ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の破綻3

 
  楽山の破綻3
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を読んでみた 1
 2020年10月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26485053.html
 
 
この(3)までですが、それで終わりではないようです。楽山は、まだ書く用意があるようです。これが、楽山のネチネチ攻撃です。量を書けばよいというものではないのですが、楽山は、他にないようです。続けば続くほど、楽山の病質が表れるでしょう。
 

*支配欲
また大川隆法は、自己を発展させる方法として自己変革の必要性を説いているが、これは香山リカが指摘しているスピリチュアルにハマる人の特徴に合致している。氏によると、スピリチュアルにハマる人は、自分が変わりさえすればすべてがうまく行くと考える人が多く、自分の抱えている問題について、歴史的社会的な視点から考察し、対策を講じようという意識が希薄であるらしい。(参考『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』香山リカ著)

 
自分が変わらなければと思うのは、よくあることで自然ですが、「自分が変わりさえすればすべてがうまく行く」と言うのは思い込みであり、さらに、これらを他者にだけ当てはめて言うのは、まさに、楽山やシャロームなどの易坊類がやってきたことです。
 

シャローム氏が、st氏の行き過ぎた行為を注意したことはあるでしょうが、「自分が変わりさえすればすべてがうまく行く」というのを、「他者にだけ当てはめて言う」というのは嘘です。
シャローム氏は、st氏に批判的なときであっても、自分は対応をあやまったとか何とか自責の念を持つ人であり、他者だけが悪いなどとは言わない人です。

 
違います。シャロームに、自責の念など、一度も表れたことはありません。シャロームは、何度も、そして、最近も、私のライブドアのブログに、いちゃもんを吹っ掛けてきました。挨拶を入れたコメントに、同時に、あざ笑うように、皮肉や当てつけや嫌がらせを書いてくる、という非常識が、シャロームの情緒の鈍麻と理路の破綻でした。自分で治せないわけです。
 

ですから、「他者にだけ当てはめて~」というのは、例のごとく、st氏の投影でしょう。

 
シャロームも楽山も、投影、という心理学用語を、前も書いてきたことがあります。箔をつけたい欲望です。自分が言われそうなことを、"投影" という言葉で、それはお前だと相手に向けることで、それこそ、彼らシャロームと楽山が、向けてくる詭弁であり、便利に使っているようだが、その根拠を書いたことは一度もないのです。
 

率直に申し上げて、私は、st氏ほど、支配欲が強く、要求が多い人は見たことはありません。たとえば、st氏は、シャローム氏の言説を批判するだけでなく、シャローム氏には何も書いてほしくない、書いてはいけない、ブログも閉じるべきだということまで要求していました。

 
楽山やシャロームなどの易坊類は、一人の成りすましではないかと思うほど、共通点が多いということです。このことも、私のブログに何度も書いてきたことです。
 

また、誰もシャロームと話してはいけないとして、シャローム氏が他ブログを訪問し談笑しているところに割り込んで邪魔をしていました。私がシャローム氏と話している時は、シャロームとは話してはいけない、話すなら批判するとして、命令かつ脅しをかけてきました。

 
シャロームも、楽山と同様、相手にしてはいけない病質の人物です。よく似ている。命令でも脅しでもなく、現に、シャロームを、直接、批判してきたのです。
 
シャロームのブログにコメントで批判すると、削除したり、未承認にしたりしましたから、その後は、記事で批判していました。シャロームは、楽山と同様、実に卑怯な男です。
 

普通なら、人と揉めたとしても、「私は、彼の意見には賛成しない」とか、「私は、彼とは話したくない」という程度で留まるものです。でもst氏は「私は彼の意見には賛成しない。彼はもう何も発言してはいけない」とか、「私は彼とは話したくない。だから他の者も彼と話してはいけない」という極端にはしり、他を巻き込もうとします。

