ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の自己正当化

 
  楽山の自己正当化
 
 『死なないつもり』横尾忠則
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268829.html
 
 
気に入らないことは全部無視して忘れて、自己正当化をせずにはおれない楽山の体質が表れています。自己正当化に、有名人や学者の言を利用して、都合の良いことだけを受け取ってゆく生き方だから、言動の、いたるところに、現実逃避と、真実から目を背けてゆく姿勢が表れてきます。
 

タイトルが微笑ましく、面白いと思ったので手に取ってみた。内容は芸術や人生についてのエッセー集であり、明るく前向きで楽天的な話題が多い。タイトルから、「死」や「老い」について書いてあるのだろうと思ったのだが、いい意味で裏切られた気分。
著者のものの見方は、自分から見るとすごく新鮮だ。たとえば、世間的には「飽きっぽい」ことはよくないこととされることが多いが、著者からすれば「飽きるということは、自分を守るためにも、自由になるためにも必要なこと」(p.59)だという。たしかに、飽きっぽいとは、一つことに囚われず自由だ。

 
飽きっぽいのと、故意に無視するのとは違います。
 

また著者は「理屈をこねないで、無頓着で暮らすのが一番です」(p.203)という。その理由は「『なぜ』に答えるためには、物事を理屈で考えていくことになります。それを繰り返すと、どんどん細くなっていって身動きが取れなくなる」(p.202)からという。これは耳に痛い話だが、それだけによく分かる。

 
理屈だけではなく、人間としての心をもって考えないと、楽山のように字面だけの小理屈になって、嘘と詭弁で、自己正当化しながら自分を慰めるだけで、人生を渡ることになるでしょう。
 
また、無頓着がいいと言っても、楽山がしている無視とは違いますし、自分の仕出かした悪と偽善を、自分の非を、忘れてゆくような無反省になったら、成長と進歩がなくなり、荒廃した人生を送ることになります。今回も、自己正当化の癖が抜けないようです。
 
反省する気がないために、このように、他者の意見や人生観や書籍などから、都合の良い言葉だけを拾って来ては、自分はこれでよいと思い込んで、自己正当化し続けてきたのが、楽山の生き方なのでしょう。自己愛の我執から逃れられない楽山です。
 

「老齢になると自然に欲望も執着も消えて、/好きなことだけが残っていく。/隠居の本当の意味は/好きなことで忙しくすること。」(p.127)というのは、理想的な年の取り方だ。三浦綾子のエッセーで、認知症になった老クリスチャンが、昔のことはみんな忘れてしまいましたがイエス様のことだけは忘れませんと言っていたという話が、ずっと記憶に残っているのだが、この話とどこか通じるところがあるようでもある。

 
ここでは、キリスト者の例を出して褒めていますが、本質は、反キリストであることが、今までの言に表れてきたのです。宗教も人生も、おもちゃのように、自分が即席に楽しめることだけを是としてきた楽山だから、無反省に、こういう白々しいことも書けるのでしょう。学ぶ姿勢がなく、利用する姿勢しか持たないと、こうなってしまうということです。
 

自分は悲観的な面があるので、長く生きるほど辛い記憶が積もり、圧し潰されそうな気分になることもあるので、年を取るほど純化されて好きなことだけが残るというのはすごく憧れる。

 
楽山は、しんみり悲しむことが出来ない人だと思います。悲観的とか負の感情を表現したり、反省という言葉だけ使っていても、その発言が記事の流れや文脈と一致しておらず、言葉だけであり、実際には、非を認めることがありません。
 
それで、根拠もなく「年を取るほど純化されて好きなことだけが残る」という文言を、そのまま受け取って悦ぶのです。総て自己中心からの他者の発言の悪用としか思われない楽山の文章です。
 

何事かを極めた人物の言葉には深いものがあるというけれど、本書を読んで本当にその通りだなと思った次第である。

 
そして「何事かを極めた人物」と、べた褒めしても、本を読んだ感想でも、自己中の欲望に強引に当てはめて言っているわけで、楽山の発言において、深みのない特徴として表れてくるために、信用できない人物なのです。こうはなりたくないと思っています。
 
 
信仰は、神という、不可知ながら、絶対正義の存在を知り、人間が、自らを低くすることで、非を認め、罪を認めて、反省し、悔い改めながら、癒されて成長する道であります。
 
その心の器という感性が、まるで見られない楽山は、信仰に対して、条件を付けたり、褒めたり、けなしたり、全く主体的な説得力を持ち得ない迷路の住人となっているのです。
 
しかも、自尊だけは高いために、厚かましく言い続けるので、きわめて迷惑であり、福音伝道の妨害者として、批判を向ける対象でしかなっています。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうか、言及がない。障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無で、発言に説得力がない。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えて書いていましたが、独り芝居を書いても無駄なのです。
 
さらに、政治的には、右翼思想に傾倒しているようです。人の命を粗末にして破壊をもたらす戦争が好きなのでしょうか。右翼青年だったのでしょうか。A級戦犯に賛同しています。7月2日頃アップ予定です。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
(2020年06月30日)
 
 
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楽山の弁神論(3)

 
  楽山の弁神論(3)
 
 神義論、弁神論についての対話 3
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268657.html
 
 
独り芝居です。
登場しているのは、信者ではありません、楽山です。老人は、元信者ではありません、楽山です。
 

*悪の発生
信者 「神は、人に自由を与えました。人の自主性を重んじたのです。でも人の中には、この自由をはき違えて、悪を犯す者が出ました。これが悪の発生原因です」
老人 「神は、人を善きものとして創造したのだろう。それならば人は、当初、悪を持たなかったのだろう。それならば自由を与えられても、悪を為すことはないのではなかろうか」

 
神という人を超えた存在に対しても、何でも自分の小理屈で辻褄が合わないと信じない、というのが楽山ですが、それは、既に信仰ではありません。楽山は、人の愛情にも、そういうスタンスを取るのでしょうか。だとしたら、何も良い結果は生まれないでしょう。不幸な人です。
 

信者 「ですから、不心得な者が自由をはき違えたのです」
老人 「あなたは因果応報という法則があると主張していたろう。それならば悪の種がない限りは、悪の芽はでないということになるのではなかろうか。人は善きものとしてつくられ、悪の種を持たなかったのであれば、自由を与えられたとて、それをはき違えて悪を為すことはあるはずもないのでは?」
信者 「そもそも悪は存在しないという考え方もあります。人の目には悪と見えしことでも、大きな視点から見れば……たとえば、根本神のような高度な視点から見れば、一切のことには深い意味があり、悪は存在しないのです」

 
ふつう、神は、人の理解を超えている、としか言えないことを、楽山は、自身の頭の中で、辻褄合わせをしようとするのです。それは、信仰理解への努力ではなく、人としての身の程も謙遜も知らない我欲に過ぎないです。
 

老人 「これについてはさっきも話したが、世の中には児童虐待事件というものがあるだろう。罪もない子供が残忍な殺され方をした例もある。どんな理屈を持ち出しても、どんな視点から見ても、これを悪としないことは無理だろう。人としての情緒を失わない限りは…。こういう現実から目をそらして、悪は存在しないということこそ、屁理屈ではないかと思う」

 
悪は存在しない、などと言うことは、直観的に否定できるはずです。しかし、楽山は、小理屈の辻褄合わせを持ち出して難癖をつけます。"根本神" などと、上のほうで言っていますが、神に、根本も枝葉もないわけです。呆れます。
 

