信仰と教義と学問そして思考3
信仰と教義と学問そして思考3
2013年03月13日を再録+必要なら修正
コメントの日付は省略します。ずいぶん昔の、ヤフーブログ時代の、今では見つからないブログ「日常×非日常」の記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから編集を加えて記事にしています。
「信仰をなくす(必要性)」について
信仰、さらには宗教というと、人間としての共感以外にも、余計なものが着いてきてしまうことがあります。「信仰をなくす」は、信仰がなければそもそも言う必然のないことです。信仰と思っているものの中の、余計なものを削ぎ落とすか、少なくとも、区別することが必要です。
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
これが端的に表していると思うのですが、「信仰をなくす」必要性を考えることが、既に何らかの教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。つまり、言葉だけを固めるだけでは、なくさなくていい信仰を明らかにすることには、近づくことさえ困難になります。
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、それは、キリストが、実践したことです。なのに、慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであるのに「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
一人一人違う信仰を、言葉で一致させることは不可能です。厳密には言葉も一人一人違うからです。大事なことは、キリストに救われた人間の心を、感じ取り、考えることでしょう。救われたのは、教条に専念した人ではなく、そういう人に軽蔑される悲しい人々だったということです。
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに、長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。この場合「なぜ神は・・」は「神様、分かりません!」という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、「なぜ神は・・」を神義「論」として答えを得られるという考え方がおかしいのです。
教義、教理、信条は、信仰のヒントとなる言葉であります。大事なのは、信仰が生まれる土の器、という比喩で表された信仰の心なのです。信仰は、心以外にはないからです。
かつて、偽牧師シャロームshalom は、心のどこを探しても信仰はないと言っていました。土の器という言葉から、何か魔法の器があり、魔法のような信仰?を受け取るつもりなのでしょう。人間離れの偽善者は、そういうところまで、無理解を魔法に置き換える害毒となります。
「クレド」について
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。神という御方として・・選択肢が他にない人においては「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして、私にもあります。祈り嘆き叫ぶ相手として・・であります。
いつでもどこでも正しく通用するかのよう語られる「信条」は、そのものが言葉である以上、実感できるように心と、隠された導きを要することです。最悪なのは、"分かっている" と言うために、導きを決めつけて思い込むことです。人は、神の関わる信仰を、完全には知りえません。
信条を、信仰そのもののように語ることは、批判対象になるだけでしょう。信仰は、形無きものです。神と、神の賜物は、推測や想像は可能でも、人が確定することは出来ず、ある時、判断するだけであり、不可知と弁えるべきことです。聖書と体験から、成長してゆくのが、人の信仰です。
「教義的信条という類のものは信仰に含まれない」
というコメントについて
本当に含まれていないでしょうか。神学を知らない私でさえ含まれていないとは言えないから自己も含めて批判したいのです。教義的であっても信条は、信仰そのものではなく、忘れないほうがよいヒントとしての道しるべとしての役割を持っていると思います。言葉は、そういうものです。
ヒントは、ヒントとして、大事にすればよいのですが、若き日より教会などで教えられたものに無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものやROM回路的思考のような言葉が、無意識にこびりついていて、先入観のように、いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
「神学批判」という批判コメントについて
少なくとも私はよく知らない神学を否定することは出来ません。私は、人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないと思っています。
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、神の関わることだから信仰の整合性は、人の側には完全には解明されません。人が信仰の整合性を学問に求めることは出来ないと思います。無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足そして自分信仰への固着になります。
信条について・・神の全知全能を信じるかと問われれば、私は信じると答えるでしょう。しかし神についても、全知全能についても、全知でも全能でもない私という人は理解できません。神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
つまり「分かりやすいとか分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、信仰は、神の全知全能を信じるという言葉だけでは成り立ちません。それは、言葉としての出発点に過ぎないのです。
学問は、失礼ながら興味に始まっているような気がします。
信仰は、私には、まさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないでしょうか。モノローグで終わりたければ、それでよくても、ダイアローグにしたい私には耐えられない」
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
なんとなく分かるような気がするのは、私は学者ではないので「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。ですから専門用語をいっぱい使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
楽山の言うことを受け入れても、何の役にも立ちません。詭弁によって理路が混乱し、曖昧さによって感性が鈍麻するだけです。そして、神経~精神が疲労し、人格そのものが鈍化してゆき、最終的には、人格が破壊されて、楽山と同じようなボンヤリ人間になってしまうでしょう。
