ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

宗教趣味?

 
  宗教趣味?
 
 2020年02月05日
 『グラフィティ・歴史謎事典4 聖書の世界』月本昭男監修
 http://mn266z.blog.jp/archives/23396467.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、ぼんやりした甘く緩んだ口から、知ってるふうに語られる宗教の話は、毎度毎度、聞くに堪えません。
 
楽山は、理性的にも感性的にも、幼稚で愚かなことを書いている、という、足らざる自覚や気づきが、体質的に欠けているのでしょう。
 
不完全の自覚のない人は、そのままでは、徹底的に、宗教にも信仰にも向きません。むしろ、社会悪に結び付かないかどうかを見ていく必要があります。
 

聖書の世界 (光文社文庫―グラフィティ・歴史謎事典)
本書は文庫本サイズで、現地の写真を豊富に掲載していて、眺めているだけでも楽しい本だ。古代イスラエルの歴史の紹介や、ソドムとゴモラは実在したのか、大洪水は本当にあったのかなどについても発掘調査の結果とともに解説されている。一つのテーマは2~4頁くらいで簡潔にまとめられているので読みやすくてよい。

 
楽山の特徴は前にも書きましたが、宗教と信仰を、史実かどうかという視点と、霊が分かるっぽいという自認からの超常趣味という視点からしか見ないことです。
 
しかも、そこだけから、宗教が分かるっぽいという記事を書いてくるから、信仰者としては、楽山が、知りもしないで、知らないことを自覚もしないで、よくも書いてくるものだと思います。
 
しかも、批判されて、まともに何も返せないくせに、平気で書いてくることを、無反省で無責任の執念だけが強い厚顔無恥だと判断せざるを得ないのであります。
 
宗教と信仰は、楽山のように「実在したのか」「読みやすくてよい」、すなわち、史実と興味、そして、持ち前のインチキ霊感、このようなもので、決して語れるものではない、ということを、批判という題材で、敷衍(ふえん)するしかないのです。
 

個人的には本書のなかでもっとも印象的だったのは、監修者による「はしがき」だった。それによれば、古代イスラエルの遺跡は、エジプト、ギリシャ、ローマのものと比較すれば貧弱で規模も小さいし、「物質文明という点では、パレスティナ先住民にさえ劣っていた」という。ただしそれでいながらも、思想宗教の分野では、聖書を生み出し、それは現在も世界中で読み継がれ、大きな影響力を持っているとのことである。
自分はこれまで、政治経済が発展し、物質文明が栄え、豊かな生活をする者が増え、余暇の時間が確保されてからようやく思想宗教が深められてゆくのであって、ある程度の豊かさがなければ思想宗教は発展しないだろうとばかり考えていたので、こういう話は新鮮な驚きであり、愉快な心持ちがする。

 
聖書を生み出したイスラエルが、貧乏で、遺跡が貧弱で小さいことが、楽山には、新鮮な驚きで、愉快だと言っています。いったい、歴史をどう勉強してきたのかと思います。
 
キリストによって救われた人々は、ある程度の金持ちやインテリもいたかもしれないが、多くは、金持ちだったわけでも、インテリだったわけでもないと思います。キリスト・イエスも大工の息子でした。福音書からは、なんとなく、親しみのある貧乏の雰囲気を感じます。
 
お高くとまっていたパリサイ人や、お金を持っていそうで生活苦の感じられない祭司などは、大方、キリストの敵となりました。
 
歴史的にも、ダビデ王の時代は遠く、ローマの支配下にあって属国であったイスラエルに、豊かな文明の印象は薄いと思います。今もそうであるのかもしれないが、為政者と宗教指導者は民族主義的な選民思想に凝り固まるしかない自尊ではなかったでしょうか。
 
楽山の大きな勘違いは、栄えて豊かなところから宗教が深まると言っていることです。
 
宗教の多くは、その決定的な起源は、無一物あるいは無一文から出発していると思います。学問と違って、宗教は、その必要性のないところからは生まれません。楽山は、彼のお気楽宗教のような趣味的な偽宗教のことを言っているのでしょう。
 