*訣別
老人 「この世に宗教はいろいろあるし、信者にもいろいろな人がいる。だから一概にこうだとは言えないのだけれども、あなたを見ている限りは、どうやら自分の信仰を守ることが一番の重要事項になっているようだ。信仰を持ち続けさえすれば、すべての問題は解決できるのだと」
信者 「……」
老人 「実をいえば、私もかつてはそんな風だった。ある宗教を熱烈に信じていて、その教義によって何でも判断していたんだ。複雑な人生問題でも、社会問題でも、その他なんでも、教義によって判断し、ニニが四とばかりに簡単に答えを出して満足していたものだった。この神義論、弁神論のような問題も、宗教教義を信じていたときは、チャンチャンで解決できた。今のあなたみたいにね」
信者 「……」

 
解決、ということが、我欲に沿う、ということになっている楽山のような者は、自分の心の問題を無視して、信仰によって何も解決しないと、神を憎むようになるのでしょう。
 

老人 「でもそのうちに、自分は教義ロボットになってしまっていることに気がついたのだ。何でも教義で考え、結論を出し、行動をするといった具合だ。まさに教条主義者だ。だからこの反省から、教義やら、ドグマやらに染まるのではなく、人間らしい情緒、正直な気持ちを大事にしようと思うようになったのだ。以前は、自分の心を、教義の枠にはめようと無理をしたこともあったが、今はそんな枠は気にせず、自分の心の手足をのびのび伸ばして暮らそうと思っているんだ」
信者 「……」

 
教条主義を信仰?と信じると、信仰?はのびのびしないものになる、ということは、聖書のパリサイ人の話で分かるはずですが、楽山は分からなかったようです。信仰の本質を受け取っていない者の言い分です。
 

老人 「お節介な話かもしれないが、あなたもこの辺りのことについて考えてみたらどうだろう。別に信仰は止めるべきだなどということは言わないが、もう少しだけ心に余裕をもってもいいと思う」

 
ここは、警戒してください。心に余裕を持ってもいいと楽山が言うとき、それは、信仰を信じ足りなくても信じ過ぎてもいけない、という話になります。既に、そのことを、楽山は言っていたのです。信仰は有無でしかありません。信仰を、人の道徳の字面でしか考えていないと、こういう偽善になってしまいます。
 
信仰に過ぎるとか足りないとかはないのです。楽山は、心で信仰を理解できず受け取っていないために、詭弁を使って、信仰を、いい加減なものにして、結局は、背教を促しています。
 
警戒してください。心で理解できない者というのは、楽山のように、憎しみ恨みに転じて、器に合わせるかのように、信仰の敵となってゆくことがあります。
 

信者 「突然、自分語りを始めたので、何を言うかと思ったらまあ…。何度も繰り返し言ってることですけど、ようするに、あなたは信仰を続けられず、退転したということでしょう。でもそういう自分の未熟さを率直に認めることができずに言い訳を並べ、自分は何も悪くないという自己正当化を試み、あろうことが私のことまでも同じ過ちを犯すように誘惑しているわけですね。人というものは信仰を失えばここまで落ちるもんなんですね」
老人 「……」

 
こういう、なじり合いも、楽山の企みなのでしょう。他者は、皆、愚かだという前提に立っている楽山は、「言い訳を並べ、自分は何も悪くないという自己正当化」して、他者を「同じ過ちを犯すように誘惑しているわけ」です。
 
自分の言葉によって、あるいは、酔って、裁かれる、ということが、ここで起こっています。「ここまで落ちる」というのも、まさに、楽山において、まさに今、現出していることです。
 

信者 「でも、おあいにくさま。私は絶対に信仰は棄てません。あなたみたいにはなりません。なりたくもありません」
老人 「……」
信者 「ブログを読んだ時は、もう少しまともな人かと思いましたが、それは間違いだったようです。今ようやく、あなたがどういう人かということが、はっきりわかりました。あなたとは話をするだけ無駄です」
老人 「……」
信者 「だから、あなたと会うのは、これが最後です。もう二度と会いませんし、話もしません。同じ部屋で同じ空気を吸うなんてまっぴらです」
老人 「……」
信者 「私はあなたに真理はお伝えしました。でもあなたはそれを拒否したのです。死後に地獄に堕ちてから、『誰も真理を教えてくれなかった』などと泣き言はいわないでくださいね。地獄に堕ちたのはあなたの自己責任なんですから」
老人 「……」
信者 「では、これで本当にさよならです」
老人 「そうですか。さようなら」

 
「私はあなたに真理はお伝えしました」・・こういうつもりでいるのが、まさに、楽山です。
 
私たち信仰者は、真実を求めています。真理をつかんでいるわけではありません。
 
「でもあなたはそれを拒否したのです」「地獄に堕ちたのはあなたの自己責任」・・これは、脅迫です。そして、楽山の信仰理解?であり、体質なのです。
 
本当に、楽山は、何も書かないように、さよなら、したい人です。
 
 
 「無駄なこと」についての対話
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268771.html
 
この記事において、楽山は、似たような人物を登場させることによって、今までの記事がHS批判であったかのように見せかけていますが、無駄です。イワンの話、神義論の話なども書いていたからです。こういう、ごまかしもしてきます。どこまでも汚い言い逃れの楽山です。決して近づかないでください。
 
 
速報ですが、楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、字面だけを悪用して快老生活などと言っています。言葉を、ことごとく勘違いして、または、わざと曲げて、言い逃れ、もはや、内容がなく、的外ればかり。殆ど自滅行為です。7月上旬にアップします。
 
楽山は、不十分ながら出来ることを精いっぱい努力して生きてゆこうというのではなく、自分の言い分が通らないのを、通さない奴が悪いと決めつけて慢心するような、いちばん厄介な存在として、詭弁などの細工だけで、言い張りを続けてゆく類の人間なのでしょう。いわゆるルサンチマン(弱者に募る怨念)の人であり、仲間がいるのかもしれません。
 
ということで、当分、私は、ブログの題材に不自由する心配はしなくていいようです。
 
 
(2020年06月29日)
 
 
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楽山の弁神論(2)

 
  楽山の弁神論(2)
 
 神義論、弁神論についての対話 2
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268499.html
 
 
楽山の、偏向した負の情熱、つまり、怒気のベクトルが、無反省に、執拗に、詐欺的言説によって、にじり寄ってきます。
 

*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「神は悪を止められるはずなのに、なぜ止めないのかと仰いますけどね、そこには神の深いお考えがあるんですよ」
老人 「たとえば、どんな?」
信者 「神の愛は、砂糖菓子のような愛ではないんです。砂糖菓子は美味しいです。でもそればかり食べてたら虫歯になってしまいます。だから神は、人々の魂を鍛え、進歩させるために、幸いを与えるだけでなく、試練を与えることもあるんです」
老人 「つまり、神は、人々の霊性の向上のために、あえて悪の存在を許容しているということかな」
信者 「大雑把に言えばそうとも言えますが、だからといって神は悪を奨励しているわけではありませんからね。悪と見えし、この世の苦難困難は、魂を磨き、霊性を向上させるための砥石としての役割があり、そこに意味があるということです」

