ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

退行の繰り言2

 
  退行の繰り言2
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24588088.html
   改めて批判。
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定の、キレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで、今までと、ほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、正義の味方気取りで書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間性が破壊されています。しんみりとした高等感情がありません。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えたケダモノの根性があらわになっています。そして、ますます、自尊過大に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例として、楽山は、反キリストのサイコパスになっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと嘆くことが出来ず、砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
現代の言葉で言えば、カインは、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの始まりでしょう。その点は、楽山に似ています。しかし、カインは、やけ気味に叫びました。楽山は、ニヤニヤしながら、嘘を吐くのです。
 
 

これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。

私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。

 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、神がいるなら、100%好都合を与えよ、と言っているのです。「理解できなくもない」・・ボンヤリ言語の曖昧語尾です。
 
神を否定する無神教カルトは、このように、不幸を神のせいにしますが、代わりの幸いを、何も用意していないのです。その無責任は、楽山に酷似しています。責任を負わず、反省もせず、人を憎んで、破壊人格になってしまった自分を、筋違いに、神のせいだと言っているのです。
 
身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しがるのは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を成長させるのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、育て損なったのを、神のせいにしています。不祥事を神のせいにしておいて、神に文句を言って、通るはずはないのです。
 
既に書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されて奴隷になってしまいます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、「悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、反省せず、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、まずは、作文に表れています。
 
その悪こそが、楽山が振り撒いているものだということに、まるで、気づかない愚鈍を露わにしている楽山です。いずれ、赦されないときが来るのです。その時に、神は悪を許す神ではなかったと気づくことは期待できないでしょう。その時に、パニクって狂うであろう楽山です。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考え出しました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。楽山たちは、文句ばかり言って、利己以外、何も求めていません。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも考えないで、神を否定しながら、自らは卑怯な言論を続けているという現状では、正義の味方気取りの偽善者、つまり、偽善の隠れ悪はなくならないでしょう。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。このような人物は、宗教にも信仰にも、不要であり、さらに、害であります。
 
神は、楽山のような身勝手に合わせる御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自らが裁かれることを否定したいからでしょう。楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって守られることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、詐欺師かつ偽善者では、話になりません。楽山は、悪魔性の無神教カルトであります。そこに、のぼせ上がっている楽山は、自らの罪と偽善も、赦されることはありません。
 
 

神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。

 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして成長し進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ・・と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?・・という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯卑屈な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分をさらしてしまうのです。人に嘘を吐き、人をだまして、神を呪っている楽山は、自らの存在を自分で否定しているようなものです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出るクソを、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。楽山の愚かさが、体質的なもので、理性も感性も無いことを、自分で証明しているのです。
 
 

でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。

 
悲劇を神のせいにするばかりの楽山のような者が、大口たたきながら、悪行を働いて、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えず、ますます、のぼせ上がって、減らず口を叩き続けています。この世の悪逆非道には、大方、楽山のようなサイコパスが、関わっています。
 
 

つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。

 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。楽山が「どーでもいい」なら、何も言わないことです。楽山こそが、どうでもいい人です。真実の追求は、良心のある人が続けるのです。楽山は、全く不要な害毒です。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、楽山自身が責任を負う必然になります。
 
 

ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。

 
神のことを言う前に、楽山は、誰よりも「いじめの加害者」であり、嘘と詭弁で混乱を招くだけの楽山自身が、批判されてしかるべきなのは、言うまでもありません。自分を正義の位置に置いている楽山の言は、いつも腐敗臭を伴ってきます。こういう男を批判するには、冷静さが必要です。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打したところで、何様のつもり?・・と言われ、楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めていることが、バレていると気づかないのです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者で偽牧師のシャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中の無神教カルトの手先に過ぎません。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否です。何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道に対して、全く邪魔ばかりしている、典型的な偽善者のパターンです。
 
 

こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。

 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。それが楽しみなのでしょうね。しかし、悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づく知性も感性も無いのです。
 
神がいないかのようなこの地上世界、それは、誰もが抱く疑問であって、人間は、そのことを考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。神以外に、自らの不遇の憂さ晴らしの相手がいない男、それが、楽山です。
 
正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だからです。生きることに真剣な人は、まず、立ち直りのヒントを探すでしょう。文句ばかり言ってる楽山には出来ないことです。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
 

これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。

 
楽山に「愛想を尽かし、見限る人は増えることはあっても減ることはない」でしょう。楽山は、恐らく、中2から、変わっていないのでしょう。典型的な学習・成長不全です。それで、自己陶酔するから、慢性ピエロの人格破壊が起こっているということです。学習がなくても破壊だけは進行します。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」・・まさに、楽山の"呪いの予言"です。自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害の、人より上に立っているつもりの、インチキ説教者なのです。シャロームと気が合うはずです。
 
 

ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。

 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、楽山のような、破壊につながる停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい愚痴であります。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定して、八つ当たりしているだけです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。不遇と不幸を神のせいにするために、無神教カルトに縋りつくのでしょう。もう、そこには、まともな人間は、誰もいないということです。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、論点と言っています。楽山は、いちばん大事な共感ができていません。不平不満にキレているだけで、悲しみが、どこにも表れていないのです。これは、サイコパスの特徴です。いちゃもんしか言えないことこそ、悲劇なのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。楽山は、また、都合のよいところだけ書いて独りで満悦しているのではないでしょうか。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。ずっと、楽山の安いペテンなのです。
 
楽山は、中二病だけではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの自己愛性人格障害からの退行だと思います。神義論が、人によって解決されることは、地上ではないのです。神を断定することは、信仰上、控えます。神を信仰する根拠は、楽山が言っていることとは、全く別のことです。
 
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24588018.html
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。
 
 

これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。

十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」

 
ここを引用するのは、楽山が「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
 

思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。

 
「「信じます!」という信仰告白」は、ふつう、しないです。信仰は、気合いではありません。心の静けさから信仰告白は始まります。楽山は、何も知らないのです。神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになります。これは、信仰の、一つの成長なのです。
 
この記事のタイトルは誤解を招きます。信じるということが楽山には理解できないのです。あるいは意図的でしょうか。「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。つまり、それこそが、信仰告白になります。
 
 

結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。

 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。信仰者は、世辞と嘘と詭弁の楽山とは、全く違う世界に生きてゆくのです。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任感は皆無です。耳ある者ではないから、聞かないで平気なのです。楽山は、世辞と嘘と詭弁だけを覚えて身に着けてきたのです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい子供の頃(?)のまま、「心の理論」での酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正しません。そして、この3年余り、全く成長が見られません。ふつう、少しずつでも、学習してゆくものですが、楽山は違います。
 
あわせて「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭で、実際、口に締まりがないということです。楽山の言は、軽はずみで出来ています。
 
今までも、楽山は、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、自分の悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
 
神によって、人は何を知るのでしょう。神を知って賢くなるのではありません。神の関係において、人は人を知るのです。よって、人としての身の程を弁えるのです。人間に共感するキリストに、人間が共感することこそ信仰です。その感性が皆無で、嘘と詭弁で嫌がらせをしてくるのが、楽山です。
 
 

    

               独り繰り言
 
 
(2020年04月30日)
(2022年05月10日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  退行
 
行き詰まったときには
壊してしまうこともあるが
退行することも多い
子供になる
無精髭を生やした子供
おぞましや
そのとき何処にいる
母の胎内か
揺りかごの中か
宇宙へ連なる
浮遊か
意外と墓場にいたりもする
杖をついて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
繰り言のように、反キリスト、右翼思想礼賛、ホラーと霊の話、自己正当化、などを書き続ける楽山です。結果は、無反省、無責任、無神経、訂正不能、読書障害、自己愛妄想、ネトウヨ、本の悪用、根拠なき決めつけ・・などが表れてきただけです。楽山は、あらゆる良心による人格成長の阻害因子です。
 
 
 
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無責任の楽山が批評?(2)

 
  無責任の楽山が批評(2)?
 
