ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の正当化の詭弁

 
  楽山の正当化の詭弁
 
 尊い信仰とは? (榎本保郎『旧約聖書一日一章』)
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512101.html
 
 
楽山が、愛について、信仰について、一生懸命について、さらに、自己責任について、述べていますが、大方、自分を正当化するための詭弁に過ぎません。今まで3年余りの経過から、楽山に人を教える資格はありません。楽山は、反省しない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 


尊いのは愛によって働く信仰だけである。
(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.190)
 」
著者はただ信仰が尊いとしているのではなくて、愛によって働く信仰だけが尊いと強調しているのが印象的だ。そして著者はその愛のあり方を次のように書いている。 

 
楽山は、病質のために、愛や共感といった高等感情を持ちません。文章に表れたことがないからです。代わりに、言葉だけを振り回してきます。2013年頃から続いていることが分かります。
 


私たちは、強い者が弱い者の弱さをになうことにおいて、すなわち愛において連帯に生きることがすすめられている。
(同上、p.190))
 」
これは自分にとって耳に痛い言葉だ。自分はかつて、ある宗教教団(幸福の科学)に所属しているとき、弱い者の弱さをになうことをしていなかった。弱い者いじめがあっても、それをいじめとわからなかったり、傍観者になってしまっていた。ここは今思い出しても心苦しい。反省しないと……。

 
楽山は「弱い者の弱さを」あざ笑い、だまし、操るペテン師です。つまり、根拠のない病質的優越の自覚から、弱い者いじめをして悦ぶ人格障害者です。丁寧語にだまされないでください。「心苦しい。反省しないと」・・嘘です。9年後の2022年、楽山は、何も変わっていないことが証拠です。
 
 
 
 一生懸命に頑張ることの大切さ
 2013年02月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512108.html
 

アンチが必死すぎるとして
嘲笑う記事を見ました。
二つのブログに、同種の記事が一つずつありますね。
一人ではなくて、二人がそういう発言をした
ということでしょうか……。
わたしは、
アンチはアンチとして一生懸命に頑張ればいいし、
信者は信者として一生懸命に頑張ればいいと思ってます。
それぞれが、それぞれの立場で頑張ればそれでいいと思ってます。

 
どうして、楽山が、それでいいかどうか判断するのでしょう。楽山は、判断される立場です。また、人の言うことを全然聞いていない人です。偽善者であり、高みに立って、おとしめること、だますことに、専念してきた楽山です。楽山は、いつも、"それではよくない" モデルなのです。
 

また、
日本がこういう風になったのは、
一生懸命に頑張る人を嘲笑う風潮や、
一生懸命に頑張ることをはずかしいと思う風潮が
広まったことも一因にあると思ってます。

 
今度は、政治倫理評論家気取りですが、楽山に、上のような風潮を語る資格はありません。楽山は、思いつきで書いているだけです。真に受けないでください。糧(かて)になるような深い洞察を、楽山が書いたことなど一度もないのです。むしろ、あざ笑いながら、詭弁の無神教を広めているのです。
 

ついこの間、
サッカー元日本代表のキング・カズは、
日本人へのメッセージとして、
一生懸命に頑張ることを説いていました。
トルシエ元日本代表監督も、
日本に来て驚いたことの一つとして、
選手たちが一生懸命に頑張ることを恥ずかしがってる
ことを挙げていたそうです。

 
「一生懸命に頑張ること」・・シンプルな教訓ですが、楽山が、いちばん嫌いで、一度もしたことのないことです。楽山は、正常に頑張るのではなく、一生懸命、自己正当化と自己満悦~陶酔~悦楽を求めて、他者を欺いてきました。
 

ロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』では、
ゴッドフリートという人物が、
何をもって英雄とするかという問いに対して、
自分の為し得る限りを尽くした人が英雄だと答えてます。
誰にもできないことを成し遂げた者ではなくて、
自分の全力を尽くした者こそが英雄だというのです。

 
楽山は、妄想的勘違いで、あるいは、意図的に、有名人の言葉を、悪用して説教します。読めば、当たり前のことです。そして、いちばん怠っているのが楽山です。楽山は、正常な意欲ではなく、悪意の執拗さをもって、人に、とても異常な疲労を与え、人格を、従属させ、破壊しようとします。
 

幸福の科学では
たしか、
幕末維新のころの志士たちは、
討幕派でも、
佐幕派でも、
立場はどうあれ、
その心の状態によって、
死後の行先が分かれたのではなかったでしょうか。
とするならば、
何を為したかよりも、
どういう立場に立っていたかよりも、
純に、一途に、全力で頑張るということは
幸福の科学の価値観によっても、
とても大切なことではないでしょうか。
アンチが必死すぎるを嘲笑う信者さんには、
真面目に一生懸命に生きることについて、
よく考えてみてほしいと思います。

 
楽山には、しんみり共感する心がありません。だから、だらだらと下手な理屈をこねてきました。それで、思路を混乱させ、ごまかし、疲労させ、衰弱させ、相手がものを言えなくなった時点で、疲れたんじゃないですか?などと白々しいことを言いながら快感を得る、とても狡猾な異常人格です。
 