 
このように、神を、人間の考える正義の立場から、矛盾だ、矛盾だと、正論を繰り出したつもりになるのが、楽山のような偽善的無神論者の生業(なりわい)なのです。
 
楽山は、霊性の向上、などという、一見、高尚に見える言葉が大好きでが、それに見合う中身が全くありません。信仰に必要なのは、人間に相応しい心なのです。
 
信仰者は、先ず、苦悩があり、そこからの、慰めでも、励ましでも、癒しでも、救いでも、いただきたいと思う人です。ゆえに、聖書を読むのです。
 
上に立って、机上で小理屈を捏ねている気取り屋とは、種類が違うと言ってもよいでしょう。ですから、決定的なこととして、楽山のような偽善者は、人を救う道を、何も提示しえないわけです。総て、机上の空論だからです。
 
楽山は、愛と共感を知りません。ゆえに、キリストの愛と共感も知りません。それが、妬ましいから、文句を言っている、という、極めて低次元の自己満足人であり、それを、何々論だとか飾っているだけなのです。
 
誰も認めてくれないから、その小理屈を言うことにだけ快感を覚えるのでしょう。言ってみれば、いちばん、この地上で、他者をあざ笑い侮辱し続けている人種なのです。
 

老人 「それは、逆境にある人が、自分自身の心を奮い立たせようとするときには有効な考え方だろうが、他人に対しては適用できないものだね」
信者 「どういうことですか?」
老人 「たとえば、逆境にある人が、『この苦難、困難には意味があるんだ。自分はこれを乗り越えることで、魂を鍛え、さらに高く飛翔できるんだ』と前向きに考えて頑張るのは結構なことだ。でも、児童虐待事件などについて、『この苦難困難は、この子の魂を向上させるためにあるんです。神の愛は砂糖菓子のようなものではないんです』と第三者の立場から言うとしたら、こんなバカなことはない。あなたはそうは思わないかな」

 
まことに、自分に意味付けを欲するのは、楽山のような自己愛性の者であります。つまり、どこまでも気取りだけが目立ってくるのです。
 
誰も、良い意味付けをしてくれないものだから、自分で意味付けをして、それと違うものを否定する、という、みじめな人生を送っているのです。正義の味方気取りで。
 

信者 「それとこれとはちがいます。その二つは同列には語れない問題です。大人の話と、子供の話を同じにするなんて、頭悪すぎです」

 
「頭悪すぎです」これが、楽山の本音です。自分以外の人が、全部、頭悪いと思ってしまう自己愛者なのです。だから、高慢から、説教をしたつもりで、誰も聞いていない、誰にも良い影響を与えられない、という人生を歩むことになります
 

老人 「でもこのたとえによって、この世の悪は、人の霊性を向上させるためにあるという考え方は、逆境にある当人に奮起を促すための精神論としては有効な場合はあっても、この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全であることが分かるだろう」
信者 「そんなことは勝手に決めないでください。たったこれだけの例で不完全と決めつけるのは卑怯です。あなたは自説に都合のいい例を持ち出してるだけじゃないですか」
老人「ある仮説が不完全であることを証明するには、その仮説で説明できない事例を一つだけでも挙げればそれで十分だと思うけどね。でもまあいいか。それで、この件について他に意見はあるのかな」

 
仮説をあげても、神を説明することなど出来ていないし、否定することも出来ていないし、ゆえに、信仰者から、キリストの愛と共感の感動体験を奪うことは出来ません。
 
しかし、不思議です。虐待された子供が死んでしまっては救いも何もあったものではない、という疑問を、まだ、楽山は言っていません。気づいいていないのでしょうか。だとしたら、とても、程度の低い疑問ということになります。
 
このように、虐げられたまま死んでしまう人々にとって、神はどうして救わなかったのか、という疑問があります。その答えは、キリストの愛と共感に包まれている、また、それを知る、ということが、私たちの知ることのない、地上を超えた世界では、あるのかもしれない、という希望だけになります。それで不服な人たちは、耐えるのではなく、信じないほうを選ぶのでしょう。
 
ゆえに、天国ということが聖書には登場するのです。その希望を支えるのは、愛と共感のために、命を惜しまなかったキリスト、その御方に対する私たちの愛と共感なのです。
 
これは、楽山のような野卑な屁理屈をこねる者には、分からないのでしょうね・・。
 

信者 「当然あります。はっきり言って、あなたは我が強すぎます。我が強すぎるから、自分の小さな頭で考えたことが全てだと思って、それで結論づけて得意になってるんです。物事はもっと大きな視点でとらえるべきです。悪についてもそうです。そういうことは、自分の小さな頭で考えるんじゃなくて、もっと大きな視点…いわば神の視点でみてこそ、その意味が分かるんです。それでこそ、悪、苦難、困難、悲惨…などが存在する本当の意味が分かるんです」

 
若い楽山も、年寄りの楽山も、何も分かっていません。神の視点で見ることなど、人には出来ません。ここに、でっち上げの、にわかクリスチャンの正体が、バレてくるのです。
 

老人 「つまり巨視的視点からみれば児童虐待に宗教的な意義を見出せるってことかな。いやいや、どういう視点から見ようとも、児童虐待に存在意義を見出すなんて、人としての情緒を保っている限りは、それは無理だよ」
信者 「だから言ってるでしょう。人の視点では分からないんです。神の視点でなくては…。あなたはこの問題について、あれこれ言うなら、まず神の視点を得てから言ってください。神の視点も、神の心も何も分かっていないくせに、あれこれ言うのは傲慢というものです」

 
どうしても、楽山は、その狭い視野に入るような小理屈で、神と信仰を考えるようです。知らないこと、分からないこと、見えないことがあるという信仰の世界に、楽山が、どこまでも反発してくる病理のわけが、ここにあるのでしょう。
 

*イワン
老人 「この辺りの議論については、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンとの対話で表現されているね。有名な「大審問官」の少し前のあたりだ。イワンは、神の存在と児童虐待の関連について熱く語っているよ」
信者 「話をそらさないでください。あなたに神の視点が分かりますか。分からないなら黙りなさい。あなたの努めは、知識自慢をして知ったかぶりをしないで、まず黙ることです」

 
ここは、私への当てつけです。楽山の言い分が、あまりにも幼稚で、かつ、批判に対して何も答え得ない男なので、書くな、ということは、前から言っています。その理由は、言論の責任を負えないから、言論の自由はない、ということです。楽山は、虫男、つまり無視男です。
 

老人 「なかなか手厳しいね。すぐ終わるから、ちょっと話を聞いみてほしいね。記憶に頼って話すので、不正確な部分があったら申し訳ないのだが、この物語の中で、イワンは、神の計画のために幼児の犠牲が必要だとするなら、自分は天国への招待状は受け取る気にはなれないという風なことを主張しているんだ。神の計画が成就したあかつきには、犠牲になった幼児も、他の人たちもみんなが天国で幸せになるとしても、そのために罪のない幼児を犠牲にしなければならないというのには納得できないと…」
信者 「それで一体何が言いたいんですか」
老人 「あなたは児童虐待について神の視点から見ればその意味が分かり納得できるというけれども、私はそれが神の計画の一部であったとしても納得できないということだよ。人としてそれに納得してはいけないとも思っている」

 
信仰の原動力が愛と共感であることを知らないし感じることも出来ない楽山の言です。神が、その被造物である人を、いちいち納得させる必要はないのです。それでも、人は、キリストに引き寄せられてゆくのですから。つまり、楽山のような屁理屈者は、神の計画にも、信仰の世界にも、必要ないのです。邪魔しないように。
 

