ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

原始反応

 
私の批判記事は、既に、
「無力を憐れむ?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12545986466.html
2019-11-17 00:04:04
リブログ、または、リンク
 
 
  原始反応
 
  2019年12月19日
  『侍』遠藤周作
  http://mn266z.blog.jp/archives/22665352.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
今回のキリスト教の話についても、前回のカルトの定義についても、楽山は、さんざん批判されて、疑問や批判に答えられないにもかかわらず、総てを私のせいにして、実際そう思い込んで、言いたいことだけを、同じ記事をアップして言ってくるわけです。それは、子供じみた意地の張り方で、好きなことを言って生きるんじゃ、と宣言しているに等しいわけです。
 
楽山は、カルトについて、犯罪を犯さないうちはカルトではないと言っていました。しかし、それは、逮捕して、法的制裁を加えることができるかどうかという問題であって、カルトという信じたら人生と生活と人間を破壊されてゆく問題とは別であります。
 
いちゃもん屋でねちねとと執念深く書いてくる楽山は、今回のキリスト教の見方も、一部の有名人の話を引用して、その人が一生そう思っていたかどうかを考えて遠慮することもなく決めつけて、キリストとキリスト教とキリスト信仰を、憐れで、みじめで、無力なものに貶(おとし)めています。
 
しかも批判されて返せないのに、また、出してくるのです。何としても偏った意見の印象操作と刷り込みをもって、だまさなければ、本人は、いい気分になれないのでしょう。言論を、そういう目的で使うこと自体が、言論を甘く見ている幼児体質なのです。
 
喩えるならば、何を言うか、何を言うか、何を言うか、と憎しみだけを募らせ、それでも反論できずに、同じことを言い続けるわけだから、何も学習しません、何も修正しません、我は神なり、と言ってるようなものです。ここまで、判断するのは、記事、コメント、反応を、一定の期間、見てきたからです。
 
どんなに丁寧な言葉を使っても、その醜い意図が、そこに表れてくるわけですから、もはや、言論者ではなく、宗教について何かを言える人でもなく、人間ではなく、原始反応に過ぎなくなっている自己愛の人であることを、まさに本人が表していることになります。
 
もはや、改めて批判する必要もない、というか、新しく書いたものではないので、既に、批判は済んでいるのだから、ここでのテーマは、そういう学習拒否の体質、他者を無視して平気でいられる体質、自己中心の醜さと悪意と病的資質、ということになります。
 
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という狂った信条を持ち、ライブドアの私のブログに、嫌がらせとしか思えないコメントをだらだらと入れてくる悪意だけの偽善者シャロームにベッタリひっついて、その信条に味方して、熱心な信仰とまで言って、シャロームと同様の、理路と直観と直感の成り立たない無残な有り様を表してきた楽山です。
 
つまり、楽山は、執拗に、執拗に、宗教評論でもなく、信仰批判でもなく、自己満悦と自己主張だけを繰り返していることになります。
 
批判への対応の仕方も、受け取らずに語るという、シャロームと同質でありながら、楽山は神の母性を主張して信仰を無力化しようと企み、シャロームは神の父性を教条的に固定して自分に投影して他者をおとしめる、という、賛同し合ったにもかかわらず、統一のない、ばらばらな、勝手なことを言いたいだけだから、その原動力は、ただ、それぞれの自己顕示欲だけなのでしょう。ですから、その仲間意識に、好ましい人間関係も人間性もありません。それが、カルト同士の関係なのです。
 
勝手なことを言って、褒めてくれる意見にだけ、礼を言って、反対意見を無視するところには、学習不能、成長不能、という結果だけしか返っては来ないことが、体質として、分からない人ですから、これからも、嫌がらせとして、書いてくるでしょうし、再録もするのでしょう。
 
こういう人に対しては、こちらも、忍耐強く、全否定をもって叩き続けるしかありません。ある段階からは、説得は無理だと分かりますから、批判は、相手に修正と成長を促すなどというものではなくなって、一般読者が巻き込まれることのないように、このような者に近づいて関わると、徒労と疲労だけが蓄積し、人格を破壊されるという災いでしかない、ということを広く知らせる目的しかなくなります。
 
