ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

ボロクソ節に懸念・補足

 
   ボロクソ節に懸念・補足
 
    新元号「令和」に懸念
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28939486.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
この元号の話題で、転載記事を追加して、根拠があるようなことを言っているシャロームに引き寄せられてはいけません。シャロームは、「令和」という言葉だけを問題としています。シャロームの根源的な問題は、元号の話題以前に、既にあります。それを、この機に乗じて、ごまかして正論を言っているふうに見せかけたいのが、今回のシャロームの狙いなのです。
 
過去の膨大な罪と悔い改めの問題に一切答えないままで、元号を云々するどころではない状況を無視しているのです。そして、シャロームは、平気で、このような無視を、人あしらいにも当てて、しのごうとする無神経な人です。
 
一見、まともに見えてしまう下記のコメントに、誰も頷くことのないように、こういうときは、いつも、今までの問題を掘り返すしかないのです。シャロームは、私が関わった8年~実際には恐らく何十年~今までの全生涯にも及ぶところの、シャローム自身の、福音伝道などと嘘を吐いてきたところの、根源的なキリスト信仰の問題から、読者の目を逸らしたいのです
 
>《shalomのコメント》

元号「令和」に誘導するために、厳重な事前漏えいを防ぐために、最後まで「令和」を隠蔽し、有識者の携帯電話を預かり、意図的に直前に「令和」を最後の六番目の候補として加え、初めの五つの候補は文献資料と読みで、かつて選ばれなかったものを加え、採用されない候補とされ、いかにも「令和」が新元号としてふさわしいという説明が菅によってされ、誘導された印象がありますね。安倍と菅の策略が強く臭うようです。

 
シャロームは、転載記事を追加して、言葉にこだわって、一生懸命に元号「令和」を呪っています元号制定に政治的意図があるなら問題ですが、元号の意味は、暗号を意図したとしても、あくまでこの国と国民の今後の努力にかかっているのです。あらゆる努力を怠って、無視して、自分は分かっていると言いたいだけのシャロームなのです。
 
転載記事の著者たちのことは知りません。しかし、シャロームが、状況を無視して、言葉尻にこだわって善悪を決めつけるのは、心の内実を持たず、今すぐ結論を出さずにおれない性急な短絡と、言い張りたい自己正当化の党派心の欲望のために意図することです。
 
シャロームは、過去と未来を広く考えることが出来ないのでしょう自分で確かめようもない事実関係を選択して決めつけ、誘導された印象がありますねと、「ね」付きの印象操作をして、さらに、策略が強く臭うようだとまで言うのは、今すぐ全面否定と絶望を、日本に、烙印のように押し付けたいのでしょうか。
 
誘導された印象がある、と言うのは、逆に、誘導だという印象を刷り込むための、印象操作であります。
 
人間らしい匂いでも香りでもなく、いつも、嘘臭さも、ペテン臭さも、胡散臭さも、いちばん強く臭うのは、おびただしい詭弁で誘導することだけを手段としてきた、シャローム自身であります。
 
シャロームが、今も、何かを他者に伝えられると思って、伝えようとしていること自体が、既に、他者の意見に耳を貸さず、都合の良い同意見だけを出しながら、都合の悪い何ものをも受け取らず無視してきたシャロームの、理解力もなく、理路もなく、人間らしい情感もなく、ボロクソに言って悦びたいだけの自己顕示欲と自尊の保身に走る性癖である、という証拠なのです。
 
シャロームは、いかなる文章も組み立てられず、本を読めば逆にその本に斬られていることにも気づかないでいるのに、まるで、一般の意見をリードしているかのような尊大な態度で、今まで彼が生み出してきた悪と罪と偽善の問題を気にかけることもなく、平気で有識者のふりをしているのです。
 
作為的健忘と、なし崩し的な善人面と、演技的穏健さの偽装と、柔和芝居と、裏で真っ向から裏切っている偽りの正々堂々ぶった真似だらけの、悪意の手練手管によって騙し続けるところの、いくら言っても、止むことのない偽善者 シャローム shalom でしかなく、決して好意的に関わってはいけない人で、いわば、shame(ful)rom なのです。
 