信者 「それは確信犯として神に逆らうということですよ」
老人 「イワンはそういうところはあるかもしれないね。多分彼が言う幼児というのはキリストのことなんだろう。神の計画のためには幼児の犠牲が必要であり、その犠牲の後は、その幼児も他の人も天国で幸せになるだとか、罪のない幼児を犠牲にして天国に入りたいとは思わないだとか主張しているからね。ただイワン本人は、教義、ドグマを批判しているだけで、神そのものに異議を申し立てているつもりはないかもしれないが」
信者 「なにやらグチグチ言ってますが、ようするに神がすることは気にいらないと文句を言ってるのでしょう」
老人 「上のことは、イワンの心理を自分なりに想像してみただけだ。私自身の考えをいえば、もし神が存在するとしたならば、こういう問題については、宗教教義やドグマによって簡単に割り切って済ませてしまうのでなく、大いに迷い悩むことを人に求めていると感じるね。だから神は、苦悩するイワンはもちろん、イワンに反論できないアリョーシャのことも温かく見守っているだろうと思う」

 
楽山の考え方として、もし神が存在するとしたならば、という、あとの理屈を、楽山の狭い世界観によってこねていることです。まず、信仰は理屈ではないですし、その時点でアウト、さらに、楽山の貧相な理屈で分からなければ否定、という傲慢の時点でアウトなのです。
 

信者 「呆れた。自己都合信仰も、ここに極まれりですね。あなたの言い方だと、神は、人が信仰に迷い、悩み、棄教して、無神論者になることを期待しているかのようではありませんか。自分が退転し、無神論者になったからって、神がそれを望んだからだというのは、自己都合信仰にもほどがあります」
老人 「私が言っているのはそういうことではなくて、ちと口はばったいのだが、端的に言えば愛が大事だということだよ。この世の悲劇、悲惨について、宗教教義やドグマによって「因果応報ですね」「前世のカルマですね」「霊性向上のための試練です」などと簡単に判定して済ませてしまうのは冷淡すぎるのであって、それよりは宗教教義やドグマによって割り切ることはできず迷い悩む方が人としてまっとうな生き方だろうということ」

 
楽山は、愛を、字面だけで概念だけで語れると思って、信仰を、愛だから冷淡ではいけない、とか言うことで語っている時点で、信仰を、薄い同情に貶めています。これは、つまり、楽山は、神の理路を、人の理路、実際には、楽山の、みすぼらしい壊れた心無い理路で考える時点でアウトなのです。こういう野蛮な理路は、結局、信仰に難癖をつけるだけに終わるからです。
 
心に半端な持ち物が多い人は、信仰に至りません。その最悪な場合は、他者の信仰を尊重することさえしなくなり、自我の執着で一生を、不平不満でいっぱいにしながら終えることになるのです。楽山に書くなと言った理由の一つが、ここにあります。我執の不幸をまき散らすなということです。
 

信者 「なにやら、もっともらしいことを言ってますが、結局は自己正当化のための屁理屈ですね。信仰を全うできずに退転したくせに、それを認めたくないために、屁理屈を並べてる」
老人 「これは屁理屈かな? それではついでにもう少し屁理屈を並べさせてもらうと、イワンは大雑把に言えば無神論者だね。でも深い愛を持っていることは確かだ。だから神は愛であるとすれば、深い愛のある無神論者であるイワンは、神とともにある無神論者と言える。一方、何でもかんでも教義やドグマで割り切ってしまう教条主義的な信者は、愛に欠けている。こういう人は、神を失った信仰者であり、神とともにはいない。あなたは神を信じるかどうかを最重要事項としているけれども、私は信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかないと思う」

 
楽山は、深い愛を持てず、無神論者としても成り立たない幼稚さで、慢心しているナルシストです。老人も楽山ですから、「信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかない」などと言っています。信仰と、愛を、分ける時点で、アウトなのです。
 

信者 「ははは。『酸っぱいブドウ』ですね。イソップ寓話では、キツネは美味しそうなブドウを見つけて食べようとしたものの、いくら飛び跳ねてもブドウには届かなかったため、『このブドウはどうせ酸っぱくてまずいんだ』と負け惜しみを言って立ち去ったそうです。あなたは退転をして信仰を失ったから、信仰なんて価値はないと負け惜しみを言ってるんです。かわいそうな人ですね。あなたを見ていると、教祖様が『何があっても、絶対に、信仰を失ってはいけない』と繰り返し警告しておられる理由がよくわかります」

 
信者は、合理化機制の話をしていますが、老人は信仰を失ったという設定なのでしょうか。教祖様というのは、楽山が執着しているHSの教祖のことでしょうか。楽山は、分かると言っています。まだ、執着しているわけです。
 

*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「あなたの無駄話のせいで、大分話がそれたようなので戻しますけど、あなたはこの件については、そもそも問題の立て方が間違ってますよ。『なぜ神は悪を止めないのか』と言いますけど、この世界には因果応報という法則があるんです。すべては善因善果、悪因悪果です。因果は決してくらますことはできません」
老人 「それについては先に述べてるね。この問いの前提は、神は全能であるということだよ。それだから、『神は絶対、全能、完全で、悪を止めることができる。それなのに、なぜ悪を止めないのか』という問いが生まれる。あなたのように、因果律が絶対で、神はそれを曲げることができないとするなら、この問題が生じないのは当たり前だね」

 
老人が、神の全能によって信仰を捨てたという設定なのか、楽山の、まやかしは、理解できませんし、理解する必要もないのです。楽山の因果律は、楽山の頭の中にしか存在しないものですから、楽山のゴミ箱を漁ることはしません。
 
神を、人の言論で、明らかにすることは出来ません。
 
 
楽山は、こちらが批判記事をアップすると、ぽつぽつと、新しい記事を追加アップするようですが、その中身は、他者の本の都合の良いところだけを引用するような、自主性の無さで、それに加えて、小姑のような愚痴を並べる、という成り行きになっています。
 
楽山は、批判対象記事を、新しい記事で、後ろに、後ろに、隠したいようですが、既に総てコピペしてあるわけですから、こちらは、じっくり、ゆっくり、批判記事を練ってゆくことになります。
 
 
速報ですが、現時点で、楽山は、太平洋戦争のA級戦犯大川周明の記事を書いて、賛同しているようです。相変わらず理路になっていないようだが、楽山は、右翼青年だったのかもしれません。下書きは出来ているので、7月上旬には批判記事をアップする予定です。
 
 
(2020年06月28日)
 
 
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楽山の弁神論?

