ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

ヒーロー気取り2

 
  ヒーロー気取り2
 
 事実は一つでも、その感想は人それぞれ異なる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月11日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24326061.html
 
 
まるで、説教壇か山上で教えを垂れるような、しかも全部が空っぽな豪語が結論となっている楽山の排泄です。
 

最近は、「人それぞれ」ということを感じる機会が増えているのだが、本書にもそれらしいことが書いてあった。

同じ事実でも、人が違えばまったく違った感情を呼びさますし、また、同じ人にも、時が違えば違った感情を呼びさますのであるから、同じ事実が相反するような感情的説明を受けることは、明らかである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.228)
 」
これは本当にその通りだ。たとえば、一冊の本の感想は、人それぞれ違うのが当たり前であるし、同じ人でもはじめて読んだ時と、再読では、感想が違っても不思議ではない。いや、むしろ違うのが当然だ。

 
人それぞれ、というのは、シャロームが、妄想信条を語るときに、よく言っていたことです。人それぞれだからと言って、自己中、嘘、妄想、など、邪悪なものを是とする・・なんてことは出来ません。同じ詭弁で言い訳をする楽山です。みすぼらしい限りです。
 
楽山は、本の感想を例に挙げていますが、私は、感想レベルのことを言っているのではなく、常識レベルで、楽山について、おかしいと言っているのです。批判が理解できず、本の感想に喩えるのは、ますます、おかしい楽山を、定評としてルーチン化してゆきます。
 

これは書物だけでなく、絵画、映画、景色、料理…その他さまざまなことでも同じことがいえる。もちろん宗教思想についてもそうだ。一つの宗教思想についてそれを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。いったん受け入れても、その後で改宗、転向ということもありえる。これが現実である。

 
だから、楽山が受け入れなくても結構、むしろ、受け入れることなど期待していない。むしろ、楽山みたいな人がそのまま来てもらっては困るということです。
 
問題意識が、また、著しく的外れです。楽山は、公共の場で、キリスト教を、無理解であるのに、全然成り立たない理由で否定してきたわけです。それが迷惑だと言っています。
 
常識のある人なら、分かることが、楽山は分からない、というより、我を張って、ますます、話を違う方向に持ってゆくという詭弁です。鼻を突くような悪臭です。
 

こうしてみると、人の心というものは決して定まることのないものであって、少しも当てにならないものだということがよく分かる。

 
身も蓋もなく、楽山は、何を言っているのでしょう。迷惑行為を無常観で済ませるのでしょうか。問題が、定まらないのでも、当てにならないのでもなく、楽山が、無理解のくせに、意地を張って、言い逃れの詭弁を宛がっているということです。こういう誤魔化しが通用すると思っている楽山です。冷静な知性も感性も無い。
 

一切は移ろい行くものであり、人の心もその例外ではないとすると、若干、もの悲しい心持ちがしないでもないが、どんなに悲しかろうが、寂しかろうが、これが現実なのだから、それを拒絶したところで仕方がない。一切は過ぎ去って行くのだとすれば、「一切は過ぎ去って行く」ということもいずれは過ぎ去って行き、その次には一切は過ぎ去って行くとも限らない状態が到来する可能性もあるのではないかと言えば言えそうでもあるが、これはただの理屈に過ぎないのだからどうにもならない。

 
みんな、うつろいゆくものだから、どうにもならない、ということに結びつけて、これで、何か書いたつもりで投稿してくることが、風を追うような、塵に縋りつくような、霞に希望を託すようなものでしょう。
 
楽山の、詭弁の延長としての、うわべだけ仏教哲学風味だけど、繰り言のように腐った不平不満です。楽山の言は、ただの理屈に過ぎないのではなく、自己愛、訂正不能、無反省によるところの、社会悪につながる恐れのある有害な詭弁であります。
 
「どうにもならない」と言っているように、楽山の言説は、何の役にも立たないのです。自分で言っているわけだから、身の程を弁えて、妨害と迷惑の、どうにもならない無益な屁理屈発表をやめなさい。
 

人それぞれという考え方は、各人の自由を尊び、個人を尊重するにはよいけれども、人と同じでいたい、確固たる地盤の上にいたいという願望を充足させるという点では少々物足りないところがあるだろうし、誰をも満足させるものではないのは事実ではある。

 
人それぞれを、心の叫びのように書いた後で、これです。いかに、楽山が、いい加減で、継続性のない精神で物を言っているかが、如実に表れています。楽山の言こそ誰をも満足させない、というのが事実であります。
 

世の中には万人を納得させる思想などというものは存在しないし、当然ながら、人それぞれという考え方もその例外ではない。ただし個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、当分の間はこれがもっとも多数から支持される無難、穏便なものの考え方だろうことは確かではあるし、

 
このような楽山の言は、しかたない、しかたない、といって、努力を怠るところの敗北思想にも似ています。それにしても「多数から支持される無難、穏便なもの」とは、書く値打ちのないことでしょう。このように、楽山は、何も実のあることを提示できないのです。
 
自分が満足しないだけであるのに、楽山は、「一つの思想、価値観で統一するのは無理」と、真実追求をあっさり放棄しています。楽山は、しばしば、このような短絡で、総てを言い切ったつもりになるのです。
 
「これ」って何でしょう。付け焼刃でひねり出した真実放棄の、一つじゃ無理という話なのでしょうか。呆れます。多数から支持されると言っていますが、楽山のお仲間が、無条件賛同するだけでしょう。
 
何だか、ヒーローの説教みたいな言い方になっているのが、非常に気持ち悪いです。それに、楽山の思想は、霊能者気取りで、上から下にアドバイスして、何も益がないという結果が、既に、文章のいい加減さに見えているのです。
 
これが、楽山の自己愛の、根無し、あるいは、根腐れ、とでも言うべき、底の浅さであり、説得力も、説得しようという気も、全くない証拠となるでしょう。未熟な子供が、未熟な意見を、声だけ大人の大声で演説している体であります。言い張ることは、こうも醜いという教訓です。
 

個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、これより善い新思想が出てくるまでは、ますます人それぞれという考え方は広く、深く人々の心に沁み込んでゆくだろうと思う。

 
誇大的気分のヒロイズムと、即、幼稚と言ってよいような、預言者?の演説でもあるかのような、もったいぶった大袈裟な豪語になって、その分、中身が、いっそう、空疎で悲惨なのです。何を言っているんでしょう。
 
人それぞれ、というのは、特別な考え方でも思想でもありません。沁み込むような深いものでもありません。昔から、個人的な要素の強いことに、折り合いをつけるためにあるようなものです。だまされないでください。楽山は、いい加減なことしか言えない自分を正当化しようとしています。これは、楽山の自慰行為なのです。
 
しかし、楽山は、何について語ってきたでしょうか。神と宗教、特にキリスト教についてです。どうでしょう。人それぞれでやって行ったら、際限なく、カルトが出てくる問題なのです。さらに、楽山は、キリスト教と折り合いなど付けていません。否定したのです。白々しい。
 
しかも、楽山は、いっさい、説教にならないのはもちろん、教養にもならない愚痴のようなことをねちねちと執拗に言ってきたのです。今もそうです。それこそ、帰る場所のない野良犬が口角からだらしなく垂らすヨダレに過ぎません。全く思想になっていないのです。
 
この部分は、特に、楽山のベースにある自己愛性人格障害と、いつかヒーロー・・みたいな躁的興奮気分が、垂れ流されています。裸の王様でしょうか。シャロームもそうでした。
 
こちらとしては、楽山の言説が読者にとって、宗教・信仰にとって、害毒だという判断には、とっくに十分な根拠があるわけです。今もそうです。それでも言い張りをやめない楽山の丁寧語の排せつ物を、何やら一端(いっぱし)の思想と勘違いする人がいないように、批判しているだけなのです。
 
 
 宗教が人をつくるのではなく、人が宗教をつくる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月11日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24325639.html
 
 
楽山の正体は、風船か軽石のようです。外れ方が酷くて、中身がなくて、とても、一般に供せられる質ではありません。丁寧を装っても、内容としては、もはや、ひどい外れ方なので、暴言・暴論と言ってもいいでしょう。
 

