ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

オカルト楽山2

 
  オカルト楽山2
 
 『反オカルト論』高橋昌一郎
 2021年04月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28687162.html
   を改めて批判。
 
 
楽山の、霊が分かるっぽい?とか、心理学の「心の理論」を心霊に結び付けるとか、進化心理学なるものの悪用で、霊能力の根拠として書いたりとか、現実と幻想の境界不明瞭な楽山の言です。嘘と詭弁、人格障害からの症状、さらに、オカルトとでも言いたいものです。
 
(ネットより)
人間行動進化学会は、進化心理学を「社会学と生物学の視点から、現代的な進化理論を用いて、感情、認知、性的適応の進化などを含めた人間の本性を解明する学際的な学問」と位置づけている[1]。
現在から過去を推測すると、ある形質が種内の個体の多くに普遍的にみられる場合、その形質は進化史の中で生存・繁殖の成功に役立つ何らかの機能を果たしてきたと考えられる。特にヒトの場合に広く見られる精神的・行動的形質をヒューマン・ユニバーサルズと呼ぶ。
この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。

進化心理学 - Wikipedia


 
進化心理学は、心理学という人文科学であって、どこにも、心霊の要素はありません。楽山が、こういう詭弁を弄するのは、恐らく、勉強もせず、学習もしたくないから、安易に、霊によって特別な立場を得ようとする幼稚な子供だましなのだと思います。
 
 

本書では、スピリチュアリズム、STAP騒動、旧石器発掘捏造事件、未来医療研究会、くじ、占い、江戸しぐさなど、一般にオカルトとされるものだけでなく、研究不正、迷信、歴史認識といったさまざまな事柄が問題視され、批判されている。ただそのなかでもスピリチュアリズムのフォックス姉妹とSTAP騒動の小保方晴子氏については、とりわけ詳しく、大分の紙幅を費やして語られており、本書のなかでは大きな山場になっている。

 
いつもの楽山の、こんなに読書しましたという自慢です。言葉だけ、だらだらと並べています。楽山の考え方を少しでも書いてしまうと、楽山のの不可解な思考と理路の破綻が表れてしまうからでしょう。楽山は、言葉を、学習することなく、自分を飾る材料にしてきただけなのです。
 
だから、実のある言葉を何も書けなくなっています。何を聞いても読んでも自分の言葉の素材に出来ないので、自分を飾るための借り物の材料にしているだけなのです。自己顕示欲からの、借り物の偽物の子供だましで一人前を装う楽山です。
 
 

その内容について簡単にふれるとするならば、まずフォックス姉妹については、彼女らが降霊会におけるイカサマ行為を告白した背景には、恋人による説得があったとのことである。当時、マーガレットは、国民的英雄であった冒険家エリシャ・ケインと深く愛し合っており、彼のために真実を告白し、降霊会で人を騙すのはもう止めるつもりだったというのだ。しかしその後、彼は突然の病で急逝してしまい、彼の実家とは不仲であったマーガレットは精神的にも経済的にも悲惨な状況に追い込まれてゆくことになったという。

 
早速、降霊会、イカサマ行為、告白、恋人、急逝、悲惨な状況に追い込まれ、・・・この話、オカルト論として、さらに学問として、何の意味があるのでしょう。楽山は、こういうオカルト関連が好きで、かつ、ゴシップが大好きなのでしょう。他者の悲劇が、ご馳走なのでしょうか。
 
楽山は、宗教と信仰には何の感受性も興味もなく、読書においても、このように、オカルト方向へと著しいピント外れを呈し続けてきたのです。挙句の果てに、空想~妄想によって、インテリ気取り→無神教カルト→気味の悪いオカルト趣味になってきました。
 
 

オカルトを信じている人にしてみれば、「反オカルト論」には興味は持てぬかもしれないが、そうであってもこのマーガレットの恋愛について書かれた第五章だけは読んで損はなかろうと思う。このロマンスは巷の恋愛小説よりも悲しく切なく感動的な話であるし、これを読んだら大概の人はマーガレットの晩年の暮らしぶりについて同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなるにちがいない。

 
共感性のない楽山が、ごまかしのために、いくら、教える書き方で、「悲しく切なく感動的な話」「同情はすれども、冷淡な感想は持てなくなる」と書いても、情緒を表す言葉を並べただけであることを示すだけなのは、楽山の今までの記事とコメントのカルト信条的な冷たさに表れてきたのです。
 