 
  楽山の弁神論?
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268306.html
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようです。
 
楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 

*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」

 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。
 

*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」

 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神論者です。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはない、ということを、以前から言っています。説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定している立場です。
 
「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」と言っていますが、違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。さらに、分かったつもりになった者は、かえって、分からないことばかりになるでしょう。それゆえに、理解力がないのに、ますます、意地悪に貶(けな)してゆくのです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような理屈を捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくるのです。人間として、罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最も醜い様を曝(さら)しているわけです。
 
「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。
 
ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、"分かっていますよ"、と言っています。楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。こういう楽山ですから、誰も近づいてはいけません。
 
楽山は、自己愛性人格障害の、恐ろしい顔を見せてきました。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうか、言及がない。障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、真のキリスト者にはなれないでしょう。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊者です。
 
・・怒鳴るより悪い、いやらしい言い方、というのが楽山には分からないんでしょうね・・
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
(2020年06月27日)
 
 
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 楽山の因果応報(2)

 
  楽山の因果応報(2)
 
 因果応報についての対話 2
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25245729.html
 
 
改めて、この文章において、信者も、老人も、楽山であることを忘れないでください。だから、派手に背いているのも楽山であり、諭しているのも楽山なのです。
 
この、おかしな前提を設定できるのは、何でも自分の言いように細工してきたし、細工できると思っている楽山ならではのことなのです。
 
決して、楽山の独り芝居の罠に引っかからないように願います。楽山は、反省しているのではありません。総ては、楽山の自己正当化に沿うように書かれている詭弁であります。
 

*因果応報と倫理
老人 「あなた方が言う因果応報というのは、大雑把に言えば、善いことをしたら天国に行き、悪いことをしたら地獄に堕ちるというものだろう」
信者 「まあ、そうですね」
老人 「言い方をかえれば、天国に行きたかったら善いことをしなさい、地獄に堕ちたくなかったら悪いことをしてはいけませんということだろう」

 
念のために申し上げますが、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄、という考え方を、キリスト教とキリスト信仰はしていません。善悪は、信仰の結果であって、条件ではないことを、最近も書いたばかりです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12605212062.html
 

信者 「……」
老人 「ようするに、因果応報というものは、『〇〇ならば、~しなさい』というところに行き着くものだろう。天国と地獄という飴と鞭によって、人を動かそうとしている」
信者 「それのどこか悪いんですか」
老人 「善のために善を為すのではなく、天国のために善を為す。悪を厭うために悪を避けるのではなく、地獄を厭うために悪を避ける。こういう判断は、はたして倫理的と言えるかどうか、私には疑問だ」

 
私が、善悪が信仰の条件ではなく結果と言う理由は、ここで楽山が、善悪について書いている途中で善悪の倫理を根拠に持ち出してくるという本末転倒ではなく、また、人情や同情心でもなく、もっと冷静な節操として、人には、善悪を正確に判断できる能力がない、ということです。
 

信者 「そんなのは些末なことにすぎません。ようするにあなたは因果応報という真理にケチをつけたいだけでしょう。あなたがどんなにケチをつけたところで、因果応報はびくともしません。善を為せば天国に行き、悪を為せば地獄に堕ちます。善を為すにしても、悪を為すにしても、自分がしたことは、まわりまわって自分に戻って来るのです。これが真理です。真実なんです。私はあなたなんかより因果応報を信じます」
老人 「あなたが因果応報を信じ、そこに何ら不浄なものを感じていないらしいことについて、私は何も言おうとは思わない。ああしろ、こうしろと指図する気はない。そこは安心してほしい」
信者 「なんだか、上から目線で、嫌味のある言い方ですね」
老人 「そうかな」

 
自分で、上から目線と言う言葉を使っています。あくどいことです。私が、今まで、何度も、シャロームと楽山に、上から見下ろす態度、高慢と慢心、などという言葉で、指摘し、当てはめてきたことです。
 
楽山が、もう一人の楽山自身に言わせて、そうかな、と疑問符をつける楽山の詐欺的詭弁であり、嫌らしい作為の流れです。自分を戒めたくない者の、言い逃れの特徴が出ている、と言ってよいでしょう。
 

信者 「そうです。いっておきますけど、あなたが因果応報を認めないのは、結局のところ、何の努力もせずに、いい思いをしたいからではないですか」
老人 「うーん。何を言っているのかよく分からないな。もう少し説明してくれないかな」
信者 「因果応報にしろ、カルマにしろ、その本質は努力を尊ぶということなんです。因果応報という法則があるからこそ、正しくあろうと努力すれば、その努力は報われるんです。善に努めた者は相応の見返りがあるのです。一方、なにも努力しない者は、なにも得ることはないんです。悪を犯した者は相応の報いを受けるんです」
老人 「それで?」
信者 「あなたは、何の努力もせずに果実だけを得たいんです。過ちを犯してもその償いをする気がないんです。だから因果応報を嫌うんです」
老人 「うーん。その件についてはさっきも触れたけれども、私は労せずして果実を得ようとしているのではないんだ。果実を目的にしたくないから因果応報には距離をおいているんだ」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「天国に行きたいなら善を行いなさいというように、果実を目的とした善行は善行とは言えないし、そういうことを助長する因果応報という考え方には問題があるのではないかというのは、実にシンプルな考え方だと思うのだが、きみにはこれが詭弁に見えるのかな」
信者 「はい、詭弁ですね。自分の心得違いを正当化しようとしているだけです」

 
ここだけの理路に集中しすぎないようにしてください。楽山の白々しさが、その流れに、表れているからです。楽山が楽山と口喧嘩をしているのです。わざとらしいことです。
 
どうも、このシリーズでは、混乱した内容にして、読者を混乱させたいという意図があるような気がします。それで、正邪の判断を鈍らせたいのでしょうか。
 
だから、このことから、楽山が、絶望的な疲労を与えるだけの人である、ということが推論できるのです。巻き込まれることなく、楽山という愚かな策士の特徴を、長い文脈から、俯瞰(ふかん)する視線が必要になります。
 
凝った芝居の演出をしても、大反省が必要な、長きにわたる嘘と詭弁について、反省する気のない楽山の、いかにも、ナルシストの、気取った細工は、これまた、誠意のない、恣意の詭弁となってゆきます。この作為が、楽山が自ら、"反省する" と言った言葉の信頼性を無にしてきたのです。
 
悪意の履歴は、言葉を蝕(むしば)んでゆきます。言葉を、悪意でいい加減に使った人の言において、死語にしてゆくのです。言葉を甘く見てはいけません。"狼と少年" の話と似ています。
 
なお、人間が語る因果応報が真実でない、因果応報を持って善悪は語れない、というのは、不完全な人間には、因果関係を正確に判別し確定する能力がない、ということでしょう。
 

*因果応報と宗教性
老人 「ところで、きみにとっての因果応報というのは、一体何なんだね?」
信者 「因果応報は、真理であり、法です」
老人 「因果応報は絶対であり、それを超える存在はないということだろうか」
信者 「そうです。因果応報は、真理であり、法であり、さらには仏でもあります」
老人 「なるほどそうか。私の場合は、因果応報という法則があるとすれば、それを超える存在もあるかもしれないと考えるね」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「そうかもしれないね。でもまあ話を始めたからには、最後まで話させてもらうことにしよう。まず私は、もし絶対者というような存在があるとしたら、それは因果応報を超えた存在であり、その一存によって因果応報を…もし仮に因果応報という法則が存在したとしたならば…簡単にひっくり返せるだろうと思うのだ。もし絶対者が存在したならば、因果応報という法則に束縛されることはないだろう」

 
楽山の詭弁です。因果応報、真理、絶対、いずれも、厳密性を考えた途端に、人間の手に負えないことです。人間は、神聖の持つ完全ではなく、成長する不完全だからです。その成長を怠けて、揶揄に生きているのが楽山です。
 
つまり、信仰者は、完全なる神の正しさから考えたり言ったりしていると思ってはいけないということなのです。神聖は、人が推測はしても、確定してはいけないところです。そこを勘違いしている人は、結構、多いような気がします。
 