 
いいえ、シャロームも楽山と同様、有害だという判断です。多くの人が、シャローム及び楽山の言うことを真に受けたら、社会も倫理も、メチャクチャになるという判断です。それだけのトンデモ記事を、両者とも書いてきたことが根拠です。そういう批判をしています。シャロームは十数年、楽山は2年ほど、という今までの経験から、シャロームも楽山も、発言の信頼度は、ゼロです。
 

st氏は、あいつがすべて悪い、あいつさえ排除できれば、すべてよくなるのに…という発想をする人です。 

 
すべてよくなるとは言っていません。そうではなくて、楽山とシャロームの言うことは、無反省・無理解・無責任・いい加減・自己中であり、実によく似ています。シャロームは、偽キリスト者・偽牧師であり、楽山は、宗教嫌いのくせに個人カルトだという判断です。
 
どちらにも病理を感じます。何よりも、反省しないし、訂正しないのは、言論者としてあってはならないことです。何度も言いましたが、両者とも、そこを理解しないようです。
 
楽山は、それに加えて、最近、反省という言葉を使うようになりましたが、それに相応する記事の変化が、前後において、まるで見られない、ゆえに、また嘘を吐いた、という判断の連続です。
 
悪口言いたい放題、嘘吐き放題で、とても見え透いた刷り込みと煽動をしている楽山です。まだまだ、続くのでしょう。
 

*常識外れ
HSは常識に欠けるだとか、社会性が欠如しているという批判はよく聞くし、信者でも世間解について云々することは珍しいことではないけれども、これには発展、自己変革、自己責任など、HSの教えに社会性が欠けていることと関係していることは否めないだろう。これらは一面の真理を語っていないこともないだろうが、問題の原因をなんでも個人に帰すればよいわけではないのだ。

 
カルトは、常識が欠けてゆきます。珍妙な人間離れした妄想信条を持つと、それが、常識を駆逐してゆくからです。鋭敏になるのでも、能力を得るのでもなく、欠ける方向、鈍麻する方向に、しかも、固定してゆくのでしょう。まさに、楽山に、それを見ています。
 

常識外れといえば、st氏のストーカー行為が、まさにそれでしょう。st氏が、「カルトは、常識に欠けてゆきます」といっても、投影、自己紹介、ブーメランにしかならないです。

 
(ネットより)
投影:
心理学で、考え方や行動に心の内面が表現されること。自分の性質を他人の性質にしてしまうこと。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%8A%95%E5%BD%B1/
 
「投影、自己紹介、ブーメラン」と、3つも言葉をあげるのが、意味をしっかり考えていない証拠でしょう。特に投影は、軽く使っていい言葉ではありませんが、楽山には、攻撃できればどうでもいい、という性根が表れています。
 

*ブーメラン
そういえば自分が会員だったころ、社会制度について意見を言ったら、先輩会員から「制度を変えたって心が変わらなければ何も変わらない」と言われて、ハッとさせられ感動したことがあったが、このことからすると当時の自分はまさに香山リカが言うところのスピリチュアルにハマる人だったのだろうと思う。とほほ。

 
今は、いや、ずっと、自己愛に嵌って、嘘、詭弁、印象操作、刷り込み、などによって、嵌らせることと保身に懸命なようです。
 
もう一度、言いますが、人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。
 
これまでの楽山の記事の、詭弁と嘘の流れから、楽山には、この正直さが、ありません。
 
楽山が、学習障害の人であるなら、かつ、それを自覚しているなら、それなりに生きる道はあるはずですが、楽山は、それを探し求めるのではなく、どこまでも、宗教家気取り、批評家気取り、読書家気取りに、しがみついて、どんどん、いちばん向かない方向を選んで、背伸びばかりして、自己愛性の害毒をまき散らして、同情の余地も、自立の余地も、自分で潰(つぶ)しているのです。つづく。
 
正直さは、特に、キリスト信仰において、神聖に対して重要な意味を持ちます。そこで、嘘を吐き続けているのが、偽牧師のシャロームです。どこにも正直があると思えないのが、楽山です。
 

st氏の批判は、だいたいが投影、自己紹介、ブーメラン、鏡にうつった自分ということになっていますが、ここも同様です。

 
前に言ってますし、そして、上に引用している投影ですが、また、悪口重ねています。それで、気が済むのでしょうか、勝ち誇るのでしょうか。その分、信ぴょう性が墜落します。楽山は、根拠を何も書けないからです。
 