「鶏と卵ではどちらが先か?」という話があるけれども、下のような文章を読むと、「人と神ではどちらが先か?」とか、「人と宗教ではどちらが先か?」というようなことをついつい考えてしまう。

幸福が現実に所有されている場合には、悪の思想は実在感をもつことができない。それは、憂鬱が支配している時に、善の思想が実在感をもちえないのと同じことである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.136)
 」
宗教のなかには、幸福感を強調するものもあれば、厭世的な気分を刺激するものもあるけれども、考えようによっては、こういう宗教の色合いは、人の心によって定められるということもありそうだ。幸福な人は幸福を強調する宗教を求め、厭世的な人は厭世的な宗教を求め、それぞれがそれぞれの宗教をより完全な形に熟成させていったのではなかろうかと…。

 
楽山の軽口です。「宗教をより完全な形に熟成させていった」・・宗教の完全な形、誰も知りません。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」を持ち出してきました。鳥があるのは卵から成長するから、卵があるのは鳥が産むから、つまり、これは、循環論法という矛盾です。
 
これを、楽山は、以前、奇跡について語ろうとして、循環論法になって失敗しているのですが、循環論法が、よっぽど好きなのか、また、今度は、まともに宗教に当てはめようとしているのは、暴論というべきでしょうか、いや、妄想に近い自己欺瞞です。欲と意地以外何もないのでしょうか。
 
宗教は、一部の人々が、真実を追求して、いわゆる気付きをもって、その一部を収穫して、今までにない新しいこととして、人に問うことで始まるわけです。しかし、楽山は、今までの記事の流れから、宗教は人が捏造するつまらないもの、という印象だけを吹き込もうとしています。
 
安っぽい思想を捏造しているのは、楽山その人であります。ゆえに、楽山の言は、呆れるほど、何の感動も意外性もインパクトも面白味もない退屈なだけの代物です。楽山だけが、独りで、整ったと自画自賛しているだけなのです。
 

とすると、宗教の多様性は人の心の多様性によって育まれたのであり、宗教が人を導いているというより、人が宗教を導いているという方が現実に近いのかもしれない。

 
どっちが先?という鶏と卵の循環論法から、楽山は、人と宗教について、要素的な断片を述べただけで、人が先に宗教を作ったという循環しない結論を導いているつもりなのです。目に見えない真実というものを、楽山が、いかに気軽に考え、決めて付けたきたかが分かります。
 
人が宗教を作っている、という、悪い意味なのに、育んだ、導いている、などという、良い意味の言葉を使って、言葉の世界をけがしています。表れているのは、楽山が、詭弁で迷路に導いているということだけです。
 
信仰を持つ人々が作るのは、言葉で表される形式や儀式や組織や道徳律のような目に見えるものでしょう。しかし、宗教と信仰の本質は、目に見えないものです。
 
多様性と書いて済ませているのも、いかにも浅薄なのです。宗教の真実というのは、ごく一部の人が、深い思考によって到達するものです。楽山は、そういう深淵を全く理解していないし、まるで浅瀬で遊んでいる小魚のようです。楽山が思い付きで書くのとは、全然、違うのです。
 
しかも、楽山は、ナルシズムによって、深淵から掛け離れた未熟さを認めず、神も、キリストも、高みから見下ろした風景の可視範囲の一部を見ているで、それで、いかにも、知ってるふうに決めつけてくる慢心した愚昧(ぐまい)の輩です。求める意志がないから、その時その場の付け焼刃で、結論を出してしまうのでしょう。
 

ちなみに自分のことを書くと、自分はいつも厭世と理想の両方に足を乗せているように思う。

 
楽山は、どちらにも、手も足も乗せていないと思います。厭世も理想も、考えれば、深く遠いものです。偉そうに言ってる楽山だけが、浅くて、思い上がっているという醜態です。
 

それでいながら、「一切は過ぎ去ってゆきます」という方に傾いてみたり、「すべては愛と歓喜に満ちている」という方に傾いたりして、始終、重心を動かしている。

 
楽山に重心はないと思います。浅さ、軽さ、だけが目立ってきました。難しく気取って見せても無駄なのです。
 
悔いる悲しみの代わりに不快感と不機嫌しか持っていないような楽山が、太宰の言葉を引用しても無駄です。楽山と太宰は、全然、質が違います。しかし、人間失格は、楽山のほうに、そのまま言えてるかもしれません。楽山は言論者でも思想家でもありません。
 

宗教でいえば、あらゆるものを厭い離れる仏教的なものに魅かれるときもあれば、克己心をふるい立てさせる儒教的な方面に関心が強くなったりもするし、文学でいえば漱石の「硝子戸の中」「道草」「門」などの雰囲気に安らぎを感じることもあれば、武者小路実篤の楽観的な理想主義で元気をつけることもある。

 
さも広く学んできたような書き方をしていますが、両極端を、ふらふらしているだけなのです。今回、説得力が、まるでないことに、それは表れてきました。文学の名前を出して、もったいぶっているだけです。つまりは、自分で何も組み立てられないことを表しているのです。しかも、謙虚さが全然なくて、実に気色悪いのです。
 

このように自分一人の心でさえも、その時々によって揺れ動くのであれば、様々な個性を待つ人々が何億、何十億と存在する世界に、その個性に応じて無数の宗教が存在するのも必然なのだろうし、

 
もったいぶったニセ賢者の台詞です。今回は、スケールが、前にも増して誇大的かつ大袈裟であることが目立っています。一人に、一つずつ、楽山の欺瞞・・でしょうか。冗談じゃない。
 
無数の宗教を、必然だと言って、無節操に無条件に許容してしまっています。それで何か語ったつもりなのです。何の思想も哲学も宗教もありません。これが楽山の空虚さ、かつ、浅薄さです。
 

これこそが宗教は唯一の真実に属するというよりも、人々の理想、願望、感性などに関わるものだということを端的に示しているのではないかと思う。

 
唯一の真実など、楽山は、最初から見つける気はありません。見つける努力を少しもしていないことが、書いたものの短絡に表れているからです。楽山は、おのれの怠慢ゆえに、一気に到達したいのでしょう。真実が、そのような広い門を持っているでしょうか、否であります。広き門は、悪魔と地獄の入口であります。
 
「理想、願望、感性に関わるもの」などと、真実を考えたこともなく真実に共感したこともない楽山にだけは、言われたくないです。こういう、当たり前のことを、平気で言って、真理に関わってる風味を出そうとしてきたのが楽山と言えるでしょう。空っぽ・・だけが、表れています。
 
楽山は、努力したくなくて、既に分かっていることにしたくて、以前から、それに合うところの、ああでもない、こうでもない、という、ボンヤリ言語の世界に安住したくて、真実というテーマを、節操もなく、だだっ広く、錆びた工具にしています。
 
楽山の、気安さが、底の浅さが、ペテン師的な詭弁精神だけが、漏れ出ている文章です。目標へのフォーカスを持たず、偉いと思われたいだけの人のようです。今回は、楽山の体質が、かなり、はっきり表れてきたと思います。
 
 

      f:id:stdsts:20210415235038p:plain

           気安さの末路
 
 
(2020年04月12日)
(2021年04月16日、加筆して再録)
 
 
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遠い日のこと2

 
疲れたので、一休み。 
 
   遠い日のこと2
 
 
  遠い日のこと
 
とても遠い日のことだ
 
過去において確かにあった瞬間だ
語られていることが何の抵抗もなく
沁み込むように胸に落ちて広がる
語ることが何の抵抗もなく
伝わってゆくと信じられる
湧き水のように
 
しかし瞬間は続かない
過去は不完全で不確かで
壊れているかもしれない
 
未来だろうか
抵抗もなく対立もなく敵味方もなく
憎しみもなく軽蔑もなく
和みを覚えることもなく
愛と呼ばれることすらない
聞きそして語りそして聞く
 
叫びと決め付けだらけの
現在から最も遠くに見ている
遠い日のこと
 
現在なのかもしれない
すぐ傍らにあって待っているものを
見過ごし聞き逃し伝え損ねて
湧き出でるものを水たまりに変えて
 
とても遠い日のことだ
傍らが最も遠い日のこと
 
(2011年01月13日)
 
 
  ひかりⅠ
 
すいこまれたり
はねかえったりして
いろんなものを みせてくれる かわりに
いろんなものを かくしてしまう
ひかり と ことば
 
(96年か、それ以前)
 
 
  ひかりⅡ
 
かがやきを あたえて
きらめきを あたえて
あんなにも
うつくしい すがたを
うつしながら けっして
じぶんを みせない
きみは まっすぐ?
 
