ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の汚物噴射2

 
  楽山の汚物噴射2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(5)その他
 2021年09月18日  楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30515517.html#more
 
 
人の口を悪用すること、餓鬼のごとく、噴水状嘔吐のごく、水溶性下痢のごとく、爆発性放屁のごとく、人の迷惑を省みない痴態、楽山の汚染拡大、もはや、人間の、節操も、マナーも、礼節も、節度も、恥も、失った臓物の悪臭です。インテリ気取りの終末は、我欲の排泄物となっています。
 
 

*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。ただし今回は特定のテーマは決めず思いの向くままに書くつもり。

 
楽山の、思いの向くままとなると、ますます節度は期待できません。前にも書いたと思いますが、思いつき次第、勝手な解釈のみで、狂犬が吠えるように、よだれをまき散らしてきます。その中身は、オレは偉いんだ、オレは偉いんだ、分かっているんだ、・・という虚妄以上のものではありません。
 
 

相対主義という無責任

真実は確かにそこに存在する。それは意見の問題では無い。今日、相対主義という、真実は互いに矛盾していようと見る視点によって幾つも存在するという古風な考えが根付いてしまっている…多文化社会を尊重して促しているように聞こえるかもしれないが、実際は単なる責任逃れを誤魔化してるに過ぎない
 」

 
人の考えを古風と蔑む人は、自分の考えは新しいと思っていて、その見なしに、おびただしい偏見が含まれていることに気づきません。神学とか教会とか教義とかに執着して、宗教と信仰について欠くことの出来なかった心の真実と切実を理解しなかった人の怨念を感じます。
 
 

価値観だとか、モノの見方であれば、人それぞれということにはなろうが、真実に関してであれば、人それぞれというのは無責任と言われても仕方がないかもしれぬ。
真実を確定できない状態であれば、さまざまな意見があるのは当然ではあろうが、真実が確定された場合は、真実は人それぞれ違ってよいとするわけにもいくまい。

 
「人それぞれ」によって、自己正当化をしていた楽山が、今度は「人それぞれというのは無責任」と言っています。責任を負わない者は、今までの自分の発言も記憶していないようです。しかも、真実が確定された場合」と言っています。どういう真実を確定したいのか、末恐ろしいことです。
 
進化論は、客観的に確定されたものではなく、仮説として、ある程度の信頼を得ているということです。全てが説明されるわけもなく、論であり思想であり、近未来の予想が出来るような法則や公式があるわけでもないでしょう。楽山は、妄想を語り、そのブーメランよって、歪み続けるのでしょうか。
 
全ては遺伝子の利己主義によって定まるといっても、遺伝子が、いったい、どう具体的に、利己的になって、人間の真実と未来を照らして教えてくれるというのでしょう。全く別の分野を混同した乱暴な短絡だと思います。無知な者ほど、真実の不確定性を悪用して、妄想を刷り込んできます。
 
楽山は、「人それぞれ」「確定できない」などという言葉で、だから自分の言い分も正しいと、自己正当化を企んできましたが、ここでは、「よいとするわけにもいくまい」と言っています。楽山の言は、定まらないのが特徴で、真実に近づくような、はっとさせるものなど、一度も見たことがないのです。
 
信仰は、客観的に確定されたものではなく、個人によって、生きるに不可欠だから信じられているということです。未来は未知であり、客観的証明など出来ないことは、最初から前提なのです。ゆえに、信仰を、固定した思想や信条や対象物や集団と見なす視野に、信仰は決して見えては来ません。
 
 

とはいえ、真実を確定することで激しい争いを生むことになるとすれば、真実よりは和をもって尊しとする判断もありえなくもない。
この辺りのことは、ホントややこしい

 
楽山の「和」は、ほんとに口先だけの何の役にも立たない真っ赤な偽物です。いい加減がいちばんじゃろ・・という無節操のことであり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、新しいことを受け入れない楽山には、そこで終わって、知識人ぶって、自慢するしかないからです。
 
考える前に結論が妄想となっているような楽山には、真実は、いつまでも、ややこしいままで、見過ごされてゆくのが都合が良いのでしょう。自己愛性人格障害者(自己愛性パーソナリティ障害NPD)にとってテーマについての感想は、ややこしいから本気では考えないという捨て台詞でしかないのです。
 
 

