ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

徒労の勧め?


   徒労の勧め?
 
   時間を大切にするには… (焦りは禁物、急がば回れ)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41507162.html
   楽山のブログ。私のコメントは記事専用です。
 
 
先ず楽山の記事です。批判されている状況で、何も応えていませんよ、という記事を書いてくるのは、今に始まったことではありません。そして、いい気になっている自尊の権化シャロームが、コメントを書いています。
 

最近はどうも時間が惜しくてならない。人生の半分が過ぎたと感じはじめた頃から、そんな風になってきたように思う。

 
今も、シャロームや同類との時間だけを過ごしている楽山は、人生の大半を無駄に過ごしていると言えるでしょう。それだけでなく、アドラー教という軟派カルトを宣伝して、人の世界において、有害となる境地を広めているのです。一見、やさしそうな柔らかそうな言葉に騙されないようにしてください。心は、古びた革のように、ごわごわして、柔軟性は皆無です。
 

以前は、好きなこと、やりたいことができれば満足で、時間がもったいないなんて考えたことも無かった。でも今は自分の時間はできるだけ意義あることに使いたいという欲が出てきた。

 
楽山にとって意義のあることとは、批判を無視して、気に入らないことを無視して、気持ちのいいことを言ってくれるシャロームというカルトと調子を合わせることらしいです。気持ちの悪い人です。
 

でもだからといって、あまりにも時間を惜しみ過ぎると、気分が落ち着かず、かえって時間を無駄にしてしまうこともあるようだ。

 
何が言いたいのか分からないのが、楽山の筆致となっています。
 
ああでもない、こうでもない、ということで、何も言いたくないのではないかと思いますが、だったら、なぜ書くのでしょうか平気ですよと自尊を守りたいのでしょうか。平気でいること自体が、カルトによる人間に対する精神破壊の持続になるのです。
 

たとえば、本を読むにも、早く早くと気が急いてしまい、その結果、いくら多読しても、なにも身につかないことになってしまったり…。メモする時間を惜しんだ結果、後でせっかくのアイディアを思い出せなくなったり…。

 
このような能力の謙譲を本気にしないでください心の中では、アドラー教の無視と不感の境地が、人を無視して、楽だけを求める訂正不能の硬さを悦んでいるのです不都合な情報をブロックした悦楽のまま、成長拒否と学習放棄が、楽山の信条と精神だということが、今までに明らかになってきました。
 

時間を大事にするには、急げばいいというものではなくて、むしろ気持ちを落ち着けて、じっくり、ゆっくりする方がよい場合もあるようだ。

 
何かを言って、何も言わないのと同じ、という実験でもしているかのような言説です。急がば回れ、という諺以上のことを、何か言っているでしょうか悪いことを気にせず無視して楽だけを求めるアドラー教に染まると、このように、肯定をせず、否定もしないが、同時に、誰の役にも立たないような、無駄な言い方を求めるようになります
 

平凡な結論だけど、昔から言われている通り、焦りは禁物、急がば回れということなんだろうな。やっぱり昔の人は賢いな…。

 
そうして、平板な結論を出して、自分を見つめる姿勢も持たず、いったい、誰に向かって、何を説いているつもりなんでしょう。ネットの世界で、あまりにも暇だから、シャロームなどのカルト的妄想に付き合うことで、時間の無駄遣いを勧めているのでしょうか。何も言えないと言っているのでしょうか。
 
 
コメント欄です。
 
(シャローム
楽山(自由)さん おはようございます。
むかし子供のころよく線路で遊んでいました。
 一本の細い線路を落ちずにどこまで歩けるかという遊びでした。
 足元ではなく、すこし線路の先の方を見て歩くのがコツのようでしたね。
パソコンやスマホでいろんな知識や技術や情報がいっぱい簡単に手に入り、便利にはなりましたが、生きる知恵は貧しくなっているようのおもわれますね。
 
(私)
比喩を語っているつもりのようです。便利になったが生きる知恵が貧しくなっていると、いつもの、自分を完全に圏外に置いて、他者のことばかり悪く言うシャロームのボロクソ節です。シャロームこそが、ネットの匿名をよいことに、いちばん知恵の足らない自分を考えずに、人の意見も無視して、同じことをやっている楽山とともに、他者に対して、人格をどぶに捨てるような妄想を吹き込んできたのです。
 
