ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

議論と保身(3)

 
  議論と保身(3)
 
   嫌われる勇気
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41571142.html
   楽山ブログのコメント欄の続き。私のコメントは、大方、記事用です。
   批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
 
 
(私)
楽山の、お仲間シャロームへの依怙贔屓が全開になっています。正義などお構いなしだということは前から知っています。シャロームが元々のお仲間であることが明らかになっています。カルトの仲間だということです。おぞましい限りです。一面的、一方的、が目の当たりになっています。
 
(楽山)
>shalomさん、おつかれさまです
臭い臭いと文句を言いながら、他人のおしりをなめ続ける生き方って、なんだか、すごい表現です。でも言ってる意味ははよく分かる。
2019/8/27(火) 午後 10:00 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
尻出しの汚い表現でも、楽山は褒めるしかありません。お仲間ですから。
楽山がシャロームと共にする汚さがよく分かる。
 
(楽山)

>これも、呆れた話です。コメントの遣り取りの途中であるか、一休みであるか、大方、区別はつかないものです。それを分からずに上のようなことを書いてくることこそ、独りよがりの自己中心の表れなのです。
 」
普通は、会話の途中か、一段落したかはすぐ分かるもんだと思いますが、もし分からないのであればしょうがないですね。失礼しました。
でもこれが分からないなら、連投しすぎは止めてくださいといっても、伝わってないかもしれませんね。
一応、具体的にいうと、連投しすぎは止めてくださいというのは、5連投以上は止めてくださいという意味です。
2019/8/27(火) 午後 10:00 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
会話の途中ではありません。コメント投稿の途中です。それが、まだ書き込みがあるか、すぐあるか、ないのか、すぐ分かるという楽山は、千里眼でも持っているというのでしょうか。このように、仲間意識で偏向しているために常識的判断が出来ないのが、シャロームと楽山の特徴です。にもかかわらず、すぐ分かるもんだという無責任なことを平気で言うのも特徴です。
(私)
言葉を、5コメまで、という、心ではなく、数で評価するのは、実に、言葉軽視の楽山らしい。詭弁で出来ているから、レスが5コメで収まるかどうかは、全く保証外のことです。楽山は、言論の本質について、まるで分っていない、ということが明らかです。また、ねちねち書いてくるのだろうか。
 
(楽山)

>楽山に対しては、物わかりのよさそうな言葉面に騙されていたと分かったのは、シャロームの意見が常識的にも通らないところで、根拠もなくシャロームの味方をしたことで、信頼してはいけない相手だと知って批判をしています。
 」
この流れについては、shalomさんのコメントで読んだ覚えがあります。
内容は不正確かもしれませんが、大体こんな話だったと記憶してます。
stさんは、誰かと知り合った時に、はじめはすごく謙虚に対応する、
相手もこれに応じて礼儀正しく対応する、
でもそのうちに、stさんの態度に、あれ?と思ったりして、徐々に距離を取るようになって行く…云々。
ざっくり言えば、私もこういうパターンだったということです。
shalomさんは、空気を読んだり、状況を把握したりできる人のように思います。
2019/8/27(火) 午後 10:03 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
私は、楽山のコメントを直接受けた経験から言っています。
私は、すごく謙虚ではありません、ふつうです。批判に転じてからは、相手がシャロームか楽山だと、無視が頻繁なので、だんだん厳しくなったということです。
(私)
あれっと思うのは私のほうです。そこから、私は一種独特な詭弁臭というものを学びました。嘘を吐くときの、文章に表れた、似ているけど違う別の言葉に置き換える、理路をごまかす、ニュアンスの違いを利用する、曖昧な全般を個別に当てはめる、個別を全般に広げる、などの詭弁が、すごいわけです。
(私)
人間ならしないような呆れる騙しのテクニックです。今もしています。だいたいこんな話と言っているのは、シャロームと楽山に当てはまることです。自分が言われそうなことを先に相手に当てはめてくるという彼らの汚さは忘れることが出来ません。
 
(楽山)