 2022年05月07日
 信者と批判者の対話(3)降りかかる火の粉
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14511025.html
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 
  抜粋して批判。
 
 
楽山と遣り取りをして、社交だけではなく、反対意見を言うと、火の粉が降りかかってきます。楽山は、自身が批判されたときに返すだけの、まともな理路を持っていません。だから、社交の世辞と褒めてくれる人しか相手に出来ないのです。人格障害だからです。
 
 

*つづき
前記事のつづき。
*まえおき
今朝、ツイッターを見たら、初夏氏が拙ブログを話題にしていました。場所は、ここです↓
(省略)
ご覧いただければ分かるように、初夏氏のツイートは、文章の区切りと、ツイートの区切りが一致していないので分かりにくい。
ここでは分かりやすさを優先して、文章の区切りによって引用し、その感想を書くことにしたいと思います。それでは本題に入ります。

 
楽山の文章は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の我執から書いているので、真に分かりやすい文章は書けません。世辞か社交か、同じことを繰り返してくるかでしょう。そして、こちらを粘着するストーカー扱いしてきます。知性も感性も障害されている人です。
 
 

*悪癖
 まず初夏氏は、当ブログの記事について、こう書いてます。
昨日、久々に「退屈な文章」を読みました。
多数の誤解に満ちているので一文書いておきます。
①>ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
②>根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」
③>信者である(中略)大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為(中略)信者の論理にすぎない。(中略)まずは〈大川隆法=神〉であることを証明(中略)無理である。
 初夏氏は、不必要な煽り、印象操作をする癖がありますが、それがここでも出てます。「退屈な文章」「多数の誤解」というのがそれです。
 また初夏氏は、相変わらず引用ルールを無視してます。引用するときには、きちんと引用元のアドレスなどを明示しないと、読者は、批判、引用、引用元を確認した上で判断をすることができないでしょうに。

 
楽山は、悪口を言うことだけは達者なようですが、批判の理路ではなく、相手を責めることだけが目的です。指摘はするけれど、他者の欠点を書いて、自らのことについては、全く反省しない人です。無反省、無責任、訂正不能で、書いて、公開して、褒められたいという我欲だけだと思います。
 
 

*ごまかし
①私がツイートを消す理由は「他者を傷つけるかもしれない文章を長々と掲示する事は悪行だから」です。これは社会通念と完全に一致します。③とも関連しますが、アンチ思想に立てば、消されれば困りますよね。
他者を気遣ってツイートを消した場合は、同じツイートは二度としないものです。「あんなことを言って申し訳ないことをした。もう二度と言うまい」というように。
でも初夏氏は、ツイートを削除しては、また同じツイートをすることを繰り返しています。自分のツイートに批判リプがつくと、それを消して同じツイートをやりなおすということもしてる。
上の説明では、こんな風に消したツイートと同じツイートをする理由にはなりません。よって上の理由は、後付のごまかしです。

 
どう見ても理路の苦手な人を、いじめることに快感を覚えるようです。分析や理路に見せかけたことを書いてきますが、自らは、全く責任を負う気がありません。以前、楽山は、否定を書き、肯定を書いたから、責任問題は生じない・・などと言っていました。そういう、いい加減さが、楽山の特徴です。
 
心理学を心霊として解釈したり、論理を書こうとして矛盾だらけになって訳の分からない結論を書いたり、曖昧な命題を勝手に拡大解釈して自己正当化の根拠?にしたりと、だますための嘘と詭弁しか持っていないようです。AならばB・・などといった論理学の初歩の話で混乱させてきたりもします。
 
 

*独り決め
②『アンチ論法』『「神様」のいる家で育ちました(第5話)の批判』等は、キッチリとした根拠に基づく結論です。企業秘密なので詳細は言えませんが・・・
人はだれでも、自分はきちんとした根拠に基づいて意見をいっていると思ってるものです。
だから自分で自分の意見には、きちんとした根拠があると言ってもしょうがないです。

 
楽山は、修正が出来ない人です。都合が悪くなると、スルーすると言って無視します。ときに、常軌を逸したような長い文章や多数の記事を、読者のことなど考えずに、衝動的に書いてきます。他者に分かりやすく書く、根拠を示して説明する、などが、楽山は出来ません。理路を養っていないからです。
 
 

*詭弁
③これは分かりやすい詭弁です。既に画像に記しているように「画像や言葉の対象が皆様の家族であった場合(中略) それが答えです」という事です。自身の好悪がどうであれ、他人の両親へは一定の敬意を払うのが常識です。→
2022-05-07 x
公人を批判することと、一般人を批判することを同列に扱うのは詭弁です。

 
曖昧な命題を、個別の、たとえば自分に当てはめて、また、逆に、個別のことを、一般則みたいに扱って、混乱して、混乱させるやり方ですが、初期には世辞が入るので、分かりにくいこともあります。数か月遣り取りをしたことがあり、徒労と疲労を受け取るだけでした。相手にしてはいけない人です。
 
 

*聖職者
同じく、多数の人が敬愛する人物を「私は興味が無いから」という理由で罵倒してはならない事も常識です。
私はそういうことをした覚えはないので、誰を念頭において書いているのか分かりませんが、宗教家は聖職者であろうから、よりいっそう厳しい目で見られるのは当たり前のことです。
ましてや、神を自称したならば、相当の批判、非難、嘲笑がまきおこるのもやむを得ないことです。それが嫌なら、そんなことは言わないことです。

 
楽山は、有名人の著書を読んで、自分に都合のよいところだけを引用して、自己満足する生業です。間違いを自覚できず修正しません。そういうことが、批判を始めて約3年も続いています。言論から退却するべきですが、病質のために、何とも思わずに続けていられる、これも、症状なのです。
 
 

*ごちゃまぜ
ちなみに、画像がHSの教えです。 
2022-05-07 O
何かを信じるか信じないかという問題であれば、人格者かどうかは関係あるかもしれません。
でも何かが有るか無いかという問題と、人格者かどうかは別のことです。
これらをごっちゃにしてはダメです。

 
信じるか信じないか、という問題と、有るか無いか、という問題は、どちらも、人格が関係ないとはいえないでしょう。楽山は、霊能気取りと評論家気取りがあり、何も信じてなどいないと思いますが、混乱と疲労を意図的に与えることは愚かな悪であり、それらを、ごっちゃにして、整理できていません。
 
 

*おまけ
他所で書いたことだけども、誹謗中傷に対しては、私は心の教えの実践で対応します。
2022-05-04 1人を信じ、世を信じ、神を信じよ
2022-05-04 2弱き善人であってはならない
2022-05-04 3 奪う愛はいけない
2022-05-04 4相手を変えようとするのではなく
この他には、批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるものであるから、ありがたく頂き、反省の材料にすればよいという教えもあったでしょう。自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくるという教えもあったでしょう。
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。

 
「批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるもの」ならば、楽山は、批判を受け取るべきですが、実際には、都合の悪いことは全て無視してきました。実に、白々しい、そして、頑強な悪意を表しています。正気でないから、このような、心にもないことが言えるのです。
 
「自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくる」・・それが、ずっと起こっているのですが、楽山に自覚は見られません。真っ赤な嘘であり、キレイごとを言って、ごまかそうとしています。いちばん、反しているのが自分なのに、まるで気づきません。
 
 

初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。

 
楽山は、「他人の言葉が」全く気にならず、無視できる人です。そうやって生きてきたのでしょう。だから、いつも、軽々しく物を言います。自分の発言が自分を斬っていることに、まるで気づかないのです。破綻だらけなのに何度も言ってくる楽山のような人と交わると、人格を破壊される恐れがあります。
 
 

◇◆ 追記 2022.5.7 ◆◇
*忘れ物
初夏氏のはじめのツイートについて、感想を書くのを忘れてたので、ここに書いておきます
画像に記していますが、文句・悪口・挑発・アンチ論法でない限り「否定・裁き・論破」は行いません。しかし先日の某氏は、私が指摘しているように『暴言・開き直り・悪口・ズルい行動・逃げ回る姿』が著しい人でした。だから論破させて頂きました。

