ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰について?

 
  信仰について?
 
   信仰について思うこと (過去の短文記事から)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41299998.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の狡い詭弁に引っかからないようにしてください。そのための記事です。
 

*信仰について
信仰についての短文記事を、加筆修正のうえで以下にまとめてみた。
*神のイメージ
神のイメージは人によって様々であり、恐ろしく厳しい存在だという人もいれば、限りなく優しい存在だという人もいる。
自分の場合は、後者であり、もし神が存在するならば、優しく、穏やかな存在にちがいないと思える。というか、そういうイメージしか持てない。

 
このように、こういうのもあり、そういうのもある、と言って、柔和を装い、宣伝したいのは、やさしく穏やかな存在だと言っています。これは、神についての空想であり、自分に都合の良い人格をモデルにしているだけなのです。
 

*神を忘れる信仰
痛いところはどこもなく、健康なときは、体のことは忘れているという。たしかにその通りである。
そうであれば信仰についても、健全な状態のときは、神のことは忘れているものかもしない。
*信仰について (無宗教という信仰)
自分には、無宗教が性に合っているようだ。
特定の宗教を信じているわけではないが、かといって神様を信じていないわけではなく、いろいろな神様に対して素直に手を合わせるという感じである。
神社、寺、教会、墓、仏壇…どこでも手を合わせるというのは、節操がなさすぎる気もするが、自分にはこういうのが落ち着くようだ。

 
無宗教が似合っているなら、なぜ、理想の神を、どうあってほしいという語り口で、空想して、語るのでしょう。なぜ、いろいろな神に手を合わせると書くのでしょう。
 
楽山は、いかなる神も特定せず、一般的な先入観的な空想で、どこかにいそうな立派な人についてのように、あるいは、精神安定剤か修養かリラックス体操のように、お気楽な神を考えているだけです。これで、神を語ったつもりでいるのです。戒めの神も、懲らしめの神も、真剣な愛の神も、そこには、いないのです。
 

*信仰について (ことばの限界)
宗教体験は、言葉では表現できないといわれる。
けれでも、これは言葉の限界を示しているというよりも、その人の認識力や表現力の限界を示しているだけではないだろうか。
自分の体験を的確に言葉に置き換える能力があるなら、宗教体験を言葉で表現することも可能となるのではないか。
ことばが神であるとするならば、ことば(神)に不可能はなさそうである。

 
宗教体験は、体験として言葉で語れる部分もあります。楽山は認識力や表現力のことを言っていますが、今までの楽山の文章を読む限り、それがあるとは到底思えません。あるのは、ひどく気安い楽山の宗教についての書き方だけです。
 
個人の認識力や表現力の限界と言い、そのあと最後には、言葉に不可能はなさそう、と言っています。ボンヤリ言語による擦りこみです。どうか、今後、楽山が語るであろう神聖についての話を真に受けないでください。
 
正常なら、言論だなんて大袈裟だから、感慨か意見を書く、というスタンスが人間には許されているのですが、人間としての分別において、楽山には、言論者として、節操のない垂れ流しの分、認識力と表現力が欠如しています。
 

*信仰について (合理性)
信仰は、論理を超えることはあっても、論理に反することはないのではないだろうか。
三次元の論理で結論が出せなくとも、異次元の論理で結論が出せる場合はあるかもしれない。
けれども、三次元の論理ではっきりバツと結論が出たのに、異次元の論理では、それとは反対にマルになることなんてあるのだろうか。
三次元と異次元の世界が、まったく別個の独立した世界なら、そんなこともあるかもしれない。
でも三次元を異次元の世界が包み込んでいるとするならば、三次元の論理ではっきり出せた答えが、異次元の論理でひっくり返るというのは考え難いように思う。