*進化論を教えること

ある物事は、ただ真実なのだ。それは選択や意見の問題ではない。あなたはご存じないだろう。それがどの場所よりも問題になる場所―学校―で、進化論を教えることは科学の教師にとってとんでもなくデリケートになってしまってる。
 」
上で触れている「真実」とは進化論のことだったのだろうか。それなら自分の考えは、ドーキンス支持ということになる。
正直いって、学校で進化論を教えるのは当たり前のことだと思うし、それを禁じるという発想はよく理解できない。

 
はっきり言って、楽山は、利用した誰の説も支持してなどいません。理路も、対立命題も、理解していないからです。理解したふうに悪用し、自分を高めて、忘れてゆくだけです。楽山を支配している自己愛性パーソナリティ障害NPDは、楽山に自分自身さえも忘れさせてゆきます。
 
その証拠が、一連の執拗な投稿であり、節操を失って、何の余裕もなく、何か書けば刹那的に難を逃れたかのような気休めになるのでしょうか。楽山は、今までと同様に、あるいは、もっと重症かもしれないが、独り言しながら洞窟の中をぐるぐる回っている危険な自爆霊であります。
 
つまり、何か新しいものを見出すわけでもなく、何かの役に立つこともなく、役に立てようとする意志もなく、人の口を利用して、書くということだけに執念を暴発させ、不完全燃焼して、有毒ガスを、まき散らしているようなものなのです。
 
「禁じるという発想はよく理解できない」というより、楽山は何も考えておらず、理解もしていません。全て自己中の欲望が空回りしてきただけです。否定と肯定を両方言って、断定していないから、責任問題は生じない・・という呆れた無思考が、楽山の言っていた信条なのです。
 
 

*意見

もちろん『コラーン』を読まないでイスラムについて意見を持つことは出来る。『我が闘争』を読まずにナチズムに意見を持つこともできる。
 」
その通り。誰でも何にでも意見を持つことはできる。でもその意見が的を射たものであるためには、それなりの基本知識はないより、あった方がよいだろう。
巷には慧眼の持ち主もいるだろうし、無関係の素人の意見を聞く必要がある場合もあるだろうけれども、そういう特殊の場合でもない限りは、まともな意見を持つためには一定の学びは必要だと思う。

 
自己中のために、基本知識からの思考を持ちえず、その欠陥を弁えず、口だけ出しゃばってくる楽山です。しかも、大方、他人の口真似に過ぎず、そのあと、引用し賛同し発言した責任をいっさい負わない男です。マックス卑怯者と言ってよいでしょう。
 
「誰でも何にでも意見を持つことはできる」・・責任を弁える常識人においてであります。無責任・無反省の楽山は、意見を持ってはいけないというより、持てないのに、吠えてくるのです。意見を述べるには、「基本知識」は、「あった方がよい」ではなく、必須です。
 
「一定の学びは必要」・・その学びができないし、学んでいないのが、楽山です。自己愛性人格障害のために、他者の反対意見を無視し、本を読んでも、都合のよいところを、つまみ食いしているだけなのです。楽山の粘着する臭い唾液にさらされるのは、迷惑というより疫病の感染です。
 
 

生存戦略

遺伝子レベルでは、すべてが利己的である。だが、遺伝子の利己的な目的は、さまざまなレベルにおける協力によって達せられるのだ。
 」

 
遺伝子に、利己というものを付けるのは、そのままでは成り立たないから、比喩であるか、あるいは、嫌いな宗教は関係ないという意味の強意表現なのでしょうか。「さまざまなレベル」は、いい加減ということであり、楽山は、誰とも真摯に「協力」したことなど一度もないと思います。
 
 

宗教では多くの場合、利己心は罪悪とされることが多いのではあるが、進化論関連の書物を読むと、利己から利他が生じたとしているのは実に面白い。

 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、遺伝子の利己を、人間の利己心と混同しています。凄まじい誤読あるいはすり替えです。楽山が「面白い」と言うことは、刷り込みか妄想であり、有害な殺風景であります。
 
楽山は、今まで、どれだけ、疲労させるだけのインテリ気取りの文章を発信してきたと思っているのでしょう。既に、気取りしかないとバレているのに、楽山だけが気づかないのです。
 
 