「日常×非日常」ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について私も時々コメントを入れてきました。
さて信仰的思考、ここでは信仰について語るときはどうかというと、やはり、日常語レベルで、ある程度の整合性が必要になります。論理的整合性というと難しくなりますが、支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しやごり押しであってもいけない、ということです。
信仰者としての聞く態度と思考には、賛成意見も反対意見もあるわけですから整合性というか説得力というか、根拠や筋道は必要になります。詭弁や思い込み~妄想を除外する必要もあるでしょう。キリスト者の共感として、キリストの共感が聖書にしるされてあり、信仰者のキリストへの共感があります。
信仰は理屈ではないし、神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。しかし人の側の信仰の受け取り方は、人間性の問題です。人間性の問題である以上、信仰における人の姿勢や態度そして思考について、信仰者という人間の共感に基づくところの弁えは必ず問われるのです。
それらすべてに、決定的に、致命的に、不合格なのが、楽山と、シャローム、という、良心のないゆえに、罪悪感も、共感もなく、妄想的な決めつけと信条だけの異常者なのです。信仰を持たないだけではなく、神に逆らって、反キリスト思想を刷り込もうとする彼らに、関わってはいけません。
※
現実を生きる信仰は、決して超常を理解することでも信じ込むことでもありません。宗教と言えば超常という先入観を作ったのは、キリスト教と他の宗教そしてカルトの責任であります。宗教と信仰の、現実の人間との関係をずっと考えています。超常の理解力は人間にはない、ゆえに超常と呼ぶのです。
人間が生きるために必要なことが超常であるなら、人間は決して救われません。キリスト教はキリスト信仰によって、キリストと心貧しい人々の間に生まれた温もりと潤いによって始まっています。キリストの、人々への悲しみへの共感こそが、人間が生きることの源泉となっています。
超常奇跡ばかりを語る説教を信じてはいけません。人間が生きるのには、人間らしい悲しみの共感が必要です。言葉ではなく、生きる理由が絆として心にあり、共感と癒しが人生に同伴することが、キリスト信仰の賜物であります。キリストとともに・・というのは、具体的には聖書とともに・・ということです。
超常は神のものです。まるで我がもののように超常を語る口に惑わされないでください。そのために、人には手に負えない、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、・・という言葉が、神を表す言葉として用意されました。超常に近づくのが信仰ではありません。祈りとともに生きるのが信仰です。
整合性
(2013年)
(2021年)
(2022年12月30日、再録+加筆)
薄い
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
甘栗
甘栗を噛む
ぱりっと音がする
指で殻を割る
ころりと栗の実が顔を出す
今度はうまくいったと口に放り込む
手に残った小さな殻
ふと内側を覗(のぞ)く
しばらく見入ってしまう
一粒の小さな実を結ぶということ
祈り・潜熱の循環
冷たい熱に
まだ温もりがあるならば祝福を
真空にエネルギーがあるように
虚空には潜熱がある
保存則を守りながら
やがて諦観となって灯火を揺らす
諦めとしての灯火と
諦めと裏腹な灯火と
どちらが燃え上がるでもなく
対をなして虚空を漂う
いつか再び温もりとしてこの胸に
還ることがあるでしょうか
クリスマスに何のお手伝いもできず
凍りついた無為のまま
震えて過ごした冷たい熱に
まだ生きて祝福を賜るならば温もりを
内に秘めた温もりを
人々の間に灯す術を知らず
潜熱として閉じ込めて
冷たい空へ解き放つ
冷たい空は冷たいままだ
身は熱を奪われてますます冷たい
何も伝わらなかった
何も伝えることができなかった
と次の潜熱が疼き始める
アノニマス
気がつくと群れの中にいた
仕事をしているらしくもあり整然として
そのくせ働いたときの充足感も
疲労さえもなかった
そこではお互い顔を見ることも
肉声を聞くこともなかった
ある者は快く語り
ある者は苦悩をのぞかせ
ある者は淡々と語った
首のない会議
しかしその集まりは匿名ではなかった
それぞれが仮の名であれ名乗り
責めがあれば負う覚悟さえ示していたのだ
肉声を聞こうとし語ろうとし
高めようとする姿勢
それがすべての始まりであった
もどかしく伝えようとして伝わらないもの
もどかしさゆえに語ろうとしていた
それが終わりのすべてであったかもしれない
ある者はうなだれて去り
ある者は再開を期して帰っていった
気がつくと独り疲労があった
誰のために、と
ふと思った何のために
切られることもなく選ぶこともせず
自分を切り刻んで見せるだけで
高められる何があろうか
失ってみれば確かにその通りであった
旅立たせる翼はなくても
そばだたせる耳ぐらいは欲しかった
それだけはどうしても
ここで完ぺきなほどに匿名の
独りの声は宙にかき消え
磨いてきたつもりの刃に
ぽつぽつと浮いている錆を見つめていた
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
楽山のしてきたことは、「人間の性」で「自分もそんな風」という人間共通のことでは決してないわけです。楽山の固有の罪と偽善です。楽山は、空しい詭弁の言い逃れをしています。多くの人を、無駄に疲れさせ、だましてきたのは、罪悪感のない病質です。
良心のある人ならば、こうはなりたくないと思うような人間に、楽山は、なっているのです。言葉だけ見ても、バレていますし、これからもバレてゆきます。もはや、いくら、良さそうな言葉を見繕って並べても、病質は、必ず表れてるでしょう。楽山の、一切が、詭弁という無駄なのです。
反キリストの楽山と、偽牧師シャロームは、同一の成りすましかもしれませんが、いずれにしても、ネットの匿名性を悪用して、宗教、思想、映画、霊能、などを、興味本位で書いて面白がっているだけの、荒らし体質の者たちだと思います。決して関わらないでください。
自己愛性パーソナリティ障害:診断基準
ハートクリニック こころのはなし
誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係すべきだ、と信じている。
過剰な賛美を求める。
特権階級(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)。
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
尊大で傲慢な行動、または態度。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
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(古い記事もインポート済み)
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(ここにブログ記事をコピペすることあり)
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