 
楽山は、自己中なことしか言いませんから、「論破」など出来ない人です。他者を混乱させて、参らせて、退かせるのです。楽山の屁理屈のペースに嵌ってはいけません。それは、人を傷つけて悦ぶサイコパスの所業なのです。いかなる議論にも論争にも、楽山は参加する資格のない人です。
 
 

その遺恨から、当人や彼のお友達達から、→
私へのゴウゴウとした悪口が湧き上がっています。心を鎮める事をお勧めします。
まず結論からいうと、ここでも初夏氏の悪癖がでています。それは何かというと、事実と認識判断をごちゃまぜにする癖です。

 
楽山は、宗教も信仰も知りません。頭の中にこしらえた概念を神と見なして侮辱する無神教カルトの一人です。楽山は、自己愛から、世辞は言っても、執拗に繰り返される罠であり、聖書にあるような人を獲る漁師ではなく、人を傷つける狼の性根だと思います。
 
 

たとえば初夏氏は、次のことを書いています。
某氏には、暴言、悪口などがあった
某氏を論破した
某氏とその友人らから恨まれ、悪口を言われた
これらはすべて、初夏氏がそのように認識したということにすぎません、でも初夏氏はさも事実であるかのように書いています。
このように、事実と認識判断をごちゃまぜにして印象操作をするのは、初夏氏の悪い癖です。

 
楽山は、相手の弱みにつけ込みます。自分の弱みを知りません。自己中のために、理路は小学生並みになり、学習と成長がなく、感性は殆どありません。つまり、思いやっているような優しさ芝居はするけれど、心の温もりと潤い、本当の優しさと悲しみを持っていません。言葉面に騙されないでください。
 
 

ちなみに、まともな人は、事実と認識判断はきちんと区別しています。

 
楽山は、それが出来ない人です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスには出来ないのです。出来ているかのような言い方は、楽山の保身に過ぎません。恐ろしいほどの先入観と偏見だけが妄想的に楽山を支配しています。
 
 

たとえば、上でいえば、きちんと某氏の発言を提示して事実を示した上で、自分はこれは暴言と判断したと書くものです。悪口、開き直り、逃げ回る姿、論破などについても、そのようにするでしょう。

 
楽山にとって、事実も真実も判断も、自己愛の世界で決めているので、客観性がありません。優しさ気取りの暴言者であります。スルーすると言って無視、衝動書き、嫌がらせ、嘘と詭弁、手段を選ばない傲慢不遜を隠しながら、餌を待っている、どす黒い人です。どうか近づかないでください。
 
 

初夏氏は、もし本当に対話を望むのであれば、ここのところはよく理解してほしいと思います。

 
人間として必要なことを、何も理解できていない楽山が言っています。それこそスルーでいいと思います。そして、決して関わらないでください。遣り取りしないでください。近づかないでください。楽山は、遣り取りと議論の対象として、甚だしく失格です。
 
 

ところで少し話は変わりますが、初夏氏のスクショ嫌いは、事実と認識判断の区別をせず、〈認識判断=事実〉と安易に考えてしまいがちで、そのためにスクショ提示の必要性が理解できないことも一因でしょう。この点についても、よく考えてみることをおすすめします。

 
楽山は、妄想と偏見ベースの誤信念による判断です。罪悪感がないので、平気で、嘘を吐き、傷つけてきます。そういう場合、丁寧語こそが、いっそう、傷を大きくします。つまり、楽山は、丁寧に、傷つけてくる人なのです。この丁寧さは、だんだん、最悪の鬱陶しさから悲劇になるでしょう。
 
言論は、事実と当為があるわけですが、楽山は、事実だの証拠だのと言ってきます。楽山の事実には多くの嘘があり、さらに、詭弁で捻じ曲げられています。楽山は、当為つまり「べき」の付くことは、殆ど持っていません。我欲が勝っているからです。
 
楽山は、事実をねじ曲げます。そして、どうするべきという節操の当為がないのです。批判してきた3年余り、楽山に対する最悪という判断は、楽山の記事を読むたびに強化されるだけであります。乱暴者だと分かるほうが、よっぽどマシだろう、という私の批判経験の積み重ねになっています。
 
 
 
 2022年05月06日
 信者と批判者の対話(2)大川隆法は神なのか?
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14504321.html
  抜粋して批判。
 
楽山の論理モドキの卑怯さは、楽山が、罪悪感のない、一方通行しか持ち合わせず、とても卑怯な、自分のことを棚に上げたまま、人を批判し、傷つけ、あざ笑うというやり方です。しかも、それは、真実の追求とは何の関係もなく、楽山の我欲からの欲求に過ぎず、百害あって一利なしなのです。
 
 

*はぐらかし
最後に、感想を一言。
初夏氏は、いつも質問には答えず、はぐらかしてばかりなのだが、今回もそうなっている。
大川隆法が神であることを証明できるようなことを言いながら、結局、その話から逃げてばかりいる。
こりゃダメだ。

 
はぐらかしも、逃げてばかりも、楽山の得意技です。それによって、楽山の評価は、ますます、どこまでもどこまでも地獄のように堕ちてきたのです。いちばん卑怯で、いちばん「ダメ」なのは楽山です。
 
 

つまり初夏氏の主張は、〈大川隆法は神である〉という信仰に基づいているのだ。だから、教団内では通用しても、教団外では説得力は持たない。〈大川隆法は神である〉と証明できない限りは…。

 
神を証明しろ・・というのは、キリスト教について、楽山と無神教カルトが、声高に言い続けていることですが、まだ言っているということは、学習能力がないのでしょう。神を証明できたら、信じる必要はないということです。ずっと、この愚かな、いちゃもんのままなのでしょう。
 
 

もしこの証明をなくして、教団外に強要したら、それは信仰の押し付けでしかない。信仰への配慮、尊重を求めることは間違いではなかろうが、「神である大川隆法への冒涜は許されない。大川隆法を神のごとく敬え」というところまで行ったら、それは無茶である。

 
信仰における愛とか共感とかを、楽山は全く理解できないので、語ることが出来ません。神と人の関係と結びつきは、少なくとも、破れた革のような、楽山の概念では、分からないままなのです。そういう人は、この世の厄介者として生きるしかないのでしょう。
 
 

初夏氏にはこの辺りの道理を理解してほしいものだと思う。もしこの道理をわきまえず、自らの信仰による正義を振り回すなら、このような悲劇をもたらすことになるだろう。そんなことは避けるのが吉である。

 
他者に言う前に、自分が道理を理解していないのだから、楽山の丁寧を装った暴論は、思想にならず、学問にならず、共感にならず、ゆえに、愛にも見放されているようです。愛と悲しみの代わりに、笑いと憎しみを育ててきたサイコパスの楽山は、真実の敵です。
 
 
楽山は、資格のない者が、他者を批評・批判すると、身の程を弁えない、資格がない、といった評価が付いて回ることに気づかないのでしょうか。なお、楽山は、ツイッターを非公開にしましたが、また、公開に戻したようです。どういう不安定な心境で生きているのでしょう。
 
 

    

           我が身を省みない者
 
 
(2022年05月09日)
 
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
遡(さかのぼ)ること
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
 
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでもいいが
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
 
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
 
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る

まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない

吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
どこまでも、どこまでも、人の言うことを聞かず、世辞と社交と、何か言われると、嫌がらせだけで、生きてゆけると感じてしまうところから、楽山の人生は、すでに限界を見せてきたのでしょう。多くの不祥事が隠されているような気がします。全部、人のせいにしてきたから。
 
 
 
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無責任の楽山が批評?

 
  無責任の楽山が批評?
 
