ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルトがカルトを語る(2)

 
  カルトがカルトを語る(2)
 
   カルトに騙されやすい人
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013
   楽山のブログ
 
 
ああでもないこうでもないボンヤリ言語で、柔和に見せかけても、そのために、ボンヤリ言語では宗教の真実は語れない、という矛盾をきたしています。
 

特定の宗教や思想に凝り固まって、それによって他をバッサリ裁くというのは、やはり性に合わない。自分の本来の性質としては、細かく見た場合は、あっちにも一理あるし、こっちにも一理あるとしてしまうし、大局的に見た場合でも、自分にはこちらが正しく思われるとか、好ましく思われるというように自分の感覚を語るくらいで、自らを神の位置においてこちらが正義であっちが悪であるとスッパリ決めつけるのは好きではない。

 
自らを神の位置に置かなくても、あることについて、肯定に理があって、同時に、否定に理がある、ということは成り立たないのです。反キリストは、キリスト信仰にはなりません。この楽山の言い分は、詭弁の要素を持っています。
 
また、好きではない、というボンヤリ言語は、趣味以上の主張にはなりません。
 
この辺の、どっちも一理ある、という考え方の詭弁は、楽山においては、ボンヤリ言語になり、また、例えば、シャロームが、信仰は人それぞれ、と言って自身と自身の信仰?を正当化したことに表れています。
 

最近は「義人なし、一人だになし」という言葉の影響もあってか、ますます自分はもちろん他の誰に対しても正義であるとは思わなくなってきている。

 
嘘です。本当なら、なぜ、シャロームの味方をしたのでしょう。シャロームからの過去の侮辱的発言を私が書いたら、楽山は証拠がないという言い方で、証拠がないというのは是でも非でもないということなのに、シャロームの肩を持ったのです。
 
楽山は、シャロームを、熱心な信仰と讃えたのです。
 
この8年間、シャロームは、嘘や詭弁と侮辱と、先日は「狂気の沙汰」とかの罵り言葉も交えるほどに、悪筆で悪質なペテン師です。
 

自分は、元々、人に関しては性善説的な考え方をしていたように思う。人は誰でも良心を持ってて、間違って悪いことをしたときは良心の呵責を感じるものであって、常々、善く生きることを願っているものであると。HSの会員になったころは、人は神の子であって、本来的には善であると信じていたので、この傾向はより一層強まってたと思う。

 
キリスト信仰は、性善説でも、性悪説でもありません。人間は罪の性質を持ちますが、良心という賜物も与えられています。信仰は、神に導かれますが、現象においては聖書を読み取る良心によって、キリストに祈り、罪を赦されて、良心を育ててゆくものです。
 
性善説性悪説も、誤解があると指摘しているサイトもあります。
(引用)
せいぜん-せつ 【性善説】人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、 悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。正統的儒学の人間観。孟子の首唱。
せいあく-せつ 【性悪説】 人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説。孟子性善説に対立して荀子が首唱。
http://park5.wakwak.com/~tanaka02b/zakki/log14.htm
 

でも今はどうかといえば、巷には、サイコパスとか、平気でうそをつく人もいるらしいことは分かってきた。倫理道徳は、誰でも持ってると期待することはできないものらしいと。

 
倫理道徳が期待できない最も悪質な者は、何を言われても、弁明も反論も成り立たないのでせず、人の言うことを軽々と無視したまま、同じような書き方を続けて、羞恥心も罪悪感も感じないのです。
 

ただそうはいっても、根はどこまでもアマちゃんで理想主義者にできているせいか、HSで言うところの「人を信じ、世を信じ、神を信じよ」という言葉は、今でもけっこう好きではある。またネット上における匿名同士の議論等では、人を信じて騙されたとしてもさほどの損害もないので、基本的には人を信じることにしておこうと思ってもいる。

 
恐らく、他者に対する強烈な怨念がある者は、それを隠すために、シャロームは丁寧語の世辞を、楽山は、「感じがする」「・・かも」といった、ボンヤリ言語を使うのでしょう。シャローム、楽山、荒らしの易坊については、同一人物の成りすます疑惑があることは、前にも述べました。
 