論点はいろいろ提示されていますが、一番はじめに挙げられている「自己愛」についていえば、st氏はまさに自己愛の塊です。

 
結論だけを重ねていることに注目してください。自分に当てはめられたことを、そのまま、根拠もなく、言葉だけ、こちらに向けて、何か、有利になるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山の自己愛は、無反省・無責任・無根拠・訂正不能に、如実に表れてきたのです。恐らく、これからも、同じでしょう。
 

たとえば、st氏は、カルトを批判するといいますが、多くの被害者を出しているカルト教団には無関心です。ですが自分に苦言を呈した人に対しては、カルトのレッテルを貼り、何年でも粘着し、ストーカーになります。自己愛が強すぎて、他から意見されると、逆ギレ、逆恨みするのでしょう。

 
楽山の逆恨みの結果が、楽山の、この長い長い無根拠の記事であります。
 
現在、知られている「多くの被害者を出しているカルト教団」よりも、広まれば、楽山やシャロームのほうが有害です。まだ知られていない分、警戒されていないからです。さらに、コメントと記事を、私は、かなり知って、脅威に感じたから、書いています。そういう選択です。
 
既に被害が出ているカルトには、世間も警戒するでしょうし、公的機関の監視もあるでしょう。批判者も多いでしょう。楽山とシャロームには、放っとくと、だまされた人からの好意的コメントが来るのです。趣味であれ、実益であれ、だますことだけに特化した者たちです。
 

ただし、st氏は、苦言を呈した人であれば、誰に対しても粘着ストーカーになるわけではありません。ヨシュア氏のようにst氏の私生活をあげつらい、罵詈雑言を浴びせてくる人に対しては、早々に退却します。また易坊氏のように、st氏のブログに乗り込んできて、理詰めで、徹底的に問い詰める人にも粘着批判はしません。時々、恨み言を述べるくらいです。

 
楽山が書いているように、自称ヨシュアは、私のプライベートをあげつらって、精神病とか人間失格とか、数えきれない罵詈雑言を浴びせてきました。しかし、私は、批判記事として、そのことを書いていました。楽山は、また、嘘を吐いています。粘着気質は、まさに、楽山です。この記事が証拠となるのです。
 
さらに、それを、今、持ちだす楽山の根性を考えてほしいところです。批判者をおとしめるのに手段を選ばない荒らし体質のカルト性が表れているのです。どんどん表れてきます・・。
 

粘着ストーカーになるのは、シャローム氏、楽山のように、罵詈雑言を吐くことはなく、執拗に問い詰めてくることもなく、批判しやすい人に対してだけです。ようは、st氏は粘着ストーカーになるときは、自分が傷つくことはない人を選んでいる。

 
楽山とシャロームは、自分の言いたいことだけを言って、罵詈雑言を露骨には吐きませんが、その代わり、人の言うことも一切聞かず、自説を訂正する余地も持ちません。自らに、過ちの修正の必要性をも認めない人たちです。
 
楽山は、自分を、人を傷つけない人だと思っているのでしょうか。鈍感も甚だしい。無駄な疲労を与えられるほうは傷つかないと思っているのでしょうか。認識が、病識が、皆無の楽山です。
 

st氏は、世のため、人のために、カルトであるシャロームや楽山を批判しているかのようなことを言いますが、実際には何のことはない、上に示したように、自分の恨みつらみを、どんなに酷いことを言っても返り討ちに遭う心配はない相手にぶつけてるだけのことです。

 
返り討ちしているつもりではないのでしょうか。だとしたら、ここも、真っ赤な嘘です。嘘だらけで成り立っている記事のようです。うわべを取り繕うことが、だんだん、できなくなってきたのでしょう。
 
世のため、人のため、というより、私は、信仰者の務めとして、看過できないカルト性の人に対して、批判できる人は批判するべきだと思っています。今のところ、キリスト者として批判しているのは私くらいしかいません。楽山とシャロームは、宗教については偽りだけで、元々、宗教嫌いの反キリストだと判断しています。だから、平気で、宗教を悪用できるのです。
 

次に、二番目に書いてある「嘘」について書くと、以前のst氏は、シャロームにはひどい目に遭わされたから、自分のような被害者が出ないように、シャロームを批判し、注意喚起すると繰り返していました。
私はこれをそのまま信じて同情したのですが、その後、シャローム氏にされた酷いこととは何であるか、st氏に尋ねると何ら具体的な答えは返ってこなかったのでした。

