ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の醜い虚栄2

 
  楽山の醜い虚栄2
 
 『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三
 2021年09月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30374305.html
 
 
聖書のいちばん大事なことを、全く理解していないのに、なおも、自分は分かってるつもりで重箱の隅をつついて満悦する楽山の、みじめな姿が、あらわとなっています。楽山には、聖書の知識はありません。いちばん大事な理解を飛ばして知識とは言えないからです。
 
既に浅薄だということがバレているのに、虚栄に走る楽山は、人間性の破壊された悲惨な姿を露呈するだけなのですが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山だけは、客観視ができないために、気づかないのです。見栄だけを張ることの醜さを、楽山によって学ぶことになります。
 
 

*通読
何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。
*熱心党
まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。

熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 」
「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
自分は、ユダは熱心党であり、イエスユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。

 
二千年前の話に確定はないと思います。楽山だから都合のよい否定の方向に確定したいのでしょう。それに、熱心党がどうとかいうことは、今の信仰には何の影響もないのです。いつものように、史実がどうとかでキリスト教を否定できると思っている楽山の無知と無恥が表れています。
 
聖書の、いちばん大事なところを、全く理解していないことが明らかになっている楽山ですが、なおも、いつものように、他者の口を借りて、分かってるんだと、まるで学者のように気取ってきます。読むことが、災いにしかならない者もいるということです。
 
なぜ、娼婦や取税人が天国へ行くのか、キリストがどういう人を救ったのか、大事なところをすっ飛ばして何も理解しないのでは、聖書を語ることは、どこまでも、無意味であります。つまり、楽山にとって、読書は、インテリ気取りの飾りに過ぎないのです。
 
 

*書きかえ
本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。

マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。
(同上、p.293)
 」
新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。

 
理解も信仰もないのに、知識人を気取ろうとすると、細部を知っていると見せかけることになるのでしょう。無視してください。楽山は、重箱の隅をつつきますが、重箱に何が入っているか、全く知らないままなのです。悲惨な楽山は、読むことより、目を失うほうが幸いでしょう。
 
細かいところをあげてケチを付ける楽山の評論家気取りは、見るも無残な病質からの虚栄心の災いであります。こうはなりたくないし、かつ、こうなってしまわないように、気をつけるべきだという、戒めとしてください。聖書は、細かいところにこだわらなくても、命を救う力があります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書
 
神レベルの正しさとは、こうであると語ることで、人間は、みな罪人であることを教えている聖句です。しかし、新共同訳では「女」を「人の妻」と書き換えて、キリストの教えを、月並みな安い道徳におとしめています。新共同訳は、神を、人の掌に乗せようとする悪魔の訳です。
 
 

楽天
個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエス楽天的なところを繰り返し指摘している。

ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。
(同上、p.307)
 」
著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。
(マタイ7:8-11)
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコ4:26-29)
 」
改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。

 
「神に対する信頼感はすごい」・・キリストは神の子と言われているのだから当たり前です。楽山は、何も知ろうともせずに、外から石を投げてきますが、そのたびに、ボロを出しているのです。それでも自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから書いてくるのです。
 
プラスのこと、プラスの喩えを、キリストが言えば、楽天的なのでしょうか。キリストが洞察力と共感性あふれており、十字架で死ぬことを覚悟するほどの人だから、真実として言えるのです。
 
楽山が言えば、ウンコを投げつけられるでしょう。今、そんな感じです。汚い楽山です。
 
楽山は、自己愛性人格障害のために、自分の表現を持ちません。真摯に学ぶ、ということを怠ってきたからです。そういう場合、楽山が今までもしてきたことですが、難しい言葉や文章を引用して、べた褒めすることです。楽山の崩壊した虚栄の魔界です。
 
(ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタントカルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[4]。
ニューソートウィキペディア
 
「神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・アホのべた褒めの、世辞そして嘘ということです。ひねくれついでに、正当が分かってもいないのに、超常のカルト的異端に走る楽山です。当然の流れだそうです。
 
「実に楽天的な信頼感」「たしかにこれは楽天的といえそうだ」・・キリストの教えは、決して「楽天的」ではありません。楽山が楽天的だと思うのは、神が与える「良いもの」を全く知らず、字面の狭い通念だけで判断しているからです。楽山は、キリストさえも、あざ笑いのネタにしています。
 
「心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・嘘です。かつ、作為の、べた褒めの幼稚さと言ってよいでしょう。楽山の心が落ち着くことは、なかったと思いますし、ありえないことです。楽山は、いつも、分かっていることにするために、わざとらしい台詞しか言えないのです。
 
 

*罪
著者によれば、イエス楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。

ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 」

 
キリストが救った人々と、キリストが厳しく批判した人々の違いを考えないのでしょうか。誰よりも、罪については厳しい見方をして、罪を認めた、あるいは、認めざるを得なかった人々を選んで、愛し、救いました。そこを理解してないのは、楽山と同じで、浅い辻褄合わせだけの思考のようです。
 
キリストは「罪になるかを定めて断罪」するスタンスは持っていません。それはキリスト信仰ではありません。この著者は、楽山と同様、無理解であります。しかも、それを楽天性と言ってしまうのは、著者は、キリストについて、真面目に考えていない人なのでしょう。
 
(ネットより)
田川 建三(たがわ けんぞう、1935年 - )は、日本の新約聖書学者、著述家。大阪女子大学名誉教授。宗教批判を通じて現代批判を試みた著作でも知られる。「神を信じないクリスチャン」[1]を名乗る。
1935年東京生まれ。聖学院高校、東京大学宗教学宗教史学科(1958年卒業)
文献批判に立脚した新約聖書学の伝統の上で、キリスト教批判や宗教批判、そして現代社会批判を展開したことで知られる。