 
楽山は、わけのわからない話を始めました。異次元の論理を知っているのでしょうか。ボンヤリ言語が笑いながら、空想と妄想話をしています。
 

*信仰について (議論の困難さ)
信仰についての議論が難しいのは、信仰は理性を超えたものであり、議論には適しないからなのだろうか。
それとも、信仰は論理ではなく、情緒であるからだろうか。
どちらが本当だろう? どちらも本当かな。

 
理性にいろいろあり、情緒にいろいろあり、それを具体的に述べないで、浅い言葉の意味だけで、どちらが本当だろう、などと書いてくることが、既に、本当などどうでもよい、という、楽山の思考のいい加減さを表しています。
 
楽山の宗教と信仰の話は、人間離れの空想遊びのたぐいであり、そもそも、焦点がありません。
 
普通は、そういう書き方はしないで、現実の具体的な話から、どうしても必要なこととして、信仰の考え方の話に「なる」のであり、初めから興味本位でしかない作り話で、信仰についての合理性?の話に「する」ことなど出来ません。
 

*信仰と妄想
信仰とは、素朴に、善なる存在を信じること。または論理的、宗教的に考えたあとで、それでも信じることを止めないこと。
妄想とは、馬鹿げたことを、考えなしに事実と思い込むこと。または屁理屈を重ねて、馬鹿げたことを事実だと言い張ること。

 
論理的宗教的に突き詰めて、という言葉だけでは何も表していないことに気づかないのでしょうか。そして、信じる、という言葉も安易に使っています。信仰においては、何かを受け取らないで信じることはないのです。ここにおいて、楽山の思考は空想に過ぎないと分かるでしょう。掘り下げる気のない人の言説です。
 
どんな人にとっても、生きて経験しておれば、即ち誰でも、そこから深い想いに至ることは可能です。ここで言う深い想いとは、人生を左右するような心の活動です。
 
一方、楽山は、まさに、浅い思考で、先入観を材料に、参考にもならない屁理屈遊びを重ねています。シャロームと同じ思想家気取りに過ぎないのです。
 

*信仰とトンデモ
信仰は、真摯で、切実で、涙に通じる。
トンデモは、興味本位で、軽薄で、笑いに通じる。

 
楽山は、真摯に思考したことがなく、真摯に反省したことがなく、真摯に悲しんだこともないのではないかと思います。真摯という跡が、いかなる記事にも表れていません。だから、ボンヤリ言語しか使えないのでしょう。
 

*信仰の共有は可能なのか?
同じ宗教を信じている者同士でも、信仰について話をしてみると、なかなか意見が合わなかったりする。浅い話であれば合わないこともないが、深く掘り下げていくと段々に合わなくなってくる。
こういうことが何度もあると、どうも信仰とは個人的なものであって、他人と共有することはできないのではないかと思わないではいられない。
「これからの宗教は、組織的なものではなく、個人的なものとなっていくだろう」という意見があるけれども、これは自分に関しては当たっているようだ。

 
浅い話で合い、深い話で合わないのは、違う信仰です。それよりも、深い話が出来ることが、極めて稀です。楽山の「深い」が、まず気安くて、浅いと思います。
 
楽山に関して、宗教は個人的なものだというほうに当たっていると言って、今も宗教?を信じていることを明かしています。
 
信仰は個人的なものです。しかし、個人が勝手に信じることではありません。この辺の言葉の曖昧さを、楽山は利用して、殆ど、もてあそんでいるだけです。
 
宗教は信仰の台座のようなものです。宗教的な人は、他者を無視しません。広い台座を持とうと努めるからです。台座のない者が、ひそひそと、浅はかな結論しかない宣伝を続けているのです。
 

*信仰について (個人的な問題?)
神は、個々人が心に描いた妄想にすぎないなら、信仰は、個人的な問題にすぎないのかもしれない。
けれども、神は個人の妄想でなく、客観的に存在するなら、信仰は、個人的な問題ではすまず、もっと大きな問題となりそうだ。

 
ここで、信仰は、個人的な妄想だと言っています。客観的なら、大きな問題と言っていますが、宗教は信仰のためにあり、信仰は個人的な問題になりますから、信仰は、つまるところ、客観的にはなりません。それは、言葉で表すことも出来ません。
 