 
気を付けてください。相手の心が傷つくことを、楽山もシャロームも、何とも思っていないようです。こういう人は、無視や、無反省や、無責任について、全く罪の意識がありません。そういう性根が、反社会的で、怖いところなのです。
 
シャロームに対しては、明らかな動機をもって、間違っている、偽善だ、コメントを隠した、デタラメだ、という根拠をあげて、批判してきました。
 

ウン千万の献金詐欺にあって老後の生活資金を奪われたとか、自分を拝まないと地獄に堕ちると洗脳されたとか、そういうカルトにありがちな事件など、一つもなかったのです。確認できたのは、シャローム氏との間に信仰において意見の相違があったことや、自身の至らぬところについて苦言を呈されたということくらい。

 
これで分かるでしょう。楽山の言う被害とは、金銭の損害なのです。字面でしか考えない楽山は、同時に、金銭でしか被害を考えないようです。心を持たない病質者を象徴するような発言です。
 
なお、楽山は、シャロームが、まともであるかのように言っていますが、シャロームの信条は、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、というものです。これで、偽キリスト者・偽牧師だと明らかになりました。そのような信条は、カルトならではのもので、決してキリスト教・キリスト信仰にはありません。
 

ようは、シャロームに酷いことをされた、シャロームはカルトだというのは、st氏の主観ではともかくとして、客観的にみれば、シャローム氏をおとしめ、自分が被害者になりすますための嘘であり、印象操作にすぎなかったということです。

 
また、楽山は、根拠皆無のまま、こちらを悪者に仕立てようとしています。批判する判断の中身と根拠は、すでに書きました。今までも、繰り返し記事に書いています。これが、楽山の、自己愛性人格障害の、どうしても自己中になってゆく症状なのです。もはや、見境もなく、嘘を並べています。
 
しかも、私の、批判の根拠は、前にも言っていたことです。その都度、書いてきたのに、楽山は、また、同じ悪口しか書けないのです。これが病質者と、判断するしかない根拠の一つです。
 

最近のst氏は、もっぱら楽山に粘着し、楽山には酷い目に遭わされたというようなことを書いているようで、LEO氏はそれを真に受けて、私と同じ轍を踏み、騙されていますが、st氏はいい加減にそういう嘘は止めた方がいいです。

 
楽山が与えるところの、"酷い目" とは、罵詈雑言ではなく、好意的に相手にすればするほど、無駄な疲労がたまり、はぐらかされ、かつ、一切、責任を負わない楽山という人物の言論と生き方です。奴隷のように世辞を言う人以外、誰も、楽山とは、良好な関係を保つことは出来ないと思います。
 

あとは、「学習障害」と書いてあるのを見て思い出しましたが、st氏はたしか読書障害を告白していたことがあったかと思います。有り得ないような読解ミスをしていることでツッコミを受けた後で、そういうことを言っていたのでした。ようは、「楽山が、学習障害の人であるなら~」というのも、ご自身のことを楽山に映して言っているのでしょう。

 
楽山は、学習障害から私の読書障害を俎上に載せたいようです。私は、障害そのものを批判の俎上に載せることはありません。障害を自覚して克服しようとしている人を尊敬し、障害を、どこまでも、否認して強がる楽山を、欺きしか生まれず何も進歩がない者として、批判しているのです。
 
私には読書障害の傾向があるということは、私のブログのどこかに書いています。長い文章を読むと疲れるので、あまり読む気になれない、というものです。ブログの短い文章なら読めると思います。
 
楽山の障害は、学習障害だけでないことについては、いろいろ書いてきました。ここにきて、障害比べをするとは、楽山には、自覚がないために、的外れな度胸だけがある、ということでしょうか。
 
読者が、楽山の企んだとおりに、楽山を、読書家、評論家、学者みたいだと、思ってくれていると信じているのでしょうか、だとしたら、それこそ、だますことに慣れて盲目になっているカルトらしいと言うべきでしょう。
 