楽山は、楽山の宗教観と同じように、宗教が余暇の時間から生まれると言っていますが、とんでもない的外れでしょう。宗教を趣味か興味としか考えていない楽山らしい幼稚な思想です。
 
楽山の言うようなお気楽思想は、確かに、余暇の退屈しのぎの甘ちゃんが、楽なお山の大将でいて、一方で、箔を付けるために、本を読みましたと言いたいインテリ気取りから生まれるのでしょうが、それは全くの宗教知らずの宗教かぶれに過ぎません。毎度毎度、楽山には呆れます。
 

本を読んでいると、こんな風に新しいこと知ったり、気づかされたりすることがあるから楽しい。だから読書は止められない!

 
読書をやめろとは言っていない。ネットでは、雑多な日記、趣味、感想、倫理、宗教、思想が書かれています。そして、多くの人が見たり見なかったりしています。
 
つまり、誤りと勘違いをばらまくような幼稚で偏った思想を、学問好きと読書好きの中庸に見せかけた書き方で公共に広めることは、大きなテーマであるゆえに、大迷惑であり、言論の責任が生じるということを言ってきたわけです。
 
うわべの書き方だけ、ボンヤリ言語で謙遜を装っても無駄なのです。
 
 
  2020年02月03日
 「幸福の科学 広報チャンネル」を見た!(抜粋)
  http://mn266z.blog.jp/archives/23374753.html
  楽山日記(LD)
 
 
とてもそのままでは受け入れがたい教えを、楽山は、苦し紛れのように、結論としています。悪いことじゃないだろう、とでも言うような、いい加減な心性が明らかになっています。
 

*人を信じ、世を信じ、神を信じよ
HS側の言い分としては、宏洋批判を続ける理由として、宏洋氏の嘘に惑わされる人が出ないように、きちんと反論しておく必要があるとしていたと思う。
HSの立場としては、そういう心配ももっともなことではある。でも、批判し、批判されることをいつまでも繰り返しても仕方がない。それよりは、人を信じ、世を信じ、神を信じることに徹してみてはどうだろうか。

 
きれいごとを言っています。楽山が、いかに筋の通らない言い分を、批判に対して、嫌がらせのように返してきたかは、私の記事として残っています。
 

人を信じ、世を信じ、神を信じていれば、人から誹謗中傷されても、それを真に受ける人がいるかもしれぬと心配することは無くなる。だからいちいち反論、弁解する必要を感じることも無くなり、不毛な議論から解放され、本来の仕事に集中できる。

 
人を信じず、世を信じず、神を信じていないのが、楽山です。反論、弁解する必要がないのではなく、楽山は、理路も感受性もおかしくなっているから、まともな反論も弁明も出来ないだけなのです。
 
私は、そういう批判を、何度も書いてきたけれど、あざ笑うように、アドラー教の、気に入らないことは無視する、という教えを、自己中として、実行してきただけなのです。恐らく、体質的に、無反省で、人の言うことを無視する人だと思っています。そのくせ、言いたいことだけは、しつこく繰り返し言ってくるのです。
 
楽山が「人を信じ、世を信じ、神を信じよ」「批判し、批判されることをいつまでも繰り返しても仕方がない」と言うのは、何のためでしょう。明らかに、批判をするな、なんでも信じて騙されやすい人であれ、・・その方が都合が良いから・・に他ならないのです。決して、楽山の言うことを何となく鵜呑みにして、楽山に騙されたりすることのないように、祈っています。拝。
 

人を信じ、世を信じ、神を信じよという考え方は、外野からの雑音にまどわされることなく、利自即利他、上求菩提下化衆生に専念するにはよいものである。最近のHSでは、この教えは忘れ去られていそうだけども、また思い出してみてもいいのではあるまいか。

 
何もかも信じること、というのが、出来ないから、人間は悩むわけです。この、自己犠牲のような絶対肯定を、実に気安く、平気で言ってくるところが、楽山の幼稚さと慢心なのです。
 
さらに、言ってもしょうがないような教えを、「思い出してみてもいいのではあるまいか」という、もったいぶった言い方が、楽山の、インテリ気取り、そして、批評家気取りなのです。
 