(96年か、それ以前)
 
 
  水たまり
 
水たまりは、その上を
跳んでいく人の色を消した
水たまりは、その上を
跳ねていく人の姿を消した
水たまりは、自動車に跳ねられて
その轍を見せてすぐ隠した
雨がやんで
水が引いて
水たまりが乾いたとき
轍のようなものが見えたとしても
消したもの
隠されたものは
もう見えない
水たまりは
もう見えない
 
(96年か、それ以前)
 
 

   f:id:stdsts:20210414235003p:plain

                 遠い日、光、水
 
(2021年04月15日、再録)
 
 
※ 
 
一休みしようと思ったけれど、
楽山に筆致の似ているツイッターです。
 

raku
@rakusyo34
·4月11日
思ったことだけど、世間に出版されている成功法則は、あくまでも
その人に合ったもので、普遍的じゃない。
やはり、自分なりに、トライ&エラーでオリジナルを見出していかないとうまくいかないと感じた。
自分に自信がつけば、詐欺や嘘情報に惑わされないかなぁと思った。
午前2:18 · 2021年4月11日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1380933216454942726

 
つまり、自分に合った成功法則を求めているようです。楽山が、こんなことを考えているなら、また、大きな迷惑をかけることになるでしょう。
 
しかも、もし楽山ならば、トライ&エラーを続けるつもりです。自分が言ったことにも、したことにも、何の悔いも持っていないようです。どんどん迷惑を恐れずかけてくるということです。
 
楽山ならば、詐欺や嘘情報で、人を惑わすことが予測されます。
 
楽山でなければよいのですが「かなぁと思った」など、ぼんやりした筆致が、楽山によく似ています。
 
(2021年04月15日)
 
 
楽山のリツイートです。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
無神論bot
@AtheismBotJP
世の中を見渡してみると、科学者や私のような理性主義者は、いつだって自分自身にこう問いかけている「もし私の考えが間違っていたらどうする?」と。だが信仰者たちの間ではそうではない。彼らはそのように考えることに、あまり関心があるようには見えない。―ダニエル・デネット
午前6:52 · 2021年4月14日·twittbot.net
https://twitter.com/AtheismBotJP/status/1382089343880232960

 
楽山は、「もし私の考えが間違っていたらどうする?」などとは微塵も考えているとは思えない記事やツイートやリツイートばかり書いてきます。つまり、楽山は、理性主義者ではないということです。反省という自分を省みることに、まるで関心がないとしか思えません。
 
リツイートして批判していないということは、賛同しているということです。楽山は、他者の口を借りて、少しも応えてないよ・・とでも言いたいのでしょうか。一種の嫌がらせではないかと思います。そういう悪意による引用が、病質者のパターンになっています。
 
「もし私の考えが間違っていたらどうする?」という内省をするかどうかは、信仰者であるかどうかによるのではなく、自己中でないかどうかによると思います。自己中は反省というものをしません。だから自己中なのです。
 
そして、楽山は、自己中の自己愛性人格障害です。だから、反省の代わりに、腹いせをするか、当てつけを書いてきます。つまり、実際、平気で、このようなリツイートをしているわけです。
 
それにしても、楽山は、自分の意図した言動が、ブーメランとなって、自分を斬っていることに、まだ気づかないのでしょうか。
 
(2021年04月15日)
 
 
近況:
 
母は、今まで、小規模多機能介護施設 → 肺炎、尿路感染で、内科に入退院 → 老健施設、そして、近々、有料老人ホーム+デイケアの施設に、移ることになり、書類をいっぱい書いて、ハンコ押して、・・いろいろ考えることも増えてきました。母は98歳。
 
(202104月15日)
 
 
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人を傷つける楽山

 
  人を傷つける楽山
 
 人を傷つける宗教
  (『ジョイランド』スティーヴン・キング)
 2016年10月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512600.html
 
 
前の反宗教の記事に付いていたリンクから、楽山の、この過去記事が表示されました。読んでみると、楽山は、子供の死の話まで利用して、おぞましき反宗教に読者を誘導しようとしています。
 
約1年半で、何も変わっておらず、ずっと、人をだまして宗教の悪い印象を刷り込もうという意図が明らかであります。
 
楽山は、生も、死も、悲劇も、小説も、学問も、事実も、誤解も、曲解も、有利になるなら、何でも、自分の快感のために利用~悪用する人なので、気をつけてください。
 
人を傷つけているのは、宗教ではなく、神でもなく、人の罪によるものです。むしろ、ゆえに、人生経験を重ねることが出来ていたら、このように楽山に悪用されることもなく、人間らしい正しい信仰によって、癒しや救いに恵まれるストーリーもあったでしょうに・・という感想になります。
 
罪の自覚さえ持たない楽山のような者は、この伝道師のように、満悦した正義の味方気分のために、子供さえも利用して、宗教が悪い、宗教が悪いと、人を、誘導し、惑わせ、迷わせ、傷つけてゆく悪魔性の外道であります。
 
楽山の病質には不遇からの怨念などが考えられますが、詳細は不明です。少なくとも、楽山は、反省と学習の意志がないために、自身の欠点について、全くの不感であり、無頓着であり、その分、宗教のせいにして、恥じるとことさえないのです。
 
今までに明らかになったことから、楽山は、無神経、無反省、無責任で、訂正不能の自己満悦に生きている自己愛性パーソナリティ障害者です。人格の異常には、効く薬がありません。
 

スティーヴン・キングの新作が出ていたので読んでみた。その中で、ハッとする言葉があったのでメモしておく。

「世の中は苦しみだらけだっていうのに、どうして人間は宗教を使って傷つけあったりするのかしら」とショップロウ夫人が言った。「宗教は安らぎのためにあるはずよ」 
(『ジョイランド』スティーヴン・キング著、土屋晃訳、文藝春秋(文春文庫)、2016年、p.211)
 」
これは、ある伝道師の発言に対する感想である。伝道師は、無神論者となった実の娘が生んだ子に、重い障害があるとわかったとき、それは神による罰だとした上で、やがて娘は「息子の受けた試練によって神の道にもどるだろう」と言ったという。

 
これは、間違った伝道師の話です。敬虔な伝道師なら、神を恐れて、「神による罰」だなどと決めつけることはしません。その責任を、楽山は、神に負わせたいようですが、罪と責任は、この伝道師が負うべきことであり、まさに、伝道師の罪は、神が裁くことであります。
 
楽山が裁いて、云々しているのは、とんでもない身の程知らずなのです。実に、この伝道師の罪の着せ方は、いつも、人を、あらぬ方向へ誘導しようとして、何でも人にせいにする楽山の体質に、よく似ています。
 
伝道師のほうに注目すると、恐らく、信頼を失うかもしれません。私みたいなのが近くにいたら、先ず、間違いなく、楽山と同じように批判の対象になるでしょう。キリスト者が、いつも一致団結しているなどということはないのです。
 
人間集団は、宗教であれ、なんであれ、何らかの闘争状態にありますし、そうでなければ、いつでも堕落し得るものです。信仰は、折々の必要な平安を与えることはありますが、けっして、常時の安穏を与えるものではありません。
 
しかし、楽山のような自己中は、批判されることはあれ、断じて、批判する主体にはなれません。今まで、言ってることが、ことごとく、当を得ず、的を外れ、成り立ってこなかったからです。
 
この伝道師には、自己中で訂正不能の思い込みがあるのでしょう。つまり、楽山に似た人かもしれません。キリスト教の内部にも外部にも、楽山的人物はいるということです。
 
「人間は宗教を使って傷つけあったりする」・・これも、宗教の間違いから起こることであり、責任は、宗教の誤解~曲解という罪を犯す人間の側にあります。
 
つまり、こういう人間の間違いを、神は、ひょいひょい出てきて正すということは、なさらない御方なのでしょう。それが不服なのが、自分可愛さだけの楽山は、分かってもいないし知りもしない宗教・信仰に口をはさんでくるのでしょう。
 
