ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

聖書におけるサイコパス

 
  聖書におけるサイコパス
 
 
悲しむことなく、悔いることはありません。
後悔するとき、人は、悲しんでいます。
悲しみと悔いは、人間の高等感情です。
 
そして、悔いることのないまま、改めることはないのです。
 
正義や慈善とかではなく、悲しみを知ることが、人間の良心なのです。神に、正直に祈る人は、楽山のような嘘と詭弁と決めつけではなく、正直に告白して救いの希望を祈り願います。
 
そして、悲しみを知らないのが、サイコパスです。何か言われると怒るか笑うだけなのです。
 
聖書に登場する二人の悪役、カインとユダについてについて考えてみます。
 
カインはサイコパスだと思います。しかしユダは違うと思います。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6-7
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、怒りました。
そして、弟を殺します。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
 (創世記4:8-9、旧約聖書
 
殺すという行為には、過失致死、正当防衛、そして故意の殺人があります。カインは、3番目の殺人です。そして、神に問われると、カインは、ふてくされて、弟の番人でしょうか、と言い返します。
 
サイコパスには、笑いと怒りしかありません。良心がありません。罪悪感がありません。悔いる、反省する、しんみり悲しむ、という高等感情がありません。いつも、自分の都合だけで反応します。罪を指摘されると、怒り、恨みます。
 
 
聖書を書いた人も、同じように思ったのか、カインの子孫も殺人者という書き方です。
 
 (創世記、口語訳)
4:23
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
4:24
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」。
 (創世記4:23-24、旧約聖書
 
 
サイコパスは、罪を指摘され、傷つけられると、悔いることも改めることも悲しむことも恥じることもなく、怨念を燃やし、復讐ばかりを考えます。ユダは、どうでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書
 
ユダは、裏切ったのち、後悔して自殺しているので、サイコパスではないと思います。裏切りの罪ならば、他の弟子たちも、十字架の時には逃げているので、同じです。そして、それは、私たちの罪でもあります。私たちも、神に対しキリストに対して、恥ずべき罪人です。
 
 ※
 
裏切りの罪人である自覚ならば、神について、キリストについて、聖霊について、決めつけたり、豪語したりなどは出来ないはずです。神とキリストと聖霊と話をしました・・などとも言えないはずです。
 
キリスト者は、神の前に、ただ、正直な祈りを捧げることのみをもって、キリスト者なのです。
 
 ※
 
時間も宇宙も果てしないのに、人間の心は、一部でも見えにくいのに、ほんの一点のような時空を右往左往して生きている人間には、思い上がれる道理はないのです。果てまでなど、とても、追えない、見えない、分からないという非力を弁えているならば、正直に分からないと祈るのです。
 
 

    

               信仰 vs サイコパス
 
 
(2022年04月21日)
 
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエス
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
魂を揺さぶられて、恨みに思う者もいるようです。反省と悔い改めの機会を逃し続けて、身につけた嘘と詭弁から正しさを求めても、得たつもりでも、悲惨な自我の、醜態にしかならないのです。もはや、思想も宗教も信仰も、語れば詭弁になり嘘になって、崖っぷちを彷徨うしかないでしょう。
 
 
 

★こも/楽山日記3さんがリツイート
のりたま🍀358🍀
@ichigooooo0914
誹謗中傷が辞められない人。発する言葉を
一番最初に聴く人は
発している貴方自身。
午前0:19 · 2022年4月17日

 
楽山が、これを引用するのは、誹謗中傷と批判の区別が分からないからです。誹謗中傷は、楽山の記事で、対象はキリスト教です。根拠が、全く的外れの曲解~妄想です。つまり、楽山が、教祖願望の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自分自身を誹謗中傷しているのです。
 
 
 
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