ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰とは3

 
  信仰とは3
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない務めとなっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、なぜ信じるのか、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであります。
 
信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。
 
このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。繰り返し唱えておれば信仰・・ではないです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の言葉を繰り返しても、聖書解釈としても、それだけを唱えることは、現実の人生に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて、仮面で讃美することになります。
 
何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れるべきものを受け取っていないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じれば救われます・・ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることで大事なことは、教理を繰り返すことではなく、上から教えることではなく、人間としての共感だけなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎません。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、聖書に書かれている御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望を見い出し、祈りと告白を捧げることを信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴いますが、人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要(かなめ)であります。
 
このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。その解放は、理解というより、共感と希望であります。希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。
 
それが、絶えることのない希望に支えられた信仰となるでしょう。ゆえに、神の側が否定することはないのだから、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。人が、固く信じようとすることは、しばしば、心に神のイメージや思いを自分で作ってしまいます。
 
むしろ、信じ込みは罪であり、罪として赦しを乞う性質を持ちます。ゆえに、祈りにおいて、正直であることが必須となるのです。項垂れても、仰ぐ姿勢でも、祈りの、最も大切で、不可欠なことは、正しいことでも美しいことでもなく、本音の、正直な祈りであります。
 
つまり、現象としては、神は、人が永遠の神の存在を熱望して、祈ることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰ではなくなるでしょう。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと、決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言っている偽善者が現にいます。「悔い改めは神が与える」という言い逃れをしますが、悔い改めていないならば、神が与えていないってことだろう・・という自己矛盾に、自ら堕ちているのです。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰められ、癒され、救われています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという傲慢によって、キリストに退けられ、ゆえに、キリストを殺したのです。今のキリスト者がそうであってはならないという悪の見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじて、感謝と讃美だけを唱えるのも、信仰ではありません。
 
悔い改めは、罪人であることを自覚し、神に、告白し、祈ることです。神の前に正直でなければ成立しません。信仰は、それを繰り返すことです。つまり、生きることであります。信仰は、神の前に、成長することであり、決して、一時に完成することではありません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、神と人の決定的な違いを基本的な自覚として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのが、今は目に見えないキリストの共感に満ちた同伴である、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいます。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト信仰を、お伽噺にしてしまう輩もいます。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいるのです。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、その言説を眺めれば、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が、無視できない傾向として、一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性を示唆しているのです。
 
しかも、カルトは、何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるでしょう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化であります。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やしません。むしろ、悩ませ、病ませるものになります。そういう者に限って、うれしそうに、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" などという讃美言葉を繰り返すでしょう。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいでしょう。大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰に誘導される危険にさらされていると思います。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエスキリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合があります。
 
 

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                  救い 信仰
 
 
信仰者も、現世において起こってくる様々な悪の有り様と、突然の不幸の有り様を知ることになります、ただ、信仰者は、災いの背後に、今は隠れて見えないけれど、人間に対して至高の存在が、大きな歴史を動かしておられる存在を希望として想うしかなく、キリストを信じ、神を仰ぎ、祈るのであります。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その時代の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、その時代の重荷を負うゆえに、神を、想わなくてはいられませんでした。しかし、その資産によって、現代に至るまで、考え始める切っ掛けとなる聖書が、二千年の間、引き継がれていることを忘れないでほしいのです。
 
聖書は、必ずしも、読みやすいとは言えません。長々と系図で始まったりもしますし、そんなこと分かってると言いたくなることもあるでしょう。大事なのは、人間は不完全ゆえに罪深い、ということです。
 
そして、罪人への伝道が、人の与える名誉や金銭的利益に何のメリットもないのに、憐れみ、共感、愛のみによって、命を捧げた御方が、イエスキリストだということであります。その御方を、救い主として、好き訪れとして、即ち、福音として伝えてゆくのが、キリスト信仰者の務めとなっています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能・絶対完全・永遠不変の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから考えれば、旧約聖書に徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることこそが、人類の英知なのです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判され否定された人々が分かれます。
 
聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝します・・などと神に自慢してしまうような、罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。
 
ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうだ、という例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
キリストに救われた人は、キリストの前で、正直に告白し、あるいは、そういう身の上を表しました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
 
キリストに向かって、へりくだりながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めの体験でもありました。キリストが人間ひとりひとりの人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるということです。
 
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
実際、彼ら邪悪な者は、人を、たぶらかし、だまして、存(ながら)えているようです。彼らは、全く、キリスト教を、信仰を、敬虔を、理解していません。なのに、柔和を装い、敬虔芝居をしてきます。自己中で訂正不能のために、学習せず、成長せず、にもかかわらず、自慢し悦に入るのです。
 
 
信仰についての証しとなることは物や肉体の奇跡によるのではありません。人間の心に起こっていることを忘れないでください。超常の言葉と理屈と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
二千年前に、パリサイ人などの偽善をすっぱ抜いて、厳しく批判したのが、イエスキリストです。私はキリスト者なので、キリストを救い主として信じていますが、いつくしみ深きキリストは、鋭い批判者でもあったのです。及ばずながら、キリスト者は、邪教や偽善者に対して、批判者でもあるべきでしょう。
 
少なくとも、悪い言葉の中に批判を含めて、いつも、聞こえのいい言葉だけを使うように教えている教師は、それこそ、ハイソみたいに上品になりたいだけの、神の言葉も、人の言葉も、言葉の本質を何も弁えない偽善の堂々巡りをして、キリストが最も憎んだ偽善を促しています。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書
 
悪い言葉は、何かを善くしようとする意志のない言葉であり、悪意の言葉であります。ゆえに、悪い言葉に批判を含めることは、パリサイ人を批判したキリストを、おとしめる冒涜であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書
 
人は、キリストようには無理でも、意見を言い、間違っていたら、できる人が、できるだけ、批判をしなくてはなりません。「悪い言葉」だからと、批判を禁じる者は、キリストの福音を禁じる者、キリストを十字架にかける者であります。そのような動きは、現にあるように思われます。
 
聖書の御言葉は、心で読むものです。言葉面だけで読んだつもりになるのは、心の解放感を伴わないことによって見分けられるでしょう。そして、聖書を読んだ人は、恐れと、救いの共感によって、理解を保留することが出来ます。シャロームは悪意で思い込み、楽山は読まずに呪いながら決めつけてきます。
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
(2022年01月12日、再録+修正)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間、そんなものでしょ、・・とでも言いたげな「人間の性」という言葉です。この "2."レスコメント自体が、楽山固有の偽善とペテンの罪を表しています。言えばブーメランで自分に返ってくるという成り行きで、なおも、他人のことを、恥も知らずに言い続ける柔和芝居が、一日も早く、終わりますように。、
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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