とある本では、とある動物を観察した結果、群れのルールを守る個体は、群れの中の評判はあがり、交尾の相手を得やすくなる一方、群れのルールを守らない個体は、群れの中の評判が落ち、交尾の相手を得にくくなっていたことがわかったという。

 
公共という群れのルールを全く守っていない無反省・無責任の楽山が言っています。楽山が書いているようになるのです。というより、既に、なっているのではないでしょうか。孤独から孤独へ、楽山は、さまよい、どこにいても、自慢することだけは止めません。
 
 

要するに、遺伝子を残すという利己的目的の達成のために、社会道徳を守り利他的に生きるという戦略は有効だということあるし、さらにはこういう戦略が有効だということは、社会道徳を守り利他的に生きているフリをするという偽善的な戦略も有効ということになりえるということ。自分にはこういう考え方は実に面白く、かつ興味深く感じられる。

 
理路のない妄想醜態貧相の楽山の暴言です。社会道徳を守っても守らなくてもいいのだそうです。現実に自分が掛けている迷惑を自覚できない者の言い分でしょう。そして、「面白く、かつ興味深く感じられる」と、偽善を肯定しています。
 
偽善は、罪の隠蔽偽装の分、罪の中でも最悪の罪です。楽山は、急性増悪(シューブ)を迎えているのでしょうか。破局点(カタストロフィー)が近いのでしょうか。ヤケクソなのでしょうか。狂っているのでしょうか。
 
(ネットより)
シューブ【(ドイツ)Schub】 の解説
シュープとも》病状が急速に悪化・拡大をみせること。肺結核で多くみられる。急性増悪。

(ドイツ)Schub(シューブ)の意味 - goo国語辞書


 
(ネットより)
カタストロフィ【catastrophe】 の解説
《「カタストロフ」とも》
1 突然の大変動。大きな破滅。
2 劇や小説などの悲劇的な結末。破局
3 演劇で、大詰め。

カタストロフィ(catastrophe)の意味 - goo国語辞書

 
 

*目的と手段

生物体はDNAの利益のために存在していて、その逆ではない
 」

 
また、利益という自然科学としては非科学的な表現を使っています。存続・保持のため、というほうがマシのように思えます。DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝に関与する物質です。楽山は、DNAに擬人法を使っているのでしょうか。科学を知らない証拠でしょう。
 
 

アリをみていると、働きアリが不憫に思えることがあるが、個体単位でなく、群れ全体がDNAを共有しているという風にDNAを中心にしてみるとその感想は違ってくる。

 
こういう考え方は全体主義につながりやすい、という可能性を考えない楽山です。やはり、ネトウヨだからでしょう。一つ知ったと思うと、とてつもなく大きな話にしてしまう楽山の性癖です。だから、楽山が妥当な結論に達することなど、ありえないのです。
 
 

人に関しても、近親者と他人、人と動物…という具合に比較してみると、その愛着の度合と遺伝的な距離とは無関係ではないらしく思われる。

 
そして、楽山は、上の失言を、家族愛という方向に、言い逃れようとしています。詭弁と誘導と弁解のための、わざとらしい「愛」の言葉だけを並べて、整えたつもりの見せかけだけの文章にしています。誰にも愛着を感じることの出来ない楽山のとても醜い詭弁だと思います。
 
 

こういうことを考えると、自分が抱いている愛情だとか、利他的な思いと行動などは、本当に自分のものなのか、遺伝子の生存戦略によるものなのか分からなくなってくるのだが、この分からなくてもやもやさせられるところが実に愉快である。

 
楽山は、自分の情緒や意志が、自分のものではないと言いたいのでしょうか。今度は、自らの悪行を遺伝子のせいにするのでしょうか。しかも、それが「実に愉快」などといっています。人間の節操が崩壊して、簡単な道理も分からなくなってきたのでしょうか。
 
楽山は、欲と利己を強く持っていますが、「愛情だとか、利他的な思い」を持ったことはないと思います。高等感情の鈍麻を、言葉だけでごまかしてきた履歴が、理解していないことを表してきました。楽山は、もやもや・・が愉快なのだそうです。楽山は、人をモヤモヤ煙に巻くだけの男です。
 
悪いことをしても、遺伝子のせいで、自分のものではない、という、罪悪感の欠損を自己正当化しているわけです。自己愛性人格障害を持つ病的ナルシストは、人格そのものが、有害であります。いつも、もやもやした嘘と詭弁の文章を書く楽山です。理路を組み立てることが全く出来ないのです。
 