ちなみに、もう大分前のことだけど、HSのなかでは変わり者に属し、HSの枠からはみ出しがちの信者が、突然に「退会宣言」をして他を驚かし、その後すぐに「退会は嘘でした」と前言撤回したことがあった。
 自分はさすがにこれは酷いと思ったし、当然ながら信者の中にもそのように考えた人はいたようだった。でも、コウさんという信者は、この嘘を責めないどころか、嘘でよかったとしていたのだった。法友であれば、退会は嘘でよかったとほっと胸をなでおろすのが本当だろうと。
自分はコウさんの考え方はけっこう好みではあるし、一理あるように思うので、実際的な損害が予想されない限りは、なるだけ人を信じたいものだと思っている次第ではある。

 
実際的な損害、と言っていますが、お金と違って、人格破壊は、なかなか目に見えないものです。そして、誰の目にも見えるようになったときには、既に、手遅れの場合があります。楽山は、被害というものを軽く考えているようです。
 
楽山は、人を信じたいどころか、むしろ、全然、信じていないのではないかと思います。憎んでいるか、舐めているか、でもあるでしょう。だから、他者の言うことを無視したまま、答えもせずに、また、応えもせずに、同じペースで、平気で長々と書けるのだろうと思います。
 

*価値基準
倫理観などについては、HSに関わる前から、付き合う相手に影響されることはちょいちょいあったように思う。たとえば、浮気の基準について、彼女と意見の相違があった場合に、彼女に合わせてしまうとか…。あからさまにいえば、相手と別れたくないので、自分を曲げるという情けないパターン。

 
人の良さをアピールしているようです。しかし、彼の無視の信条は徹底していて、それが正しいと思っているから、また記事を書いたりできるわけです。
 

今はどうかといえば、人との付き合いでは妥協することはまだあるけど、それでも前よりかは人に合わせることは少なくなってきているとは思う。こう言ってはなんだけど、相手との付き合いを続けるために、自分の倫理的な基準を大幅に引き下げるとか、そういうのは馬鹿馬鹿しく思える。そこまでしても付き合いを続けたいというなら、それは依存症みたいなものでよくないだろう。

 
ここで、自己中心と、加えて、宗教についての議論を、付き合いとして考えていることが明らかになっています。この辺も、シャロームと同じです。自身に対して苦言を呈する者を、シャロームは、荒らしと、逆に決めつけます。理路を考えるべきところを、付き合わないということで済ませて、そのくせ、宗教について長々と語っているわけです。
 

仏典では、自分と同等か、それ以上の者がいないなら、一人でいる方がいいというようなことを書いてたと思うけど、これは本当にその通りだと思う。

 
これは、そのまま、悟っている人レベルの、尊大を表しています。それゆえ、長々と、宗教について書いているのです。
 

また常識に負けてはいけないという話もある。これは、この世の常識的な倫理、道徳、マナーによって、HSを批判、否定してはいけないというニュアンスである。この点、常識的な倫理、道徳、マナーを大事にしたい人には、HSはあまり向いてないだろうなとは思う。

 
ここでは、カルトの是非を、向き不向きで語る、という、いい加減さです。
 

モラハラの加害者たる自己愛的な変質者というのは、相手から自己承認を得るために最初は不幸な人間として現れるというセオリーに思い至ると、「太陽の法」や「平凡からの出発」にあった赤裸々な描写の意味も納得がいきます。
これらに安易な共感を示して取り込まれてしまったことが、初期の会員の過ちであったと言えます

 
楽山は、シャロームと同様、最初は、優しく穏やかで柔和な人として承認を得ようとします。そのための、シャロームの丁寧語と世辞であり、楽山のあいまいなボンヤリ言語なのです。二人とも、ダメな自分という謙遜芝居を入れてきます。芝居であることは、彼らの不変不応の無視と、根拠を示さない一方的な否定に表れます。
 

今はどうかといえば、たとえ話は、しょせん、たとえにすぎないという感覚は強くなってきてはいる。たとえ話には、すり替え、印象操作、誘導などが入り込みやすいというのも理解できる。文学的な比喩であれば面白いと思うことはあるけれど、宗教的な説教におけるたとえ話には前ほどは感動できなくなってきてはいる。

