ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰は母性?

 
  信仰は母性?
 
   「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
    2019-10-14NEW
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12535768814.html
   楽山日記(a)
 
 
あたかも信じているかのようにクリスチャン芝居をしてみたり、一方では、幼稚な見方で、子供が駄々を捏ねるような、いちゃもんを付けて、キリスト信仰をおとしめたりの、ふざけた楽山は、どうしても、インテリの仲間であることをひけらかしたいようです。
 
相変わらず、何もキリスト信仰について分かっていないことを指摘されたにもかかわらず、キリスト者の小説家と同じ立場で、インテリを評価するインテリ気取りの文章を書いています。
 

『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。

 
神を、父性と母性に分けて、楽山は、何が言いたいのでしょう。神は、御一方しかいないのです。また、神は、人に規定されるような御方ではないことを、人は弁えなくてはいけません。父性か母性かは、それぞれの信仰者が、よく言えば自由に、悪く言えば勝手に、イメージとして、いだいているだけなのです。
 
楽山は、神が父性と母性のどちらかなどということが考えて深められると思うらしく、荒いタオルで神の御坐を拭くように、神を、自らの手で扱う対象にしたいようですが、神への信仰など持っていないことを弁えもせずに、今回も、何も信じてなどいない立場から、何でも知っているかのような評論家気取りだけが目立つことになっています。
 
そういうことだから、楽山の立場は、キリスト信仰について何かを学ぼうとする姿勢ではなく、結局、キリスト信仰をけがし、どうにかして、おとしめようとしている生業にしかならないのです。
 
神については、決して、神は云々、などと、一般論では語れないことを、全く受け取らず、認めないまま、楽山は、自己顕示欲が好き放題に暴走しているだけの厚顔無恥です。
 

でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。

 
どういう根拠で、両面があるなどと言えるのでしょう。歴史上の人物評でもやっているつもりならば、宗教と信仰について、何も言うべきではないです。シャロームと同じように、有名人の小説をネタにして、そこから、自分が何かもっともらしいことを言えそうなところだけ取り出して、思いつきと自己満足で語るのは、身の程知らずであり、とても醜いことです。
 
楽山は、神が父性だけではない根拠に、マリア観音を持ち出す幼稚さであります。先ず、マリアを聖母として敬うにとどまらないようだが、マリア観音は、キリスト信仰の対象なのでしょうか。
 
楽山は、いったい、キリスト信仰を、どう考えているのでしょう。そこが、ずっと、何も明らかにされていません。今まで、楽山の文章に表れてきたことから言えば、楽山は、決してキリスト信仰者ではない、むしろ、あらゆる宗教と信仰を、蔑視している偽善者だと思います。
 

それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、

 
気軽に、さておかれても困るのだが、遠藤周作の語るキリストは否定されない、などと言っています。誰が、その判断の資格を、キリスト者でもない偽善者の楽山に与えたのでしょう。誰も与えていないのだから、楽山は、勝手に書いているだけです。これは、ちょうど、十字架のまわりで、自分が何をしているか分からない人の有り様です。
 
キリスト者でもない者が、反信仰を批判されたにもかかわらず、何も答えることなく、性懲りもなく、キリスト教を語り続けるのは、この楽山という男が、アドラー教の、気に入らないことは無視して、無かったことにしてきたというカルト性の表れでしかないのです。
 

それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作キリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。

 
上から目線で、遠藤周作キリスト教を日本人に合うように仕立て直した、と言っています。汚い言い方です。そして、それゆえ、共感しても、キリスト教を知ったことにはならない、と言っています。では、楽山は、どうかと言うと、楽山の手のひらに乗りやすいような偽キリスト教?に仕立て直し、そこからしか語っては来なかったのです。
 
しかも、楽山は、母性もあるという例にマリア観音を、なんの資格か、取り上げて、正当だと見なし、遠藤周作に共感しても、キリストから遠ざかることを気にしなくていい、とさえ書いています。「かもしれぬ」を付ければいいというものではないでしょう。ここまで来ると、神の裁きのごとく、天国の裁判官にでもなったつもりなのでしょうか。
 