言葉そのものにこだわるだけで、その語源と経緯を他者の記事から取り上げても、それが自分の正当化のためだけであり、その及ぼす影響とか、未来に向けてのことを考えることが出来ず、悪い印象だけを収集して、策略が臭う、などという言い方を遠慮なくして、何か言い得た気分になるのが、シャロームであります。
 
そういうことが、上の引用の中の、隠蔽、意図的、誘導、印象、策略、臭う、という、どこまでも陰険なボロクソ言葉の使い方に表れているのです。これらの言葉が当てはまるのが、シャローム自身であることを毛ほども自覚できない人であり、超ド級の無反省が人格のベースにあることを忘れてはいけません。
 
恐らく、今までの長い人生で、シャロームは、どんなに大真面目に話しても、さらに語気を強くして話しても、誰も、彼を賞賛したり、満足させることがなかったのでしょう。それゆえ、シャロームは、自分で満足するしかなくて、その方法が、楽山に類似したところの、無視と無反省となって固着したのだろうと思います。長く生きている間に、それが出来るようになったつもりなのでしょう。
 
つまり、体質となって、どんなときも、自分の気持ちの良いように放言すると、ほんとに自己満足するようになったのでしょう。そうやって、その後の長きにわたって、恐らく死ぬまで、大事な悔い改めにつながる情感を失い、満悦の原始的な感情だけを求めて、破壊された人格像だけを表す経過と結果になるという恒常性となって現在に至っているのだろうと推測します。
 
自らを高みに置くためだけに他者を低めることで快感を得るが、自分を低みに置くことの全くできない無反省は、ただ自分の言い方において、呆れるほどの勘違いであるところの、正義の味方気取りに精を出すしかない、という低次元において、神に対しても、人に対しても、言論者としても信仰者としても説教者としても、欠格を表すことにしかならないのです。
 
実際は何十年もの間であろうと思われ、恐らく、成人してからは、ずっとではないかと思われる無反省の悪意の体質、すなわち、罪悪を感じる心を微塵も持たない、という、私が見てきただけでも約8年にもなるところの、思想と宗教と信仰に対して偽善だけを積み重ねてきたシャロームが、人生の黒を、今だけ白で糊塗しようとして、いくら、違う方向から各論を見繕って飾ってきても、全くの無駄なのです。
 
シャロームにおける、悔い改めることのない、長きにわたる卑怯な体質は、何を目指しても、何を語っても、神に対しても、人に対しても、卑怯だけを表すことになるのです。そうなるようにしか体質を養ってこなかったからです。自己の、正当化、肥大化、誇大化、これからも、その方向だけにしか向かっていかないのでしょう。誰にとっても、このようにだけはなってほしくない、という獣性の白々しい芝居を、ちょっと見ただけでは分かりにくいように、あざといインテリ芝居と笑顔サインとともに見せびらかしてくると思われます。
 
 
ヨブ記より、背きと悔い改めの聖句を引用しておきます。
神に背いて、人が自らを絶対化することを戒めています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
38:1-2
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
・・・
38:11
言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、
おまえの高波はここにとどまるのだ』と。
・・・
40:1-2
主はまたヨブに答えて言われた、
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
・・・
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4-5
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ38:1-40:5、抜粋、旧約聖書
 
ここには、人の悔い改めが一度ではないことも表されているようです。
 
シャロームは、悔い改めが必要なのは自分であるのに、悔い改めは神が与えると、まるで神がシャロームを操り人形のように他動的に悔い改めさせるかのような詭弁で言い逃れようとしました。つまり、シャロームは、自分が悔い改めないことを、神に責任転嫁しているのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)40:8
あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。
あなたはわたしを非とし、
自分を是としようとするのか。
 (ヨブ40:8、旧約聖書
 
次のヨブの言葉のうち、『』は、神の言葉の引用です。
 
 (ヨブ記、口語訳)
42:1
そこでヨブは主に答えて言った、
42:2
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。
42:3
『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4
『聞け、わたしは語ろう、
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ42:1-6、旧約聖書
 
ヨブの不幸は、ヨブの試練であり、最後に、ヨブはそれに気づいて悔い改めましたが、
シャロームは、背いたのち悔い改めたヨブに、そして聖書に、学ぶ気がないようです。
 
 
(2019年04月05日アップ、同日一部修正)
 
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