田川建三 - Wikipedia


 
私は、信仰を語る上で、○○学というのを、あまり信頼していません。信仰は、心の問題だからです。著者は、キリストを見下ろしているような気さえします。「人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす」のではなく、人間は、必ず罪を犯すという本質なのです。著者は信仰者ではないようです。
 
聖書の学者が、信仰者でなければ、何の意味もありません。誰の助けにもなりません。楽山と似たような妨害者です。それにしても、楽山の聖句の選び方は、悪意によるものです。楽天的なキリストが、十字架につくでしょうか。類は類を呼ぶという記事になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:39、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書
 
キリストが、その優れた弁舌の能力によって、パリサイ人に、少しでも歩み寄る姿勢を示せば、十字架は、免れたでしょう。しかし、キリストは、十字架の道を歩まれました。十字架は、どこまでも、悲劇です。それは、私たちの悲劇だからです。
 
 

これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。

はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコ2:5)
 」

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:4
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 
2:5
エスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:4-5、新約聖書
 
赦されたのは、病人です。人々は、何とか、キリストのもとに連れてこようと努めました。楽山の言うことは、悪意による言いがかりです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
3:28
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 
3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 
3:30
そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
 
楽山は、恣意と悪意によって、キリストを汚しました。しかも、悔い改めることなく、今回も、その反キリストぶりを発揮しています。引用された学者は、楽山というネズミ男に、好きなように悪用されています。楽山は、自らが赦される余地を、自ら捨ててゆくようです。
 
 

ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。

右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 」

 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書
 
この学者は、何を言っているのでしょう。ひょっとして、楽山と同じ反キリストなのでしょうか。はっきり言いますが、信仰の無い神学者宗教学者ほど、無意味な職業はありません。信仰者の共感がないのです。結局、楽山のような無神教カルトに利用されるだけでしょう。
 
悔い改めは、神の前に正直に祈ることであります。悔い改めたからといって、完全な正義の人になることはありません。信仰は、成長するための道です。一気に悟る境地ではありません。こういうことは、何度も書いてきたのですが、楽山は、聞く耳も、感じ取る心も、持っていないようです。
 
 

また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。

(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。
(同上、p.275)
 」
そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。

 
聖霊を汚すのは、神聖をけがすことだからです。聖三位をけがしてはいけない、という当然の教えであります。神聖をけがすことは、楽山が、長いこと、続けてきたことです。それで、学者気取りでいるのだから、語ること自体が、疫病のように忌まわしいことなのです。
 
付け加えたのであろうとなかろうと、楽山のように、神をけがし、キリストをけがし、聖霊をけがす者が赦されないのは、当然のことであります。悔いることなく、改めることなく、遠慮することさえなく、駄文を書き続ける楽山の、自己正当化の尿臭が汚らわしいだけです。
 
 

*洗礼者ヨハネキリスト教
上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。

その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。
(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 
(同上、p.267)
 」

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:14
ヨハネが捕えられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 
1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコ1:14-15、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書
 
悔い改めは、生きる寄る辺を、世俗から、神に求めることです。つまり、信仰と、信仰生活に、なくてはならないものです。楽山にだまされて、行為義認と勘違いすることのありませぬように。
 
 

著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエス福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。

 
信仰を知らず、さらに、信仰を否定したい楽山が「…と思う」「…と感じる」としか書けないのは、知らないのに書いてくる傲慢であり、惑わしであり、自己顕示欲であり、侮辱なのです。楽山は「学がない」というより怠慢であり、知ったかぶりのために書いて、人の意見は無視する単方向の害毒です。
 
聖書は、それを読んだ人に何を残すかが大切であって、それが救いになってゆくことは、信仰者が証拠なのです。だから、聖句に、ああだこうだと、いちゃもんを付けること自体が無意味なのです。受け取った人は、受け取ったものを忘れられず否定できないから信仰なのです。
 
史実性にこだわって、大切なものを見逃してゆくのは、知性が勝っている人に見られると思います。信仰は、辻褄合わせではないので、いくら、キリスト教と信仰を傷つけても、傷つけた人の資料が出来るだけで、何も解決しないのです。信仰は共感性の無い人には分からないと思います。
 
引用元の学者は、厚顔無恥で恥を知らない楽山によって、好きなように悪用されています。楽山は、いつも、婉曲表現で語って、責任を負わない人です。嘘吐きの楽山が「つらい」なんてことはないでしょう。そして、ますます反キリストに徹しているようです。
 
書籍紹介一覧は省略します。楽山は、いちゃもんを付けても、キリスト信仰に代わる良きものを、ひとかけらも提示できないのです。何も解決できない惨めなクレーマーなのです。書けば書くほど、楽山の汚さが伝わってくるのに、楽山は独り悦に入って、また、嫌われに来るのでしょう。
 
 

著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。

 
楽山が紹介してくるのは、大方、信仰否定に関する書籍だと思います。字面だけなぞって、都合のよいところを引用~利用~悪用するなど、率直さが皆無で嘘吐きの楽山が、本を悪用することは、そこに諸悪の根源を表すことになるでしょう。楽山は特別の滅びですから、楽山にだけは関わらないでください。
 
 

        

               すり込み業者
 
 
(2021年)
(2022年09月07日、再録+加筆)
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省が難しいのだそうです。これは、人間であるのは難しいと言ってるのと同じです。その通りに、楽山は、人間らしいことをやめてきたようです。平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、人の口を悪用して刷り込み、悔いず、反省せず、不感不応で、訂正不能で、・・何も残らない表象です。
 
 
 
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