信じてもいないのに、知りもしないのに、偉そうに語って評価するとは、楽山の傲慢不遜も、自分を聖域に置いた人間離れに至って、金色の偶像のように、人間の温かい光から、金属の光沢のような冷たいものになっています。
 
果てしなくキリスト教とキリスト信仰から遠ざかり、それによって人間性からも遠ざかるのは、このような世迷言を書いている楽山その人であります。
 

また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。

 
楽山は、自分が何ごとも、はっきりとは書かず、結論が出ないことに安住したいのか、他者の言を漁っては、都合の良いところだけ引用して、他者が自分と同意見で、自分も他者を支持しているかのように見せかける印象操作をしてきます。楽山自身には信仰の欠片もないからでしょう。
 
母親についての一般論を、いつのまにか、信仰に当てはめて、自分は読書家だから分かるのですアピールをしてきますが、母親は神でしょうか、また、父親は神でしょうか、違います。こういうことは、信仰者でも、難しい問題を含んでいます。
 
外野から、身の程も弁えないで、詭弁の的外れだけを書いてくる楽山は、ずるずるの野次馬根性しか持ち合わせていないことを自ら露呈しているだけです。
 

これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。

 
信仰は、「母親へのすまないという気持ち」でしょうか、これで、信仰が語れるでしょうか、否です。「少し分かるようにも思う」、という婉曲表現をしても、少しも分かっていない部外者で反信仰の楽山の、ずぶ濡れの自己顕示欲では、信仰の「し」の字も表せないことを示しているだけなのです。
 
慢性に心が腐ってしまうと、なんの自覚もなく、亡者のように、空しい言葉を重ねる業(ごう)のようなものに支配されてゆくのでしょう。
 
キリストの場合について、マリアのことについて、どうして、楽山が語るのでしょう。教義からなどと言っていますが、神聖を、楽山のように信仰を何も知らず、教義を理解しているとも思えない者が、信仰の代わりに?思い付きだけで洞察もない理屈や、しかも安易に人間の一般性で、平板な情緒で、どうして、信仰と宗教を語れるでしょう。
 
まるで、信仰の、入れ物作りにさえ、器づくりにさえ、準備も用意も出来ず、希望も心情も表せず失敗して、後始末のように御託の辻褄を合わせようと、他者を利用している瓦礫の惨状なのです。
 
いたたまれない心地を感じるべきなのは、今、デタラメなことを執拗に書いている楽山自身であります。決して、楽山を信用してはいけません。
 
人間の分別も節操も、まるで無い人です。楽山にあるのは、異常な執着、つまり、宗教を語れるんだと、負けだけは認めない原始的な執念深さだけだろうと思います。だから、何を書いても、ボンヤリ言語になり、何の結論にもならず、糧(かて)にすらならないのです。
 

さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。

 
「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」を、共感であるかのように勘違いしないでください。こうして、キリストを無力化する考えに誘導するのが、楽山の狙いです。
 
「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」も同様です。キリストの「無力」を二回書いていることに、楽山の反キリストが表れています。
 
こう書けば、有名人の言ったことだし、しんみりして、受けるだろうと、常識と情緒面の欠落をごまかしているだけなのです。
 
今まで、キリスト教とキリスト信仰について、情緒も理路も分からない楽山から、信仰の共感など生まれたことは一度もありません。むしろ、妨害と言えることばかり、自らの言説に表れてきたのに、過大な自尊によって、引っ込みがつかないでいるのです。
 
アドラー教やシャロームの偽キリスト教のような、カルト的教義に嵌(はま)って見苦しい人格破壊を歩むのが、楽山とシャロームの宿命なのでしょうか。
 
信仰者の立場を持たず、謙虚も敬虔も持ち得ない楽山に、いかなる信仰の読み解きも共感もあり得ないと思います。だから、シャロームのような、偽キリスト者の反キリストの味方をするのでしょう。成りすましなのか、同類の仲間なのか、得体のしれない自己中心の訂正不能です。
 
