ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

目を覚ましていなさい

 
  目を覚ましていなさい
 
   明るく、素直に、あたたかく (『大霊界 死んだらどうなる』丹波哲郎[著] 近藤薫[画])
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41499115.html
 
 
硬派のカルトに嵌って、真理を得たと思ったら、違っていた、ということに気づいた者が、次には、何事も中立・中庸をと、今度は、うわべだけの付き合いによって、別の宗教や、よりによって、罪を悔い改める心を全く持たないシャロームの説教を受けている有り様のようです。
 
カルトに一度嵌った人は、二度三度と、カルトに嵌りやすいのかもしれません暗示にかかりやすいのかもしれません。硬派から軟派へ、でも、そういう軟派カルトというのもあると知りました
 

ひさしぶりに、丹波哲郎の本を読んでみた。霊界の話はひとまず横に置いとくとして、明るく、素直で、あたたかい心が大切というのは、本当にその通りだなあと思う。

 
その大切な心を、アドラー教で、また、シャロームの丁寧語に唱和することで、失いつつあるのでしょう。かくして、真実からは、どんどん遠い曖昧さに縋りつくカルトになっています。
 

そしてこの世を終えたとき、彼岸へ持っていく最大のお土産は、金でもなく、地位でもなく、明るく、素直で、あたたかい心だということを銘記することが緊急にして、かつ、絶対的な必要事項である。
(『大霊界 死んだらどうなる』丹波哲郎[著] 近藤薫[画]、学習研究社、昭和63年)
明るく、素直で、あたたかい心というのは、一言でいえば、幼児のような心ということだろうか。たしかにそういう心は大切だろうし、そういう心でいられたら、自分はもちろん周囲の人たちもきっと仕合わせだろうと思う。

 
ほんわかとした語り口に見えますが、実際は、明るくもなく、素直でもなく、温かくもなく、幼児からほど遠いところで、陰気臭く、ああでもない、こうでもない、という、ぼんやり考えるふりだけの人になって、気に入らない意見を無視しているのでは、それこそ、カルトの格好の餌食となり、自らもカルトとなって、ボンヤリ人を増やしてゆくのでしょう。
 
少なくとも、真実追求の道は、精いっぱいの正直さがなければ、精いっぱいのストレートを持っていなければ、失われてゆくだけなのです。「目を覚ましていなさい」とは、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)24:42
だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 (マタイ24:42、新約聖書
 
必ずしも、主の再臨や終末のことだけではないのです。わからないことを、わからないと知って言える心が、いちばん大切です。でないと、なんとなく分かっているつもりの、ぼんやりしている人を、その心の隙に、丁寧に語りかけて、食い物にするシャロームのような者は、たくさんいるということです。
 

いつも笑顔で、もし間違えたら素直に反省して、意地を張ることもなく、他を思いやり、困ってる人がいたら救けてあげる…そんな人ばかりの世界があったら、どんなにいいだろう。
たぶん、そういう人たちが集まっている世界を天国というのだろう。

 
なんでもかんでも、ちょうどよいところを想定しているようだが、こういう夢のようなことを考えている人ほど、悪夢のような刷り込みを受けやすいでしょう。だから、シャロームのような偽善者は、優しさにつけ込んで、優しさを装って、語りかけてくるのです。ちょうどよくない自分を、むしろ情熱的に知るべきなのです
 

ただそう考えたときに、ちょっと心配なのは、もし仮に、自分がそういう世界に入っていったら、周囲から浮いてしまうのではないかということ…。なんといったらいいか、今の心のままでは、仮に天国に行けても、周囲の人たちの心の綺麗さに圧倒されて、いたたまれない心持ちになってしまいそう。

 
何を想像しているのでしょう。天国に行くと決まったわけでもないのに、天国の想定において悩んでいるのは、空想癖と好奇心に走りやすい人の特徴かもしれません。
 

あの世があるかどうか、天国や地獄があるかどうかということは、どうしたって確かめようのないことだろうけれども、こう考えてみると、どうも自分はまだまだ足りないところがたくさんあるようではある。とほほ。〈了〉

 
ですから、まだ足りないと言いながら、何が足りないかを考えているのでしょうかここでも、ちょうどよいことを書こうとしているのではないでしょうか。学びもしないで、受け入れだけしていると、シャロームのような者に、シャロームの決めつけた固定観念の天国を吹き込まれることになります。
 
 
(ここから、コメント欄です)
 
(シャローム
楽山(自由)さん 久しぶりですがお元気ですか。
 「ただそう考えたときに、ちょっと心配なのは、もし仮に、・・・」
どんなこと、どんな時にも仮説が成り立つのですから、悩みは尽きませんね。(笑)明るく、素直に、あたたかくもそう感じ、理解し、受け取るかどうかも人により、状況により、その時おなかがすいているかによっても異なるのでしょうからかなり厳しい修業?が必要かもですね。(涙)
2019/3/8(金) 午前 8:51 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームは、厳しい修業をしてきたとでも言いたいのでしょうか。嘘吐きと偽善の修行でしょうか。それは、この地上で、最も安易な邪道なのです。それとも、修行が必要になるようなことを楽山が言っているとシャロームは言いたいのでしょうか。
(私)
修行というものでなく、弁えておくべき節操があります。唯一全能と信じた神に対する節操です。訂正不能と無視によって舞い上がった讃美言葉を並べるシャロームのような者の罠に嵌らないためです。
 
(楽山)
shalomさん、おひさしぶりです。おかげさまで元気にしてます。
いろいろな状況があり、いろいろな人がいるだろうから、絶対ということはなかなかなさそうではあります。
2019/3/9(土) 午前 6:50 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
この地上の人間の意志と行為に、絶対はありません絶対というのは神聖のことでありその神の絶対を、人間は知ることは出来ないからです。それを、知っている、分かっている、神の目で見える、と思い込んで、自分の妄想教理を吹聴してきたのが、シャロームに他なりません
 
(私)
絶対の神に対して、人間には、絶対は、絶対にない、ということを、情熱的に弁えるのが信仰です。それを支えるのは、絶対のない世界で、絶対ではない人間のために命をささげた神聖なる救い主キリスト・イエスの愛であり、そのことだけは、どうしても忘れられない人間が、キリスト者と言われます。
 
 
(2019年03月26日アップ、同日一部修正)
 
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