ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神の存在と信仰


   神の存在と信仰
 
 
「客観的に言えば
 神はいないかもしれない」
このことは
キリスト者言ってはいけないことではありません。

 
何故なら、キリスト者
神はいるんだ!と、いくら言い張っても
また、非信仰者が
神はいない!と、いくら言い張っても
神の存在も不在も変わりはしないからです。
正直な心を抑制することは、これほど無意味なのです。
 
しかし、キリスト者
併せて言うでしょう。
「神様がいないのならば生きてはゆけない」と。
 
この理由のみによって
継続的に
神に祈るしかない信仰が成立します。
そういう人生の成り行きを体験することが信仰の道です。
 
信じ込みではなく
それなくしては生きられないほどの
強い希望として信仰は与えられます。
 
ですから
客観的に言って
神はいないかもしれないけど
・・というのは、あり、つまり、
あってはいけないけれど、あるということです。
 
いくら言葉だけ整えても、私たちは、反逆の民なのです。
それを認めない人は、自覚がないだけなのです。
それでも、正直より、クリスマスケーキのような祈りが大事でしょうか。
 
存在しない神に祈る
という哲学者かつ神学者シモーヌ・ベイユの言葉もあります。
なんかちょっと悲しげだけど、知的な美人です・・失礼。
 
 
神はいないかのような世にあって
神がいると思い込んで言い張ることには
どこか自分の都合が入っています。
 
自分という個人の都合で神が動くのではありません。
 
信仰は全くの主観ではないのです。
みすぼらしい個人の主観の中に
神様がすっぽり収まるはずはないのです。
 
信仰は、本当かどうか分からないことを
本当だと思い込み信じ込むことではないです。
 
しかし、また同時に
神は虐めて楽しむサディストではありません。
聖書によって
赦し癒やし導き救う神を信じています。
 
救いは、この地上だけではありません。
だから生まれ持った不幸や
生きる上で持ってしまって変えられない不幸については
御国を想うしかないのかもしれません。
 
しかし、そのような人生にあっても、必ず
生きる糧となる物事や人に出会うということです。
 
 
客観においても主観においても
みすぼらしい我が身を知っている人は
思い込みではない信仰が可能です。
 
前から言っているように
信仰は、神と人との双方向です。
神から人へは導き
具体的には成り行きです。
それは経験とか体験とか呼ばれて
そこから学習し成長するのは当然のことです。
人から神へは祈り
それがキリスト信仰の中心です。
悔い改め、反省し、祈り願うことです。
 
こんなんだったら
迷惑かけるばっかりだから
早めに私の命を終わらせてください
と祈ったこともあります。
 
そんな祈り、とんでもない、ではなく、
それしか本音がないときには
祈りとして叫びとして、あり、というより、
ない、と言われても、してしまうのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)3:3
「わたしの生れた日は滅びうせよ。
『男の子が、胎にやどった』と言った夜も
そのようになれ。
 (ヨブ3:3、旧約聖書
 
これは、独り言でしょうか。違います。
明らかに、神に向かって叫んでいるのです。
 
ヨブは最後には
神に叱られ、チリ灰の中で悔い改めますが、
信仰を唯一の希望として生きている者は
その希望が消えかかったときには
自ら命を終わらせないために
自らの命を貶める祈りしかなくなります。
そして、その叫びは、救いを求める究極の祈りなのです。
 
 
信仰に生きるとは、
例えば、聖書を悪用して、テキトーに辻褄を合わせて、
都合のいい自己中の妄想解釈をもって吹聴するような
偽善者やカルトの偽信仰とは全く違うのです。
 
 
(2019年04月04日アップ、同日一部修正)
 
虐める(いじめる、苛める)
貶める(おとしめる)
 
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