楽山の背教の証拠(2)3
楽山の背教の証拠(2)3
「第八講 ヨブ愛の神に訴う」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
2020年09月12日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/26231369.html
楽山は、書けないところを、引用と、要約の "つもり" と、広がりのない表現で、ごまかしてきます。今までも、恐らく、これからも、楽山は、言論から、いちばん遠いところで、我田引水で引用して迷惑をかけることしか出来ないと思います。
楽山は、読書したつもりだけで、読み取ってはいません。信仰を持たない楽山は、信仰を否定するために都合のよいところを引用しているだけです。信仰も、神も、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、言葉の字面以上ではありません。
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%88%91%E7%94%B0%E5%BC%95%E6%B0%B4/
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「第八講 ヨブ愛の神に訴う」を読んだので、内容をメモ。
ヨブは「友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗し」、「別に真まことの神を発見せんとする努力に入った」。
「そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである」
「人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵する」
「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」
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教義・教理的な話です。「一人は大宇宙全体と匹敵する」などは大仰で語弊があるとも思われますが、書き記すにあたって、著者の、神を賛美したい情熱と志が表れているようです。楽山は、超常ホラーが好きな趣味だけで、こういう大袈裟な表現に反応するようです。
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西洋では、ロッジ、ロムブロゾーら、科学者も、心霊研究など、来世についての研究をしている。
「第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである」
「神は義たるに止まらずまた愛なり」「神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである」
「神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做みなす時、人はわが罪の報むくいを怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである」
疑問、悩みがあるときは、焦らず、急がず、慌てず、希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと。
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「希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと」で、楽山は、納得するのでしょうか。もし、そうならば、今日のような有り様にはならないはずです。恐らく、殆ど理解できないために、引用だけして、読んだことにしたいのでしょう。
おもに、旧約聖書は、神と人の決定的な違い、神の恐るべき全能、戒め懲らしめる神、などを語っています。旧約だけだと、超常的また教条的になりやすいというリスクがあります。内村鑑三は、はっきり書いています。「キリストを通して愛の神を知る」・・楽山は読み取っていません。
おもに、新約聖書は、キリストの愛と共感による赦しと救いを述べています。新約だけだと、信仰は、感傷的になりやすいリスクがあると言われます。旧約だけだと、パリサイ人のような戒律主義や、教条主義になりやすいのです。
楽山は、教条主義的な解釈にも満たず、情緒的に感受することも出来ず、屁理屈に堕ちるだけのようです。つまり、最初から、楽山は、信仰を持つ意志などない人で、いちゃもん屋であり、自分を高めたいだけの偽善者だと思います。
さらに批判されて、弁明できないのに、成り立たないことを丁寧語で繰り返す行為は、宗教と信仰に対する明らかな嫌がらせの悪意ということになります。これによって、楽山の総ての丁寧語は、見せかけだけだと分かり、心無い世辞として否定されるべきなのです。
丁寧語を使うのは、そうすれば、冷静だと思われるだろうという狙いでしょう。楽山の意見は、ことごとく、思想のベースから成り立っておらず、かつ、進めてゆくほどに、さらに破綻しますが、お構いなしに不感不応の無反省と無責任のまま押し出してきます。
楽山は、内村鑑三の硬質な引用文と、楽山の自信ありげな丁寧語に、だまされる人が出てくることを狙っており、そのことを、こちらは危惧し憂慮して、批判を続けています。
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しばらく読書を中断していたので、文章に慣れるまで難渋してしまったが、ゆっくり読んでいると徐々に文章のリズムになれ、その内容も頭に入ってくるようになった。こういう切り替えは、若いうちは無意識にやっていたけれども、年を取ってからはなかなかに難しく、けっこう時間がかかるからやっかいだ。ほんと、年は取りたくないものだ。