信仰者は、推測によって判断して行動している自覚を持つべきです。ゆえに、しばしば、祈りによって正直に告白し、じっくり反省することが必要になるのです。
 
またしても、楽山は、概念把握も出来ないくせに、因果応報を超える、という気安い言い方をしています。また、因果応報の法則と言い、簡単にひっくり返せるだろうと言い、それを、絶対者に結び付けて、自己顕示しています。これが、字面だけの概念把握からの破れた蜘蛛の巣のような自己愛の経過と結果なのです。
 
楽山に結び付けられるような絶対者ではないのです。絶対者は、因果応報よりも、楽山を、先にひっくり返すでしょう。
 
絶対者を字面で言い得た気分でいる楽山が、実際は、神について語るのに必要なものを、全く持っていないことが表れています。
 

信者 「今度は詭弁を超越したトンデモ話がはじまりましたね」
老人 「きみは因果応報を絶対だと信じているからそういう発想になるのだろうけれども、私は因果応報は絶対ではなく、それを超えた存在があるかもしれないと思うから、上述のように考えるんだよ」
信者 「いやいや、もし仮に、あなたのいう絶対者なるものが存在したとしても、因果応報をひっくり返すなんてするわけがないです」
老人 「絶対者は、そんな不公平なことをするわけがないと…?」
信者 「そうです。そんなことをするわけがありません」
老人 「でも、ヨブ記を読めば、ヨブは善人であったからこそ、あらゆる災厄にみまわれたように思えるが」
信者 「それは読解に問題があるのでしょう。あなたの解釈が間違っているんです」

 
楽山は、「ヨブは善人であったからこそ、あらゆる災厄にみまわれた」と言っています。神が、楽山と同じような、サディストであると言いたいのでしょうか。
 
どんな人生にも苦難の時はあるでしょう。その最たるものを、ヨブと神の関係として、つまり、人と神の関係として表したのが、ヨブ記なのです。本末転倒の、字面の読み方しかできない楽山です。このことは、楽山が、ヨブ記を読む前に、既に、反キリストであることを示唆しています。
 

老人 「では、きみは、マタイによる福音書20章にある「ぶどう園の労働者」のたとえはどう思う?」
信者 「それはどんな話ですか」
老人 「ぶどう園の主人は、労働者を集めて作業をさせ、一日の仕事が終わった後、朝から働いた者、昼から働いた者、作業時間が終わる少し前から働いた者、みんなに一日分の賃金を支払ったという話だ」
信者 「労働者たちが働いた時間はそれぞれ違うのに、みんな同じ賃金を与えたのですか」
老人 「そうだ」
信者 「それはおかしいですね。そういう場合は、各人の労働時間に応じた賃金を支払うのが当たり前です」
老人 「でもこのたとえ話からすると、ぶどう園の主人…つまり絶対者である神は、そんな風には考えないようだ」
信者 「……」
老人 「私には、因果応報が事実であるかどうか、絶対者が存在するかどうか、どちらについても確実なことは分からない。でももし絶対者が存在したなら、因果応報だとか、原因と結果の法則だとか、作用反作用の法則だとか、そういったものはあまりアテにはできないと思うね。なぜなら絶対者は、そのような法則には束縛されることなく、自由に判断を下すだろうから」

 
聖句を、まるで、神が、因果応報など構わず、つまり理由もなく、自由勝手に決めていると言っているようです。いつも上から見下ろしているために、深いところを読み取る、ということが、できなくなっている楽山です。そして、聖書のアラばかり探して、恥をさらしています。
 
ブドウ園のたとえについて
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
20:11-12
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
20:13
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
20:14-15
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
20:16
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
 (マタイ20:11-16、新約聖書
 
 (ネットより)
ぶどう摘みは雨期の始まる前に終えなければいけないので、緊急を要する仕事であったのでしょう。
だから人手が必要なのですが、そのためにぶどう園の主人は何回も広場に出向いて労働者を集めていました。なお、当時の日雇い労働者の一日の標準の賃金が一デナリオンということです。
エスはこの「気前のよい雇い主」をたとえとして、神の恩恵を語っておられるのだと思うのです。父なる神は、この雇い主のように、働きに応じて報酬を与えるのではなく、働きの多少にかかわらず無条件に同じ祝福を与えられることが主眼ではないでしょうか。。
神の支配(神の国)とは、その人が何をしたからとか、何を持っているからではなく、誰でも無条件に恩恵の支配に与れるところだと教えておられるのだと思うのです。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
 
雇い主は、神のことです。この聖句は、キリストが、人々に語った、たとえ話です。お金に喩えていますが、神の恵みである救いのことを、譬えで、語っているわけです。
 
救いを与えるのだから、救いに多い少ないはない、ということを言っています。神が、能力や、仕事量で、差別するのではなく、信仰のみによって救いを与えるということ、即ち、この聖句は、信仰義認という救いの本質を語っているとも言えるでしょう。
 
聖句「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という逆説的な教えは、
聖句「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:12)と同様の意味であり、高ぶりが、大きな罪であることを伝えて、戒めています。
 
つまり、自己中は、心がバラバラになり、過剰な自己愛は、憎まれるだけになり、無反省は、きびしく責められる結果になり、無視は、逆に人格ごと無視されて相手にされなくなる、というようなことでもあるわけです。
 
楽山という反キリストは、因果応報を字面だけ杓子定規に捉えて、理解できない不平等と言って、神が、自由に判断していると言っていますが、要するに、神は勝手にするんだ、神は勝手な奴だ、という印象を吹き込もうとしているのでしょう。
 
神は不平等だ、と言う不平や疑問は、ドラマや映画などでも聞いた覚えがあります。現象として、この地上では、不平等としか思えないことが多々あります。しかし、それでも、キリストの絆された人々は、キリストを慕い続けるのです。
 
それは、キリストが、最も不平等な、死、という重荷を負われたからです。その命を惜しまない愛と共感に支えられて、信仰者は生きるのです。
 
いくら、楽山のような嘘吐きが、いい加減な胡散臭い小理屈で、いちゃもんをつけても、楽山という反キリストの、ケチで腐った根性が、ぶくぶく浮き出してくるだけなのです。
 

*おめでたい人
信者 「やはり、あなたは自己中心的ですね。楽して得しようとしているんじゃないですか」
老人 「私の考え方は、もう何度も説明しているとおり、なんらかの果実を目的として善を為すのではなく、ただ善のために善を為そう、その結果、絶対者がどのような判定を下そうが構わない、黙って従うのみだ、ということなんだが、この考え方はそんなに自己中心的だろうか」

 
自己中心、というより、傲慢です。善のために善を為す、という正義の味方かヒーローかというような、きれいごとを言いながら、楽山のしてきたことは、嘘を吐く、自己正当化、自己顕示欲で自慢する、無反省、独り芝居、反キリストの陰謀、ということですから、むしろ、現実の劣悪な楽山との違いの対照が際立ってくるだけなのです。
 
こういうところにも、楽山の、教祖願望~教祖顔貌とでもいうべき、鼻を上向きにヒクヒクさせているような、自尊過大が表れているのです。まだまだ、楽山の反キリストとヒーロー願望の思い上がりは、底知れないものがあると感じます。
 
楽山日記は、読書感想日記どころではないのです。精神詐欺師のサイトと言ってよいと思います。
 

信者 「あなたは、神は、自分が何を為そうか関係なしに、ありのままの自分をそのまま受け入れてくれるとか何とか書いてたでしょう」
老人 「そうだね。私にはなんだかんだ言っても、神に対する信頼がある」