楽山は、神に、何でも困ったときには、出てきて、うまくいくようにしろ・・とでも言っているようなものです。自分の罪の性質を省みない者は、何事につけ、反省することがないので、このように、安易に他罰に走ります。
 
反キリストの楽山は、自らを省みず、嘘っぱちの正義をもって、神を、宗教を、悪者にするのです。ゆえに、この記事の中で、いちばんの悪者は、言い方が丁寧を装っているぶんだけ、不幸を反宗教に悪用する楽山その人であります。
 
罪深い不祥事の例をもって、正しい理解を知らないものだから、宗教って、こんなに、おかしいから、信じないほうがいいよ・・という方向に、誘導したい楽山のような悪魔性の輩もいるということです。本当に、何の救いも、癒しも、慰めも、見出し得ないのは、楽山の言であります。
 

これに対する感想が上の言葉である。
本当に、ショップロウ夫人の言う通りだなあと思う。世の中には、つらいこと、苦しいことがたくさんある。本来なら、宗教は、苦しんでいる人たちに、安らぎを与えるべきものだ。

 
宗教をけなす楽山は、「苦しんでいる人たちに、安らぎを与える」すべを、何も持っていません。つまり、いちゃもんだけを言って、楽しんでいるサディスト的な自己愛性人格障害です。そのために、悪知恵をめぐらせ、一部をもって、全体を否定する詭弁を作っては投稿してくるのです。
 

でも実際には、宗教者はそういう人たちに対して、神罰だ、裁きだ、地獄に墜ちるぞ、カルマだ、自業自得だ、心掛けが悪いからそうなるんだ、祟りだ、悪いものに憑りつかれているんだ等と言ったり
する。必ずしも悪意でなく、善意で言うこともあるから余計に始末に悪い。

 
楽山によく似ています。神のせいだ、神が裁くからだ、信者になると苦しみが待っているぞ、神はカルトだ、神なんかいない!、自分は出来た人だから自分に聞け、宗教に "取りつかれると大変なことになりますよ" とでも言いたげな、遠回しの発言など、丁寧語での印象操作という詭弁だから、さらに悪性度が高いのです。。
 

実を言えば、自分も宗教を信じていた頃は、そういうタイプの信者だった。信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた。ひょっとしたら信仰は、人を無慈悲にするのかもしれない。こういう自分が言うのもなんだけど、この辺りのこと、どうにかならないものかなあと思う。〈了〉

 
楽山は、体質的な異常から、人の気持ちが分からず、無慈悲であり、楽山との交流は、人を、同じように無慈悲にしてゆく洗脳かマインドコントロールなのです。楽山は、人がどうなろうと知ったことではなく、ただ、支配したい、少なくとも、優位に立っていたいのです。
 
無反省と無責任という人格こそ、最も冷酷で残忍な言動に、人を走らせます。理解を示す芝居をしたり笑ったりする楽山の言には、邪悪な狙いがあり、見とおしていないのに、なにも負う気のないのに、懐に恐ろしく鈍く硬く冷たい反応系を隠し持っている怖さがあります。
 
そして、他人事のように、「どうにかならないものかなあ」、などと言ってきます。この遠回しの、脳天気で、深みのない表現が、楽山のボンヤリ言語の特徴です。やさしく言ったつもりなのです。
 
信仰は、不完全でも、人という存在を、悔いと反省と正直の道へ導きますが、反キリスト・反宗教の異常者には、それら良心の産物が見られないために、批判は、厳しさを増しています。
 
楽山は、神を恐れよ、という意味を理解していません。神を恐れぬ言動を続けていることが根拠であります。神は、地上から見れば、畏敬の対象ではなく、恐怖の対象であります。ゆえに仲保者たるキリストが必要なのです。
 
神は、神は、と言って、疑問というより、いちゃもんを発してくる楽山は、神を、対象物のように軽視して、背教の罪を積み重ねています。そこに描かれている楽山好みの神は、濡れた折り紙よりも弱く、楽山の吐く息と唾に蹂躙されるような脆い紙に過ぎません。
 
すなわち、神を、紙のように見なしている楽山の罪は、人を命ある塵として大切に思う神の怒りを買うでしょう。与えられた言葉の使い方を学ばないならば、命を与えた神の前に、生きる意味はなくなり、楽山の顔面は紙面となり、最も無残な内実を隠そうとして、剥がされてゆく者となっています。
 
楽山ほど、事ごとに曲解の罠を仕掛ける詭弁屋は珍しいと思うほどに、悪魔性の方向に、のめりこんでしまった人物が相手ですから、これからも、楽山の白々しさを暴くのに、遠慮など、できるはずはないのです。
 
もう年ですから、楽山の、言い逃れや、言い訳や、誘導の詭弁に振り回されて、私が、自分を見失うことのないように注意したいと思っています。勝ち負けではなく、できることをしています。
 
 

      f:id:stdsts:20210413234404p:plain

                きず
 
 
(2021年04月14日)
 
 
大昔の拙作)
 
 
 命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
(90年代か、再録)
 
 
 
 楽山の記事の追記ですが
 

*切実な祈り
谷口雅春の詩を記事にしたことを思い出したので、ここにも貼っておきたい。

背教の心起これば野に出でて霧に泣きぬれひれ伏して祈る
(谷口雅春『生命の實相 頭注版 第19卷』(自傳篇上)日本教文社、昭和50年、p.140)
 」
谷口雅春についてはさまざまな評価があるだろうけれども、少なくともこの詩からすると信仰について本気で悩み抜いた人なのだろうと思う。
http://mn266z.blog.jp/archives/28722574.html

 
(ネットより)
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 - 1985年6月17日)は、新宗教生長の家創始者・初代総裁[注釈 1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5
 
楽山は、なぜ「貼っておきたい」のでしょう。説明がありません。説明できないのだろうと思います。楽山の我欲に沿わないキリスト教を揶揄し、興味本位に仏教を語り、HSを批判しているようで、今度は、成長の家とは、楽山の、気の多いことです。
 
楽山は、悩み抜いた文章ではなく、大方、ホラー、アニメ、空想、お伽噺のような受け取り方しかできない人です。宗教の見方がそんなものだから、人生についても、人間についても、深い話が、まるで出来ないわけです。
 
どれもこれもと、空疎な興味で書いてきます。どれもこれも、本気では信じていないので、結局、どの宗教にも、本当の理解や共感には達しないまま、真剣に分かろうとしないまま、軽薄な駄弁の材料にしてしまいます。
 
こういう人なら、逆にカルトを批判する立場にいても、真面目さを装う筆致だけで、実際は、他人事のように、真剣味がないという姿勢も見えてきます。理解などしていないまま語って、宗教家のふりをして自己顕示欲を満たしている楽山です。
 
人生において大事なテーマと、趣味的なテーマの、重みの区別が、まるで出来ない楽山です。総てが趣味と同じように経過する筆致には、真剣味の欠片もなく、それゆえに、生きている人間が、どこにも見えてこないのです。
 
対照的に、具体的な言動から、かえって、真剣味のない体質と限界が見えてくる例でしょう。霊が分かるっぽい自覚というのが、宗教について楽山が分かると言うことが、いかに、いい加減か、いかに、インチキか、ということが見えてくるのです。
 
 
約2年も批判されてきて、なお書こうとするのは、楽山は、試練に耐える正義のヒーロー気取りでしょうか。違います。ヒーローは正々堂々としています。楽山は、卑怯な詭弁と言い逃ればかり書いてきました。楽山はヒーローとは正反対です。独りで勝利を思い込んでいる病気なのです。
 
 
(2021年04月14日)
 
 
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隠された攻撃性2

 
  隠された攻撃性2
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24263242.html
 楽山日記(LD)批判再録+
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。つまり、信仰は、その疑問を解決して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけの人で、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを、嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。
 
楽山は対話を求めません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受けやすい人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。
 
