのです。
 
中高生には、楽山のようにだけは成らないでほしいと思います。楽山のようになって年を取ると、恐らく、やたら無遠慮に口を出して、涎を垂らしてヘラヘラ笑っているような、見苦しい老人になってしまうでしょう。若い人にとっても、楽山は、最悪の反面教師となるのです。
 
 

今、ここで書いたことは、信者さんにとっては、ややこしすぎたり、腹立たしく感じられるかもしれません。でもそれを承知で、分かる人もいるはずと信じて、思い切って書いてみた次第です。

 
分かる人は、楽山に、だまされた人です。正常な若者は分からないのが普通です。ややこしすぎるのではなく、妄想的短絡で子供受けを狙って、思い切り滑っているだけです。責任を負わない楽山は、思い切ってはいけない人です。早く退散してください。
 
 

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                  妄想そして児戯
 
 
(2022年02月10日、再録+加筆修正)
 
 
楽山の脳ミソは、いつも、春のようです。
 
 
 
  失せた心
 
いつしか春を楽しむ心も失せて
失せた心が芳春を舞っている
いつしか花を愛でる心も失せて
失せた心が落花を浴びている
いつしか新芽を喜ぶ心も失せて
失せた心が新芽を噛んでいる
いつしか己を慈しむ心も失せて
失せた心が短い弦を震わせる
 
過ぎ去った春の巻き尺は切れ
また来る春までの時計は狂い
無数の季節の余事に絡まれ
乏しい接線を切れ切れに解いて
かじかむ手から汗ばむ手へと
見渡す春に渡されてゆく
 
 
  陽気
 
突然言うんだ
生活者なんかじゃない
変態のガリガリ亡者だ
そうじゃない
まともな生活はしてないが
そうじゃない
 
すると車の中にいる
乗せた覚えのないやつが
隣で言うんだ
この春は
何か欠けているな
 
そうかな
この一年いろいろあったけど
そうかな
 
脳ミソの神経か血管でも欠けたか
ふーっとため息ついて
また部屋に戻っている
 
春は そうだ いつも
わけのわからぬ問いが
ちらほら降ってくる
腕を組み
首をかしげ
この部屋の中に
同じように首をかしげてるやつが
少なくとも二、三人はいる
 
 
  三寒四温
 
ふるえながら部屋で
キーボードを叩いていた
ディスプレイにやられたらしい
目汁
鼻汁を笑えぬ
寒さかな
で翌朝は
水の冷たさが憎たらしくない
昼は車の中で汗ばんで
暖かいのやら寒いのやら
温かいのやら冷たいのやら
夕方 宙ぶらりん
俺みたい どっちつかずの
ぼんやりしている瞼よ開け
顔から早く
飛びだせ目玉
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、冬の寒さも、夏の暑さも、お構いなしに、霊が分かるっぽい?自覚から、嘘ばかり重ねて、詭弁で保身し、何も理解できないのに、理解したふりをして、失敗をボンヤリ言語で、過ちをトホホ言語で、ごまかしながら生きています。人間としての学習と成長を怠ったゆえ、人間離れの地獄にいるのです。
 
削除しましたが、脅迫めいたメールが送られてきました。楽山でしょうか。そう推測する根拠は、楽山かシャローム、あるいは、その仲間以外、脅迫する理由も必要もないからです。楽山とその仲間は、楽山の成りすましも含めて、そういう汚い本性を隠さなくなりつつあります。
 
楽山とシャローム、また、その仲間たちは、信仰というもの、生きるということについて、必要としているもの、失っている命を任せている、托している、委ねている、肉体の生死にかかわらず、それだけのものを得たゆえに捨てる理由と動機がある・・といった立場が、まるで分からないでいるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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