楽山自身は、この教え、何も守れていません。それでも言ってくること自体、恐ろしく浅薄です。
 
宗教は、守れていない不完全の自覚から始まりますが、
 
楽山は、守れない教えを、ちり紙のように、振り回し、まき散らしています。
 
楽山は、今日も、恐らく、明日も、大嘘吐きです。しかも、この教えのように、言ってることの中身が、だんだん、空疎で、乱暴で、雑になってきました。
 
"楽山"の起源は、中国の地名のようですが、
文章を見る限り、Mt.Easiness お気楽・山盛り、という感じでしょう。
 
・・楽山の言は、ウソッピ物語・・嘘っ屁ものがたり・・
 
 
(2020年02月06日)
 
 
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霊感と共感

 
  霊感と共感
 
 
信仰は、理屈ではなく、共感である
と言えば
霊感などを持ちだしてくる人もいるかもしれない。
神の導きや聖霊を知るためだからと。
 
人間の霊感がどれほどあるのか
私は知らないが
いちばん大事なものは
人間性に密かに用意されている。
それは心霊現象の霊感ではなく
人間的な共感するための感性である。
 
愛を理屈で語れないのは
いちばん大事なものが知識ではないからだろう。
 
特別なものを何か特別の超能の霊力で扱うのは
超人願望の現れであることが多い。
 
人間には
刺激によって反応するという当然のことがあり
また人間は
他者と共感するという性質を持っている。
 
共感は、共に感じると書くから
二人以上が、同じ感じ方をすることだろう。
だとすれば、共有している感性が必要であり、
共感は、稀ではなく起こることであるから、
多くの人に、備わっているものであり、
特別の霊感や超人になる必要のないものである。
 
共感性は、むしろ、好ましい人間らしさの特徴だろうと思って
私は、たぶんに、憧れているところである。
つまり、私は持っているつもりでも、不十分だから成長したい。

いくつになっても、信仰の話を書くようになっても、終わることはない。
 
(ネットより)
共感(きょうかん)、エンパシー(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。しかし、例えば反社会性パーソナリティ障害やサイコパスの人物では、“共感の欠如”が、見られる[1]。近藤章久は深い共感と直観を精神治療の根幹とした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F
 
つまり、共感することが出来ないのは、異常と言ってよい。
 
信仰は、理屈ではなく、共感である。
 
今の時代では、聖書のキリストの言動や
キリストに救われた人々の言動、
そして、キリストと救われた人々との交流の記事に
共感するところから信仰は生まれてくる。
 
つまり、信仰は、とてもシンプルである。
 
へりくだり、かつ、罪人であることを自覚するしかない人々に
キリストは、この上ない共感の慈愛をいだいて接した。
 
そして、そのキリストの道は、
共感のない者たちによって殺される道でもあった。
 
処女懐妊、奇跡、肉体の復活、贖罪は、教理かもしれないが、
私が罪を犯す、キリストが代わりに十字架にかかる、私は罪を赦される
だから救われた、という理路が、それほど、ピンとくる話だろうか。
・・愛だろ、愛、・・とか言われそうな気がする。
 
キリストを信じる人は、
キリストの十字架にによって救われるという理路よりも
二千年前に、イエスという人が、自分の身代わりになって死んだ
という教理よりも、先に
キリストの人となりや、意図を感じることで、
既に、キリストを好きになっていることが多いと思う。
 
信仰の本質は、救われたと感じることであり、救いの理屈ではない。
 
今までにないキリストの人々への対し方を読むことで、
今までにない感動と共感を覚えることが信仰の始まりである。
 
 
したがって、理屈で、神はいないとか、完全な全知全能の神がいたら何ゆえ悪がはびこるのかとか、神の創造より進化論のほうが分かるとか、腐るほどあるような、ベタな疑いの話など、キリスト信仰者にとっては、煩わしいだけで意味を持たないのである。
 
また、神は、父性か母性かとか、信仰は人それぞれでカルトも間違っているとは言えないとか、霊感があって迷信深いから神の臨在を感じるとか、感情を抑えて論理を通すとか、断りたいのに断れないという困った状況に信仰をたとえるとか、押しつけだと言い張るとか、宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事とか、信仰を何か卑近な揉め事に喩えるような安易な小理屈などの、信仰の本質からどんどん遠ざかるような、安易さにも、うんざりしている。
 