 信者と批判者の対話(1)暴言と正義
 2022年05月06日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14503777.html
   を批判。
 
 
自分の弁明が出来ない楽山は、他者同士を争いを、批評する体(てい)で、もてあそんでいます。責任を負う気のない楽山は、議論と交流の相手として失格です。まだ悪夢が覚めないようで、評論家気取りでいるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気からです。
 
この記事は、当事者二人よりも、楽山はどうかという視点で書いています。他者の引用が多いですが、その批判対象の災いに、楽山がいちばん当てはまることを、楽山は気づかないようです。そのまま、楽山批判と受け取っても、大きく外れてはいません。
 
私の楽山批判というテーマに関係ない画像など、省略します。
 
 

*まえおき
ツイッター上で、初夏氏と月影氏のやりとりがあったので、その概要を記録しておきたいと思う。
双方のコメントは、「名前 コメント(日付)」という風にコピペしておく。ツイートの埋め込み、スクショなどの方法もあるが、初夏氏はツイートをすぐ削除するし、スクショは嫌がるので…。日付は煩雑さを避けるため、ツリーが変わる場合だけつけることにする。
さて、いよいよ事項から本題に入る。

 
楽山は、こちらの意見を受け取りません。なのに、議論したふうを装います。こういう人は、相手にしてはいけません。都合の悪いことは、スルーすると言って無視するのです。だから、議論の理路と文脈と流れが成立せず、読むんじゃなかったということになります。楽山を相手にしてはいけません。
 
 

*呼びかけ
まず初夏氏は、対話の呼びかけを繰り返していた。
(省略)
初夏氏は、ここでは「初夏→扉は開いてます」に変えている(初夏氏はこのように頻繁に名前を変える)。また初夏氏は、少し前から以下の主張を繰り返し提示している。

 
楽山は、恐らく、自由→楽山だけでなく、数えきれないHNを使っていると思います。シャロームshalom、易坊なども、仲間ですが、成りすましかもしれません。ヤフーブログ時代には、他にも、様々なHNが荒らしてきたことがありますが、楽山かもしれません。
 
 

*応答
上の呼びかけに、月影氏はこのように応じた。なかなかに手厳しいが、初夏氏のこれまでの言動を知る者にとっては当然の指摘ではある。

月影2nd
よく分からん御仁だね(呆)。私は名前を変えて来たキミとずっと直接対話して来ているぞ。自らブロックして隠に籠って持論垂れ流していたのは誰だ?
『私から距離を取り』
こう言う嘘を直ぐに吐くから皆から信用されないのだ。
私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。私の暴言とは?
午後8:19 ・ 2022年5月5日・Twitter for iPhone
 」
 
「ブロックして隠に籠って持論垂れ流」すのは、楽山が、ずっとやってきたことです。楽山とは、双方向が成り立ちません。楽山とは、対話になりません。楽山を相手にするのだけは、やめたほうがよいと思います。単方向の垂れ流し、批判に返しても、無根拠の、いちゃもん発作の機関銃です。
 
 


月影2nd
自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。
質問にまともに答えなさい。
ちゃんと前に答えているだの、読み取れ無いだのと誤魔化す事もやめなさい。
対話相手に意思を伝える努力をしなさい。
批判と暴言の違いくらい理解しなさい。
加納氏の態度を見習いなさい。
 」

 
楽山は、こちらの批判に答えることが出来ません。また、ツイッターを非公開にしました。楽山は、嘘と詭弁と怨念しか持っておらず、理路が組み立てられないのです。つまり、楽山は、批判と、悪口の区別がつかないのです。こういう楽山に、他者を評価したり、他者に意見するという資格はないです。
 
 


月影2nd
これらは何も特別な事ではない。議論する上で普通の常識。
私は幸福の科学幸福実現党大川隆法氏が、外に向けて発している言動を扱って批判している。その言葉通りに受け止める。信者独特の解釈は一切しない。教義にも興味は無い。現実的問いに、宗教解釈で返答されても納得しない。理解したかね?
 」
 
楽山には「議論する上で普通の常識」がありません。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しないなどという、信じられない詭弁を、平気で言ってきます。真理と心霊の区別もつかない人です。遣り取りのための言葉と心と、どちらもないので、嘘を吐き、詭弁を弄し、混乱させてくるのです。
 
 

*混迷
これ以降、わちゃわちゃがはじまる。

扉は開いてます
>私の暴言とは?
相変わらず文章が弱いですね。
①『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言と記しています。
②また、添付の画像にも書いています。
>私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。
 」

 
楽山は、衝動的に多数の記事を書いて来たことも、長いだけの記事を書くこともあります。それは、楽山が、自分はこんなに書けるんだ・・と自慢し、威嚇するようなものです。楽山には、節操がなく、何かを追求する気もありません。楽山は慢心して、出力だけですが、それは放尿のようなものです。
 
 


扉は開いてます
相変わらず文章が弱いですね。
アナタの中に何らかの「正義」があるので、延々と粘着するわけですよね。
③その「正義」を語って下さいとリクエストしています。
質問が難しくて、理解できない状態でしょうか?
 」

 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自己中なので、自我と我欲に、固定して執着しています。それを、ごまかすために、冷静を気取りますが、理路の破綻が、3年にわたって、バレてきたのです。それで、また、書いて公開するというのは、病質ゆえなのです。
 
 


扉は開いてます
月影さんへ
文章をしっかり読みましょう。
そして、しっかりと記しましょう。
 」

 
楽山は、文章をしっかり読めず、独りよがりで、勝手な偏見と解釈で、キリスト教を否定したり、部分肯定したりしてきました。このことから、楽山は、無反省、無責任、無理解、わがまま自己中であり、殆ど、子供のような意地しか持っていないと判断しています。
 
 


月影2nd
ダメだねキミ(哀)。
ね、自分が日本語を読み取れないって事を自覚出来ないね。私がキミに提示した条件を、全く理解出来ないとは。
自分の正義に酔ってるのはキミ。そもそも私は『正義』って言葉を信じてたのは小学生まで。この世に絶対の正義などない。と、私は思っているしね。大人になりなさい。
 」

 
つまり、楽山は、普通の「日本語を読み取れない」人です。それを「自覚できない」ために、書いただけで、自己満悦できるのでしょう。これは、人間として異常であり、論者として欠格であり、人間関係として不成立であります。
 
「絶対の正義」は、神のものであり、人には手に負えない者です。楽山は、今まで、相対=非絶対を、まわりくどく書いたつもりで、実際は、自己の絶対に固着してきました。まことに、楽山は、髭の生えた子供なのです。誰の助けにも参考にもならないと思います。
 
 


扉は開いてます
私は①②③を返答しています。
これに対するアナタの見解は?
 」

月影2nd
①この手のノラリクラリのやり口が卑怯と示している。暴言と解釈するのは勝手だが、私に暴言の認識は無い。キミを憐れんでは居るがね。
②それらもキミがお得意の他人の発言を切り貼りしているシロモノ。その中のどれが私のモノで何を言っている具体的に示してから質問しなさい。
 」

 
楽山はねちねち執拗で、それで、大量の記事を一度に書いてきたりしたのでしょう。「ノラリクラリのやり口が卑怯」で、多く、他者の発言を切り貼りすることで、ごまかしてきます。自分では、何も成立せず、何も書けず、何も出来ない人なのです。上っ面を舐めてご機嫌の楽山に関わらないでください。
 
 


月影2nd
③本当に読解力ないね(哀)。
私は絶対の正義などないと思っているので、私の中の正しさを、他者が正しいと受け止める事を求めない。大川隆法が正しいと思って、他人にそれを強要する君達とは倫理観が違うのだよ。
 」

 
楽山は、自我が絶対の正義になっています。ゆえに、いつも、上から教える、評論する、という態度で書いてきます。全体のベースが自己愛前提なので、楽山の書くことは、成り立ったことがありません。それで、インテリ気取りで無責任に書いて自己満足するネットに巣食っているのでしょう。
 
 