 

*強がり

最愛のものたちと再会できる死後の世界というアイディアは、強い慰めになりうるだろう。私にはそうではないが。
 」
自分はこういうアイディアによる慰めを感ずる質なので、そうではないというのは強がりに思えてしまう…見当外れの想像かもしれないが。

 
最愛の者たちがいるとは思えない楽山ですが、死後の超常の世界を「慰めを感ずる」としているのに、唯物論に賛同し、宗教と信仰を否定している、という、矛盾だらけで一定しない情緒不安定を呈しています。見当外れの空想の断末魔になってゆくでしょう。なお、死後の世界は、誰も知りません。
 
楽山は、人生において、人を人とも思わない見なしを繰り返しておきながら、死後の幸福を想像することが慰めになるのでしょうか。また、嘘を吐いているか、あるいは、錯乱しつつあるということなのでしょうか。死後の空想に、何の善行も積まずに慰めを感じるのは、甚だしい異常です。
 
 

*希望?

われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。われわれにそれができるという事実は、避妊具の使用によって明らかになっている。同じ原理はより大きな尺度で作用できるし、そうすべきなのである。
 」
避妊具の使用は、よりよい機会、環境において、よりよい子孫をより確実に残すための手段とすれば、利己的な遺伝子にそむくというより、あやつられていることになるのではあるまいか。

 
遺伝子に操られているということにしたい楽山です。全て遺伝子が悪いんじゃ・・ということにしたい楽山です。自分の遺伝子のせいにしても意味がないとは考えないのでしょうか。道理で、言うことが無責任になるはずです。楽山の病理が、解明された感じでしょうか。とても空しい。
 
 

*宗教からの自立

理性的な人々が、こう声をあげるときが来たのだ。もう十分だ!宗教信仰は自立した思考を妨げる、分裂的で危険なものなのだ、と。
 」
これはその通り。
宗教教義によって考え、判断している限りは、自立した思考はできまい。

 
宗教を全く理解していない楽山が、また、理性を持っているとは全く思えない楽山が、どういう自立した思考をするというのでしょう。深い理解など、今まで、一度も、楽山には見られたことがありません。精神病質によって妄想と偏見に捻じ曲がった我執だけを見せてきた楽山です。
 
信仰は、宗教教義によって判断するのではありません。信条や教義は、ヒントに過ぎません。信仰は、言葉で完全対応できるものではなく、楽山には出来ないところの宗教的感受性によって、人間性において、内省し、判断し、行動する人生です。
 
宗教教義に縛られているのは、楽山のほうなのです。そこを超えて信仰に至ることもなく、柔和になることもなく、宗教教義=信仰というところに固まって、そこから不平不満だけを吐き出しています。そういう固定した視野狭窄ほど「自立した思考を妨げる」のです。
 
楽山は、親族や友人たちなどの近い人たちにも問題を指摘されてきたのではないでしょうか。しかし、元々が自己愛性人格障害で病識がなく、正常な人間という自意識が我執となり、訂正不能となって、誰の忠告も聞かなかったのではないかと思います。ならば社会的責任など考えるはずもありません。
 
楽山は、3年半前から批判されていることを知っています。空想好きでウソッピ物語の楽山は、子供のときから、嘘を吐き続けていたのでしょうか、何か言われることにも慣れていると思うので、問いただし、改めさせることは、専門矯正施設でもない限り、無意味だと思われます。
 
楽山が、批判されていることを聞かれたら、"気持ちは分かるけれど・・やっぱ興奮しすぎじゃないかなあ" 、"精いっぱい反省しているつもりですけど分かってもらえない" というような言い方をしそうな気がします。こういうのが、楽山の、人格鈍化・ボンヤリ言語・トホホ言語、そして騙し文句なのです。
 
3年以上にわたる反対意見の無視と、その上での執拗な投稿が、異常性の傍証になるでしょう。言い返せないのに、正義の味方気取りで、問答無用に、問答無視で、投稿を続けているのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)でなければ出来ないことだと思っています。
 
説得は無意味で、害を避けるには関わらないことしかなく、最終的な解決は、結局、何らかの強制力によるしかないのでしょう。楽山批判は、楽山を説得するためではなく、楽山という害毒がいることを敷衍(ふえん)し、楽山に近づかないように、注意喚起するために書いています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 