また、一方で、天地は神が造った、アダムが罪を犯したことで悪魔の支配がはじまった、悔い改めは神が与える、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などという、人間離れした大昔の辻褄合わせや、自分を罪の話の圏外に置いた身勝手な自己正当化とかは、それこそ、共感することの出来ない者の、自分は聖書を読んで分かっているという自慢話に過ぎない。
 
宗教は、科学に対立するわけではない。
信仰は、学問でさえない。
 
物を相手にする理系の学問は、人を相手にする文系の学問に、無神論の主張に利用されるが、進化論のような、大昔の事実の学説などは、今の、人間一人の生き死にに何のかかわりがあるだろう。
 
そういう対立は無意味にしか思えないし、聖書絶対で、神の聖書の文字通りの創造を信じる人々は、神を讃えようとして、うっかり、自分が偉大なことに関わっているというアピールをしているに過ぎないとさえ思えるのである。
 
聖書とキリスト信仰に、創造説も、進化論も、今を離れて人間は生き得ないことを、逆に、再認識させる意味しかないように思える。だから、創世記や、数々の奇跡的な神のわざも、その史実性に今の人間がこだわることは、かえって、いちばん大事な信仰の愛も共感性も失わせている権威主義のように思えてならない。カルトが、まさに、そうなのである。
 
カルトは、そういうテーマを、わざと、書いてきて、それが、キリスト教の運命を左右する重要なテーマであるかのように、印象を吹き込もうとする。
 
そして、ある者は、その議論において、キリスト教の主張よりも科学のほうを優位と見なすことで、キリスト教とキリスト信仰を婉曲的におとしめたいだけなのだろうと思う。
 
いろいろな論争が、宗教と科学、カルトとキリスト教、教派の違い、信じ方の考え方の違いによって、明朗なキリスト信仰から、いろいろあって難しいですね・・というような共感を装う雑な見なしで、カルトに利用されているようだ。いちばん大事なことは、そんなところにはない。そんなことで、人間が、生きたり死んだり滅びたりはしない。
 
何か自分が持っているものを確定しないと気の済まないような、そのようなことに、こだわることこそが、人間としての営みや思考や情緒に、余計な飾りをつけ、余計な理屈をつけ、偉そうに見せたがる者たちの欲望とともに、信仰の中身を損なってゆくことを憂慮している。
 
 
神の民、キリストの羊は、死んでゆく自覚から、生かされる自覚へと、よみがえることによって、生き方の価値基準が変わることによって、地上の生の終わるときまでを、神聖の偉大さに比べて極小な自らであるがゆえの小さい希望から信じ仰ぎ、心を砕いて生きてゆくのである。
 
旧約は、おもに、神と人の違いを伝え、新約は、おもに、キリストの慈愛と同伴を伝えている。
 
神は偉大な創り主であり、キリストは慈愛と共感に満ちた飼い主である。その言葉について、必要以上に派手な飾りをつけるのは、自尊のためであり、安っぽくはなっても、正しい信仰にはならない。共感できないからである。
 
 
(2020年02月05日、同日一部修正)
 
 
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無神論と有神論

 
  無神論と有神論
 
 
神は、道理を通すが、概念ではない。
ゆえに、人の理屈によって語れる御方ではない。
神は、希望であるが、人は、神によるものを区別して確定できない。
 
語れるのは
人の側における現象からの推測の域を出ない。
 
私たちは、憧れの救い主を想うことによって救われている。
そこは、概念よりも理屈よりも、共感が捉えて離さない関係性である。
 
(ネットより)
有神論(ゆうしんろん、theism)は、「神は存在する」という主張のこと。 名付け親は『橋本和哉』である。 対義語は無神論。 多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教多神教などに分けられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%A5%9E%E8%AB%96
 