 

STAP騒動については、類書では語られていないこととしては、幸福の科学への言及がある(pp.130-139)。大川隆法総裁が小保方晴子氏を擁護し、HSUに勧誘していたこと、小保方晴子守護霊の霊言の内容紹介、霊言を基礎とした教育を目指した幸福の科学大学は不認可とされたこと、過去世認定のおかしさ、大川隆法総裁の長女の卒論盗用報道など、よく調べられている。この部分は信者には承服し難く不快ではあろうが、それ以外の人なら興味深く読めるだろう。

 
楽山も「興味」本位で読んだのでしょう。真実追求ではなく、ゴシップ好きの楽山は、ゴシップ的な話題に夢中になるのでしょう。つまり、他者のことを論(あげつら)うことしかできないのです。それを、学者みたいな言い方で、「興味深く読めるだろう」と言っています。
 
楽山は、真実を求める姿勢を持ちません。人より上に立つ特別な自分を見せるために、分別も理路も共感もなく、整わない文章を、平気で書き続けています。自分が気持ちよくなるために、何を言われても無視して、何事もなかったかのように、中身のない記事を書き続けられるのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識も自覚もなく、無反省に無責任に、ここまでやってしまうという症状が、楽山日記であり、他にもある楽山ブログであり、楽山のツイッターなのです。
 
楽山の、前のHNは、自由でした。楽山という言葉は中国由来でしょうか、楽な山から、自由に物を言いたいようだが、自由には責任が伴います。責任を負わない者に、自由はないのです。責任を負わない楽山には落山しか待ってはいないのです。
 
楽山の子供じみた自由は、どこにも通ることはないと思います。無責任ゆえに信頼度はゼロ~マイナスという実績から、今は、もはや、楽山に言論の自由を認めてはいけないと思います。楽山は無視する人ですから、楽山の書いてくるものに対しても、批判目的以外では、スルースルー無視してください。
 
 
 
 「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28692684.html
 
 
良心のない楽山は、聖書も、神も、ヨブも、遊び道具にしています。したがって、書けば書くほど、何も理解していないことが、明らかになってゆきます。だから、信仰として好ましくない文章と思い込んで、浅はかに引用し、かつ、引用に終始しているのです。
 
 

「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
「第九章の研究」。
ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
しかし友らの態度に変化はない。
ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。

 
ヨブが神を恐れていることが表されている箇所であります。信じるがゆえに、信じる神に、単に神に苦しめられていることを嘆くのではなく、神に訴えているという信仰者らしいところでもあります。神も宗教も、いつも鼻で笑っている楽山には決して起こらないことです。
 

「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。

 
ヨブは、ここでは、まだ、自身が受けた試練の意味を知りません。また自身の罪を知りません。
 
 

さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。

 
神は、ヨブを無罪とはしていません。いかに神に従っているように見えても、神の前に無罪の人はいません。楽山は、また、最後に神が顕れ、ヨブがひれ伏すことを無視して、間違った方向へ、印象操作をもって、読む人をだまそうとしています。
 
 

「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。

 
ヨブにおいて、苦難の意味が分かるのは、神が顕れたときであります。分かったのではなく、神を求めているのです。内村鑑三の「一人にてキリストを知るのである」は、至言であります。神は、例えば、無神教カルトなどで組織的に知ることが出来る存在ではありません。信仰は個別であります。
 
 

この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。

 
「人は自分を知る者のために命をも捨てる」と言っている楽山は、どうして、ここで、そういう解釈に「納得できる」のでしょう。まだ、九章では、ヨブは、神の前に、ひれ伏してはいないのです。楽山が、理解ではなく、体のいい世辞のセリフとして書いていることが明らかです。
 
楽山は、信仰を持っていないからであり、そのくせ、厚かましく「よく納得できる」と言っています。嘘です。これは、楽山の自己顕示欲からの、分かってるんだという自己顕示の無理な主張です。この九章は、まだ、ヨブも、読者も、納得するところではありません。楽山の、凄まじい詭弁です。
 
 