 
楽山には、神に対する信頼など、欠片もありません。
 

信者 「神を信頼するって、なんだか偉そうな言い草ですね」
老人 「まあそれは言葉のあやというものだね」
信者 「誤魔化さないでください。それであなたは、自己都合信仰であることを認めるのですか」
老人 「それより、きみは、ありのままの自分を受け入れられた経験はあるのだろうか」
信者 「いま話しているのは私のことではありません。あなたのことです」
老人 「答えたくないなら答えなくていいが、私の場合のは幸いにして、そういう経験があるのだよ。たとえば私は幼少時に、親に受け入れてもらうために何かしなくてはいけないということを考えた覚えがないんだ。親は、ありのままの自分を受け入れてくれるのが当たり前すぎて、そんなことで悩んだことはなかった。そのせいか今でも、その手の気苦労はあまり感じないんだ。神に受け入れられるために何かをしなければならないというような強迫観念は浮かんでこない。この身このままで受け入れられていると感じるんだ」

 
楽山は、このように信仰を肯定するかのような白々しいことも、平気で書いてくる人です。自分の恣意によって、言葉だけ、キリスト教寄りだったり、反キリストだったりしますが、むしろ、この、いい加減さが、逆に、明らかに、キリストと神を、平気で悪用するような、本質的な、反キリストであることを示しているのです。
 

信者 「おめでたい人ですね」
老人 「そうだね。それは否定できない」
信者 「では、あなたがご自分のおめでたさを認めたところで、お開きとしましょうか。もういい加減、あなたの相手をするのは嫌になってきました。なんだかいくら話したって無駄みたいです」
老人 「そうかい」
信者 「そうですよ」
老人 「それなら、ここらでおしまいにするのがよさそうだね」
信者 「ええそうしましょう。でも言っておきますけど、今回はこれで終わりでも、次があるかないかはあなた次第ですからね。またあなたがおかしなことを書いていたら、容赦なく批判します。今回は最初なので手加減してあげましたが、次は本気を出しますからね」
老人 「ご随意に。あなたに神の恵みがありますように」
信者 「それはこっちの台詞です」
老人 「ありがとう。では、さようなら」

 
この記事では、対決姿勢が目立つ独り芝居ですが、それで、結局、楽山は何が言いたかったのでしょう。「容赦なく批判します」と言っている信者は、私に当てつけたのでしょうか。迷惑です。
 
老人は誰なのでしょう。これも、誰かへの当てつけでしょうか。いいえ、どちらも楽山なのです。本気などではないから、気の抜けた口喧嘩みたいに終わっています。
 
これを、まともに受け取らないでください。登場人物二人も、他の人物も、本も、聖書も、神も、キリストも、みな、楽山の、オモチャなのです。
 
本気で、宗教を語るような心性を、楽山は、ひとかけらも持っていません。わざとらしくて、しまらない記事で、楽山の、ごまかし方だけが、随所に出ていると思います。
 
楽山のオモチャも含めて、批判の資料となってゆきます。どんな策略が、どんな詭弁が、どんな誘導が、待っているか分からない楽山のサイトです。
 
1年以上、批判されたのに、何も受け取らず、今も、同じことを、ボンヤリ言語で、婉曲的な言い方で刷り込んでくる不感不応の執拗さが、反省と成長の無い証拠であり、異常である証拠であります。決して、近づいてはいけません。
 
 
(2020年06月26日)
 
 
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楽山の因果応報(1)

 
  楽山の因果応報(1)
 
 因果応報についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25245536.html
 
 
楽山は、飢えた犬のように、まとめて記事をアップしてきました。凄い気力ですが、その分、理路も情感も鈍っているなら、また、疲労を与えに来ただけということになります。
 
楽山は、対話形式にすれば、リアルさが増すと思ったのでしょうか。より衒奇(げんき)性が増すとは思わないのでしょうか。芝居がかった?三文芝居が続きます。
 
今までも、柔和芝居や、謙虚芝居や、クリスチャン芝居をして、だまそうとしてきた楽山ですが、このシリーズは、2つのキャラに、褒めたり、けなしたりをさせています。
 
正しいと思うことをストレートに言えるなら、また、反省し修正する心を持っているなら、対話形式にする必要は全くないのです。しっかりした根拠を持っていないから、さらに、演技性に向かうということでしょう。
 
カルト的思想は、そのベースが偽りなので、だまして誘うことが目的となり、詭弁と刷り込みの種類だけが凝ったものになってゆくのでしょう。目的が不純なために、わざとらしさだけが目立つ欠陥品になるのです。
 

*信者の訪問
信者 「こんにちは。あなたのブログを読んで、いろいろ考えさせられました」
老人 「こんにちは。それはよかった。拙ブログが考えを深めるきっかけになったのであれば、こんなうれしいことはない」

 
楽山の、哀れな、独り芝居の、独り褒め合いと、独り納得の、独り感謝です。こういうことが、みじめだとか、見苦しいとか、恥ずかしいとか、思わないようです。まさに、悪の染みついて首が回らなくなった詐欺師と言わざるを得ません。
 

信者 「なに言ってんですか。あなたのブログを読んで、よいことも、うれしいことも一つもないですよ」
老人 「は? それはどういうことかな」
信者 「どうもこうもないです。言葉通りの意味ですよ。あなたのブログのでたらめさには、まったく呆れてしまいましたね」
老人 「ほう…。たとえばどんな?」
信者 「そうですね。まずあなたは因果応報を否定してるでしょう。これはもう噴飯ものであって、明らかな間違いです」
*三つの問題点
老人 「うーん。それは早とちりだね。私の考えは、因果応報が現実かどうかは、人には確かめようはなく分からないことだというものだ。それがあるとも、ないとも断言はしない」
信者 「でも因果応報を否定しているでしょう」
老人 「因果応報という考え方には、人道的、倫理的、宗教的な面から問題があるとは考えている。また自分の感覚として、因果応報にはあまりリアリティを感じなくなってきているというのもある。ただ因果応報という法則があるかないかについては人には分からないと思う」
信者 「なに屁理屈ばかり言ってるんですか。そんな詭弁には騙されませんよ。私のことをなめるのは、いい加減にやめなさい」
老人 「別になめているつもりはない。その証にきちんとあなたと向き合い、私の考えを説明したいと思うがどうだろう」
信者 「話したいなら勝手に話をしたらいいでしょう。でも騙そうったってそうはいきませんからね。末端信者とはいえ、それなりの教学はしてますから、あなたなんかに騙されませんよ」
老人 「そうかい。では因果応報について私の考えを話してみよう」

 
今回は、信者が老人をけなす設定になっているようです。楽山は、どっちなのでしょう。どっちも楽山であり、楽山としては、私をけなしたいのでしょう。分かりにくくなっているだけです。
 
これまで、反キリストでありながら、クリスチャン芝居もしてきたわけですから、出来ないことはないと思っているのでしょうが、白々しいとは思わないのでしょうか、楽山自身が答えられる疑問と回答しか書けない芝居です。
 