批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 

前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。

一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。

 
楽山は、引用の文章を、恐ろしく、幼稚な低次元の空想話にしています。「善神もいれば、悪神もいる」・・見たのか。呆れます。神と神聖を全然知らないから、こういうことが言えるのです。
 
 ※
 
神が、悪に与えた存在の根拠を、人が知り得る、知らないと気が済まない、という疑問は、悪も神も信じる気のない身の程知らずの欲望であります。神が悪の存在を支配しているとしても、その悪を神がどうするかは、神の意志によるのであって、神の意志が、人に分かるはずはないのです。
 
いったい、誰が、神の台所に行って、悪を何故どうして作ったのですか?悪をどう料理するのですか?などと聞けるでしょう。そのような者は、真理の絶対に対して、ただ、自らの不遇を、神のせいにしているだけなのです。
 
神の存在下で、悪が存在の根拠を持っていたとしても、人という地上の存在が、それを問いただして理解できるなどと思うのは、神の超常と同等に成り上がろうとする身の程知らずであり、虚妄の越権行為であり、地上では、どこまでも、詭弁に堕ちてゆくだけなのです。
 
地上の貧相な理屈で、神と超常の真理を語ることなど出来ないと弁えるべきです。聖書は、神の仕組みではなく、神からの恵みを、いかに人が知って弁えるべきかを表しています。
 
人は、神の意志を知り得るほど賢くはない!・・という弁えこそが、聖書の語ろうとしている第一義だと知るべきであります。そこを受け取らない者には、信仰も、神の愛も、キリストの共感も、人の愛も、人の共感も、理解はおろか、人間性さえ理解できはしないのであります。
 
ゆえに、楽山のような者は、その蚊のような不全の知性において、ンンンンと空しい音を立てて、世界を飛べると思い込んで、悪がなぜ存在するんじゃ?・・と神を否定したつもりになっているようだが、そういう理路の立て方は、それこそ、存在しない出発点に立っている妄想から、知恵者を気取っているだけの、実際は、虫の糞に過ぎないのです。
 
真実の知性は、真実の共感とともに、神には及びもつかない、という、人としての身の程を知っています。虚偽の知性は、自らの存在の箍(たが)が外れて全能と同等のレベルにいるつもりで、それこそ、自らの存在さえも理解していないということだから、信仰を理解することなど出来ません。
 
地上にいる私たち人間は、神に近づくのではなく、神との決定的な違いを学ぶのが、信仰なのです。聖書は、繰り返し、そのことを語っています。
 
 ※
 
楽山の言っている神は、「鬼滅の刃」のようなホラーアニメ的な視点です。だから、気安く、神もさまざまで、善神も悪神もあるなどと、多神教のお伽話であるかのように言ってくるのです。
 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、実態は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用し悪用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者に対して、神は、そうですかと、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、楽山にはできないようです。たぶん、こう言っても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
キリスト教の神は、聖書から全能ですから、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。そのことについて、根拠を人に示す必要のないところの、在って在るものとして、神を信じる者は受け入れるのです。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えるとでも思っているのか。いちいち説明してくれるとでも思っているのか。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているのか。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と否定と苦情で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもないが、推測できるわけです。
 
恐らく、楽山のような人物は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとしながら、納得などいくわけもなく、年を取って、残酷なときの流れの飛沫として、誰にも見られないまま、散ってゆくのでしょう。
 
また、人間の都合に合わせた神を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろう、ということも、推測されるわけですが、楽山は分からないのです。楽山が、その通りになっていること。
 
楽山が引用しているこの神についての疑問には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということを、常識のない楽山は、まるで分かろうともしないのです。楽山は、ただ、自分は、神・上・紙をホホ、語るインテリだ!とホホ、片手にアニメの広告を握りしめて、おめいているのです。
 
つまり、楽山は、神を信じる気などないということです。ということは、楽山は、神を茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安直な思考で、洟垂れ安穏を貪る者に惑わされてはいけません。
 
多神教的な世界を想定」
楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」
楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。何の実感も伝えていません。まさに、楽山のような反キリストに答えられる問いではないのです。楽山の今日も、詭弁を弄しているだけです。
 

でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。

 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、神などいない、いたら、おかしい、というような悪態を吐きながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ますます人間としての感受性を鈍らせながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。
 
神が、楽山の酸っぱい納得のために、全能の力を振るうことはないと思います。救いは、それを必要とする人に、意味を持ちます。だから、楽山は、人格的成長がない間、宗教については、愚痴とクレームを言うことに終始するのでしょう。
 

神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。

 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を頭の中の前提にして、おのれの要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
ここには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
分からないことを、楽山のように、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在の小ささと世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。楽山の、神がいるならぁ・・前提は、決して理路ではなく、自己愛性人格障害の症状となっているようです。
 
信仰が持てないなら、非信仰者としての生き方もあるでしょうが、その努力を一切せずに、自分の作ったところの、神のいない無為・安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者もどきで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様を見せながら、自己愛だけを養って、いい気になってバハバハ言っているのです。
 

またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。

 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。楽山のように、神の原初を分かろうとするのは、分かるはずの自分に酔い痴れる悪態でしかありません。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのです。楽山のように、神を見下ろす視線には、いないようにしか見えないのが神であります。これによって、思い上がった者は、篩(ふるい)にかけられ、救いに向かわなくなるのです。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。神が、罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、楽山の許可など問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリストの本性です。
 
このように学者気取りで難癖をつけながら、一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、進歩というものをいっさい拒否することで、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。おぞましいかぎりです。
 
どこまでも、我欲と自己中のみで、訂正不能に完成したつもりでいる人格の末路を表すのでしょう。楽山は、勝手に、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごせばいいでしょう。無反省なのに、人に、影響を及ぼそうとするあいだ、批判対象となります。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大な言は、永遠の堂々巡りです。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の退屈地獄への道です。
 

こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。

 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。
考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。
 
楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはなく、ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を書いて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過しかないのです。
 
楽山は、明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して真面目に相手にしてはいけない人です。
 

これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。

 
世界観という概念が、楽山の宗教思想なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。だから、楽山は、何も解決しない不毛の時空をうろついているだけなのです。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考えるのは、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つことだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉に騙されないでください。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだ時から、今に至るまでの、空疎で、進歩がなく、建設的な要素がないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的に、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から既に予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な言論の攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、例えば、読書と考えることがお好きなのですね、むずかしいことをテーマにして感心しました、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・カビのように陰気臭いと思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほど、ありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、ボンヤリ言語で、身の毛の弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めない、まことに恐ろしいほどの不遜な愚か者です。
 
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるから自分でしなくていい、という信条に無条件に賛同しました。この時点で、二人とも、キリスト教と信仰を語る資格はありません。
 
正常な人間には、最低限度の正常な言語能力があります。それは、人の言うことを受け取り、自分の意見と照らし合わせて、新しい意見を考えるという能力です。上の二人には、それがありません。だから、世辞でごまかして、訂正不能のままです。
 
プラスでも、マイナスでも、言った時点で、言った責任は生まれるのですが、楽山は、プラスを言い、マイナスを言ったら、はっきり言っていないから責任はない、プラマイゼロだみたいなことを、平気で言っていたのです。この詭弁は、駄々っ子と同じ、小学生にも劣る低次元の言い逃れです。
 
楽山は、大人になり損なった人なのです。大人の常識的理路が発達しておらず、人間ではなく、脳の機能の大事な部分が欠損した人体、あるいは、ヒトに過ぎないと言ってもいいでしょう。
 
それで、楽山が、学習もしないで、本から都合のよい言葉だけを集めて、今も、一人前の大人を気取っているさまは、もはや、自らによって破壊された人格としか言いようがないのです。
 
 

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                   偽善の侵襲
 
 
(2020年04月)
 
(2021年04月13日、再録+)
(2021年04月14日、加筆修正)

 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメントを批判
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5829756.html
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 批判再録+
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 

1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?

 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには「いいですね」と時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。同一人物の成りすましの可能性もあります。
 

Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より

 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。
 
名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。
 
荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変えるということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も・・??
 