無神論は成り立たない理屈であり
また
有神論が理屈なら有神論は成り立たない。
 
無神論が成り立たないのは人間の理屈だからである。
無神の状況証拠は、人のわざを根拠としているだけである。
 
有神論が成り立たないのは有神を前提として
神を概念の理屈にしているからである。
有神の状況証拠は、信仰の可能性を暗示するのみである。
 
以上より、人間にとって、神の存在は、理屈にはなりえない。
 
神を、演繹の論理によって論じることは出来ない。
 
人は、神について、不完全に知っているだけであり
人にとって、神は、いかなる概念にもなりえない。
 
 
無神論は、嫌悪感によって、理路の領分を逸脱している。
有神論は、贔屓の引き倒しによって、理路を持とうとしない。
どちらも頑固であるところが共通している。
 
だから、科学と論理に見せかけたカルトになると
そこが、ただの頑固に留まらず
結局、感情的になり先鋭化して危険になるのだろう。
 
神の存在を強く絶対否定して問い詰めてあざ笑う者と
神の存在を強く絶対肯定して笑って侮辱してくる者は
なぜか、似てくる。
 
 
客観的事実と言われるものから
無神論は証明できない。
 
客観的事実と言われるものから
有神論は証明できない。
 
神を、帰納の論理によって論じることは出来ない。
 
地上の事実は
神を暗示することはあっても
神の存在も風情も証明することは不可能である。
 
証明できなくても信仰は可能だからである。
 
ゆえに、神に対しては、信仰が可能であり
人の、いかなる知恵によっても、証明は不可能である。
人は人の身の程を知るべきである。
 
信仰は信仰対象を証明する必要はない。
信仰は信仰対象を表すという務めと努めのために存在する。
 
 
人は、神の意思を表すことがあるだろう。
ここに既に信仰が機能しているが
それは神のわざを含むので確定することはない。
 
信仰対象である完全の神によってもたらされる救いの
人における不完全の必然ゆえの人の弁えを考えない信仰はあり得ない。
 
したがって
人の自尊を肯定し続けるだけの信仰はあり得ない。
うち続く自尊は、いずれ、神と人に対する高慢~傲慢に通じてゆく。
 
ゆえに、不完全な信仰者にとって
不変の自尊が信仰によって肯定されるものではない。
人の自尊の担保は、神と人の区別を弁えない無節操である。
 
したがって自尊を肯定し続けるだけの信仰は
無理な思い込みを前提としてしまう。
思いこみ信じ込むことは意志が無理をすることであり
心は無理をすると次第に壊れてゆく。
 
信仰は一途であってよいが
信仰は盲目であってはいけない。
 
信仰は人の目を開くものだからである。
 
一途は心を支える感動が動機であるが
盲目は目と心を閉ざすことである。
 
 
感動は永続しない。
人間は感動の影響を残せるが
同じ感動を保つことはできない。
 
あるとき感動しても
次のときには感動したという記憶になっている。
 
人間は、ほぼ恒常的だが
神と同じ不変になることはない。
 
人間は、振り向くたびに時空の
違う風景が見えているから思慮と情感と意志が成長するのであって
目と心を閉ざすところに新しい世界はない。
 
閉ざされた目と心は
いつも同じ良いものがあると思い込んで慢心する岩石になるだけだ。
 
人は、良きものを手に入れると、
それを永続するものと思い込みがちだが
神の与える平安は、変化しない世界のものではない。
不変は不完全な人に不向きであって目覚めも期待できないからだ。
不完全だから人は変わり得るものとして成長するしかないのです。
 
それゆえ、信仰は、
人間が、成長するための必然的遭遇に際して
思い込みを豪語する狂気に陥らないために与えられており
 
また一方では
思いわずらいに支配されることのないために
無神の絶対孤独につぶされることのないために
癒しと赦しと導きを与えるのである。
 
 
(2020年02月04日)
 
 
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神と偶像

 
  神と偶像
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
 
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであって
正直な告白を
神は待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
正直さだけが信仰を規定します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
神を偽ることです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
むしろ自由意志によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
この正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエス
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書から学んでいるからです。
 
 
(2020年02月03日)
 
 
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アドラー教について(13)

 
  アドラー教について(13)
 
