ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルトがカルトを語る

 
  カルトがカルトを語る
 
   カルトに騙されやすい人
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013
   楽山のブログ
 
 
気に入らないことは無視する、という、修正拒否、学習拒否の信条を持つ、独自の軟派カルトのアドラー教を広めようとしている楽山が、上のタイトルで書いています。けっして信用しないでください。
 

現在の自分はどうかと言えば、霊的なことに対する興味は薄れていて、心霊番組があっても見ることはなくなった。仮に見ても十分も見続けていられない。自分で言うのもなんだけど、この点については大分、改善できたとは思う。でもそれでも普通の人と比較した場合は、まだまだ霊好きの方なんだろうけど。

 
霊的なことへの興味というのは、超常現象へ惹かれる傾向のことでしょう。
 
「霊的なことに対する興味は薄れて」と言いながら、「まだまだ霊好き」と言っています。
つまり、楽山は、HSを脱会したから大丈夫、ではなく、まだ要注意、ということです。
 

HSの会員時代は、霊的真相にはすごく関心を持っていたのだった。この世において何らかの出来事があった場合、その背景にはどのような霊的な問題が隠されているのか
・・・
前だったら内容を確認して、ツッコミどころを見つけて批判しとこうと思ったりもしたけど、最近はそういう意欲も減退気味ではある。

 
減退気味ということですが、カルトで酷い目に遭った人は、もっときっぱりと縁を切る気持ちがあるはずでしょう。楽山は、本当にカルトを奪回した人なのでしょうか。嘘を吐いていないでしょうか。
霊的な問題、霊的真相に、ツッコミを入れ、批判しとこうと思ったと書いていますが、超常を決めつけるカルトに、決めつけだ、妄想だ、無根拠だ、という以外に、どういうツッコミと批判が可能なのでしょう。批判や、ツッコミが可能だということは、カルトに理路があり、その理路の欠点を暴くことが出来ると思っているようです。
カルトに対して言えることは、カルトが無視している良識と共感性の観点から、カルトの非人間性と非共感性を指摘してカルトを否定することであり、理路のない妄想信条に突っ込んだり批判したりができるわけではありません。また、言葉にこだわって理屈をこねる教条主義カルトに対する場合も含めて、カルトに対しては、良識による道理と人間に可能な共感がないことを指摘して、広く警戒を訴えることです。
 

自分は、霊に限らず、ムー的なことは大体、信じていたのだった。もう少し具体的に書くと、心霊現象、霊能力、超能力、奇跡、謎の生物、世界の七不思議超古代文明、UFO、宇宙人、生まれ変わり、霊界…こういうことは大方信じていた。

 
ムー的というのは、オカルト的、ということでしょう。
オカルトというのは、神秘や、超自然的なもの、つまり超常現象のことでしょう。
聖書にしても、そういう興味だけで読んでいる人はいるでしょうし、シャロームのように、奇跡で守られる、という超常の、どんでん返しとシャロームが呼ぶような、何でもかんでも、一気に神が片付ける、という信条の者もいます。もちろん、これは、キリスト教ではありません。
 

現在は こういった類のことはスピリチュアルエンターテイメントであり、トンデモであるのだから、娯楽として楽しむのはいいとしても、真面目に受け取ったり、真剣に議論する対象にはならないと思うようになってる。

 
酷い目に遭ったはず?の楽山が、今も、娯楽で楽しむのはいい、と言っています。
 

空中浮揚をする外国人マジシャンがゲストのときに、黒柳徹子は、「日本の有名なマジシャンのマリックさんに、あなたの空中浮揚はどんな仕掛けなんだろうと聞いたら、マリックさんは『彼のことだから本当に浮いているかもしれません』と言ってました」といい、それを聞いた外国人マジシャンは、「マリックさんという方は素晴らしい方だ」とニッコリしてたのだった。(注 かぎかっこ内の言葉は、自分の記憶で書いてるので本人の言葉通りではありません)
 自分はこの会話を聞いて、これがマジシャンのマナーというやつかな、この人もマリックさんもマジシャンのマナーを守ってるんだなと思いつつ、マリックさんを追い詰めた手品師は嫌な奴だと思ったのだった。マリックさんの成功を妬んでチャチャ入れてきたんだろうなと。

