ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の悪霊

 
  楽山の悪霊
 
 
 「霊言の冒涜は人類叡智の冒涜
   ~イタコ芸など、いい加減にせよ!~」を見た!
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14323546.html
 2022年04月23日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を批判。
 
楽山は、一見、HSを批判しているように見えますが、実際は、聖書から、残酷な言葉を選んで、書いています。楽山の目的は、自分が批判されたことへの、キリスト教に対する復讐でもあるのでしょう。実に、片落ちで、聖書は殺すことばかりで残酷ですよ・・と言いたいのでしょう。
 
聖書を理解しない者が、ましてや、言動が聖書を裏切っている者が、聖書を引用する・・これほど、危険で、醜悪な偽善はないでしょう。この楽山のような者のゆえに、終末の裁きは用意されているのでしょう。というより、既に、楽山は裁かれているのですが。
 
 

*公式見解?
・霊言の冒涜は人類叡智の冒涜~イタコ芸など、いい加減にせよ!~
(動画省略)
この動画では、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」という主張がなされている。
まるで、他の宗教でもHSの霊言と同じことをしていると言っているようだ。
はたして、本当にそうだろうか?

 
聖書において、霊については、聖霊と悪霊とが書かれています。これは、よかれあしかれ、人間を誘導し動かす心の働きを表しており、楽山が好むようなホラーの霊とは違います。霊について、とんでもない偏見で、楽山は、おとしめたいのです。楽山を信用しないでください。
 
楽山の、霊についての文章は、一足飛びにエスパーになりたい妄想なのでしょう。その欲張りから、楽山は、結局、悪意、つまり、悪霊にばかり憑りつかれているようです。楽山が、いちばん危険な霊の思い込みだけの、実際は、霊の無能者なのです。全く俗の欲望と興味だけなのです。
 
 

*聖書と霊言
たとえば、聖書にはこんな風に書かれている。
「(聖句)
霊媒を訪れたり、口寄せを訪ねたりして、汚れを受けてはならない。
レビ記19.31)
 」

 
まさに、超常現象としてのホラーの霊を信じて、霊が分かるっぽい自覚で、嘘と詭弁を書いてきたのは、他でもない楽山です。楽山は、努力せず、学習せず、一気に超常のヒーローになりたくて、崇められたい教祖願望で、あらぬことを書きまくります。
 
 


男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
レビ記20.27)
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
申命記18.10)
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。
レビ記20.6)
 」
これを基準にすれば、死者を呼び出し、その言葉を伝えるHSの霊言が容認されることはあるまい。

 
まさに「霊」を悪用する悪霊が楽山と言いたくなるような、ただれた発疹のような、断片的な聖句の引用の仕方と言えるでしょう。誰が、言論の場に「いてはならない」かを、楽山が表しています。楽山の、ブレーキの利かない血生臭さです。
 
 

*聖書と預言
預言については、こうある。

その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
申命記18.22)
 」
さらに、神については、こうある。

神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。
告げられたことを、成就されないことがあろうか。
民数記23.19)
 」
この場合、大川隆法預言者とされることはもちろん、神とされることもないだろう。
大川隆法は、90年代には、今世紀中に日本国民全員をHSの会員にしてみせると豪語したり、2009年には幸福実現党が政権を取るかのような物言いをしていたが全くそうはならなかったのだから。  

 
キリスト教を、ミソクソに言っておきながら、聖句を引用して根拠とするとは、楽山は、もはや、真実も、節操も、なくなって、亡者と化しているということです。楽山のような曲解を習いとするような者が、恣意的に引用してよいような聖書ではないのです。楽山は、悪魔性の冒涜者であります。
 
 

*心霊研究と霊言
イギリスの心霊研究協会では、霊言現象の検証方法として次のものがあるそうだ。

子供のいたずらではないかという懸念が、関係者の中にあり、ハステッド教授という心理学者が現地に行って調査した。ジャネットの口に水を含ませ、唇をテープで貼って、それでも声がでるかどうかを試したのである。 
(『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』三浦清宏著、南雲堂、昭和58年、p.35)
 」
はたして総裁の霊言は、この検証に耐えうるだろうか。
ちなみに、映画『死霊館 エンフィールド事件』では、霊媒少女が口に水を含んだまま、霊言をする場面がある(1:10:25付近)。