        

            楽に山のような嘘を吐いてきた
 
 
(2021年)
(2022年10月01日、再録+加筆)
 
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  鏡に向かって
 
裸を
鏡に写してみる
一瞥にも堪えないが
嫌なやつだとはもう言うまい
嫌いだとも言うまい
お前をみすぼらしくしたのも
汚したのも私だから
いつか割れるときまで
自ら光を持たない鏡よ
つくられたままの面の奥行きに
また私が表れるまで昼と夜を
少し歪めてもいい
受けた光をお前のやり方で
返せるだけ返してくれればいい
さらに歪めるかどうか
あとは眼の奥の生まれ育ちが
裸の責めを負うだけだ
 
 
  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
 
  ガラスの檻
 
道は檻へ続くと運転手は言った
留置場か刑務所か
しかし人はいないという
動物園か?
しかし誰も寄り付かないという
周りの緑が土に変わるが
汚れているわけではない
空気は澄んでいて涼しい
人通りはやがて絶えた
車が止まったとき
運転手がいないのに気づいた
ガラスのドアが目の前にある
それだけがある
開けて入ると
中は清楚な趣で
曇りガラスの窓を持つ
土色より薄く塗られた壁に囲まれて
檻というにはあまりに細い格子の中に
黒く低い像
頭を抱えてうずくまる
かきむしるように乱れた髪
細身で胸から脇腹は
やせて肋骨が浮き出ているが
こぶのように筋肉が
硬く盛り上がって
激しく体
自らを抱きしめようとして
突き上げる脈のまま凍り付いている
窓からの淡い日差しが
膝を折り像の影を
ひざまずいた影に重ねた
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
神仏であっても、人権侵害はゆるされないってことかな?
・経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち
午前9:46 · 2021年9月19日
https://twitter.com/komo266/status/1439390359658717184

 
キリスト教だけでなく、仏教でも、何にでも、平気で口を出す楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、身の程を知らない男なので気にしないでほしいです。無反省で無責任で、無神経で無理解で、その自覚が全くない楽山の、ストレス解消の放言なのです。
 
無反省と無責任と無神経と無理解が、どれだけ、人権を侵害し、人格の尊厳を傷つけるか・・ということを、最悪の言論の事例で示してきたのが、自己愛性人格障害の楽山なのです。本人は、サイコパスらしい悪意だけで、罪悪感を、全く感じていません。だから、今も書いてくるのです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬ka3mHe9xI1Cl
9月29日
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ <<
2022年9月29日

 
「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない」・・これは、以前より、嘘と詭弁と屁理屈だけの楽山の特徴です。また、楽山は恥をさらしています。人のことを言えば、楽山自身のことだというブーメランが、ずっと表れているのです。これが無神教カルトというものです。
 
楽山が、インテリ自慢や、キリスト教下げをして、それに反することは、聞く耳を持たず、理解できず、反論が詭弁になる、という成り行きが今までの3年余りでした。病質による変態なので、楽山が、何も語らなくなる日だけが、楽山問題の解決する日となります。
 
「これが信仰というものなんでしょう」・・信仰を、もろに否定し侮辱しています。だんだん直接的表現が増えてくるのは、抑えきれなくなったということでしょう。危険です。百鬼夜行ではなく、一鬼蛮行でしょうか。破裂でしょうか。隠せなくなってきたようです。
 
(ネットより)
ばん‐こう〔‐カウ〕【蛮行】 の解説
野蛮な行為。無教養で乱暴な行い。「酔余の―」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%9B%AE%E8%A1%8C/
 
楽山は、相手の言うことを聞いて考えて返すということが出来ません。相手が反論すると、自分の主張を繰り返すか、話を逸らして理路の迷路のような詭弁を弄し、こちらの思考を混乱させてきます。その結果、楽山との遣り取りは、いかなる成果もなく、糧(かて)にもなりません。体験済みです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省しない楽山は、子供の頃から、嘘を吐き続けてきたのかもしれません。そういう人生では、真実の追求など、できるはずもないことです。これからも、楽山は、嘘と、理路の嘘である詭弁を、好きなだけ言って、結果、否応もなく、その報いを受けて、その恥辱に自家中毒し続けるのでしょうか。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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