  2019-03-04  
 【永久保存版】他人軸でなく、自分軸で生きるって…こういうこと⁉︎
 https://www.adlersalon.com/entry/2019/03/04/%E3%80%90%E6%B0%B8%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%AD%98%E7%89%88%E3%80%91%E4%BB%96%E4%BA%BA%E8%BB%B8%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E8%87%AA%E5%88%86%E8%BB%B8%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%A3
 
 
前から、一方的、断定的な教え方が、気になっています。自分軸は既成ではなく、一定でもなく、個人の獲得する項目です。つまり、自分軸からの判断の正しさは、絶対ではありません。
 
そこに、アドラー教の軸を一元的に恒常的に当てはめることは出来ません。課題の分離、承認欲求の否定は、どこまで?という問題が付き物であって、一つのの軸に納まるものではないのです。
 
言ってみれば、生きる効率や、健康のためということなど、ケースバイケースがいっぱいあると思うのです。必要もなく、個人の事情を考えず、それはあなたの課題といって無視することは、それこそ、自己中となって、必要のない波風や症候群につながる恐れがあります。
 

アドラー心理学サロンです。
あなたは、自分軸で自分の価値観に従って、自分らしく生きることができていますか?
多くの方が、他人に合わせてしまって自分を見失い、他人軸の人生を送ってしまっています。

 
価値観は成長にしたがって、変化しうるものです。自分らしさも、同じように変化し得るものです。他人の価値観で生きることのないためなのです。最初から自分の価値観というものが確定しているかのような書き方は、ものを知らない人の言うことです。
 

他人軸で生きることは、世間一般的な常識に捕らわれたり、他人の価値基準に従って生きることとなります。
つまり、自分で自分の価値観に従って生きることができていない状態です。

 
まるで、自分の価値観が元々あって、それを知らないから、他人の価値基準に従っているような言い方ですが、間違っていると思います。価値観は、学習によって、変わり、成長するのです。
 

これは、アドラーの観点から見ても他人と自分の課題の区別もできていなければ、誰かから認めてもらおうとする強い承認欲求を持っていることになります。
こうなれば、アドラーが危惧した通りに自分の人生が生きられずに、誰かが良しとした他人の人生を生きることになってしまいます。

 
こういう書き方が、アドラー教が、自己中心だと言われるゆえんでしょう。
 
自分の価値観は、自分が生きて、他人の価値観にも触れながら、獲得する性質のものであって、自分の価値観、自分の価値観、と言えば分かるという自覚ではないと思います。
 

他人の人生を生きるということは、自分でしか自分の気持ちを満たすことができないので、自分の中で見出さなければ手に入ることのない幸福を得られないことになってしまうのです。

 
自分の価値観の中に、他人の価値観への評価や参考事項も含まれていなければなりません。あるとき以降が、自分だけの価値観というのは、自己中の訂正不能の学習不能と同じです。
 

こうした他人軸での生き方を改めるには、アドラーの提唱している他者と自分の課題の分離、それから承認欲求の否定をすることが前提となります。
アドラーの課題の分離については、他人が自分の生き方や考え方をどう思っていてもそれは他人の課題であり、他人の課題には介入できないと割り切ることが必要です。

 
アドラー教は、この、課題の分離を振り回していますが、前から、自分の課題の中に、他者のことも含まれていることを無視して、自分の、自分の、課題、課題、と煽り続けているわけですから、振り回せば振り回すほど、自己中との境界が不明瞭になるということです。
 

そうして他人の目を気にしてしまい、誰かに自分を合わせてしまうことは自分の課題に他人からの介入を許してしまっていることになります。

 
他人からの介入という侵略のようなことではなく、他人のことを、自然に、自らの課題に含められなければ、自己中になります。ここの、アドラー教の一つ覚えは、とても怪しいと思う。
 

つまり、自分のことを他人がどう思うのかを気にしてその他人の認識を変えさせようとすることは、たとえ自分を変えることであれ、他人に過度に干渉して説得することであれ、他人の課題に介入してしまっていることとなります。

 
他人のことを気にすることを、他人の認識を変えさせようとすることと同列だという先入観で語っています。違いますね。そこから、他人に"過度"に干渉という言い方にすり替えることは出来ません。過度かどうか、それは、個人によって違います。こういうことを十把一からげに断定する傾向がアドラー教にはあります。
 