月影2nd
キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。それ以外は無視するからね。幼稚な話に付き合いきれん(滅)。
大川隆法氏の霊言が社会的に認められる方法。
大川隆法氏が神である証明。
キミの具体的で現実的な回答を期待します。
 」

扉は開いてます
>キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。
オイオイ、それは話しのすり替え過ぎでしょ。いくら何でも、それはムチャ過ぎますよ。
私は①②③を返答しています。 これに対するアナタの見解は?
扉は開いてます
特に、③アナタの「正義」は何ですか?
私は始めから、これをお聞きし続けていますが、まだ、お答え頂いておりません。
扉は開いてます
絶対の正義ではなく、アナタの「正義」を問うているのですよ。
 」

 
楽山は、何事につけ、暫定的な結論さえ持ちません。責任を負いたくないのです。楽山にとって、言論は、真実の追求ではなく、ニヒルのオモチャに過ぎません。誰とも、対話が成り立たないのが、楽山です。丁寧で常識を装って書いてくる楽山の言説を、どうか、真に受けないでください。
 
 

*論点整理
以上が、今回のやりとりの概要だが、次に個人的な感想を述べてみたい。
まずここでの論点は、このようなものであるらしい。
①「卑怯者」と暴言を吐かれた!
②神仏を冒涜、風刺、嘲笑するのはけしからん!(添付画像)
③月影氏の正義とは?

 
楽山は「卑怯者」です。「冒涜、風刺、嘲笑」によって、神を、紙くずのように扱うのも楽山です。悪い言葉が、たいてい、楽山に当てはまるのは、なぜでしょう。楽山には正義がなく、正義につながる素材もなく、正義を求める心もないからだと思います。
 
 

*暴言と批判
①については、双方の言葉を比べるとこうなる。
初夏氏
「アナタはいつも、私から距離を取り『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言を吐いて来ました。」
月影氏
「自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。~省略~ 批判と暴言の違いくらい理解しなさい。」

 
楽山は、ツイートを非公開にして「自分の言葉に責任を持たない」で、好きなように言いたいのでしょうが、それは「卑怯」者の所業です。そういう「卑怯」さは、前からでしたから、特に、驚くこともないですが、破綻百出で、なお、平気でいることが、恐ろしい病質なのです。
 
 

月影氏は、初夏氏が自らの言葉に責任をもたず、すぐツイートを消してしまうことを卑怯としている。つまり、きちんと根拠を示した上で、卑怯な振る舞いを批判している。
根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」だろうが、相応の根拠があり、大方から同意を得られるだろう評価による発言を「暴言」とするのはむちゃである。というか、ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
一方、初夏氏はどうかといえば、都合が悪くなれば自ツイートを消して逃げることを繰り返してきたことは伏せて、自らには何らの落ち度もないのに、「卑怯者」呼ばわりされたかのように書いている。これはズルい。

 
楽山について言えば、「乱暴なな決めつけ」で「暴言」と同等であり、それが、常態となり、日常となり、人生となっている人です。楽山はどうかと言えば、スルーすると言って無視しながら、私のサイトに書き込んで文句を言いたいようでした。とんでもないことです。
 
楽山との遣り取りは3年前に、多大な疲労を残して終わっています。何を言っても無駄・・ということを、遣り取りのリアルタイムで味わい続けていたら、こちらの人格が破壊されてしまいます。楽山が、理路を混乱させる悪性の変質者だからです。
 
 

*冒涜、風刺、嘲笑?
添付画像(省略)をみると、アンチ諸氏は神を冒涜している云々と書いてある。信者である初夏氏にとっては、〈大川隆法=神〉であろうから、大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為になるのだろう。
でもこれはあくまで信者の論理にすぎない。もし大川隆法を批判することは、神を冒涜することであるというなら、まずは〈大川隆法=神〉であることを証明しなくてはならない。これをせずして、信者の論理を他者に当てはめようとしても無理である。
また月影氏は、HS批判はしても、風刺、嘲笑はしていないのではあるまいか。とりあえず自分にはそういう印象はないので、月影氏に風刺画がどうこう言っても見当違いと思う。

 
画像のセリフを書いておきます。
「人が最も残虐になる時は『悪に染まった』ときではない!!」
「真偽どうあれ、『正義の側に立った』と思ったとき」
なかなか、深い逆説だと思います。楽山の丁寧語の偽善に当てはまると思います。
信仰者である私は、自分を、正義の側にいるとは思いません、思えません。
 
既に取りざたされているORよりも、いまだ、目立たず、無名で、こそこそと、餌をあさるネズミのように、あちこちに向かって、自己愛・自己中から発信して、教えようとして、意見を言って、責任だけは負わない楽山のほうが、悪性度は高いと思っています。
 
 

*正義
 正義については、よく使われる画像にこういうものがある。(画像省略)
正義という快楽
月影氏はその発言からすると、正義についてこのような考えをもってそうである。
とすれば、月影氏に「正義を語れ!」というのは、トンチンカンにもホドがあるということになる。正義は主張すべきでないと考える人に、正義を主張せよと言っても仕方がないではないか。
初夏氏は、お手軽に正義を語るけれども、本来、正義とはそう簡単なものではない。この問題についてはもっとよく考えてみることをおすすめしたいと思う。

 
正義は「主張すべきでない」のではなく、人間は不完全だから、絶対の正義になることはないし、絶対の正義かどうかの判断そのものが出来ないと思います。誰も、自分の発言の影響を、果てまで追うことも、捉えることも出来ないのです。超常に舞い上がる楽山のようになってはいけません。
 
楽山の正義は、今までのことから、賛成でも反対でもなく、結論を出さないことになるようです。しかし、絶対でなくても、一定の正義を持っていない楽山は、それで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだましてきたのです。暫定的な結論さえ、まとまらない楽山は、信頼性を失ってゆくでしょう。
 
楽山には、見解の芯がありません。楽山と付き合うと、そういう無為という人間失格~喪失の世界に住むことになります。それで平気なのです。いい加減が正しいと思っているのです。そのような人は、どこに行っても来ても、何の役にも立たないし、何の参考にもならないのです。
 
 

    

            何処を向いても偽善の汁が出る
 
 
(2022年05月08日)
 
 
 
  ペンペン草
 
思い出すことは多いけれど
思い出と呼べるものがあっただろうか
思い出と、思い出し
しずくと、したたり
したたる果汁と
しぼり出す果汁
果汁を思う
思いは重い
物思い
果汁の味
果実の香り
草花の匂い
色、形
いつだったか
ペンペン草
生えていた
どこまで実際
どこまで想像だろう
危うい危うい
人の顔、その輪郭も
形も色も
印象ほどには
はっきりしないのに
覚えていると思っている
ぼんやりとでもいい
命ある間に綴ろうと
思い出のペンペン草、残りの
ペンが乏しく生える
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
既に、悪行の破綻する末期が来ているのに、気づかないというのは、災いです。無意味な大量の投稿も、非公開も、他者の引用も、新しいことではなく、卑怯な病質の表れなのですが、楽山の因業でしょうか、全く気づかずに、まともに書いているつもりなのです。
 
 
 
 楽山のブログにコメントが付き、楽山がレスしています。

1. 月影2nd2022年05月06日 21:13
纏めて頂き恐縮です。
私のコメントには誤字脱字やらおかしな文章もあろうかと思いますが、気にしないで下さいませ(笑)。
リプを早くしろと煽られてたし、楽しい休日の夜、映画を観ながらだったので集中力も多少欠けてましたので。
但し、私の主張と発言の内容は、訂正も修正もするつもりは有りません。
楽山さんのブログを読まれる方にどう受け止められるか分かりませんが、幸福の科学を信奉する信者の全てが彼(対話相手)の様な人ではないのは承知しております。
あくまで私が批判し解答を求めているのは、幸福の科学大川隆法氏であり、その言動です。教義の中身にはそもそも興味が有りませんので、批判は致しません。
長々と失礼致しました。
 」
 