また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。

 
「ヨブは対立者への報復を考えているの」ではなく、自我の主張をしています。楽山は、何を読んでいるのでしょう。恐らく、聖書そのものをも読んでいないのではないかと思われます。「我が誠の足らざるを尋」ねることの出来ない楽山です。
 
ヨブは、対立しているのではなく、神に訴えているのです。西郷は、人格において、天という広い視野を想っているのでしょう。ヨブは、信仰において、その危機を叫んでいるのです。西郷を引用する個所ではありません。いつも対立者への報復を考えて、企んでいるのは、まさに、楽山であります。
 
 

神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 (ローマ12:19、新約聖書
 
不完全で罪深い人が復讐をしても義とはされない、復讐は神に任せよ、という意味が、楽山は分からないので「異文化」という言葉で済ませています。まことに楽山は人間も神も知りません。信仰が分からない人の偏狭な言い分です。
 
「馴染めない」のではなく、楽山には、分からないのです。楽山は、分からないことを分からないと言えないので、分からないことは「異文化」という短絡で済ませるのでしょう。このような、言い訳や、正当化が、今までも、楽山の性癖となっていることが表れています。
 
分かろうとする姿勢が、今まで一度も表れていないのだから、理解したと言えば嘘になり、分からないとは言えないものだから「異文化」と言って済ませるとは、無責任なエゴの楽山らしい嘘と詭弁です。恐らく、これからも、自己中の楽山が、聖書に親しむことも馴染むこともないと思います。
 
 

       

              欲望は浅ましく気取る
 
 
(2021年)
(2022年05月05日、再録+加筆)
 
 
 
  浅ましく呼ぶ
 
ここにいて
あまりに浅ましいから
豚と言ってみた
豚は餌を与えた分だけ
肉を食われて人の役に立つ
石ころと言ってみた
糞(クソ)とさえ言ってみた
石ころは邪魔なら蹴ればいい
糞はいずれ浄化され土に返る
何より消費しない何も
 
限りある施しを受けて
豚のように消費し
石ころのように無価値で
糞のように汚(きたな)いから
とりあえず寄生虫ということになった
もう長く蔓延(はびこ)っていて
そう呼んでみるたび
クソッと思い出したように
低く呟(つぶや)いて
ここにいる
 
 
  やさしさと薄氷
 
何て冷たい
何て美しい
という鋭さに
切られているうちに少しずつ
冷淡になっていくような気がする
淡白ではないのだが
淡々と流れ
冷血ではないのだが
冷たい
しかも未だ不充分だ
外へ出ようとする潜熱を抑えきれない
もし充分に冷たくなったとして
やさしさを本当に持ち得たとすれば
やさしさは
浅い水たまりに
薄く張った氷を
じっと見つめ
じっと見つめ
踏み割らずに去ることであろうか
 
 
  陳腐な骨
 
水底(みなぞこ)にいかなる死が巡っていても
水面(みなも)しか見てはいない
陳腐な骨よ
古く脆(もろ)い骨格に細い筋を絡ませ
弛(たる)んだ脂(あぶら)を巻き付け
皮を被(かぶ)った人の形に佇めば
意識はあまりにも浅い
 
底に深く沈む死は
いずれ意識も肉体も
滅するために顕(あらわ)れるのだが
その顕現に対面することはない
 
死に臨んでいくら肉体が放尿し射精し
脱糞し流涎(りゅうえん)したとしても
意識は夢のようなもの?
 
しかし夢の中でも
明証性を持った意識がある
その意識はしばしば奇妙だが
奇妙と知るのは目覚めて
夢を覚えているときだけ
夢の中でも人は人、体は体で真剣だ
だから夢を見るたびに人は溺れ
死に一歩近づき
覚めればまた一歩近づくというに
今すぐ死ぬとは思っていない
意識の浅はかさとは・・・
 
水面よ
その深みに骨を沈めるとき
死が浮かび顕れ
骨が人々の、また肉体の
一切の柵(しがらみ)を断って沈むとき
水底に巡るものを見るだろうか
死人は夢を見ないのだろうか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、間違いを嘘でごまかし、ゆえに、真実を見失い、気づきや悟りを知らず、ますます「魅力の欠片もない」人となり、人間であることより、人間でなくなることを選んで、その結果、呆れるのは、当然のように、真実を語るかのような口調で、平気で嘘を吐く魔性に至っていることです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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