>シャロームの、やさしそうな言葉は、全て嘘だと知ってほしいです。
 」
stさんは、この手のシャローム批判を何度も書いてます。シャロームの丁寧語に騙されるなとか。
 
(私)
まさに、シャロームについても、楽山についても、そういうことです。
 
(楽山)
でも私は、この一年ほどシャロームさんを見てきましたけど、大体いつも変わらないです。どこで誰と話しても、大体同じ感じ。
 
(私)
矛盾していません。いつも変わらず、嘘を吐いてきます。いつも、嘘を基調に、神を讃美したり、豪語したりするわけです。
 
(楽山)
シャロームさんはクリスチャンで政治的には左寄りっぽいらしいでけど、ノンクリで右寄りで唯物論っぽい話をする私に対しても、怒って攻撃してくることもない。
 
(私)
ノンクリで唯物論って話だけなら、私は批判しないでしょう。唯物論や自然科学には興味もありますから。シャロームは、楽山に、怒るわけはないですね、攻撃するはずもないですね、お仲間だから。楽山は、無意味なことを書いています。
(私)
つまり、楽山は、私が偏ったことを強要するというイメージをここで作りたいのです。ネトウヨや悪い政治宣伝の言い分や刷り込みと同じようなものです。宗教についても、宣伝で料理してやろうという悪だくみが明らかになっています。ますます危険人物としての楽山の誘導が明らかになっています。もっと浮き彫りに出来ればと思います。
 
(楽山)
私は当初は、シャロームさんに皮肉はダメだとか批判的なことを書いてたけど、そのときも逆ギレはしなかった。
 
(私)
シャロームは、お仲間には、逆切れとかしないです。どうしても、独立した人格と思わせたいようです。なりすましかどうかにかかわらず、お仲間同士が宣伝し合って、不都合分子を排除しにかかっているだけのことです。正体は、恐らく、とても怖い連中なのです。
 
(楽山)
一方、stさんはといえば、はじめは私にすごく慎重に丁寧に応対してた。でも考え方の相違点が出てきたら態度は豹変した。
 
(私)
私は、すごく慎重に丁寧に応対などしていません。私はストレートです。豹変ではありません。卑怯者に対して変化しただけです。丁寧、豹変、これらは、私についての、ひどい人という印象操作です。こういうことだけを学んできた者たちなのです。心を学ばないで、小手先の言葉の細工だけを学んできた、という、足らない自分を自覚できないナルシシストの醜い姿なのです。
 
(楽山)
正直、こういう経験をしてると、stさんの上のようなシャローム批判は根拠に乏しく感じられます。あしからず。
2019/8/27(火) 午後 10:04 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
最初にシャロームの味方をしたときの同じような書き方です。ねちねちと根拠が乏しいと言ってきました。ネットにおいて証拠となる根拠を示すことは困難です。したがって、人間的なセンスが必要になりますが、これは、楽山とシャロームが、最初に捨てたものなのでしょう。
(私)
シャロームの、悔い改めない言い訳の、悔い改めは神が与える、などという詭弁は、悔い改めていないなら神はあなたに与えてはいない、という残念にしかならない詭弁です。その重大なことを、楽山は、スコーンとすっ飛ばして、根拠が無い・・を、私に向けているのです。恣意的でしかありえない。
(私)
根拠に乏しく感じられます、と言うけれど、都合の良いところだけ、突っ込めるところだけあげつらうのです。自覚がないから、また、同じ詭弁の筆致を繰り返しています。
(私)
あしからず・・は、皮肉の笑いです。ここで、性根を表しています。楽山とシャロームの基調にあるのは、他者を馬鹿にして、笑っている感情だけなのです。誠意の欠片もないのです。二人の丁寧語に騙されないでください。ストレートが一番正直であることを知ってください。
 