2. 楽山2022年05月06日 21:49
丁寧なコメント、ありがとうございます!
私の方からも、幸福の科学の信者だからといって、みながこんな風ではないことを重ねて書いておきたいと思います。私が直接知っている信者さんは、大概が善意の人たちであるし、ツイッター上でも、きちんとした信者さんはおられます。心の教を学び、人格を磨いていたり、勉強家だったり、思い込みではなく、きちんとした事実認識に基づく発言を心がけていたりなど。
私は幸福の科学を批判することが多いのですが、ここはハッキリ書いておきます。

 
楽山のほうは、世辞と思いやり芝居が並んでいます。「大概が善意の人たち」と言っていますがアンチではなかったのでしょうか。「心の教を学」んでいない楽山です。「人格を磨いて」いない楽山です。「勉強家」ではなく都合のよい字面を漁っている楽山です。「事実認識」のない恣意の楽山です。
 
このように、かなりのインテリでも、楽山にだまされて、信頼してしまうと、ゆくゆく、人格破壊につながりそうなほどの混乱と疲労をもたらされる危険があります。楽山は、世辞と嘘の丁寧語で、すり寄って、どっちつかずの、いい加減さで世渡りをしている評論家気取りです。
 
楽山は、いわゆる偽善者なのです。3年余り批判しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。無反省、無責任、訂正不能で、好意的な言葉は全て嘘です。不祥事を全て他者のせいにします。最近になってツイッターを非公開にするのは、何か秘密がある証拠です。
 
楽山は、ネトウヨでもありますが、相手を振り回して快感を得たいのだろうと思います。霊能妄想があり、教祖願望があると思います。アンチであれば、信者については、「善意」云々だけでなく、基本的な曲解の信じ込みを言うはずだと思います。楽山には主張の軸はないのです。
 
 
 
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信仰は3

 
  信仰は3
 
 
信仰は史実に依拠しません。史実であってもなくても、聖書によって信仰は生まれるからです。
また信仰は出来事に依拠しません。
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しません。
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要です。
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道です。
 
決して安穏の保険ではありません。
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ、人が云々できることではありません。
 
人は、未来という未知へ導かれ、守られる身であるのに、史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど、依拠するところの概念だけをご本尊のように守ろうとするでしょう。そこには、温もりと潤いが欠けてゆきます。
 
奇跡に反するものから目を背けるような、
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうでしょう。
 
これが信者から猛者へと変質して、信仰という名をかぶった思い込みの確信であり、信仰者という名をかぶった無資格超人気取りであります。
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず、計りがたい神の意思に委ねるほかはない一人の人間の在り方であります。
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かるという思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び、またそのために選ばれた者であります。
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
 
 
信仰者である人は、へりくだる姿勢を持ちながら、ときに神に訴え叫ぶことがあります。ときに疑問を言ったりもします。叫びは、嘘の世辞の讃美言葉と違って、祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは、正直な心をもって、甘えるように、叫ばないと生きていけないことがあります。だからこそ、甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、神に対する正直な自覚を失った人の姿です。それは、神が自分にとって都合よく働いてくれる、という、神を恐れず、神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して、甘えの中に、むしろ溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは、都合の悪い本音を隠さないことであります。本音ではない遊びの甘えは冒涜です。本気でなく、自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど、神を讃えます。これは、一部ではなく、私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の不可欠な務めであります。
 
キリスト信仰者を、間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり、神に任せるべきものを弁えている態度であり、神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの
人への共感と愛に依拠する信仰です
 
 

     

             恐れと共感の道
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月07日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389042455228542976

 
HSを揶揄しています。そして、キリスト信仰をも、ろくに知りもしないで、同じように無根拠に批判して、悪名と不幸を広めています。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者というより宣伝者です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9382611.html
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 
 

大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉

 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 
 

*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]

 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか、こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。実のない人生を送ってきた楽山の、下種ぶりが続きます。今日は、節操もなく失禁するのは大人ではないのです。
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート

モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389717452410408961

 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性と感性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この3年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された

誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
嘘を吐き、それをごまかすために、また、嘘を吐く。理路の代わりに、詭弁の迷路を用意して、異常な疲労をもたらしてくる。そして、すっとぼけた顔で、謙虚芝居をする。そして、ツイッターを非公開にして、秘密結社でも作るつもりでしょうか。恐ろしい楽山の、”へのへのもへじ”が始まるようです。
 
(ネットより)
へのへのもへじとは、日本の古くからある顔文字であり、かなり古いアスキーアートである。簡単に覚えられ、文字を変えるだけで様々な表情を生み出し、フリーハンドでも楽に描けるため、子供たちからの人気は計り知れない。
主に学校の落書に用いられる他、漫画やアニメでは、表現してはいけない顔(別作品のキャラ等)や、どうでもいい端役キャラにこの顔が用いられることがある。ライバルに、つるさんはまるまるむし、小さなコックさんなどがいる。

へのへのもへじとは (ヘノヘノモヘジとは) [単語記事] - ニコニコ大百科


 
私は、ネットを、96年ごろから利用していますが、楽山ほど、程度の低さにもかかわらずインテリを気取り、かつ、そこに、生き甲斐でも見い出したのか、しがみついてくる愚か者を、他に見たことはありません。言ってること全てがペテンです。本性は、ネズミかゴキブリのような害毒なのです。
 
 
 
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嘘と偽物づくりの楽山

 
  嘘と偽物づくりの楽山
 
 『精霊の息吹を受けて 溝部司教説教集』溝部脩著
 2022年05月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/32696014.html
 
 
知ってるつもりの楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、文脈を追うことも、心を受け取ることも出来ない人です。自分を、学者や評論家並みに分かっている人と見せるためだけに、記事を書き、かつ、自らの不全の文脈で、欺こうとする者であります。
 
既に、3年あまり批判してきましたが、楽山は、いちゃもんを繰り返すだけで、何も、真っ当な返しは出来なかったのです。この前は、一度に、衝動的とも思えるような多量の記事を書いてきましたが、こんなに書けると自慢したいか、断片の寄せ集めで、混乱させようとするだけでした。
 
 

*二冊目
聖霊の息吹を受けて』読了。司教の説教集を読んだのは、これで二冊目だけども、今回もとても勉強になった。感謝。
以下に、特に心に残った部分についてメモしておきたい。
キリシタン
まず一つはキリシタンの歴史である。本書ではイエズス会フランシスコ会の考え方の違いが説明されており、さらにそれが殉教にどう影響したかも触れられている。
自分のような外部の人間には、キリシタンキリシタンであって、その中の考え方の違いは分かりにくいのだが、本書の説明を読んでおぼろげながらも理解できたように思う。

 
「おぼろげな」理解で、キリスト教と信仰を否定し、あざ笑ってきたのが、楽山です。自己愛は、サイコパスの、もう一つの特徴でもあります。楽山の文章においては、切実さは皆無であり、評論家口調がわざとらしいだけです。
 
楽山が「おぼろげながら」と書いているのは、以前から、楽山の、人間性を失った心と頭のことであり、理解につながるヒントさえも受け取っていないことを表します。つまり「理解できたように思う」が大嘘であることだけが表れています。
 
楽山は、心が無く、理路も拙劣であるため、感想を書いても、感じたことの中身を表すことが出来ません。とても、軽薄な褒め言葉とともに、「理解できた」などというのは、吐き気ものです。罪悪感のないサイコパスならではの所業であります。
 
 

*尊さ
もう一つは、「助祭叙階式説教」である。ここでは助祭としての心構えが説かれているのだが、これを読むと自分が叙階されるわけでもないのに、なぜか背筋を伸ばさないではいられない心持ちがした。また助祭を心から尊敬したくもなる。このような決意をしている助祭は尊く、まさしく聖職者だと。

