ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

讃美の家批判15

  
  「讃美の家」批判15 (加筆修正)
   聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   聖書のみ言葉の黙想→「聖書と虚無主義
 
 
(私)
まず、自殺者を責めて、自殺者は聖書を読み間違えたと、
説教のネタにする牧者は最低だと思います。
(私)
私たちが、自殺に接して考えるべきことは、自殺をとどめ得なかった悔いと罪であり、
自殺者を責めることではなく、自殺者のとりなしを、神に祈ることです。
 
他の牧師の記事の引用・転載
 
>ある娘さんはこの『伝道者の書』が気に入って、聖書の中の他の諸書を読まず、
>この書ばかり愛読して最後に自殺した、という。
 
>この本が伝えんとするところは、〈永遠〉を思わぬ人生は空だ、ということ。
>《神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
>神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
>しかし、人は、神が行なわれるみわざを、
>初めから終わりまで見きわめることができない。》
>(伝道の書3章11節)
 
>創造者であり、永遠者である神と無関係に生きようとするところに、
>人生の虚無の深淵が口を開く、と説くところに伝道者の本音が口を開く。
 
自分が一言で済ませたことについて、後出しで言い訳を、
他の人の言葉でそのまま、しているかのようです・・・
2011/10/9(日) 午前 2:39[ st5402jp ]
 
自殺に至る本人の体験も心も人は知り得ないのに、
本文記事を認めて賛同すれば、
その文脈では「伝道の書」の誤読が自殺の原因
ということになってしまうことに気づかないのでしょうか。
 
しかも、あれは記事のように人から聞いた話だから
と転載することで事足りたかのように済ませるつもりなのでしょうか。
 
>薬も飲み方を誤れば毒になる。
 
聖書も読み方を誤れば毒になるという意味でしょうが、
それが当てはまるのは誰でしょう。
自分は聖書を誤読せず正しい理解をしていると言いたいのでしょうか。
 
(私)
シャロームは聖書を全く違う方向に読み違えていると思っています。
今までも書いてきたようにシャローム
悔い改めない自己の正当化のために聖句を悪用します。
聖書は読み方を誤れば毒になると言っていますが、
まさに、シャロームは、聖書の読み方を誤って、
他者を自分の妄想に巻き込みたがる毒そのものになっています。
 
記事を受けて、あなたが
 
>神なき虚無から永遠の命の世界へ導きいれてくださる
>イエスと出会ってほしいですね。
 
と書いてしまえば、自殺者本人に
 
「誤読によって虚無へ呑まれた人」というレッテルを
あなた自身が貼ってしまう文脈になってしまう・・・
あなたの人間性と人間的感情が、聖書を学ぶことに専念してきた
という自負によって、あなただからこそ、いかに偏って
硬直してしまっているか。・・・つまり死者への冒涜、
これは神への冒涜にならないのでしょうか。
これが聖書を学んできた人の正しさでしょうか。
 
2011/10/9(日) 午前 2:41[ st5402jp ]
 
(私)
まさに、シャロームの説教は、聖書を曲解してきた者の妄想なのです。
そうして、自殺者を、死人に口なしと、神の許しもなく冒涜し、
自らの理解や説得力のなさを言い逃れようとする暴挙なのです。
そこには、死という恐怖に対する共感性の欠落があるのです。
自分の信仰の正しさを絶対化し訂正不能にして思い上がった上から目線の、
あれら自殺者は劣っている、という軽蔑がベースにあることを表しています。
 
 
心を元気にするマナ→「自由は制限つき」
 
これも転載記事。
 
>それでは、人は、どんな場に生かされるとき、
>本当の自由を味わうことができるのでしょう。
>聖書はこう教えています。
>「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、
>今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」
>(ペテロの手紙第一 2章25節)。
 
>本来あるべき場所から離れてしまったら、それは不自由なんですね。
>羊が羊飼いから離れたら、自由ではなく、それはただ危険なだけです。
>聖書は、イエス・キリストこそが私たちの羊飼いであり、
>この方の導きの中で歩むことこそ、
>本当に自由の中を歩む生き方が始まると教えているのです。
 
>コメント:
>人は自分に与えられた制限を認め受け容れないと
>自分が自分であることもできない存在なのですね。
>それが人は善悪を知る木の実を食べることによって
>与えられた制限を受け容れないと死ぬという言葉の意味のようです。
>2011/10/8(土) 午前 8:47[ shalom ]
 
2011/10/9(日) 午前 2:44[ st5402jp ]
 
(私)
本来あるべき場所は、一生求めてゆく道であります。
キリストの導きの中で歩んでいるという慢心が、シャロームを、
決して自由ではなく、身勝手な恣意の傲慢へと向かわせています。
 
人が自由であるための「制限」とは、人からではなく、
「神から与えられた制限」であるはずです。
あなたは、人の言論を制限して、というより封殺して、
反対意見を無視したまま、その行いの言い訳と正当化に、
神と、神の与える制限と自由を利用しています。
あなたは神なのでしょうか。
 
そういう行いを平気でやってしまうあなたという牧者は
はたして「神からの制限」を受けようとしているのかという疑問と
人である牧者が、牧者としての自負によって人間性を壊し失いながら、
真の牧者であり飼い主である主イエスの真似をするとどういうことになるか
ということを問題として私はずっと批判してきているということです。
 
あなたが隠す人になったので、
私は暴き曝す人になっています。
 
「本来あるべき場所」即ち
「主イエスの下にある人間の立場」から
離れてきているのはいったい誰なのでしょう。
主イエスは人間の心を捨てて人間離れして超人になれ
とは教えていないはずです。
 
2011/10/9(日) 午前 2:46[ st5402jp ]
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「神の恵みのうちに生きる」
 
>自分の弱さを受け容れ、
>弱さを通して神の恵みのうちに生きるものとされるのです。
 
>弱さを通して神の恵みに生きる人、
>弱さを誇る人と変えられたのです。
 
(私)
気に入らないとコメントを平気で削除することは弱さを通していることとは正反対です。
あなたシャロームは、弱さを誇る人ではなく、気に入らない者は強制的に排除する、
という、暴力の強さを誇っているのです。
 
あなたは自分のことを、
聖人に譬えて「(しなやかな)岩(ペテロ)」と言ったり
今回は「弱い」と言ったり忙しいようですが、
あなたは少なくとも弱いものとして生きてはいません。
 
人を踏みつけて省みず改めない人がどうして
弱さを通して・・・などと白々しいことが言えるのでしょう。
あなたは恐ろしいほど強く、それは神を真似た確信であり、
そのために少なくとも一人の信仰者である私を踏みにじっています。
 
最低限の改められることを頑強に改めないでいて、
それでも「弱さを誇る」などと言う体質が信仰ならば、
それは実際には神を恐れず慢心している姿でしかなく、
確信に満ちた恐怖でしかありません。
 
2011/10/9(日) 午後 3:28[ st5402jp ]
 
あなたの信仰は、聖句を唱えながら、例えば、神への「おそれ」を「畏れ」と、
神の「ゆるし」を「赦し」といったように言葉や信仰の形式を整えて、
また、キリスト信仰は宗教ではないとも言っているようだが、
実質的には、言動において固着した自分の宗教観の伝道者でしかないようです。
2011/10/9(日) 午後 3:30[ st5402jp ]
 
(2011年10月09日、同日追加修正))
 
(私)
シャロームが、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、
誇大的に奔逸する妄想家であることが、
今までの成り行きから明らかになっています。
 
(2019年04月26日、修正加筆)
 
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