体質的に、自己愛性人格障害を疑いますが、シャローム権威主義であり、楽山は詭弁家であり、易坊は策略家であり、そういうキャラとHNを使い分ける成りすましではないかということも前から考え疑っています。
 
こういう者たちは、行き詰まると、パニック的に、あるいは、意図的にも、犯罪に走る可能性があるでしょう。既にそうなっているかどうかは、分かりません。しかし、自己中で訂正と学習が不能で、情緒的に短絡しやすい傾向は、それだけで、犯罪の切っ掛けになりうると思います。
 
そういう人を、人間だから・・などと思ってはいけません。人間性が育たなかったか、人間性を捨ていている者たちです。
 
シャロームは妄想信条によって、楽山は霊が分かるっぽい自負心によって、易坊は天才気取りによって、実は、快楽原則しか持っていない自らの不備を、ごまかして、高等に見せかける丁寧語を使って、だまして世渡りを考えるような者たちだろうと思います。そうではないという証拠や根拠が、一度も表れたことがありません。
 
いつも、あざ笑って人を見ているだけですから、批判されても、同じことが平気で出来る不感不応の乾燥粉末のような存在になっているのです。
 
だますことで、演技することで、嘘を吐くことで、世渡りが出来ると思う浅はかな心は、いずれ、反社会的衝動と行動に行き着く可能性が大であり、既にそうなっているかどうかは分からないけれど、彼らに、最も施してはならないのは、思いやりです。
 
彼らに対しては、彼らをどうにかするのではなく、彼らがいる世界で、彼らに一切かかわらないことだけが身を守る手段となるでしょう。
 
彼らが共通して使う誘導の手段は、それぞれニュアンスは違っても、丁寧語による誘導です。彼らに丁寧に言われて、気を良くするとき、既に、宗教詐欺に騙されて、一歩カルト寄りに進んでいるということです。
 
彼らは、不感不応によって、状況を、無視することができます。だから、丁寧語を不滅の手段として使えるわけです。ふつうの人、正常な人は、丁寧語が通用しない場面、つまり、冷や汗の出るような状況を、遅かれ早かれ、経験から弁えますが、彼らには、そのセンスが、ないのです。
 
彼らは、思いやりを貪り、一方で、薄笑いを浮かべることができます。そういう根性ゆえに、何も気にせず、何も改めず、全く平気で、同じ記事を投稿して、同じことを言うことが有効だと思っているのでしょうし、相も変わらず、罠にかかった人が近づいてくるのを待っているのです。
 
そういう日常のようだから、神?も、人も、なめて、食って、呑んでかかって、どうしても、どう言ってもいい、自由だろ、ということになるのでしょう。
 
言論は自由ですが、疑問や批判に対して、できるだけ答える努力をするべきです。それが、言論の責任です。ふつう、そうしています。
 
説明できないところは、保留にするとか、問題を共有するとか、ふつうに、方法はあるのですが、そうした、責任の取り方が、全く学習されていないのです。だから、疑問は、いだくほうが悪い、批判は、悪口と同じに見なしてしまう、ということが起こるのでしょう。
 
言論の自由を貪って、言論の責任を負わない者たちです。大人の責任感というものが育っていないのかもしれません。
 
"ふつう"が、成り立っていないのです。ある意味、それが、カルトの怖さかもしれません。
 
楽山は、テヘヘ、シャロームは、ほぅほぅ、易坊は、ニヤニヤ、彼らは、いつも、笑っている。
 
私は、笑っては、いない。
 
 
  2019年12月20日日本会議の研究』菅野完(抜粋)
  http://mn266z.blog.jp/archives/22681624.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
書いてもしかたのない記事を書いてくるのが、気取りだけの楽山だということが表れています。
 