理路を読んでいるか、情緒を受け取っているか、こういう視点で、楽山を見てゆくと、楽山の欠陥がよく分かると思います。楽山は、批判に対しては、まともにツッコミを入れたことはないです。好意的には、世辞しか言えない人です。
 
「楽山が、学習障害の人であるなら~」の「~」って何なのでしょう。学習障害だけではないことを、多くの言葉によって書いてきましたが、楽山は、私が書いた「無~」についてなどは、認めるのでしょうか。
 
これだけ、憎まれ口を書いて、こちらを、「ご自身」と書いています。楽山には、見せかけの敬語が、生業(なりわい)として、癖になっていることを表しているようです。つまり、本当の、敬う心はないということでしょう。
 
私のことを「楽山に映して言っているのでしょう」・・自己愛・自己中ならではの、気色悪い言い方です。楽山は、あくまでも、私とは別の対象、鏡の中でも、映したくはない人です。
 

論点はこの他にも挙げられていますが、全部について書くときりがないので、とりあえず、ここで筆をおくことにします。

 
他にも挙げられているとは、誰が認めているのでしょう。楽山が、怒りに任せて、捏造して、だらだら無駄な記事を書いているだけだと思いますが。・・楽山の悪意は、切りがなさそうです。
 

*参考
st氏と私の過去については、この辺りにまとめてあります。
興味のある方は、ご覧ください。
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記(LD)
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)- 楽山日記(LD)
*つづく
次の記事につづきます。

 
私は、シャロームshalomや楽山に対するほど長くはないですが、以前は、自称ヨシュア、自称マグダラマリアなども、カルトとして批判していました。彼らが神のように完全になることを目的としていたからです。カルトはいっぱいいます。ネットには、さらに多いでしょう。
 
楽山は、大方、似たようなことしか書けないようです。これが、楽山の体質なのでしょう。長さに比べて中身がないことを考えると、全く尋常ではありません。
 
私が年寄りであることを知っているので、短い間にたくさん書く作業を強いて、疲れて死ねばいいと思っているかもしれません。決して近づかないでください。
 
今回は、嘘で飾ってきた楽山の悪意が、その体質が、節操もなく、記事の字面(じづら)言葉として、だらだら放出されていると思います。
 
 
楽山やシャロームは、何の魅力もないのに、こちらが批判を続けることを、一方的な偏愛によるはずの、ストーカーだ、ストーカーだと、暑苦しく乱暴に騒ぎ立てます。
 
また、こちらが批判した内容を、無理やり、そのまま、批判者に返して、それを、ブーメランと呼んでいます。
 
ブーメランは、相手に返すのではなく、自分に戻ってくるのです。彼らの批判返しこそが、そのまま返ってゆく彼らのブーメランなのです。
 
つまり、彼らは、言葉を、恣意的に、的外れに、暑苦しく、ねじ曲げて使う乱暴者です。それは、自分が使われる対象に相応しいものだから、先に使って、騒ぎ立てることになるのでしょう。彼らが騒ぎ立てる内容の多くが、彼ら自身に当てはまってゆくのです。
 
それで、楽山やシャロームは切り返したつもりになって、いい気持になったとしても、全く自己満足に過ぎず、誤用例として、彼らのの意地の悪さとともに、言葉の暑苦しい乱用だけが残るのです。
 
比喩的に言い換えるなら、楽山とシャロームは、批判されると、条件反射のように、汚いよだれを垂らして、さらに、唾を飛ばしてくる実験動物ということになります。
 
 
私は、性格的にも、信仰上も、だますための真っ赤な嘘は吐けません。白々しいのは嫌いです。
 
彼らは、実に、だますための真っ赤な嘘を、数えきれないほど、平気で吐いてきます。彼らは、ずっと、インチキな詭弁でだます白々しいペテン師のままなのです。
 
さて、次には、楽山の、もっともっと長い記事が待っていました。批判記事は、全部で1~4まであります。ついには、楽山が、口から出まかせの、嘘と悪態の機関銃となってしまいます。
 
追い詰められて、退散したり、黙ったり、改めたりするのではなく、機関銃になるのが、ただのカルト信者ではなく、現実認識のできないカルト的病質者の特徴だと思います。
 

            

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                 乱れ
 
 
(2020年10月06日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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