他者を気にするも、思いやるも、個人の経験や状況からの、個人の判断です。アドラー教こそが、個人の課題に介入しようとしています。
 

他人の課題に介入してしまっている以上、理論上はあなたも自分の課題に介入されても仕方ないと割り切ることが必要になってしまいます。

 
ですから、当然のように、他者を思いやることまでも、介入と言って、介入しているのは、アドラー教のほうです。言葉が乱暴な断定になっているのです。
 

アドラーの承認欲求の否定を身に付けるには、過度な承認欲求はあなたから自分らしさを奪い取り、特定の誰かに認めてもらえる自分に変えてしまいます。つまり、この時点で自分らしく生きることができなくなってしまうのです。ただ、人間は完全には承認欲求を捨て去ることはできません。
あなたの中で、変えたくないものを明確にしてここまで他人の為に自分を変えてしまうと自分が自分ではなくなってしまうというボーダーを理解しておくことがポイントとなります。

 
このように、ボーダーは、個人によって違うのですから、介入という言葉で、まとめて断定すると、他人を気にする、気遣う、思いやる、などと言うことも、うっかり含めて、捨ててしまう恐れがあるのです。
 

そもそも、どんなに他人からの自分に対する噂話や評価を気にしても、他人は自分の望むような評価をしてはくれないものです。

 
他人についても、評価をしてくれないと断定してしまえば、他人を悪者にして、自分中心、すなわち、自己中に向かう方向を促進することになるでしょう。
 

他人だけではなく、あなたも含めて人間には自分の知ることしか知らないし、経験できることしか経験しておらず、統一された基準で人やモノを評価することはできないので当然のことです。

 
「統一された基準で人やモノを評価することはできない」のだから、断定的に課題の分離を唱えることの弊害を考えるべきでしょう。まさにアドラー教は、課題の分離という言葉で「統一された基準で人やモノを評価」してきたという自己矛盾ではないでしょうか。
 

この課題の分離と承認欲求の否定という二つのアドラーの提唱する考え方が、他人軸ではない、あなたらしい自分軸の生き方をする為には基本となります。

 
課題の分離と承認欲求の否定を、個人によって状況によって変わってくる問題として、統一された基準で画一的に評価するような書き方をしないことが、アドラー教が、軸を押し付けることにならないために必要なことだと思います。
 
他人を気にする、という言葉では表せないほど、他人への心の向き、気遣い、思い、思いやり、評価、などというのは、複雑な高等感情を含むものですから、術語・言葉・教え一つで、なんでもかんでも一様に斬ったり語ったりはできない性質のもので、人と状況、さまざまな場合に、個別のデリケートな対応が必要になることなのです。
 
 
(2020年02月02日、同日一部修正)
 
 
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分かったふう?

 
  分かったふう?
 
 2020年01月30日
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、人間の、特に、自分の、知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者と、自分信仰のカルトがいます。
 
(ネットより)
クリントンリチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論ダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、特に自分という人間を、深く知るためにあります。神を信じる信仰は、人が生きるためにあるのです。
 

本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。

 
楽山は、何度か、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 

自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。

 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても書いてはいけないのです。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようだが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことはないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけを保とうとする記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害を思わせる危険な人だと思っています。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。この幼稚な安っぽい妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるのでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を出しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルトの特徴と言ってもいいと思います。
 

とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。

 
これが、楽山の本音の方向だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言してもいいでしょう。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 

自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、

 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己顕示欲です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧(かて)にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 

そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。

 
神の意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、何を得ているというのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同じ列にいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山のナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂場なのです。そこは目に見えない多くの虫の猟場であるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。自分のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続けるナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れることはないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、読書自慢と心霊の話で世辞だけを待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
(2020年02月01日、同日一部修正)
 
 
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信仰の情熱

 
  信仰の情熱
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と言いました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
それを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
 
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません!
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに
どうか叫びのように本心で祈ってください。
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。拝。
 
 
(2020年01月31日)
 
 
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