シャロームは、そこを悪用して、人それぞれ、どう信じてもいいという言い方をしています。しかし、台座としての宗教が違うから、シャロームは、キリスト教徒ではなく、ゆえに、キリスト信仰者でもないのです。そして自己中心で訂正不能だから、有害でしかない宗教?と信仰?を宣伝している反キリスト者なのです。
 

*信仰と自己責任 1
信仰は、自分の意思だけでは、どうにもならないものらしい。
たとえば、〝神を信じなければならない〟と思うのに信じられなかったり、
〝この宗教はおかしい。信じるべきでない〟と思うのに棄教できなかったりするのは珍しいことではない。
もし信仰は意思の外にあるならば、信仰を持っているか、持っていないかについて責任を問うのはおかしなことではある。

 
楽山は、信仰が、意思の外という話で、神が与えて、人を人形のように操る全能で動かすかのような考え方をしています。聖書の中の、救われた人々の、感情の豊かさを、全く読み取っていないことが分かります。
 
前に何度も書いてきましたが、信仰は、神と人との双方向です。神の運びとキリストの自愛に、人は反応して何かを行ない、祈るという関係です。
 
シャロームと楽山は神からの単方向しか考えないから人間離れするのです。
 
楽山は、思い付きの詭弁をすり込もうとしています。本気で、おかしいと思えば棄教できるはずです。そこまで思っていないから、楽山のように、身勝手な宗教?に変わってゆくか、人を陥れようとするのでしょう。
 
信仰は、人間の意志で告白されなければなりません。シャロームは、神が悔い改めを与えると言っていましたが、それは、悔い改めないことを正当化するための、とても醜い詭弁なのです。
 
そのように執拗さと理路のなさで、シャロームも楽山も醜さだけを晒しているのに、なおも、思い付きだけで、難癖を書き続けるところが、既に、人間性を失った人間離れなのです。
 

*信仰と自己責任 2
もしも、神様が地上に降りて、救世主として清らかに生きたとき、それを信じなかった者が責任を問われて、地獄に堕とされたとしても自業自得であり、仕方のない話ではある。
けれども、神様が地上に降りて、救世主として清らかとはいえない生き方をしたとき、これを信じなかった者が責任を問われて地獄に堕とされるとしたら、なんだか、やりきれない心持ちがする。

 
何を言っているのでしょう。宗教、特にキリスト教を目の仇にしたような悪口を言っています。根拠のない仮定の上で、神を冒涜して、自己の責任を逃れようとしているのでしょうか。
 
楽山が、仮定の幼稚な言葉遊びで、神をいじくっているのは、それが出来る存在だと思っていて、ベースに神への怨念と侮蔑があり、自身の尊大さが勝っている自覚がある、という証拠なのです。
 
楽山が、神性について聖書に書いてあることを何も弁えないで、幼稚で乱暴な思考実験で、地獄に落とされるなどと言って、それを真に受けているかのように、やりきれない、と言うのなら、楽山は、何も、やりきれないのだから、言論を止めるべきです。悪質な独り芝居です。
 
シャロームの言う聖霊や啓示は、全部、偽者が言う偽物であり、自らを飾る嘘っぱちです。罪悪感を持たないで信仰や宗教を云々する偽者は、神の与える恩恵も導きも拒否しているのだから、その言論の場から消えてください。
 
告白の正直さは人の意志です。しかし、人間の心に響く何らかの恩恵を受けることなく、信仰に至る人はいません。信仰は、地上において、始めから終わりまで、人間の人間たる性質、罪の自覚と、慈愛に答え得る良心に、温もりと潤いを与えるものとして、感受されます。
 
神が信仰者を救うということは、目に見える世界に保証はありません。キリストの慈愛の恩恵を経験している者は、他に寄る辺がないという自覚をもって、信仰の道を信じることになるのです。
 