 
助祭叙階式説教」などと書いて難しいことも理解できる自分を出していますが、気持の悪いべた褒めです。「背筋を伸ばさないではいられない心持ち」・・楽山の背筋は、伸びたことは一度もないと思います。楽山の精神は、自己愛によって、捻じれ曲がって、収拾がつきません。
 
冗談半分に揶揄してくるだけで、嘘と世辞によって繕っても、もはや、本性が駄々漏れして、白々しいだけの見苦しさとなっています。どこまでも自我礼賛を続けて、結果は、逆に自己崩壊を招いている楽山に、誰も関わらないように願って止みません。楽山には、保身以外、まるで真剣味がありません。
 
楽山の、既に今までに、あらわとなってきた世辞と嘘と詭弁によって、読書しても何も理解できていないのが表れ続けるだけなのです。「まさしく聖職者」などと、聖職者も信仰者も、楽山が評価して云々する資格など、どこにも、ないのです。病質のために、自分の醜さに気づかないのです。
 
 

*祈り
三つ目は祈りについてである。キリスト教には、よく祈るイメージがあるが、こういう文章を読むと、その理由が分かる気がする。

自分の一番大切なものを、人のために、苦しんでいる人のために捧げようとする、この大きな愛、これが神様の愛なのです。その愛が分からなければ、その愛に到達しなければ、救いはないのです。
(『精霊の息吹を受けて 溝部司教説教集』溝部脩著、サンパウロ、2005年、p.232)
 」

 
理由が分かるなら、正直に祈るはずで、ゆえに、嘘や詭弁を止めるはずですが、それが出来ないことによって、この言も嘘だと分かる、・・・ということが、楽山にだけは、分からないようです。どこまでも、醜い自分を表しては、人間として、さらに、どん底へ格落ちしてゆく楽山です。
 
 


私たちの中に働き、私たちを力づけ、活気づけてくれる、神の霊があって初めて人のために生きる愛ということに目覚めてきます。
(同上、p.232)
 」

 
楽山の中に働いて力づけているなら、活気づいて、自らを改めるはずです。神の霊が働いているなら、愛に目覚めてくるはずです。これこそが、楽山に、一貫して、全く見られないものです。代わりに、良心とは逆方向の嘘を吐く楽山は、人間としての存在が、なくなりつつあるのかもしれません。
 
 

イエス・キリストの恵み」、それは愛することを学ぶ、「愛する生き方をする」、それができるために、聖霊の助けを求める、これです。
(同上、p.233)
 」

 
美辞麗句を並べておけばええじゃろ・・という楽山の根性で、今までと同じように他者の意見を並べることが、逆に、いかにも醜く、わざとらしく、腐った精神の、末路の惨状を表しています。「これです」を引用して、分かりましたと、そっぽを向いて笑っている楽山のイメージです。
 
 


私の心の傷を担い、取り去ってくださるのは、主だけです。罪とは自分の力でそれを何とかしようとする、これが不信仰であり、罪なのです。
(同上、p.168)
 」

 
楽山は、自己愛性人格障害によって、罪悪感が麻痺しているので、罪に気づかず、原始感情の笑いと怒りの低い泥流に身をゆだねて、自分の力で何とかなる人生を選び、かつ、実際は、全ての局面で失敗してきたであろうことが、推察されます。自我を張れば張るほど、どんどん醜さが増してゆきます。
 
 

キリストの生涯と十字架の意味を知り、信じるには聖霊の助けがあり、自分で自分を救おう、救えるというのは思い上がりだということなのだろうか。こういう考え方なら、よく祈る理由も合点が行くというものである。

 
「自分で自分を救おう、救えるというのは思い上がり」・・こういう短い文章だけで「祈る理由も合点が行く」と言うところに、簡単に分かったことにする軽薄さや浅ましさが表れることを学んでこなかったのでしょう。言葉を飾って言い得たと慢心するに至っては、人格崩壊の最悪のモデルなのです。
 
 

一方、自分はどうかといえば、「自分を救えるのは自分だけである」「心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん」という考え方が心に染み付いていたせいか他力信仰は間違いだと思っていたのだが、どうも最近は自分には宗教の初歩的な戒律さえも全然守れないことが分かってきたせいか、上のような考えの方に理あると感ずるようになってきている。我ながら変われば変わるものだと思う。

 
言葉だけ繕っても、その言葉遣いと文脈に、何も変わっていないことは表れてきます。人間の言葉も追求すれば深いということを、楽山は知らないのです。だから、平気で、慢心して、自分が改まったかのような嘘を吐くことこそが、言葉の発達不全であり、「理ある」ではなく、無理だとバレるのです。
 
 
今までの成り行きを、ことごとく無視して、平気で、わざとらしい文章を書いてくるのが、罪悪感のないサイコパスの特徴でしょう。言葉を繕っても、嘘で飾っても、無駄なのです。恥知らずに書いても、書けば書くほど、表れてくるのは、凄まじい厚顔無恥の極みでしかありません。
 
 

     

             嘘吐きの成れの果て
 
 
(2022年05月06日)
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 
 
 
  祈り(抜粋)
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
約3年数か月の、楽山の厚顔無恥の履歴によって、楽山との和解の可能性は、既に、存在しません。飾った言葉遣いと文脈に、白々しさが溢れてくるようになっています。身を引いて、正直になるしかないのですが、楽山は、それだけはしないでしょう。したと言っても、発言の信頼度はゼロです。
 
 
 ※
 
楽山はツイートを非公開にしたようです。これで、秘密がある、ということが分かります。どんなに体よく書いても、結局、陰湿な闇にしか生きられないのが、楽山の本性だったと分かるわけです。まだ、暗躍するつもりのようです。決して関わらないでください。秘密裏になれば、さらに危険です。
 
 
 
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オカルト楽山2

 
  オカルト楽山2
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28687162.html
   を改めて批判。
 
 
楽山の、霊が分かるっぽい?とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化心理学なるものの悪用で、霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言です。嘘と詭弁、人格障害からの症状、さらに、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。
この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。

進化心理学 - Wikipedia


 
進化心理学は、心理学という人文科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こういう詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのだと思います。
 
 

本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。

 
いつもの楽山の、こんなに読書しましたという自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る材料にしてきただけなのです。
 
だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、自分を飾るための借り物の材料にしているだけなのです。自己顕示欲からの、借り物の偽物の子供だましで一人前を装う楽山です。
 
 

その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。

 
早速、降霊会、イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、さらに学問として、何の意味があるのでしょう。楽山は、こういうオカルト関連が好きで、かつ、ゴシップが大好きなのでしょう。他者の悲劇が、ご馳走なのでしょうか。
 
楽山は、宗教と信仰には何の感受性も興味もなく、読書においても、このように、オカルト方向へと著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想~妄想によって、インテリ気取り→無神教カルト→気味の悪いオカルト趣味になってきました。
 
 

オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。

 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示すだけなのは、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさに表れてきたのです。
 
 

STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。

 
楽山も「興味」本位で読んだのでしょう。真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っています。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、何事もなかったかのように、中身のない記事を書き続けられるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。責任を負わない楽山には落山しか待ってはいないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、今は、もはや、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、スルースルー無視してください。
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28692684.html
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、信仰として好ましくない文章と思い込んで、浅はかに引用し、かつ、引用に終始しているのです。
 
 

「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。

 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 

「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。

 
ヨブは、ここでは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 
 

さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。

 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 
 

「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。

 
ヨブにおいて、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのです。内村鑑三の「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、例えば、無神教カルトなどで組織的に知ることが出来る存在ではありません。信仰は個別であります。
 
 

この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。

 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈に「納得できる」のでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。楽山が、理解ではなく、体のいい世辞のセリフとして書いていることが明らかです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かってるんだという自己顕示の無理な主張です。この九章は、まだ、ヨブも、読者も、納得するところではありません。楽山の、凄まじい詭弁です。
 
 

また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。

 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。「我が誠の足らざるを尋」ねることの出来ない楽山です。
 
ヨブは、対立しているのではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、まさに、楽山であります。
 
 