この二人は、法律が、信仰や宗教に対して、条文という言葉だけでは、対処できないところに付け込んで、欲求不満を晴らそうとしているようです。インテリではなく、インチキですから、相手にしないでください。
 

ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。

 
芸術作品が分かるような文脈を持ち出して、キリストとマリアをネタにしています。キリストをおとしめて、マリアの母性に祈るなどという信仰を夢想しているように見えますが、実際は、それどころではなく、楽山には、信仰の欠片もないことが、クリスチャン芝居や、カルト的妄想への賛同に、嫌というほど表れてきました。そのことを知っておかないと、楽山の企みに引っかかりやすいと思います。そこだけが怖い者たちです。
 

三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、

 
大嘘です。楽山には、自己顕示欲のおもむくところ以外、関心事はないと思います。
 

自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。

 
ここで、またしても、クリスチャン芝居をしているようです。楽山は、シャロームの、悔い改めなくても赦されるから罪は気にしなくていい、という信条に、賛成して、その後も訂正していません。マリア様に祈るなどという白々しい言葉に騙されないようにしてください。楽山は、誰にも祈ってなどいないと思います。ここでも楽山はクリスチャン芝居をして騙そうとしているのです。
 
また、信仰を変えるのには、意志の力で力んでいなければならなくなると言っています。信仰は、決して、そのような、意志で何とかするものではありません。悔い改めも祈りも、何も分かっていない者の言であります。
 

こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。

 
キリスト信仰について、楽山が今の楽山のままでは、どこまで行っても、何を書いても、何の実感もないと思います。根っからの詭弁によって、偽善者ぶりをあらわにするだけでしょう。
 
また、おかしなことを言っているようだが、信仰は、馴染み切るものではありません。導きも目覚めも、何も分かっておらず、さらには、一般的な、共感や、罪悪感による悔いも、感じたことのない人だと思っています。
 
弱さみたいに見せかけるのは、ボンヤリ言語のひとつの表れとして、前からあったことです。本当に弱いのなら、人の言うことを無視せずに、人の話を聞いて、分かるまで、反省できるまで、書くことを控えるはずなのです。
 
信仰は、難しいのではなく、楽山のような自己中心の嘘吐きには不可、つまり、ありえないのです。
 
 
私について言えば、強いのではなく、弱さを知っていたいと祈る者であります。強くありたいと思うこともありますが、強くなると思い上がりやすいことも知っていたい者であります。
 
信仰は、こうある、また、こうあるべき、という示し方よりも、本質において、むしろ、どうありたいかを示してくるときがあります。そして、まるで、私の希望が、私を対象にするように思われる心の現象があります。それは、楽山のような傲慢な部外者には決して分からないことで、ときに戒めのように、ときに恵みのように、与えられるものです。
 
信仰は、決して、自他の言葉をいじくって、得々と語りうるものではありません。
 
本を読むが、他者の意見を無視するようなあり方は、信仰ではありません。そこでは、自己矛盾の経過において尊大となって、無自覚ゆえに不覚の訂正不能の自己中心が信仰を妨げるだけです。
 
信仰は、じくじく、ねちねち、ぐだぐだ、だらしなく、書くことでは決して表せません。
 
キリスト信仰は、温もりと潤いのある青い霧のようなもの、・・というのは不適切かもしれませんが、形なくとも、心にあるものであり、少なくとも、パリピや、お祭り騒ぎや、豪語や、一気の悟りでは、表せません。
 
また、キリスト信仰は、曖昧にお茶を濁すボンヤリ言語や、印象操作や、慣れあってごまかす態度や、自らの非を認めないことを柔和に見せかける丁寧語という細工や、訂正不能や、やさしい善人を気取りながら他者を侮る尊大や傲慢や、小理屈の言葉いじりや、不都合を無視する小部屋からの一方的発信では、決して表せません。
 
信仰は、人生であり、世界なのです。
 
どうありたいのか、ということを、考えるところに、聖書は答えるでしょう。
 
偽善者の、見かけ優しい言葉に、騙されることのないように、祈っています。
 
 
(2019年10月16日、同日一部修正)
 
 
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