 
下手な比喩は、読解力を養えば、その安易さを感じて、気持ち悪くなりますが、たとえ話には、真実へのヒントが含まれています。それを、自分がボンヤリ言語ですり込むのと同じように、すり替え、印象操作、誘導などが入り込みやすい、と言うのは、読解力に問題があることを考えず、たとえ話のせいにしていることであり、自己中が表れているのです。

*言霊、光明思想
藤倉さんの記事には、次の指摘もある。
物事を、現実に対応しないたとえ話によって抽象化して、「必ず報われる」という根拠のない話に説得力を与える。これがまさに「マルチ商法」の動機づけや成功哲学と同じなのだ。

 
これが、下手な、たとえ話でしょうか。必ず報われるとかいうのは、むしろ、空約束、安請け合い、と言うべき詐欺行為のように思えます。
 

こういうことは、HSでもあったように思う。「言葉は現実となる!」「思いは実現する!」というような考え方があり、マイナスのことを思ったり、言葉に出すのはよくないとされていたのだった。というか、そういうことを言ったりすれば、マイナス発想だとして批判対象になっていたかと。

 
楽山は、いかなる発想かも分からないような、根拠のない自己中によって、ああでもない、こうでもない、という書き方だから、議論も、批判も、できないところが好きなのでしょう。しかし、そこでは、真実は何も語れないのです。
 

相手を勇気づけるためであっても、必ずよくなると断言するのは自分は気がすすまないが、いろいろな局面もあり得るだろうし、そういう判断を他人にまで押し付けようとは思わない。でもカルトなどが、それによって相手に暗示をかけ、思考力を奪う方向で使うのであれば反対はする。

 
楽山のボンヤリ言語が、相手を疲労させ、思考力を奪う方向であることには、完全無頓着のようです。
 

自分は、宗教については無知、無関心だった。ただそれでも伝統宗教にはさほど抵抗はなくとも、新興宗教に対しては気味が悪い、ヤバいという拒否感は強くあったように思う。

 
その怖いことを、やっている楽山なのです。だから、嘘吐きということになります。
 

ただそういう自分が、後年、HSにすっかりハマり込み、HS教義で考え、行動するロボット人間みたいになるのだからおかしなものである。でもその理由を考えると、宗教ではないという宣伝文句を真に受けたというのがあったろうなとは思う。「HSは宗教ではない。神理の学習団体である」という文句を本気にしていて、これはまぎれもない宗教だと気付いたときには、既に団体の雰囲気には慣れてしまい、抜けられなくなっていたという流れ。

 
アドラー心理学という学問の名を騙って、実際は、自己中心の人格破壊に通じると判断したので、私は、楽山の主張をアドラー教と呼んでいます。
 

現在はどうかといえば、近頃はまた無宗教に戻ったようである。どうも自分は、特定の教義に基づいて考え、行動し、生きることはできない性質らしい。三つ子の魂百までというけれど、これは宗教に対する感覚についても言えることなんだろうなと思う。他の人の場合は違うかもしれないけれども、とりあえず自分の場合はそうなってるようではある。

 
上に、また、過去にも述べたように、楽山は無宗教ではありません。軟派カルトの、おもに刷り込みによる宣伝者です。
 
神がいるのが宗教というわけではありません。何らかの主張があり、それの主張が強ければ、宗教と言えるでしょう。その主張が、神相当、となっているということです。その主張が、人によって規定されて訂正不能で不変であればあるほど、カルトらしくなるということです。
 

思い出せるのはこれくらいかな。時間をかければ、もっと思い出して、いろいろ書けそうだけども、とりあえず今はこれだけ。
長々と駄文を書き連ねてしまったけど、カルトで困っている人にとって何らかの参考になれば幸いである。

 
いろいろ書けそうだけども、とりあえず今はこれだけ、とは、よく言う。そのくせ、長々と駄文、と言って、中和した気分のようです。
 
カルトで困っている人のみならず、誰も、アドラー教の宣伝者である楽山の文章を、間違っても、真に受けたり肯定的に参考にしてはいけません。
 
 
(2019年05月12日、同日一部修正)
 
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