*信仰と知識
世の人々を見ると、知識が豊富な人よりも、あまり教養があるとは言えないような人の方が神とつながっていると感じることは少なくない。
神とつながるためには、知識は必ずしも必要ではないらしい。

 
知識や教養に信仰は関係しません。それは、聖書に表されています。キリストに救われた人々は、教養人ではない人が多いです。
 
しかし、申し上げておきたいのは、カルトに嵌ってしまう人々も、あまり教養のない人がいっぱいいるということです。言われたとおりに信じ込むとか、言われたとおりに行うとか、信じ方が簡単だからでしょうか。
 
今、重要だと考えていることは、超常の話を好む人、超常になりたいという夢想をいだいている人は、カルトにつかまりやすいと思います。さらに、深い悲しみや、しんみりした悲しみの体験を持たない人がいて、そういう人は、カルトの言葉信仰?の単純さに惹かれやすいということも言えるでしょう。
 
言い換えると、自分に不都合なことが起こったとき、反省に向かうのではなく、何かの呪いとか、誰かのせいとか、他罰的であるとか、復讐したいとか、自己正当化に走りやすい人ほど、カルトにつかまりやすいと思いますし、そういう人が、カルトの宣伝を担っているような気さえします。
 
人間は、不都合な出来事に出くわしたとき、誰かのせいにする前に、自分のほうに悪いところがなかったかと考えることが大切です。全部自分のせいにするのも間違っていますし、全部他者のせいにするのも間違っていると考えるべきでしょう。
 
人間は、何かの避けがたい災いに遭ったとき、人知を超えたものに縋りたいという気持ちを持ちます。実際、祈ることもあるでしょう。しかし、それは自分が立ち直るためであって、災いが一生なくなるためではなく、なにか自分だけによいことが起こるようにとかではなく、復讐のためでもないのです。
 
考えることや、感じとることが面倒臭い人々は、何やら、超常のパワーによって、一挙にすべてを解決することを望むことがあり、ここにカルトはつけ込むのです。
 
カルトに嵌ると、いっときは、楽になったような気がするでしょう。心配事の裏返しで、多くの安心事?を聞かされるからです。しかしながら、生きてゆく人間として、受け止めることなしに安心することは、受け止めるための知性の分別と感性の忍耐とするための心の働きを壊してゆきます。このことこそが、自他に対するカルトの最も破壊的な、さらなる災いとなるのです。
 
カルトは、正義や共感の心からは生まれません。考えることや感じとることが嫌になった心から生まれてきます。一足飛びに、自分を超常の高みに置くことで、解決しようとする欲望が原動力なのです。
 
ですから、カルトは、生きるための何の助けにもなりません。人間としての弱さにつけ込み、それを、有りもしない偽りの強さの幻想に誘うだけです。不感不応の境地や、一生保証される安穏のような恩恵を語り聞かせられますが、それらは、皆、偽りです。
 
起こったことを考えるのに、また、感じ取って、耐え忍び、克服するのに相応しい人間関係が必要です。カルトは、それを否定して、恵みだけを説いたり、脅したり、根拠のない因縁付けをしてきます。それが、カルトの生業だからです。
 
 
ここに述べたようなことを、注意するべきことを一言も書かずに、安易に「神とつながるためには、知識は必ずしも必要ではないらしい」というだけで済ませている楽山は、気に入らないことは無視しましょう、という、自己中心の固定を勧めるアドラー教と、私が呼んでいるカルトを勧めています。
 
楽山のやり方を推測してみるに、最初は、ボンヤリ言語で、どっちつかずのことを言うでしょう。泣き言も言うかもしれません。ある程度信頼されたと判断したら、次には、ボンヤリ言語の延長として、こう思わないでもない、こうではないのかな、というような言い方ですり込んでくるでしょう。
 