楽山の特徴は、決して、批判に向き合わないことです。だから、ここで、期待通りの疑問をしてくれる信者を設定しているのでしょう。白々しいのです、三文芝居。
 

*因果応報と人情
老人 「いきなり私事から話をはじめて恐縮ではあるが、この問題について語るには、それがどうしても必要だと思うので、ここは我慢して聞いてもらいたい」
信者 「能書きはいいから、早く話をはじめなさいよ」
老人 「うむ。私が生まれ育った家は、特定の宗教の信者ではない、日本ではごく一般的であろう無宗教の家だった。だからは私は、特別な宗教教育は受けたことはなかった。それで、気の毒な状況にある人をみれば、『気の毒だ』と思ったものだった。『なんとかできないものか』とか、『自分に何かできないか』『でもお節介がられるんじゃないか』とか、いろいろ考えたりもした」
信者 「……」
老人 「その後、私は青年期になって、とある宗教に凝ったんだ。その宗教は、因果応報やカルマは真実であり、事実であると説いており、私はそれを本気で信じた。その結果、気の毒な状況にある人たちをみたときには、まずはじめに『前世のカルマだ』『罪の報いだ』と考えるようになり、同情心はあまりわかなくなったんだ。悪いことをしている人をみたときは、『罪の報いで地獄に堕ちる』『来世は反作用で苦しむだろう』などと考えてしまった」

 
楽山が、因果応報という言葉で考えていることが、空恐ろしく思えます。楽山は、即、罪の報い、ということに結び付けているのです。しかも、罪の報いだと考えるようになり、同情心は、あまり分からなかったと言っています。
 
罪と罪の報いに苦しんでいる人は、たくさんいるでしょう。同情してはいけないのでしょうか。ここに、楽山の、人間にとって、とても大事なものの欠如が見て取れると思います。
 
ここに表れているのは、楽山の "共感性の欠如" です。罪を犯す人を、特別悪い人と思っているようです。罪は、総ての人が犯しているのです。そこへの洞察が、まるで無い楽山です。
 
洞察は、共感性から、生まれてきます。前にも書きましたが、楽山の、有害なだけの陰気なダークネスから、その対極に、人間にとって必要な光のブライトネスがどういうものか、暗示されてくるわけです。
 
このことから、楽山が、自分のことは棚に上げて、人に対しても、神についても、高い位置から見下ろすようなことしか書けない、ということが分かります。次々と、楽山自らの言説によって、楽山の正体が明らかになってくるのです。そして、その対極にあるものが、暗示されるという皮肉な結果になるのです。
 
対極にあるもの、人間にとって大切な共感性、これが養われておれば、人の気持ちが、少なくとも、ある程度、分かります。自分が似たような罪の意識をいだいたことを体験から知っているからこそ、同情が出来るのです。
 
楽山には、そういう心が無いのでしょう。だから邪教も『本気で信じ』てしまうし、人に対しても『罪の報いだ』としか考えないのでしょう。それが、今も続いているということです。だから、字面だけの理屈でしか考えられないのでしょう。
 

信者 「それで? それがどうだったいうんです?」
老人 「この結果、私は、因果応報という考え方は、人の自然な情緒を棄損し、冷酷にする面があり、ここは非常によくないと考えるようになったんだ」
信者 「因果応報を信じるようになってから、人に対して冷酷になったとして、それは因果応報の問題ではなくて、あなた自身の問題でしょう。自分の問題を、因果応報になすりつけてはいけません」
老人 「そうだろうか。私がいた宗教では、因果応報だとか、カルマが説かれており、私以外の信者たちも、不幸な状況にある人について、『カルマですね』とし、意見が合わない人には『死後は地獄ですね』といい、不慮の死を遂げた人については『肉体生命は断たれても霊としては永遠です。どんな経験も霊性を向上させるための肥やしになるんです』といって簡単に割り切って終わりにする人が多かったものだ。彼らのこういう冷淡さと、因果応報、カルマといった思想とは無関係ではないように思う」
信者 「それじゃあ、勝手にそう思ってたらいいでしょう」

 
このあたりから、楽山は、冷淡などの、心の問題を取り上げたいようです。私が、楽山は心が無いと言ったからでしょうか。しかし、そのように言われて取り上げるのは、反省になっていないところから、言い訳としか見られないことを、楽山は知るべきです。
 
楽山は、シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という信条に賛成し、熱心な信仰と誉めてさえいました。
 
こういう、何も考えなくて勝手にしていいとでも言うようなシャロームの信条に賛成してしまうことが、罪の自覚、罪に苦しみ悲しむことへの共感が、人間を、反省させ、成長させてゆくことが、楽山には分かっていない、という根拠になるのです。
 
このシャロームの信条は、ただ、お気楽なだけです。そこには人間の温もりも潤いもありません。つまり、とても冷淡で、非情で、自己中で、人間についての洞察の欠片もない、という、シャロームの人格の有り様が表れています。
 
ゆえに、楽山の書いた文章ですから、シャロームに賛同する楽山の、冷淡さを指摘する言は、嘘だと思います。
 
楽山は、神を机上の字面の概念として、否定してきました。そして、心の無い冷たい欠陥性の理路で、神を、おとしめてきました。字面の理路というのは、人間性を欠いた冷淡な理屈です。こだわりだけで進める無機質のゲームです。
 
楽山が、今になって、反省としてではなく、最初から分かっていたかのように、心のことを書いてくるのは、言い逃れに過ぎないと思います。何故なら、言われたことを真似して書く、という反応そのものが、心からの反省が欠けている分、都合だけを考えた心無い結果だからです。
 
霊性を向上させるための肥やし」というのは、心を無視して、字面の概念を、霊、という言葉で表して、心とは違う特別のものに見せかけるカルトの詭弁です。
 
ごちゃごちゃ言い逃れの詭弁を弄するのではなく、本当に、前のことを翻したのなら、自らを斬る以外にはないのですから、自分大事に、心があるかのように、今さら、言うことは、むしろ、楽山の企みを明らかにするだけになるわけです。
 
冷淡さについて、楽山が、自らを斬ることなしに、辻褄合わせに語ることなど、認めてよいことではありません。
 
こういう芝居を平気でしてしまうところに、楽山の悪意が、さらに悪性を増していることが、表れています。奇を衒(てら)った三文芝居など、楽山の今までの経過が、否定しています。
 
だまして、良く思われようとする、あがきに対して、微塵も説得力の無いことも、明らかになっています。保身のためには、他者を利用し、自説を最初から無かったかのように無視して、今の自尊を守ろうとする姿勢は、もはや、正常の言論者ではありえないことをもって、楽山が、詐欺師であることを確定してゆく経過と結果になるでしょう。
 
悔いることもせず、改めることもせず、自らの非を認めることもしないで書いてくるような、楽山の辻褄合わせの芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
※ 
 
批判というものを考えるとき、批判者は、正しいと思って批判していても、批判の正しさを信じるのではなく、できることをしているに過ぎない、ということを自覚するべきです。つまり、批判してもしなくても、人間にとって、それは、そのときの判断に過ぎず、人間の正しさの結論は、神に任せられるということです。
 
人間は不完全だから、批判することも、批判しないことも、罪になりうるからです。
 
 
(2020年06月25日、同日一部修正)
 
排泄(はいせつ)
 
 
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楽山の独り芝居(3)

 
  楽山の独り芝居(3)
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25240253.html
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。
 

*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」

 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の言です。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 

若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」

 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神からの働きかけかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。それが、信仰者の生き方であり、神と違って不完全な人間の生き方であります。
 
実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。どれかを知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか聖書も理解していないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 

若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」

 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる時です。
 

若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」

 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、おもちゃに過ぎないということでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうか、言及がない。障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
(2020年06月24日)
 
 
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