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「内容も頭に入ってくるように」なっていません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、読書できない人です。つまり、自分に好都合な文言を漁っているだけで、それを読書と呼んでいるのです。
前から言っていますが、楽山は、まともな読書など出来ないので、都合の良い字面を拾っているだけという無理解が、ずっと続いています。だから、頭にも心にも入ってもいないと思います。何を「切り替え」たというのでしょう。ずいぶん前に言って批判されたことを、また言っているだけなのです。
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この講義を読むと、内村鑑三はスピリチュアリズムのことを知っていたようだ。当時の知識人としては、これは当然か。
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キリスト教でも、聖霊と悪霊など、霊という言葉は使いますが、使ったからといって、なんとなく神妙な気分になったとしても、神妙や神霊が分かったことにはなりません。人間の心を持たない楽山のスピリチュアリズムは、まるで地獄の虚妄の異世界から物を言っているような外れ方なのです。
ましてや、キリスト教の霊は、間違っても、楽山のような、親族のことを霊が分からないっぽいと言って、自分は霊が分かるっぽい?という自覚にのぼせ上がったスピリチュアルとか超常の霊能力?とかのことではありません。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12730717035.html
このように、字面だけ引っ掛けて、神妙に見せかけて、自分を高めてくる楽山です。カルト性の欺きが酷いです。超常が分かるという楽山のスピリチュアリズムは、いかなる鋭さも発揮したことがなく、愚鈍な自己顕示欲のペテンに過ぎません。
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ヨブは、神学の神でも、教会の神でもない、それらとは別の真の神を求めたというけれども、個人でそういう志をもち、実行するのはとてつもなく勇気のいることであったろうと想像する。
「神は義たるに止まらずまた愛なり」との言葉は、心に深く食い込むところがある。
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「神は義たるに止まらずまた愛なり」・・義を弁えず、愛を共感できない楽山の「心に深く食い込む」のは、怨念だけです。人間が吐ける中で最も悪質な嘘ですから、決して受け入れてはいけません。楽山は、こういう嘘や詭弁を、今までも、呆れるほど平気で垂れ流してきたのです。
楽山は、"神学の神"、"教会の神" などと軽口で、気安く言っていますが、実際に憂慮されるのは、キリスト教の内外に、カルト思想を蔓延させようとする楽山の言のような汚染と公害の伝染が広がることでしょう。新コロナより、台風より、有害だと思います。過ぎ去らないで粘着するからです。
楽山は「神学の神」?も「教会の神」?も「真の神」も全く知りません。ヒントさえ持ちません。楽山を許容すれば、個人としても、集団としても、何を言っても、無視して、訂正不能に、同じことを刷り込もうとする無神教カルトの類が、ますます、人々を惑わしてくるのではないかと危惧しています。
「心に深く食い込む」・・こういう言葉だけのべた褒めを書いておくのが、楽山のイージーな書き方です。詳しい説明が何も出来ないのです。楽山は、"愛" さえも、字面だけ書いていると思います。言葉だけ書けば、その通りに思ってくれると、思っているのでしょう。ペテン師の特徴です。
書いて表現することの難しさを痛感している立場から見れば、楽山は、とんでもない悪意のピエロなのです。字面だけ書いて、世辞を返されるのが大好きな楽山です。したがって、広がりがないので、楽山の文章からは、意味も、感動も、共感も、生まれないのです。
愛は、おおざっぱには、共感より生まれる高等感情ですが、楽山が、それを、見せたことも、表したことも、説明したこともありません。言葉についての安易さだけが、楽山の書くものの特徴として表れてきました。まさに自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の特徴でしょう。
【内部告発】HSUについて
2020年09月12日
http://mn266z.blog.jp/archives/26232729.html
自分自身を見ないで、人のことばかり言っている楽山。カルト批判どころではなく、楽山自身が、自己満カルトで、無神教カルトです。(記事の大部分、省略。)
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傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけだ。その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無いのは丸わかりだ。
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楽山の言こそ「傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけ」であり、楽山こそ「その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無い」ということです。自分が言われそうなことを、人に向けるのは、楽山の特徴です。作為なのです。
あるいは、楽山は、人を無視するし、自分を見ないので、自分の言葉が自分に返ってくるのが、分からないのでしょう。自己愛に凝り固まると、こうなるという見本のようです。こういう人にだけは、なりたくないものです。HSなどより、はるかに有害です。
(ネットより)
まる‐わかり【丸分(か)り】 の解説