(シャローム
ただ一本の細い線路をどこまで歩けるかという遊びの方が生きる知恵にはなるようですね。
 
(私)
シャロームが暗示してくる比喩の騙し文句です。シャローム自身が歩いているのは、人間が決して歩いてはいけない偽善の道です。そこで、好きなだけ嘘を吐き、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という嘘っぱちの偽キリスト教を説いてきました。
(私)
その道を、ただ一本の細い道として、自分はそこを歩いていると暗示し、正しい道であるかのように自己正当化する刷り込みの詭弁です。シャロームの場合、どんなときにも自分を正当な位置に置くので、こういう話にしかならないのです。反省しない人の宿命的な癖のようなものです。
(私)
そのシャロームを受け容れている楽山も、もはや、常識的判断を欠いてゆく非道を歩いてゆくことになります。その程度のことは、誰でも言うじゃないか、と思われそうですが、そういうところから、カルトの入り口は始まり、深みへと向かってゆくことを知ってください
(私)
大事なこととして、楽山もシャロームも、常識的判断を欠いている自分を自覚することがなく、また、学習によって訂正しようという意志もないところです。だから、今までずっと、テーマの本筋も自分に都合の悪いところをことごとく無視して、結論だけで人をなじり、いい加減なことを繰り返し書いてきたという経過になっています。
(私)
このように、よくあることだと些細なことと油断しているところに、刷り込みも煽りも並んでいます。これまで書いてきた、重要度において的外れ、気に入らないと平気で無視、一見、優しい柔和に見せかけて、経過において訂正不能が明らかになる奇妙さ、などに注意してください。カルトの萌芽を自分の心の中に許してはいけません
 
(シャローム
昔の人は大海原を星を頼りに航海していました。星を見ないで航海していると、漂流していることに気づかず、後悔してしまうかもですね。
昔の人が知恵があり、偉かったのはそのためかもですね。
2019/3/19(火) 午前 10:27 [ shalom ] 返信する
 
(私)
昔の人は知恵があり偉かったでしょうか。昔も今も人の欲望は果てしないものです善悪も両方とも昔も今も盛んです。このような断定で、もっともらしく見せて惑わしますが、シャロームは、何も勉強してはいないと思います。言うことが、すべて的を外れて、全か無かで垂れ流す出まかせの筆致がシャロームの特徴なのです。
(私)
なのに、シャロームは、自分は星を見ながら航海しているつもりで、他者に向かって、気づかないで後悔してしまうかも・・と、他者を漂流する人々と見なしてボロクソに言っているのです何の救いのメッセージにも、何の助言にもならないことしか言わないシャロームです。このようなシャロームに従うと、漂流ではなく、自己満悦の沼に沈没してしまうでしょう。二人には、決して関わらないでください。
 
(楽山)
古くから伝わる格言、ことわざ、故事成語などには、なるほどと思えるものがたくさんありますね。
ただ、こういう人生についての言葉は、いつでもどこでも誰にでも当てはまるわけではなくて、時と場合によっては逆もまた真なりということも有り得るみたいです。ここが難しくもあり、おもしろくもある。
この辺のことについて柔軟に対応できる人が、人生の達人なのかなと思ったりしてます。
2019/3/19(火) 午後 7:46 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
柔軟に対応、ということが分かって言っているのでしょうか。はっきり言って、格言というものを、ひっくるめて柔軟に対応、などと言ってまとめたつもりでいるところに、むしろ、いい加減さを感じます
(私)
格言は、柔軟に対応するものではないと思います。特殊な場合の集積だと思います。楽山が記事に書いている、急がば回れ、ということわざを、どう柔軟に対応するのでしょう。急いで慌てると失敗しやすいから遠回りでも堅実なほうを選ぶ、ということですが、急いでいるときに近道を選ぶということも嘘ではないのです過不足などの場合の違いが大切なのに、柔軟、と言って何を表しているつもりなのでしょう
(私)
急がば回れ、というのは、慌てて失敗しないように心がけるために、冷静に判断するわけですが、それに対しては、臨機応変であることが大切であって、様々な場合があるのに、それを柔軟に対応という一言で表すのは、中身がなく、何でも、いい加減に考えて、どっちつかずの何でも通用しそうな、柔軟という言葉で表して、人生の達人と言っていることが、既に、いかなる達人にもなれないのに、達人になれるようなことを言うカルトに特徴的なのでしょう。楽山の世界では、何事を語るにしても、いい加減になってゆきます。
(私)
人生の達人という完全言葉を、うかつに使うと恥をかくということです謙虚な人は、達人などという完全言葉については、使うことを控えるでしょうし、むしろ、ここでは、達人ではないから、ということを主題とするのではないかと思います。日頃から、何も語れないのに、何でも語れる気でいる人に限って、何かのテーマで語るとき、無分別と未消化によって、誰のためにもならないような柔軟という言葉一つでごまかして、何かを語った気分になってしまうのです。
(私)
カルトの完全欲を自分に当てはめて、出来ているかのような気分を作っているのだと思います。気に入らないことを無視して楽なことだけを追求してゆく生き方の楽観主義を幸福としてゆく向きは、可能と不可能を区別できなくなって、さらに夢のようなことを言い続けるでしょう。最後には、幼稚な道徳しか言えなくなる、という途中経過のような気がします。
(私)
この辺は、キリスト者も、慎重に考えてほしいところです。一筋縄ではいかない世にあって、何でもかんでも、幸いとして喜んでいると、似たようなことになります。私たち信仰者は、信仰によって、神によって、鍛えられるのです。何でも、神にお任せで、考えるより先にそれですべてよし、という気分になるのは、自分で神を決めつけていることになるのですから
(私)
シャロームと楽山は、とても幼稚で信仰とは言えない妄想~信条~処世術を、宝物のように大事にして生き方としているわけですから、その安易な説き方に惑わされて生きることになってしまわないように、近づかないのが一番だと思います。
 
