ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰と思想

 
  信仰と思想
 
 
正しい道、正しい信仰、
正しいキリスト教、正しいキリスト教思想などと、
正しさを強調する向きがあります。
そういう向きは
神と人の違いを分かっていないのです。
神をどのような御方として信じているか
という自覚がないのです。
 
全知全能、絶対完全、永遠不変
神の性質として言われているこれらは
人間の性質として否定されるためにあります。
人は神ではないことを示しているのです。
間違えても目指すなどと思ってはいけません。
キリスト教に戒律があるとすれば
まさしくこの弁えであります。
 
神の正しさを
人間が持つことはあり得ないのです。
これは強く思います。
信仰の敬虔に直接かかわる問題だからです。
 
私は、罪深さを、しばしば、不完全という言葉で表しています。
不完全から、罪を犯す必然性、罪性を考えているからです。
 
私たちが求めるべきは正しさではありません。
信仰が与えるのは正しさではありません。
 
真・善・美、いずれも同様です。
人間が完全な真善美に至ることはありません。
 
人の善行を施す。
人に意見を言って正す。
これは、完全が、不完全に教えることではありません。
不完全が、不完全に、
正しい道へのヒントを伝えているに過ぎません。
 
神の、全知全能、絶対完全、永遠不変
人が地上で持つことはありません。
 
したがって強気で豪語できる信仰はありません。
その自覚が敬虔であります。
 
人間に、信仰者に出来るのは、
ことに際して精いっぱいの真善美です。
だから、なおさら、不完全の自覚が必要です。
それを、敬虔、謙虚、などと呼びます。
神に対する人の弁えであります。
 
信仰には、のぼせるということがあります。
若者に多いですが中高年にも起きてきます。
中高年は、教える側にいることが多く
年齢から、社会における位置から
豪語しがちであり訂正不能になりやすいのです。
 
自分の言動が
いかに正しいと思えても
そこに絶対完全の称号を与えないのが信仰です。
 
人間には神の視野はありません。
人間は不完全です。
しかし
人間には理路があり感受性があります。
人間は生きている限り学習し成長する生き物です。
 
不完全で罪深い人間には
学んだことを生かす能力があります。
 
そこで
完全で訂正不能の思想を持ってしまうと
学習したつもりになって
成長したつもりになって
実は
自己満悦だけを求めるようになります。
 
自分の不完全の自覚と
神という完全絶対者を仰ぐことで
祈りを通して告白と反省の機会を持つのが信仰です。
 
超常現象の奇跡
即ち、聖書にある歴史や奇跡の話、
これらを信じ込むのが信仰ではありません。
超常の奇跡は
元々人間を超えたものとして語られています。
 
神やキリストとの合一化は
人間の傲慢を表す反キリストの所業です。
罪と偽善だけを表す者と成ってはいけません。
それらは人間の滅びの見本になるだけです。
 
聖三位を讃美するだけの信仰は
わかってる、わかってる、わかってると
神に対して思い上がりを表しているのです。
 
信仰から
神に向かって
わかってる
知っている
守っている
と言うことは
信仰においてはあり得ません。
分からない
知らない
守れない人間を憐れむのが神だからです。
 
人間は
被害者であり
加害者であります。
プラスマイナスゼロということではなく
比較できることではなく
どうしようもないところから
信仰は生まれて成長してゆきます。
このようなあり方は
信仰以外では生まれてこないでしょう。
 
科学の一部の者が信仰を否定するのは
観察も実験も出来ないからです。
現象の再現性がないからです。
つまり
科学も
いかなる学問も
信仰を対象に出来ないからです。
 
無神教カルトがしばしば口にする台詞があります。
「神の存在を証明してみろ
 そうしたら信じてやる」
証明できるなら信じる必要はないのです。
 
信仰のことで
科学めいた話をする者を警戒してください。
自分が対象として理解できないことを否定するのは
神を対象としてしか考えられない者です。
大方、自己中心の人格です。
科学という学問の弁えすらない者です。
 
人は生まれて
必ず死ぬように造られています。
人間は永遠には耐えられないからです。
人間は
全知全能絶対完全永遠不変には
耐えられないのです。
これが分からない、あるいは、否定するのは
人間が分かっていない証拠です。
 
キリストは、
傷や病を負うた者
社会から低く見られている者など
思い上がりようのない人たちに
信仰の義を与え
救いを宣べ伝えました。
 
一方キリストは、
高ぶっている者
高い地位を自慢して
罪人を指して
あのようでないことを感謝する者
これら信仰の目的を自己正当化に
悪用するものたちです。
キリストは激しく批判しています。
 
豪語はもちろん
世辞や丁寧語で
信仰を否定する者を信じてはいけません。
信仰は命の問題であり
決して世辞や豪語では語れません。
 
信仰の動機も切っ掛けも知らない者が
知恵足らずのまま大人になって
神と信仰を否定してきます。
自分より上の存在を想う心がないからです。
彼らは慢心して笑っており
放屁して自分の臭さを知らない者たちです。
 
キリスト教会組織や人の口で
一方的な権威をもって侮辱された人は
その教会から離れてください。
 
神とキリストの教会は
また本当のキリスト者
いかなる人も
脅威にならない限り
批判や侮辱はしません。
 
加害者の傲慢にも
被害者の卑屈にも
毒されずに生きる道があります。
 
 
※ この記事は、今後、修正加筆する必要があるかもしれません。
 
 

    

              飾りのない道を
 
 
(2022年11月16日)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  地の塩
 
人をすなどろうとは思いませぬ
人をあやつるなどは以ての外
されど狭き小屋から眺むるに
物はあふれ
口から厠へ落ちるばかり
やがて商うことも
贖うこともできなくなりましょう
渇ききった
飢えたる魂のあるところ
何処の海を二つに分けて
何処の山へ
国へ
祭壇へ
導かれようというのでしょうか
荒れたる狭き庭を眺めては
地になりたし
塩になりたしと
思うこの頃
 
※ 塩は、味付けに欠かせないものとして、キリストの教えの中の譬えとして聖書に書いてあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 
 (マタイ5:13、新約聖書
 
 
 
楽山の害毒メモ:抜粋
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省もしないし、責任も負わないくせに、長きにわたって、白々しく、まともに見せかけた記事やツイートで書き続けた楽山に、言論の自由はないと思います。嘘と詭弁で保身して、罪悪感がない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。関わらないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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