対象となる事柄のすべてを理解できること。丸ごとわかること。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%B8%E5%88%86%E3%82%8A/
自覚というものがない人は、いつのまにか、相手を批判しているつもりのことが、ブーメランのように、自分に当てはまってしまうのです。このブーメランという言葉を、先に、使ったのは、楽山のほうです。にもかかわらず「丸わかりだ」と完全を誇るに至っては呆れてしまいます。
恐らく、同じことを言っても、自分を省みない楽山である前提を考えれば異常~邪悪としか言えない、ということが起こってくるでしょう。言うことが、大方、今までのキレイごとの発言と矛盾してくるから、嘘だと分かってしまうからです。
長い経過という文脈では、人のことを言う資格も器量もない楽山だから、無理してキレイごとを言っても、みな、嘘になります。既に、正体は、かなり悪魔的だとバレているので、何を言っても無駄なのです。楽山の言は、ことごとく、楽山の因業に過ぎません。信頼度はゼロです。
楽山は、すごい崩れ方を呈しています。楽山は、常識めいた書き方をしていますが、だまされないでください。彼の病巣は、もっと深いところにあります。獣性と偽善性と病原性を隠しての減らず口の記事3連発なのです。ゆえに、体質の異常と呼ぶしかないのです。
また、自らを見ずに、他を批判している楽山です。しぶといのではなく、無神経だから、平気で繰り返し書けるのです。嘘が分かりやすいカルトより、楽山が、いちばんの病原です。楽山発狂祖とでも呼ぶべきでしょうか。
楽山が、自身の有り様に気づくこともなく、何の努力もせず、真剣味もなく、正義の味方気取りで、正当な批判をしているつもりでいるのは、病質によって罪悪感がないためで、他のカルトより遥かに悪質だと思うから批判しています。楽山は、いつも、"つもり" だけの人です。
メモ的に:
楽山は、現実に悲劇が起こっていることをもって、神がいるならおかしいという言い方をしてきました。この時、楽山は、神よりも上に立って、こともあろうに、神を見下し評価し裁く態度なのです。楽山にとって、神は、自分の欲望と都合に合わせる召使でないと気が済まないのです。
信仰者は、現実に悲劇が起こっていて、その原因も理由もわからず、人間として、自分でどうしようもないゆえに、より大きな存在を寄る辺とするために、神を、信じ、仰ぎ、希望とするのです。そして、罪と悲しみを正直に告白して祈ります。
因業の独り言
(2020年)
(2021年)
(2022年09月30日、再録+加筆)
(偶像)
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
光と恐怖
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
偏頭痛
それはまさに
視野の中心から始まる
ふと見えにくいのに気づく
そのときはもう遅いのだ
ギラギラと光って
視界を遮る塊が
いびつな輪となって
ゆっくり広がるにつれて
突き刺すような痛みが
重く伸しかかる
青空は暗く傾き
地平線は割れ
散歩道は焦土と化し
くすぶり続ける煙が
あらゆる目的への歩みを
くびきのように抑え込む
口に含む薬の苦味
もう動けない
過ぎ去るのを待つしかない
そう過ぎ去るのだ
幾度となく忍びやかなる死の訪れは
まだ一度も殺意を成し遂げていない
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
「
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
」
>
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
<
楽山は、根拠もなく決めつけ、必然もなく言い張り、反省もなく思い込み、後悔もなく繰り返し、悔いることなく人を傷つけ、意味もなく笑い、冷血のうちに悦び、ブーメランの雑言を吐き、石のように不感不応で、何事も無かったかのように世辞を言い、それを、まともだと思っているパラノイア(偏執)です。
>
★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬茶トラ
@qN2ka3mHe9xI1Cl
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ twitter.com/JustBeBeliver/…
<<
2022年9月29日
https://twitter.com/komo266/status/1575243319797432320
>
本物も偽物も区別できない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、節操もなく書いています。「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し」て来たのは、楽山その人です。無神経、無反省、無責任、不感不応の他者無視、なのに、インテリ気取りで書いてくる自己顕示欲の鬼畜です。
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
偏執。
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
形骸。
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
https://st5402jp.blog.fc2.com/
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(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
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(ブログ記事をコピペすることあり)
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