 
ここでは、マジシャンの商売とマジシャン同士の付き合いの話をして、追い詰めた手品師は嫌な奴、と書いています。カルトに騙されやすい人というタイトルで、書く必要があったでしょうか。
 
相変わらずの、はっきり否定せず、どっちつかずで、話を世間話ふうに逸らしてゆく筆致と言葉面から、何を読者に与えようとしているのでしょう。
 

HSにハマる前は、何かの意味とか、目的とか、そんなことは考えたことも無かったように思う。仮に考えたとしても、「彼女とは赤い糸で結ばれているにちがいない。彼女と出会うのは運命だった」と妄想するくらいだったと思う。

 
赤い糸を信じていたとは。そして、まるで、カルトに嵌ってから、意味と目的を考えるようになったような書き方です。
 
生きる意味と目的は、人間なら、誰でも考えて不思議はないのです。勝手な意味付けを捏造して、刷り込むのがカルトであります。超常を知らない人間が、超常の意味を決めつけてはいけないのです。
 

物事に意味や目的を見出すということは、それ自体は妄想にすぎないのだろうけれども、その内容を検討すれば自分が何に価値をおき、執着しているかを知ることができるし、この点においては結構、役に立つことかもしれない。

 
楽山の狡いすり込みが始まったようです。
 
意味や目的を考えても、決めつけてはいけません。時空の限られた人間に、そんな能力はありません。
楽山は、さりげなく、意味や目的を〔見出す〕と書いています。妄想として検討することを、見出す、という書き方をしています。こういうところからも、カルトの楽山のボンヤリ言語による、ほのめかしと、刷り込みは始まってくる可能性があります。
 

宗教全般に言えることかどうかは分からないけれども、とりあえず自分にとってのHSは、関係妄想みたいな癖をつけさせるものであって、この点はすごく害があったように思う。

 
楽山が、害があった「ように思う」という書き方をするのは何故でしょう。楽山は、本当にカルトを脱しているのでしょうか。違うという印象です。
楽山は、都合の良いところだけを拾って、シャロームを弁護したことがあります。恣意を働かせる人です。柔らかそうに見えるボンヤリ言語に、心を許してはいけません。
 

本人にとってはまったく関係のない,周囲の人々の動作や見聞きした出来事を,自分に対してある意味や関係があると強く思い込む妄想。最も多くみられる妄想の一つ。統合失調症にみられる。
・関係妄想

 
ここで、統合失調症を取り上げていますが、関係妄想は、中毒性や、認知症や、様々な心の病で見られます。関係妄想というと、統合失調症をあげて、自分は重症ではないと言いたいのでしょうか。意図的な妄想捏造、訂正不能、嘘吐き、悪意、などがもっと悪質で重症だとも言えるでしょう。
 

人生の目的と使命とか、物事の意味とか、さほど考えなかった自分が、会員になってからそういうことをよく考えるようになった背景には、こういう物語の中にどっぷり浸っていたということが影響していたようである。

 
「物事の意味とか、さほど考えなかった」楽山が、ではなぜ、会員になったのでしょう。会員になってから、というのは、変です。どっぷり浸かりやすい体質か、今も、嘘を吐いているか・・でしょう。
 
>自分は、自分の存在価値を見出すために、こういう物語を必要としていないからだろうと思う
 
しかし、楽山には、気に入らないことは無視する、というカルト信条は必要なのでしょうか。
 

林道義の子育て論では、乳幼児期に親から十分な愛情を受けることによって、自分は愛される価値があるという自己肯定感が得られ、長じてからも適切な自尊心を保ち、心は安定し、自分に自信を持てるようになるとしていたかと思うけど、多分、自分が上のような物語を必要としないのも、親の愛情のおかげなのかなという感じはする。