(私)
楽山が、冷静に中立に、を装って書いてくるというのは前からです。多くの人が、こういう書き方に騙されていると思います。
(私)
シャロームと楽山の二人組は、ずっと前から、カルト宣伝という目的によるところの、仲間だということが、一部だけを取り出して、根拠もないのに、ねちねちと、楽山の執拗な苦情と、シャローム弁護と、詭弁によって、明らかになったと思います。
(私)
私は、今回の応答の拙劣かつ卑怯な有り様から、彼らは、本当に、根腐れだと思います。
(私)
もっともっと、言い負かしに自惚れている楽山とシャロームという詭弁家については、真実を求める人間性に基づいた人間らしい心の追求から、さらに明らかになることがあるでしょう。
(私)
シャロームは8年間、実際はそれ以上、楽山も、推測するに長きにわたって、この二人ほど、変わることなく、反省することなく、キリスト教の神を、敵に回し、愚弄し続ける者を、他に知りません。人はもちろん、神をも、恐れていない証拠です。その対立軸である悪魔性が基調なのでしょうか。
2019/8/28(水) 午前 0:10 st5402jp 返信する  
(私)
楽山は、都合の良いところだけ、反対できそうなところだけ、拾って何やら、おかしなことを言い、あとは忘れるという徹底した自己中心主義のアドラー教なのです。近寄れば、滅びます。
(私)
神は、自己中心の者の神ではない。 何故なら、神が中心におられるからだ。
 
(私)
補足的に・・既に(2)のほうに、シャロームの心ない決めつけについて批判を書きましたが、シャロームは、キリスト信仰とは真逆の、罪は気にしなくていい、罪は悔い改めなくても救われる、という偽信条を持っています。そして徹底した自己中心で、何の節操もなく、歩み寄る人を騙して、世辞を返されて気分爽快となるシャロームです。
(私)
つまり、シャロームにとっては、騙しおおせて世辞と偽りに生きていることが順調な人生であり、批判されている今が異常だ、被害だという認識になっています。認識もまた真逆なのです。以上から正常に戻ることは、シャロームにとって、苦痛なのでしょう。しかし、シャロームの自己中心の順調さは、関わるものにとって甚だしく迷惑であり有害であります。
(私)
こういう極めて常識的なことが、何十年も分からないでいるというところに、シャロームの悪性の病巣があります。そして、その偽りの程度は、社交の世辞の表面的なお付き合いの弊害を、はるかに越える犯罪性を持っています。シャロームは、いつも、既に勝っている上からの立場に自分を置いて、批判されると、批判者を打ち負かすためだけの、嘘っぱちの、動じないぞ、という、人を食った言い方で、また嘘を重ねたり、劣った者に教える高慢な態度で貶めてくるのです。
(私)
罪を犯して笑う宗教人?は、偽善を善と勘違いして、罪を感じる罪悪感が麻痺しているか、元々持っていない者なのです。
 
(私)
偽善は、あらゆる罪の中で、キリストが、それゆえに赦さなかった最大の罪であり、二千年前に、既に、キリストが、屈しない命をもって、明らかに伝えているのです。罪は、悔い改めることがありうるが、偽善は、悔いない傲慢を既に内包しているから、と言ってよいでしょう。
 
(私)
私などは、善より、はるかに悪と罪のほうが多い人間ですが、キリストに出会うことが救いとなったのは、キリストすなわち神の前に正直な人には、犯罪人であっても赦して信仰の義を与え天国を約束したからです。
(私)
罪に塗れている人間は、それを上回る善行を神の前に捧げることなど出来ません。何故なら、自らの犯した罪の原因と結果を総て辿ることが人間にはできないからです。だから、一つの罪の原因を完全に除くことも出来なければ、完全に償うことも出来ないのです。そこに人間の不完全性があり、罪性があるのです。
(私)
では、善ではなく、信仰として、人間が捧げられるものは何なのか、ということを考えると、もはや、罪人であることを認めて、神の前にだけは正直に生きてゆくこと以外にはありません。すなわち、人間が、神に捧げることの出来るものは、ただ一つ、精いっぱいの正直以外にはないのです。
(私)
そのことから、いかに慈善事業に参加したり、いかに親切を心がけても、神の前に、故意に偽れば、救いを拒んでいることとなり、神のとの御縁を人が自ら否定することになるのです。また、人に対する正直や善行は、信仰の表れとしての結果に過ぎず、救いを担保する何ものでもありません。
 
 
(2019年08月29日)
 
 
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