現実的には、A団体より、B団体の方が自分の考え方に近いからこっちを支持するとか、C団体の考え方は有り得ないから支持しないとか、大雑把に判断するしかないのだろうけど、考え方がピタリと一致するところが見当たらないというのは正直なところちょっと寂しくはある。でもまあこれも致し方ないか……人には個性があり、人それぞれ考え方が違って当たり前なのだから、それがピタリと一致する人、団体を期待するのはどだい無理な話ではある。

 
これが、楽山らしさです。ぐだぐだと一般的説明風味の理屈をこねたあげく、反対でも賛成でもなく、結局、結論を出さずに、判断回避で善しとするわけです。
 
「寂しくはある。でもまあこれも致し方ない」そして、大問題であるところの、"人それぞれ"、言い換えると、どれかが間違っているというのが、間違っているという思想です。
 
何の方向も示していません。読書をして、いったい何を考えているのか、甚だ疑問です。読書しました、しています、読書家なんです、みたいなアピールをしたいだけではないかと思います。
 
何も考えないことが、致し方ない人それぞれで、正しいのでしょうか。国民の過半数がそうなら、この国は滅びます。楽山は出世しました。キリスト教の敵から、反キリストから、今は、無思考をもって、日本国の敵です。
 
宗教についても、政治についても、思想についても、深く考えないことを勧める記事になっています。
 
「ピタリと一致する人、団体を期待するのはどだい無理な話」ということを書きたいのか。これが感想文になる記事を書く意味は何だろう。何も期待できないから、物事は、はっきり言えない、これが真理だ、とでも言いたいのだろうか。それは、ボンヤリ言語の楽山の場合だろう。
 
薬にならない粉、それが、思考しない読書家、楽山の宗教・政治・思考の記事です。大きなテーマを、世間話に貶めて、何も責任を負わない粉末を撒き散らしているだけなのです。
 
 
  st、楽山 問題を振り返る 2019-12-20NEW !
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)
 
書いても仕方のない長い長い記事を書いて、それで、いちゃもんをつけて、反論した気になるのが、楽山だということが、分かります。読者のことを、まるで考えていない読みにくさと長たらしさです。読みやすさより、読みにくくすることで、批判しにくくしているようです。
 
まるで、ずいぶん前に床についたシミを、わざわざ集めて、人をおとしめるために、塗りたくり、向こうは汚い、こちらはきれいと、見せかけて、子どもの喧嘩のように言い張る執拗さが、うんざりするような長い記事にしかならなかったということでしょう。シミは、ことごとく、楽山とシャロームが、落とした嘘の汚れです。
 
楽山は、自分に都合の良いところだけ、載せたつもりなのでしょうが・・
 
>stさんは当初は楽山に友好的だった
 
そうです。それは、楽山がシャロームの味方をする前です。騙されていたことに気づく前のことです。気づけば、当然、だます者への怒りがあり、批判対象とするわけです。楽山は、それが異常だと、ずっと、そのまま、悪の味方をしろと言いたいのでしょうか。
 
さらに明らかになったのは、楽山が、教条主義とおまじない?のキリスト教?を名乗るカルトだと私が思っている自称ヨシュア・自称マグダラマリアラインの味方をしていることです。楽山には、あちこちに、なりすましか、お仲間関係があるようです。お芝居だったのか。思っていた以上に凶悪だな・・。
 
自称ヨシュアも自称マグダラマリヤも、私に、呪いのようなものを書き、かつ、あと何日などと言ってきました。こういうキリスト信仰?のあり方は決してありえないのです。
 
シャロームのコメントも書いているようだが、それは稿を改めたいと思います。シャロームは、聖句に従って、恵みを増すために、罪を重ねたのだそうです。
 
楽山は、都合の良いところだけ、選んで載せるという、情報の選択というやり方を取っています。それは、紛れもなく詭弁ですが、楽山が、直接、私を批判することが、できない、できなかった、成り立たなかった、何故なら、楽山は真実の欠片も知らないから、ということを表しています。 
 
(2019年12月21日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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