神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので「異文化」という言葉で済ませています。まことに楽山は人間も神も知りません。信仰が分からない人の偏狭な言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、楽山には、分からないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。このような、言い訳や、正当化が、今までも、楽山の性癖となっていることが表れています。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい嘘と詭弁です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 

       

              欲望は浅ましく気取る
 
 
(2021年)
(2022年05月05日、再録+加筆)
 
 
 
  浅ましく呼ぶ
 
ここにいて
あまりに浅ましいから
豚と言ってみた
豚は餌を与えた分だけ
肉を食われて人の役に立つ
石ころと言ってみた
糞(クソ)とさえ言ってみた
石ころは邪魔なら蹴ればいい
糞はいずれ浄化され土に返る
何より消費しない何も
 
限りある施しを受けて
豚のように消費し
石ころのように無価値で
糞のように汚(きたな)いから
とりあえず寄生虫ということになった
もう長く蔓延(はびこ)っていて
そう呼んでみるたび
クソッと思い出したように
低く呟(つぶや)いて
ここにいる
 
 
  やさしさと薄氷
 
何て冷たい
何て美しい
という鋭さに
切られているうちに少しずつ
冷淡になっていくような気がする
淡白ではないのだが
淡々と流れ
冷血ではないのだが
冷たい
しかも未だ不充分だ
外へ出ようとする潜熱を抑えきれない
もし充分に冷たくなったとして
やさしさを本当に持ち得たとすれば
やさしさは
浅い水たまりに
薄く張った氷を
じっと見つめ
じっと見つめ
踏み割らずに去ることであろうか
 
 
  陳腐な骨
 
水底(みなぞこ)にいかなる死が巡っていても
水面(みなも)しか見てはいない
陳腐な骨よ
古く脆(もろ)い骨格に細い筋を絡ませ
弛(たる)んだ脂(あぶら)を巻き付け
皮を被(かぶ)った人の形に佇めば
意識はあまりにも浅い
 
底に深く沈む死は
いずれ意識も肉体も
滅するために顕(あらわ)れるのだが
その顕現に対面することはない
 
死に臨んでいくら肉体が放尿し射精し
脱糞し流涎(りゅうえん)したとしても
意識は夢のようなもの?
 
しかし夢の中でも
明証性を持った意識がある
その意識はしばしば奇妙だが
奇妙と知るのは目覚めて
夢を覚えているときだけ
夢の中でも人は人、体は体で真剣だ
だから夢を見るたびに人は溺れ
死に一歩近づき
覚めればまた一歩近づくというに
今すぐ死ぬとは思っていない
意識の浅はかさとは・・・
 
水面よ
その深みに骨を沈めるとき
死が浮かび顕れ
骨が人々の、また肉体の
一切の柵(しがらみ)を断って沈むとき
水底に巡るものを見るだろうか
死人は夢を見ないのだろうか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、間違いを嘘でごまかし、ゆえに、真実を見失い、気づきや悟りを知らず、ますます「魅力の欠片もない」人となり、人間であることより、人間でなくなることを選んで、その結果、呆れるのは、当然のように、真実を語るかのような口調で、平気で嘘を吐く魔性に至っていることです。
 
 
 
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教条主義2

 
  教条主義
 
 
繰り返す決まり文句は、心の面倒を見ない。
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
そこにアクティブな波動がないからだ。
 
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
教条主義
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。▷ dogmatism の訳語。
教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表しています。偽善の多くが、教条主義の所産です。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪なのです。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られます。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、慢心し、人間の心を忘れていました。よって、キリストにとって最悪の敵となったのです。
 
多くの思いは言葉で表され、言葉は伝達のための暗号であります。つまり、ダイレクトに心を伝えているわけではないことを弁えておく必要があるでしょう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかであります。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになります。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってきます。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってきます。真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、努力目標であったりなど、当為と事実が混同している場合もあるのです。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいません。神を信じているという意志表示に過ぎない場合があります。神の偉大さを知って信じるのではありません。しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはあるというように、言葉による表現は、曖昧であることが多いです。
 
しかし、表現を変えてはいけないと思い込み、同じ言葉だから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてきます。そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいでしょう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともあります。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのです。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがあります。典型は、やはり、パリサイ人です。神の言葉と言っても、受け取る人間は人の言葉しか持ちません。
 
また、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山のように、浅い屁理屈をもてあそんで、人間に人生に必要なことを汲み取れず、深みもなく、共感もなく、慢心して、繰り言のように言い張るということもあります。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己満足の絶対化から、逆に、非人間的な言動が目立つようになります。論理性が、辻褄合わせになり、故意に合わせるために、的外れな理路になり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、詭弁となって無理を押し通して破綻してゆきます。
 
実際は、浅はかで不自然な言動となって表れます。思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくでしょう。教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆきます。
 
いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになります。そうして楽山のような反キリストの教条主義が生まれます。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたします。理路も情緒も、深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手や、さらには、神のせいにする特徴を持ちます。
 
楽山もそうですが、教条主義者は、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってきます。そして、屁理屈遊びで、相手を負かそうとするのです。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人ですが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような自他の人格の変容~破壊を来たしやすいでしょう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もありますが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきです。つまり、悪を隠して善に見せかけるという偽善者なのです。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いようです。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、被害者によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いであります。
 

 
心が壊れてゆく教条主義と、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 

      

               心の中身がない
 
 
(2021年04月17日)
(2022年05月04日、再録+加筆)
 
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
  夏の朝
 
夏の朝まだ早く
外はまだ暗く
しかしぼんやりと夜明けの気配
まだ眠っている頭と心を
揺さぶるように告げるもの
 
もうすぐ朝だよ
すっかり明るくなった頃には
また汗と蒸し暑さの中で
悲鳴をあげる元気もなく
重たい体を持ち上げて
その時はっきり見えるものを
呪いたくなるだけだから
いま眠気の中に咲こうとしている朝に
力を抜いてご覧なさい
 
やがて暑くなる夏の日だって
都会から田舎まで
夢見る若者から老人まで
健やかな者だけでなく傷ついた者まで
等しく朝の予感を用意してくれている
 
ぼんやりと見ている目が
静かに受け取る機会を与えられた
明け方の涼しいひとときを
心の薄明かりのゆえに
ただの薄明かりに過ぎないかどうか
動かなくてもいい
力を抜いてご覧なさい
 
寝ていてもいい
起きてもいい
たとえ朝もやの
霧の
低い雲の
水滴の
みずみずしさに触れなくても
見えない日記はすでに記している
 
ただこのひとときが
その傷と苦悩の中で
許されたことを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山の言うことは、とても幼稚な理屈で、かつ、とても曖昧なことが多いのに、そこに、詭弁を絡ませてくるから、冷静で柔和だと思って受け容れてしまう人が出てくるのです。そういう悪の実績があるのでしょう、楽山は、一人前の思想や宗教を語ったつもりになって、続けている嘘吐きとなっています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
英さんの話を読んで思い出したが、英さんは乱暴な発言が多いが、迷言もあるんだよね。たとえば、これとか↓
たぶん、東大での討論と、自衛隊駐屯地での割腹がごっちゃになったと思われる。
午後7:36 · 2022年5月3日

 
「乱暴」「迷言」「だよね」と、なじっておいて、相手の間違いを指摘しています。つまり、単なる記憶違いの指摘ではなく、傷つけて、おとしめたい、という病質からの悪意が表れています。楽山は、冷静を装いますが、人をバカにした態度は、表れてしまうのです。それが生き甲斐だからでしょう。
 
私は、楽山に厳しい批判を向けていますが、そこにあるのは、バカにしたいのではなく、真剣に怒っているからです。ゆえにこそ、感情を抑制して表現を考えます。おとしめたいのではなく、楽山には、堕ちてゆく、かつ、他者を落としてゆく病質があるという判断に基づいています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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