(私)
さらに注意喚起したいのは、特に、シャロームと楽山という二人の軟派カルト伝染者においては、かつて、私のブログで数十~100コメ超の無駄な遣り取りを強いてきたところの、そのとき易坊というHNの、荒らしの関与が疑われているということです。シャロームは、易坊と友達で、私を、二人で攻撃してきたことがあります。
(私)
易坊は、少なくとも私などよりはネットには詳しいようです。易坊は、やさしく語りかけて引き込み、相手が疑問を呈すると、言葉尻の理屈攻めでボロクソに言ってきます。そうやって、肝心なところで裏切り、自らの優越を示して、相手が困惑し壊れてゆく様子を、快感の食事として受け取っているようです。反省も訂正もないような、人でなし、というのが私の判断です。
(私)
易坊は、既に、複数のHNにおいて、なりすましが疑われている人です。この易坊は、明らかにシャロームの味方として、いちゃもんのような理屈倒れを書きまくってきました。そして、他のサイトをも同様に荒らして、現状では、多くのブロガーから、相手にされなくなっています
(私)
ここで注意してほしいのは、PCが二台以上あれば、本人一人だけで、異なる複数の成りすまし同士の会話が可能になるということです。さらに、なりすましを疑われやすい者は、そういうコメントの遣り取りの記録を、なりすましではない証拠だと主張するために、残している可能性もあるということです。
(私)
シャロームのコメントの筆致が、シャロームとは思えない理屈屋の筆致に変わったことがあります。楽山のブログのコメント欄だったと思いますが、私は思わず「易坊か」とコメントに書いたことを覚えています。シャロームと易坊は元々協力関係にありますが、なりすましではないかと疑った始めです。そして易坊は、心にもない妙に優しい筆致からコメントを書き始めます。易坊を知らない人は、優しい知識人と思うような筆致です。
(私)
易坊のおかげで、また、なりすましのおかげで私は、シャロームと楽山に対して、易坊のなりすましではないかという疑いを禁じ得ませんし私もまた、他者によって、なりすましを疑われていたのです。なりすましと、荒らし、という存在の害毒は、計り知れないものがあります。疑えば切りのないことですが、荒らされた可能性のあるときには、要注意ということです。
(私)
かつて、楽山は、証拠不十分を理由に、私のシャローム批判を否定しました。ずっと前のことで、証拠を示せと言われても、今となっては、私の記事についても、どこに書いたのか簡単には示せないことを承知の上で、言ったのでしょう。ましてや、コメントを全部削除しているシャロームの発言ですから、証拠は既に隠滅されています
(私)
そして、楽山は、シャロームの無法な発言がなかったという証拠について、当然、何も提示しえていないのです。しかし、問題は、裁判による有罪無罪の裁きではないのですシャロームという一人に対して、よほどのことがないと約7年も批判を続けることはない、という人間の気持ちを、楽山は、何も感じ取ることが出来ない人のようです。そのこともあって、楽山に対しては、人間として欠けているところがあるのではないか、ひょっとして、楽山が易坊だからではないかという疑惑です。ネットでのことですから、疑惑は、今後も、消えることはないのです。
(私)
私の二人に対する疑惑は、これまでの遣り取りの経緯から生まれてきたものです。しかし、今後、シャロームと楽山は、私についての根も葉もない噂話や疑惑の流言をいっぱい出してくるかもしれませんが、そのことが、彼らが、闘争的で策略的なカルトであり、荒らしの系譜であることの傍証となるでしょう。報復のために捏造した嘘を仕掛けることは、騙すことを生業とする荒らしとカルトと偽善者において、それしかないと言ってよいほど、大の得意なのです。
 
 
(2019年03月27日アップ、同日一部修正)
 
権化(ごんげ)
騙す(だます)
生業(なりわい、(せいぎょう))
遣り取り(やりとり)

煽り(あおり)
 
 私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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