 
ここは、疑ってかかるべきところです。愛される価値がある、自己肯定感、自尊心、などは、ナルシシズムで見られることです。また、普通に愛された人は、愛される価値がある、などと、ことさら言葉にすることもなく、意識せずに育つものです。親の愛情も、普通、言うまでもないことです。ここでは、楽山は、言わないでいいことまで言い、わざとらしく、まともな自分を主張しています。
 

信者から退転者と蔑まれても、議論の際に酷い人格攻撃を受けても、人前で恥ずかしい失敗をしても、さほど堪えないのはこれがためなのだろうとは思う。

 
答えないのは、不感不応の、楽山自らの、気に入らないことは無視する、というカルト信条があるからでしょう。それを、親の愛情・・で正当化してきました。そうですねと、気安く受け入れられるだろうという狙いを感じます。
 

ただし近年は、ネットが行き渡ったことで、どんな権威も批判はのがれられないし、こういう状況ではいかな自分のように崇拝癖のある人間であっても、誰かを理想化して崇拝するのは無理というものである。

 
その無理を、信じてのめり込んでいたし、自らのアドラー教を広めようとしている楽山です。
 

ロックと宗教というのは、パッと見た感じでは正反対のようでありながらも、実際には結構近いものがあるように思う。
たとえば、ロックは生き様であり、美意識でもあるので、人はいかに生きるべきかを教える宗教と通ずるところはある。
ロックファンが宗教に凝ることがあるけど、この見方からすると、それはそれほど奇異なことでもないように思う。

 
音楽は、気分改善や、ストレス解消に役に立つでしょう。しかし、それを目的とした宗教以外では、宗教に通ずるとまでは言えません。
 
讃美歌が、キリスト信仰に至るきっかけとなることはあっても、信仰には、最低限の弁えのために、静かな思慮と感性が必要です。
 

会員だった頃は、「どんな質問にも答えることができるのはスゴイ。普通は答えられないような問いにも答えるのはスゴイ。誰にも分からないことでも、分かっているのはスゴイ」という考え方をしていた。そしてこの後は、こういうことができるORは並の人ではない、人を超えた存在ではないかという発想に行きついたわけである。
でも現在はどうかといえば、こんな考え方をしている。「巷には答えを出せない問題がある、答えを出せない問題に、無理に答えを出す必要はない。分からないことは分からないとするのがよい。分からないことは分からないということを受け入れられないと、何でも分かってるふりをする嘘つきに騙されるよ」

 
カルトに嵌りやすい体質を書いていますが、どうして、アドラー心理学を悪用して、アドラー教の宣伝をするのでしょう。また、分からないことは分からないとするのがよい、というのは嘘だと思います。受け入れたくないこと、嫌いなこと、気に入らないことは、事実であろうとなかろうと、無視してきたのでしょう。
 

会員だった頃は、人間の可能性を信じていた。人は神の子であって、心の内奥には神性が秘められていて、これを顕在化させることで、神と一体となり、不可能なことは無くなるという考え方である。
また心が純化され、神性がどれだけ顕在化されているかによって、霊的な認識力に高低差が生じるとも考えていた。

 
これは、全くの、理屈倒れというものです。人間性を考えないから、こういうことが、まかり通ってしまうのです。
 

今は、神の子だとか、霊的な認識力だとかは、さほどリアルに感じなくなっている。一つの思想としては理解できるが、それが現実かといえばちょっと微妙だと。

 
「さほど」「微妙」という言い方が特徴の楽山です。この曖昧表現、ボンヤリ言語は、そのうち、何かを決めつけて、命令したくなるときのためでしょうか。
 
 
(2019年05月11日)
 
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