乱暴だと思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に楽になる世辞だけ受け入れて、次には気づかない人を騙してゆく、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
(2020年04月09日)
(2020年04月11日、一部修正)
 
(2021年04月13日、再録+)
 
 
 楽山の悪意のリツイートです
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
無神論bot
@AtheismBotJP
普通なら敢えて言うまでもないことだが、信仰者は知っておいたほうが良い。相手の人格を非難するようなことをいくらしようが、あなたの主張の正しさを証明する上では、何の役割も果たさない。あなたの主張の正しさを示したければ、行うべきことはただ一つ、それを支持する客観的根拠を提出することだ。
午後7:21 · 2021年4月12日·twittbot.net
https://twitter.com/AtheismBotJP/status/1381553125656461314

 
楽山は、自分で言えなくなると、他者の言うことを利用するという卑怯者の典型です。前にも書いたことですが、楽山は、学習しないから、何の進歩もなく、また、他者を悪用しています。
 
人格が、病的で、虚言、妄想、無反省、無責任、であるならば、その口で何か言えば、迷惑にしかなりません。その迷惑を、指摘して、批判しなければいけません。
 
本人を変えることは諦めていますが、楽山に、近づいて、ひどい目に遭わないように、関わらないように、相手にしないように、・・などを、広く伝えることは必要です。
 
人の客観などで、神を扱うことは出来ません。つまり、神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。信仰は、証明の可否が結論となる世界ではないからです。
 
なぜか、楽山は、そのことを弁えず、理屈を言ってきます。信じる信じないは、人の自由だけど、神の不在を、理屈みたいな言葉で言うのは、無意味なだけでなく、一種の宣伝~煽動になるでしょう。人の理屈では、神の肯定も否定も、証明不可という認識です。
 
繰り返しますが、人の理屈によって、神の存在も不在も証明できません。人が信仰を持つのは、必要だからであって、証明されたからでも、客観的根拠があるからでもないのです。
 
無神論が論として成り立つと思っている楽山には分からないところの、共感の話に対して、言い換えれば、信仰について、即ち、キリストを好きになることに対して、いちいち、悪意に満ちた屁理屈で否定の誘導をしかける楽山は、いつまでたっても、変わることはないのでしょう。その都度、屁理屈の詭弁だと批判して警戒を呼びかけるしかありません。
 
楽山は、迷惑で、有害で、対話の成り立たない自己愛性人格障害です。楽山の書いてくることが、今まで証拠になってきたし、これからも証拠になってゆくでしょう。
 
 
(2021年04月13日)
 
 
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楽山の醜聞

 
  楽山の醜聞
 
 及川幸久氏の周辺が騒がしいのだが…
 2021年04月10日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9167246.html
 
 
醜聞を漁っている楽山が、いちばんの醜聞です。
 

*炎上?
 ツイッターを見たら、及川幸久氏の話で埋まっていたので、本人のツイートを確認してみた。どうやら何かあったらしい。 
ツイッターのリンク省略)
*相手方の証言
 及川幸久氏が謝罪したという改憲氏は、このように語っている。 
・【百田尚樹|闇のクマさん】及川幸久さんについて話します - 改憲君主党チャンネル 20210409
百田尚樹チャンネルで及川幸久さんにした質問について説明します など - 改憲君主党チャンネル 20210406
(動画など省略。)

 
楽山という病質者は、あちこちに書き込んで、無礼を振りまいているようです。
 

*そういうことか
有料動画の内容をほいほい明かすことはできないだろうから、遠回しな言い方しかできないのはやむを得まいが、改憲氏の「及川幸久さんについて話します」のおかげで、おおよその事情は把握できてよかった。
当事者の間ではすでに決着し、和解が成立しているなら、外野がどうこういっても仕方なかろうが、動画のコメントやツイートをみる限りにおいては、今度のことは多くの人々にとって幸福の科学と及川氏についてよく知るよい機会になったようだ。
それはそうと、宏洋氏はこの件を取り上げるかな。すでにアップはじめてる予感。

 
ゴシップを楽しむ筆致です。宗教を語る筆致ではありません。
 

*笑ってはいけない?
蛇足ながら、自分はHS会員だったころ、友人に信仰告白して「おまえ、バカじゃねーか!?」と言われたことがあったが別に怒りはしなかった。大川隆法仏陀で、霊言は真実だと信じるというのは、傍から見たらそのように見えるだろうことは承知していたので、そういうのも当然だろうなと思ったくらいだ。

 
こういうことを言って、白々しく器の大きさをアピールしながら、心の底の暗闇で、怨念を燃やしているのが、楽山という病質者です。いずれ黒焦げになるでしょう。
 

自分はこんな風なので、幸福の科学の話を聞いて、おもわず吹き出す人がいたとしても致し方なかろうと思う。礼儀としてはそんなことはしてはいけないのは当然ではある。でも大川隆法の霊言をみても笑うなというのは無理な話ではなかろうか。大川隆法エル・カンターレという神だといわれて、真顔を保てというのも無理ではなかろうか。信者だって、大方の人は、自分たちの信じていることは荒唐無稽であって、笑う人がいても責めることはできないと分かっているのではないかな。

 
楽山の「こんな風」は、楽山としては、優しく、器が大きく、柔和で、のんびりしている、とでも言いたいのでしょうか。
 
実際の楽山の「こんな風」は、丁寧語は芝居であり、実際は、冷たく、心の器は皆無であり、訂正不能に凝り固まり、いつも悪意で企んでいて、反省せず、責任を負わず、何も理解できず、曲解しており、思いやりがなく、罪悪感がなく、自己満悦だけを求めており、理路と情感は壊れていて、人の言うことを何も聞いたふりだけして理解できない病質者、そして、偽善者です。だから、教える態度で自己主張だけを執拗に続けます。
 

人の信仰を笑ってはいけないというのはその通りだ。でも何事にも例外があるように、それを求めるのは無理な場合もある。例えばこの大川隆法が、天上界からイエスを指導し、我が父と呼ばれた方であるといわれたときに、笑いを噛み殺しきれない人がいたとして、どうしてそれを責めることができようか。

 
にこやかに笑うことのできない楽山は、他者の醜態が大好きで、あざ笑いと高笑いを用意して、いつも、笑いたくて、待っているのです。一方、真剣味は、どこにもありません。
 

大川隆法 天使コスプレ画像省略)
言い難いことだけど、職員や信者は人の信仰を笑うなというより先に、まずは大川隆法に対して、仏陀仏陀らしくあってください、もの笑いの種になるようなことはおやめくださいと諫言する方が先ではないかと思う。

 
得意気に教えることだけをしたい楽山は、誰が何を言っても、いかなる忠告にも、耳を貸さず、自らを省みることなく、また、だらだらと、誰のためにもならないようなことを、意地悪なほくそ笑みとともに、うれしそうに言ってくるでしょう。
 
楽山の言は、反省と学習を伴わないため、共感も進歩もなく、面白がるだけの、デマ宣伝です。だから、責任を負えないのです。努力もしないので、書くたびに、全否定されるべき悪口となる宿命です。
 
楽山は、壊れて火事の原因になるだけの家電であり、うごくと、うろつくの、区別の出来ない徘徊であり、安酒のアルコールのように言うそばから揮発してゆく脳天であり、言っても、聞いても、何も残らず、スケールのない無限ループなのです。
 
 

   f:id:stdsts:20210411234707p:plain

           とてもみにくいおひとがら
 
 
(2021年04月12日)
 
 
 楽山に筆致の似たツイッター
 

raku
@rakusyo34
思ったことだけど、世間に出版されている成功法則は、あくまでも
その人に合ったもので、普遍的じゃない。
やはり、自分なりに、トライ&エラーでオリジナルを見出していかないとうまくいかないと感じた。
自分に自信がつけば、詐欺や嘘情報に惑わされないかなぁと思った。
https://twitter.com/rakusyo34/status/1380933216454942726

 
楽山は、成功したくてたまらないようですが、普通のことが守れない人で、自分に自信というより慢心~傲慢で、詐欺的な丁寧語で、だましたり、平気で嘘を吐いたりして、それがうまくゆくと、成功しているかのような満悦気分になる人です。
 