ちなみに、ジナ・サーミナラ著『転生の秘密』には
他人を嘲笑する罪と、そのカルマについて記されていたかと思います。
興味がある方は調べてみたらいかがでしょうか。

 
「他人を嘲笑する罪」・・まさに、楽山の罪です。楽山は、カルマというより精神病質です。だから、あざ笑いと怨念しか持っていないと思います。決して、楽山と接触しないでください。交流しようなどと思わないでください。楽山は、誰にとっても、まさに、精神衛生上、有害です。
 
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512109.html
 
 

幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 
・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。
なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、
公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。

 
自己責任は、私的とか公的とはではなく、罪を犯したら、負うべき自分の責任です。そこを、公的とか、私的とかに分けるのは、楽山の詭弁の操作なのです。放置されるのではなく、楽山が、楽山の責任を放棄しているということです。論点を逸らそうとしています。
 
その自己責任を負わないのが、楽山です。反対を言って、賛成も言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。言論の精神が、全く出来ておらず、反省もせず、責任を負わず、いい加減な前提で物を言い、悦に入るのです。責任を負えない出来だということです。
 

たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 

 
楽山個人の罪、即ち、私的な問題を、公的な問題にしているのは、楽山のほうでしょう。楽山の、この詭弁の意図は、自己責任を、まわりくどく、ごまかして、回避したいだけなのです。責任があるか、責任がある、誰にあるか、楽山にある、そのことを、全く受け取らず、自尊心と鼻だけが高い楽山です。
 

・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。

 
自己責任論に、事実かどうかが問題でしょうか。ひどい的外れを言っています。楽山は、責められたとき、相手も悪い、というより、相手が悪いというほうなのでしょう。それこそが、罪悪感がなく、不祥事を人のせいにするサイコパスの特徴です。婉曲表現に、だまされないでください。
 
楽山は、責任者であり、それ以上に、道徳と節操において、犯罪者、犯人なのです。楽山の責任逃れは、ますます、執拗に、まわりくどく、人をおとしめる悪意だけになって、傲慢不遜、そして、訂正不能になるでしょう。楽山が、長い間、平静を装って書いていたことが、そもそも、異常であります。
 

・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。

 
自分をまともに見せるマインドコントロールこそ、楽山が、丁寧語と曖昧表現の、ボンヤリ言語によってやってきたことです。コントロールが、相手を楽山の下に置くことであり、そうでなければ、混乱して去らせるのが目的です。性根が、よほど、腐っていなければ出来ないことです。
 

・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。

 
何でしょう、「いろいろなところで指摘されている」と言って、ごまかしています。つまり、楽山は、相手に分かるような理路を組み立てられないのです。代わりに、相手の精神を混乱させ疲労させるために、はっきりせず、説明できないような、曖昧な表現が特徴です。中身は無いのが特徴です。
 
まわりくどくて、すぐに否定できそうにないような、絡まった網のような無意味な言葉の辻褄を、楽山は仕掛けてきます。そこで、こちらが、考え込んでしまうと、楽山の思うつぼです。楽山の言は、ことごとく、切り捨ててください。楽山は、分かって書いてなどいないのです。
 

以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う

 
自己責任は、はっきり言って、論ではありません。言動に責任を負うという大人の道徳です。それを、「適用できるわけでもなく」という曖昧な部分否定で、言い訳したつもりなのです。背伸びした人格が節操を失うと、こういう狡い惑わし言葉を使うということです。実に醜い所業です。
 

幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。

 
いちばん自己責任を問われべきは、楽山です。嘘、詭弁、偏向した思想~妄想、ブレーキの利かない自己顕示欲、鈍麻した直観と直感、良心の欠如、洞察力と説得力の欠如、無反省、無責任、無神経、無情・冷酷、固定した自己中心、という知性と感性の欠陥は、長く肯定的に接していると移る危険があります。
 
楽山を理解しようなどと思ってはいけません。楽山は、自分を理解させるための、いかなる言論も持ち合わせていません。込み入った詭弁の辻褄に嵌らないように、決して、楽山に接触しないでください。決して、楽山に近づかないでください。それが、誰にとっても、精神衛生上、必要なことです。
 
 

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             詭弁の末路
 
 
(2022年02月16日)
 
 
 
  鞄を持つ
 
鞄(かばん)を持っている手は
鞄に引かれて
行くべき場所に
たどり着かないことを知らなかった
なのに鞄は毎日の持ち物であり
手から離れてくれる日はなかった
なのに手は毎日の持ち物であり
鞄と別れてくれる日はなかった
革の匂いから
中身を残すだけになったころ
鞄の手の持ち主は
火傷しないように
炎の道を理路に置き換え
ときに涙さえ含ませながら
死なないように殺さないように
鞄の熱を冷ましている
 
 
  笑うか泣くか
 
想い出は飢えているのに
想いはもっと飢えているのに
形にしてくれと
体の中を揺さぶるのに
吐き出したものといったら
喧騒に目を回したあげく
狭い箱に寂しく転がる
福引きの白い玉
 
でも笑うものか泣くものか
ポケットティッシュだって
笑ってもいい泣いてもいいが
なくては困ることがあった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省することなく、詫びることなく、記事やツイートやリツイートで憂さ晴らしている楽山ですが、欲求も衝動を抑えられない異常者ですから、また書いてくるでしょう。迷惑と疲労と人格破壊以外、何も良いものをもたらすことのない楽山なので、批判は、続けられるだけ続けるつもりです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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