 
このように、楽山は、超常現象とホラーに興味があるだけのオタクです。宗教や信仰を語れるような、柔和な器を、全く持っていません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、聖書を引用すれば、ことごとくインチキになる定めなのです。近づかないでください。
 
 

*まとめ
以上のことからすると、HSの霊言は、聖書の預言とは別物であることが分かる。心霊研究における霊言にも該当しないだろう。

 
聖書の意味など、全く分かっていない楽山が言っています。戒律的な文言を、預言とか霊言とか呼んでいるところもそうですし、宗教の歴史を考えずに旧約聖書を、実に無遠慮に利用~悪用しまくっているのは、もはや、できの悪い子供が、マンガ雑誌を振り回して暴れているようなものです。
 
聖書を読むためには、聖書を読むための宗教的興味と冷静な弁えが必要です。楽山のように、キリスト教を否定しておきながら、自分の企みに都合のよい文言を集めるなどという引用は、悪魔性か、怠け者か、無節操か、凶暴性としか思えません。楽山を、決して信用しないでください。
 
 

したがって、これらを同一視して、HSの霊言は、他宗教と共通しており、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」と言うのは詭弁なのである。

 
「詭弁を弄する者」は、他でもない、楽山です。ずっと、そうです。そして、霊言という言葉を、平気で、分かっている前提で使っているのは楽山の傲慢です。霊は、心を意味したり、超常を意味したり、心霊、聖霊、悪霊など、多義でありますから、慎重でなくてはなりません。楽山は粗忽(そこつ)です。
 
 

詭弁を弄する者は、意識的であれ、無自覚であれ、言葉の多義性を利用しつつ、同じものを違うとしたり、違うものを同じとしたりすることがある。たとえば今回の場合は、「霊言」の意味を広げて、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」とし、HSの霊言も、他の宗教の啓示なども同じだということにしたわけである。こういう詭弁には注意したいものである。

 
霊言という言葉の定義も書かないで、霊言という言葉を振り回して、霊言が分かっている前提で、物を言う楽山こそ、あくどい詭弁屋の典型です。楽山の思い上がりは、もはや、有頂天妄想の領域にあると判断するしかないでしょう。教祖願望から正気の喪失に向かっているようです。
 
 

*冒涜?
余談ながら、本動画では、大川隆法総裁は「モーゼの霊言の中で、“神の声”と“悪魔の声”を聴き間違えたことを明らかにされた」云々という箇所があった(11:50以降)。
これはつまり、聖書には悪魔の声が神の啓示として記されている箇所があるということだろうか。もしそうであれば、これは明らかに冒涜だろうし、訂正した方がいいと思う。

 
超常ではなく、悪魔性が、助言者などに化けて、誘惑することはあるでしょう。楽山こそが、そういう言動を続けてきました。悪魔的な人物は、露者にもいるようですが、嘘吐きで詭弁で人をだましてきた楽山は、他人のことを言う前に、わが身を省みるべきです。しないでしょうけど。
 
楽山の言は、楽山の指摘する罪悪は、全部、楽山に返ってゆきます。自らを見ない自己中の宿命かもしれません。ワッハワッハと勢い任せで書いて、罪と恥だけが返ってきて、楽山の持ち物になります。言論の素地を持たない楽山の宿命のような自業自得の悲劇が、今回の記事です。
 
 

     

                悪霊も真っ青
 
 
(2022年04月25日)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
 
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
 
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
 
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
 
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
キリスト教を、ミソクソにけなしてきた楽山が、別の他者を、聖句を引用して、批判しているのは、不道徳の者が、白々しく道徳を教えるようなもので、全くのホラーとしか言いようがありません。罪悪感のない楽山だから出来ることなのでしょう。悪と偽善が沸騰しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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