スケールが小さいというより、スケールがないようで、分別もないようで、いかなる経験も、楽山には、肥やしになっていないようです。なのに、物知り顔の学者気取りで、上から目線で、教えたがるので、とても迷惑です。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·22時間
それから幸福の科学では、宗教を信じない人は、低くみられる。信仰のない人は、人間未満の獣だと言われることもある。
大川隆法仏陀だと信じれない人は、下根だと見下されたりもする。
関わらせないというのは、下根には関わらせない、そんな者には邪魔させないぞという意味合いかもしれませんね。
午後10:15 · 2021年4月10日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1380872001854660611

 
楽山について、「人類未満の獣」、つまり、人間とは思えないのは、無反省、無責任、無理解、無神経で、人を人とも思わない、という根拠があっての判断です。信仰の有無ではありません。つまり、楽山は、ふつうの正常な人ではないということです。
 
楽山は、あらゆる不都合を、自分にだけは当てはめない自己愛性人格障害の病質者です。楽山は、邪魔させないぞ、ではなく、何を言われても不感不応、という、人間離れ技を、日常的に平気でやってのけます。批判目的以外では、決して、関わらないでください。
 
 
(2021年04月12日、同日一部修正)
 
 
 宗教を信じたくとも信じられない人
 (『ジョイランド』スティーヴン・キング著)
 2021年04月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28722574.html
 
 
牙を剥き出しにしてきた楽山は、キリスト教否定において、ますます凶暴です。
 

*棄教者の心情
『ジョイランド』については、以前、記事にしたことがあるのだが、先日再読したら、次の台詞が心にしみた。

少女のころは、それを一所懸命信じようとしたけどできなかった。神様と天国は、歯に住んでいる妖精より四年は長持ちしたけど、やっぱりうまくはいかなかった。
(『ジョイランド』スティーヴン・キング著、土屋晃訳、文藝春秋(文春文庫)、2016年、p.314)
 」
これは有名な伝道師である実父から離反した娘の告白であるが、信仰は本人の意志のみによっては保つことはできないということがよく分かる言葉である。

 
楽山は、悪い例、間違っている例を、これがキリスト教だよ・・という書き方で、キリスト教は悪いという印象を吹き込んでいます。前から言っていることですが、個別の例によって、全体、特に、その神髄を語ることは出来ません。悪魔性全開の詭弁と印象操作です。
 
楽山の悪意が「よく分かる」記事です。
 

信仰とは人の自由にはならず、いってみれば本人以外の何か…環境、遺伝、自然、運命などによってもたらされ、また奪われるものなのだろう。

 
露骨に反キリストぶりをあらわにしている楽山です。「信仰とは人の自由にはならず」・・先入観を与えようとするところの、いわゆる、イチャモンです。信仰は、本人の自由意志によって、告白されるものです。
 
そうでないのは、間違った例なのです。その悪いほうの例を挙げて、キリスト教全体を否定したいという楽山の企みの詭弁であります。掘り起こされる根腐れが、根を剥き出しにしています。
 

こうしてみると、宗教に関しては、自身の努力によって達成できることは想像以上に少ないのであろうし、信仰も棄教も神の御業によるとする考え方が生まれた理由も分かる。

 
神の御業など、楽山は、信じていませんし、分かってもいません。「理由も分かる」は、大嘘です。
 
信仰は、自身の求道と、目に見えない神の導きによって成り立ちます。

そのことを、自身の努力では達成できない → 自力ではない → 宗教には自由がない、という詭弁の印象操作の誘導によって、ねじ曲げている楽山の悪意は、身の毛のよだつものがあります。楽山は、今に至るまで、求道どころか、いかなる努力も学習もしない人だということが明らかになっています。
 

ちなみに、本作『ジョイランド』は、年取った男が遠く過ぎ去った青年期の失恋、仕事、友人、初めての経験、殺人事件の調査、犯人との遭遇などを語るといったミステリー・ホラー風味の青春小説である。

 
ミステリー・ホラーの青春小説で、宗教、特に、キリスト教を、露骨に、侮辱する楽山です。楽山は、自我・我欲・我執という偶像崇拝によって、他者の批判・反論を、聞くことが出来ないのです。
 
ここまでの "アンチ良心" を見たことがありません。聖書では、偶像崇拝を、姦淫という言葉で表すことがあります。偶像が自分である自己愛性人格障害の楽山の、無分別と一方的な執念深さは、強姦魔に匹敵するものです。
 
自己愛性人格障害者は、いわゆる "話にならない人" や "嫌な奴" の筆頭あるいは典型として、人や社会に、様々な言動で、迷惑または害を及ぼします。興奮やパニックによって、犯罪に向かう危険性もあります。どうか、相手にしないでください。
 
 
(2021年04月12日、同日一部修正)
 
 
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楽山はホラー

 
  楽山はホラー
 
 キリスト、パウロガンジーと非暴力
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28705420.html
 3回同じリンクを付けている箇所があります。
 楽山は、読者への思いやりなど全く持っていませんのでご注意ください。
 
 
病質者らしいことを書いて、説得力はゼロなのに、独りで「理解できた」と満悦する楽山です。こういうのが、本当の、リアルの、ホラーなのです。楽山に対する説得は無駄であります。全く、気づきがなく学習機能がない病気の脳ミソ単独の暴走です。
 

前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。

 
楽山は、自らの快感を得るために相手に精神的苦痛を与えます。暴力について他人事のように言っていることで、楽山に、その自覚のないことの証明になります。
 
楽山は、「良心に働きかけ」「真実への目覚めを促す」・・する気もないことを受け取ったことにしています。また、白々しい正義感気取りです。寒気がします。
 

自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。

 
キリストは、人が出来ないことを承知で言っているのです。それゆえ、十字架につくことになります。それも承知の上です。救い主キリストの、洞察力と共感力なのです。
 
それを書かずに「理解したのだった」は、理解できない自分をも無視して意地を張る身の程知らずなのです。恐らく、何を読んでも実際は理解抜きで、理解したつもりになる見栄張りの嘘つきです。吐き気がします。
 
言われても、実際には出来ないことを言っているキリストの意図は、罪なき者は一人もいないということと、最後に訪れる殉教を暗示しているのかもしれません。
 

でも、パウロは次のように書いている。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ロマ12.19-21)
 」

 
(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
このパウロの発言は、殉教を意味しているようです。キリストの敵となった者たちは、律法を曲げて、褒められることを悦ぶ者たちであり、信仰の心が無く、思いやり・罪悪感・修正機能などがない者たちです。楽山との共通点が多々あります。
 

これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。

 
パリサイ人のような者たちは、結果としてキリストを殺したことに表れており、良心がないので働きかけても反応しません。人格としては、楽山が、その典型例であります。
 
楽山は、恥知らずで、良心がなく、自分は偉いんだ!正しいんだ!という意地だけで、今回もまた、書いてくるのです。書けばいいと思っているのでしょうか。文章だけ丁寧だが、根拠もなく喚き散らしているのと同じです。
 

内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 

我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。
ヨブ記講演 内村鑑三 - 青空文庫
 」
「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。

 
繰り返し(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
上の「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というパウロの言葉を前提にしているならば、類似の「愛を以って敵人の首に熱き火を積む」という表現は、殺して呪うことを言ってはいないようです。解釈の難しいところですが、楽山のような悪意の短絡をしないことが大切です。
 
もし仮に、敵を殺し死体を呪う行為ならば、論理ではなく感情であり、正直言って、欠点の多い私は、楽山について、軽くない陰性感情をいだくことがあります。内村鑑三も、楽山のような訂正不能の偽善者に出会ったのでしょうか、という問題になります。しかし、信仰があるからこそ、自省し自制するわけです。
 
それにしても、楽山が、いかに、飢えた狼のように、よだれを垂らして、うなりながら、内村鑑三の、おかしな発言と思えるものを漁っていたかが、うかがえます。これが楽山の炭火です。
 
楽山は、書いたものが、何も成り立たないものだから、それこそ、内村鑑三キリスト者の存在を殺して火でもつけたい気持ちでしょうか。とても危険な思路の傾向が発言に表れています。
 

聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。

 
言葉面を整えるだけで、一滴の慈愛も持っていないのに、楽山は、愛について、ガンジーと内村感想を秤にかけています。その時点で、アウトだと気づかないのです。病質者とは、そういう者です。
 
「異文化であって理解するのは難しい」・・分からないというシンプルなことが言えず、代わりに、理解できないのは異文化だからだ!と言っている頑固な自己愛と自己中を見逃さないでください。
 

とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。

 
ここまでのことで「理解できた」と我を張っています。理路も情緒もありません。反省も責任感もありません。ゆえに理解などあり得ません。
 
「ここが聖書の魅力でもあるのだが」・・嘘です。反キリストの病質者は、まともに考えることも感じることも出来ません。聖書の魅力など分かるはずはないのです。つまり、これが自己愛性人格障害です。卑怯な知恵だけ身に着けているのです。決して近づいてはいけません。
 
 
 
 「第十六講 ゾパル再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28705090.html
 
 
飛び飛びに聖書を読んでいることが分かります。伝えようという意志がない我欲からなので、けなしたい箇所が優先されるのでしょう。じっくり考えることも冷静に計画を立てることもないのが、楽山です。
 

「第十六講 ゾパル再び語る」を読了したので、その内容と感想をメモしておきたい。
第二十章の研究。
ヨブ記は十九章で完結とすべきところではあるが、さらに「二十三箇章」が続いている。聖書ではこのような例が他にもある。イザヤ書では五十三章で「光明の絶頂に達」するが六十六章まであり、ヨハネによる福音書では十七章で「絶頂」となるがそこでは終わらないなど。

 
大事なことが何も分かっていない楽山は、余計なお世話だけしてきます。求められてもいないのに出てきます。しかし、いつも、こんなことまで知ってるんだ!と言いたいだけなのです。どこにも、信仰の響きがありません。悪口を婉曲的に言うだけです。哀れです。
 
恐らく、最後の、神が出てきて、ヨブが悔い改める最終章へのストーリーなどは、あとで書かれたものだと言いたいのでしょう。だから何なのでしょう。信仰を求める人は、聖書が何を伝えているかを求めるのです。大昔の事実など、それにこだわる楽山など、どこにも必要とされることはないのです。
 
楽山は、事実性に、いちゃもんをつけてきます。そして、史実か否かにこだわり楽山の幼稚すぎる机上の辻褄をもって、合わないから神はいない!キリスト教は嘘っぱちだ!と言いたいのです。真実を求めて、得られると感動する、という正常人の心がありません。
 
それが、楽山のベースにあるところの、自らの不遇に対する怨念なのです。毎回、それだけが、明らかになります。もはや、楽山の読書は、節操も弁えもない狐か狸の類でしょう。
 
最初から、楽山がキリスト教について書くのは、謀略だということです。だから、信仰の欠片もなく、偽善でいっぱいの楽山に、耳を貸してはいけないのです。伝染性があるので、楽山は、疫病です。
 

ヨブ記が十九章で終わらない理由は、愛を学ぶ必要があるためである。ヨブは「信仰による勝利」は得た。しかしこれは「愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない」。ヨブは「愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ」。
「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である」。

 
さらに繰り返し(ネットより)
こ の地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火の付 いている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を 持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大 な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を 「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
https://kogabaptist.wixsite.com/kogabaptist/single-post/2020/03/28/%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%82%AD%E7%81%AB%E3%82%92%E5%BD%BC%E3%81%AE%E9%A0%AD%E3%81%AB%E7%A9%8D%E3%82%80%E3%81%93%E3%81%A8
 
上のほうに書いたように、内村鑑三の真意は、はっきりとは分かりません。しかし、楽山は、餌を見つけた野良犬のように、「愛」を含む引用をして、ひどいことをすると勘違いし、独り満悦し狂喜しているだけです。
 
楽山は、自分の言葉で書くと理路にならないために、引用が多くなってきました。引用だけという感じでもあります。なお、本の一部を選択して引用するという行為は、偏った刷り込みをするときの詭弁であります。
 

本講の一つの勝利で終わりではなく、その先があるという考え方は、仏教でいうところの悟りを得てからの悟後の修行、上下菩提下化衆生、さらには釈尊の大悟の後の梵天勧請などを連想させるところがある。

 
何かを得て、さらに、学習する、という当たり前の態度が、楽山にはありません。楽山は、仏教の知識を見せびらかしたいから言っているだけでしょう。キリスト教と仏教、似たところもあるけれど、同じ宗教ではありません。
 

こうしてみると、巷でも言われるとおりに、キリスト教と仏教は異なる宗教ではあるが重なるところはあるようだ。

 
楽山には、何を語る資格もありません。楽山は、少なくともキリスト教を、全く理解していないからです。誰も関わらないでください。自己顕示欲だけの楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解、訂正不能、罪悪感欠如の、自己愛性人格障害です。
 

万教帰一的な考え方によっても、どちらも人によるものであると唯物的に考えても、キリスト教と仏教に似たところがあっても当然ではあるが、それでもやっぱり異なる時代、場所、人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である。

 
(ネットより)
万教帰一(ばんきょうきいつ)とは、すべての宗教は一つに帰するという概念である。主に新宗教で使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%95%99%E5%B8%B0%E4%B8%80#:~:text=%E4%B8%87%E6%95%99%E5%B8%B0%E4%B8%80,%EF%BC%88%E3%81%B0%E3%82%93%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%A4%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82.%20%E4%B8%BB%E3%81%AB%E6%96%B0%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82.
ウィキペディア
 
楽山は、言葉だけ、なじみのない言葉を説明なしに多用します。インテリ気取りからでしょうが、今となっては、説明しないで威張りたい気色の悪さだけということになります。しかも、理路を説明せず、結論だけ書いています。
 
「人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である」・・何が不思議なのでしょう。世の中は、楽山の理屈で動いているわけではありません。楽山は、人も、神も、自分も、見ないで書いてくる厚顔無恥の荒らしであり、求道者を混乱させ、信仰者の平安を荒らしてくる者です。
 
言ってることが、ことごとく、詭弁であり、ゆえに、不祥事となってゆく楽山です。どうか、決して、関わらないでください、相手にしないでください、近づかないでください。
 
 

   f:id:stdsts:20210410234252j:plain

                  遠吠え
 
 
(2021年04月11日)
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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オカルト楽山

 
  オカルト楽山
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28687162.html
 
 
オカルトについて書いていますが、楽山の、霊が分かるっぽい自覚とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化してゆく動物→人の形質についての進化心理学という科学を悪用して霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言こそ、嘘・詭弁のみならず、人格障害からの精神障害、そして、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
・・・
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6
 
進化心理学は、科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こう言う詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのです。
 

本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。

 
いつもの楽山の、こんなに読書しました自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。
 
楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る素材にしてきただけなのです。だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、借り物の自分を飾る素材にしているだけなのです。全くの児戯であります。
 

その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。

 
イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、何の意味があるのでしょう。オカルト関連のゴシップでしょうか。
 
楽山は、読書においても、このように、著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想→妄想によって、カルト→オカルトになってきたのは、楽山その人であります。
 

オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。

 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、学者のような教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示しているのは、まさに、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさなのであります。
 

STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。

 
真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っていますが、そういう読み方が出来ないのは、まさに、楽山自身であります。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、不感不応で、何事もなかったかのように、中身のない記事を書いて来れるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、無視してください。
 
 

   f:id:stdsts:20210409235241p:plain

                オカルトからの
 
 
(2021年04月10日)
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28692684.html
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、引用に終始しているのです。
 

「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。

 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 

「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。

 
ヨブは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 

さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。

 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 

「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。

 
ヨブが、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのが、この章であります。「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、その存在を政治的に集団的に知る、あるいは、知ることが出来る存在ではありません。
 

この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。

 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈になるのでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく、「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かっているんだという無理な主張です。ここは、ヨブも、読者も、納得するところではありません。
 

また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。

 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。
 
ヨブは、対立者ではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。
 
いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、楽山であります。
 

神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので、異文化という言葉で済ませています。信仰が分からない人の言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、悪魔のような楽山には、分かることはないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい態度です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 
(2021年04月10日)
 
 
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