結局、カルトの言うことは、よく考えてみると偏っており、訂正不能であり、同じことの反復があり、目先が楽に見えるが、人生という長さでは、偏りが明らかになるということを知るべきです。例えば、カルトの言うことを、総ての人が信じたらどうなるかと考えてみます。カルトで心身の益を得るのは、傍らで笑っている限られた人ですから、多くの人は、訂正不能と自己中心によって、互いに苦しめ合うしかなくなるのです。
 
かつ、カルトを積極的に信じる人とか、さらに特に、カルトを宣伝している人というのは、うわべが理知的に見えることはあっても、深みがなく、抑制されていますが笑いと怒りの感情があり、それ以外の、悲しみの体験を持たないのではないかと思います。
 
悲しみこそは、人間の深い情緒の源となり、成長のきっかけとなりうるところの、大切な感情です。
 
それが見られないのが、サイコパスナルシシストなどの人格障害であり、数字や理屈だけで判断するような理屈倒れや、利益でしか考えないとか、言葉だけに執着する、といった欠陥によって、能力によって出世することもありますが、重大事が起こったときや、困ったときには、共感や共有が出来ず、最も冷酷になる人格なのです。
 
さて、刷り込みですから、そのまま聞いていると、否定しにくくなってきます。すでに心に刷り込まれているからです。聞くことが、受け入れることにつながってしまうのが、刷り込みと印象操作です。だから、批判目的以外で近づいてはいけないのです。
 
自分は大丈夫などと思わないことがカルトに対しては必要です。そして、やがて煽られ、煽られてゆく先に、カルトの本当の目的があり、そのときには、逆らえなくなっている、という仕組みだと思います。近づかないこと、聞かないことが、カルトからの唯一の予防策だと思います。
 

*神を信じることは出来るのか
以前の自分は、本気で神を信じているつもりだった。
でも実際には、自分は神を信じていたのではなくて、〝これこそ本物の神だ!〟という自分の判断を信じていただけだったらしい。
神を信じるのは難しい。

 
神を信じることが出来なかったのは楽山の場合です。それをもって、「神を信じるのは難しい」などと一般的なことのように書くのは、汚らしい詭弁です。これが、楽山の持っていき方なのでしょう。
 
神を信じるということは、つまり信仰は、信じている自分は正しい!と信じることではありません。それは、シャロームの偽信仰のことです。楽山は、何も分かっていません。
 
キリスト信仰は、本物の神ゆえに、人が考えることを決めつけず、思い込みや信じ込みを戒め、自らの足らざることも罪も、神の前に祈りによって捧げることを旨(むね)としているのです。
 

*神と向き合う信仰
信仰についての意見を聞いていると、神の前に頭を垂れる信仰が多いようだ。
でも自分は我が強いせいか、神の前であっても、きちんと顔を上げて、自分の意見を言いたくもある。神の前で、「自分は自分の為しうる限りのことをしました。何ら恥じるところはありません」と胸を張ることができる人生を送れたら、どんなに幸福だろうと思う。
でもこれは絶対無理だろうなあ。とほほ。
〈了〉

 
楽山はナルシシストだと思っています。《神の前で、「自分は自分の為しうる限りのことをしました。何ら恥じるところはありません」と胸を張ることができる人生を送れたら、どんなに幸福だろうと思う。》と願望の仮定法で書いていますが、楽山は、自分の出来ることをせず、偏ってカルトの味方をし、神に対して、恥も罪も、感じない人格だと思います。騙されないでください。楽山の文章の執拗さと無遠慮と無頓着さに表れているのです。
 
楽山は、ここまで書いてきて、とほほ、と言っています。見せかけです。楽山の、自分もみんなといっしょですアピールなのです。本当にみんなといっしょなら、よきにつけ悪しきにつけ共感できるなら、反省できるなら、アドラー教の自己中心を勧めたりはしないのです。他者の意見を無視したりもしないのです。
 
言葉で、どんなに調子のよいことを書いても、言動の中身と方向が、嘘だと知らせている楽山です。
 
 
(2019年06月18日、同日一部修正)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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