ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

奇跡について?

 
  奇跡について?
 
   奇跡の受け止め方 (『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』)
   http://mn266z.blog.jp/archives/17512961.html
   楽山日記(LD)
 
 
批判対象は、2018年04月02日の記事ですが、ずいぶん前の記事です。私が積極的に掘り出すことはないので、楽山が、どこかにリンクでも貼っていて、削除したのか。どうして、この記事を見つけたのか、よく分かりません。しかし、あまりに問題が多いので批判対象とします。
 
楽山は物や肉体への奇跡や霊が大好きのようです。物や肉体の奇跡について肯定的です。肯定的であることの危うさを考えないのでしょう。
 
先ず、奇跡の一般的な意味について検索してみる。
 
(ネットより)
きせき【奇跡・奇蹟】
常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。特に、神などが示す思いがけない力の働き。また、それが起こった場所。(検索画面)
奇跡(奇蹟、きせき、英: miracle)は、人間の力や自然法則を超え、神など超自然のものとされるできごと。基本的には宗教および信仰と結びついていることが多い。
奇跡、miracleという表現はどちらかと言うとキリスト教などを中心として用いられる用語で、それに相当するような内容を仏教や神道では「霊験」(れいげん)と言い、たとえば「霊験あらたか」などと表現する。 (ウィキ)
 
楽山は、奇跡が分かるっぽいとでも思っているのか、辞書的意味を書かないで、話を進めてゆくのですが、楽山は、読書しましたとばかり、ここでは、ドーキンスやヒュームといった学者の文章を引用しているのは、箔を付けたいのでしょうか。
 
しかし、学者の名前を出したからと言って、正しいとは限らず、さらに、楽山のフィルターを通していることを忘れてはいけません。ここでも、矛盾だらけの、とても受け入れられないような"奇跡の見分け方"を書いています。
 
また、「っぽい」「かなあ」「とも言えない」「否定はできない」「かもしれない」「分からん」「分かりやすくなった。でもまだピンと来ない」など、というような、私がボンヤリ言語と呼んでいる曖昧表現を使うことが多いのは、断定はしなかったつもりの責任逃れでしょう。それで、楽山の文章は、大方、しまりのない文章になります。
 
しかも、楽山は、そういう曖昧さのまま、なんとなく結論に持っていって、今回の場合、「活用できるように覚えておきたい」などと、自分は分かっているふうな文章に見せてくるのです。いわゆる、責任を回避して、印象を刷り込んでゆく書き方になっています。ずっとそうです。
 

この前、読んだ本に、奇跡の受け止め方について書いてあった。
忘れないうちに、その概要をメモしておこうと思う。
まず奇跡の受け止め方の参考として、著者はヒュームの言葉をひいている。
孫引きになるけど、一応、貼っておくと、それはこういう言葉である。

 
辞書的意味を書かずに、さっそく哲学者の名を出して、受け取り方というより受け売り方に入っている楽山。
 

証言の虚偽が証言の確立しようとしている事実以上に奇跡的であると言えるような種類のものでないならば、いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない。
(『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、大田直子訳、早川書房、2012年、p.254)
これでは全然、分からん。著者が解説するには、次のような意味とのことである。

 
要するに、虚偽ということが、奇跡だということ以上に、事実として確からしいなら、または、ありそうなら、奇跡ではないということでしょう。
 
しかし、多くの奇跡は現実の常識を超えており、つまり、虚偽であると見なしたほうが、現実的であるわけです。この見分け方は、現実的ではない奇跡を見分けるのには、おかしい、あるいは、むなしいと思います。特に物や肉体の奇跡は人知を超えているわけですから、人知で区別がつかないということを、楽山は考えていません。
 
奇跡で、人間が受け取って、または、肯定して、意義があるのは、心すなわち魂に起こる奇跡だけだと思います。この奇跡は、超常ではなく、人間が実感として、あるいは、癒しとして受け取れることであり、かつ、いつでも起こり得ることです。楽山やシャロームなどの易坊類には起こっていないだけです。
 
信仰として考えると、物や肉体に起こる奇跡を起こせるのは、神だけです。したがって、奇跡を、人間が見分けることができて、本当なら信じるというのは、神への冒涜です。神ではなく、現象を信仰することになるからです。
 
超常とか霊とかの、非現実に気持ちがのめり込んでいる者は、とかく、物や肉体の不思議現象にこだわりますが、物や肉体に不思議が起こっても、それは、人間を怠慢にはしても、いつも人間の生きる力になるということはありません。何故なら、物や肉体の奇跡は、人間の側に必然が全くないからです。
 
物や肉体に起こる奇跡は滅多に起こっていない、という現実を考えると、物や肉体に起こる奇跡に頼ることが、実際そう信じているシャロームのような、狂気の妄想信条に至るだけなのは想像に難くないのです。
 

ジョンがあなたに奇跡の物語を話したとして、「その話がうそ(または勘ちがい、または錯覚)である」という事態が、とうの奇跡よりありそうもない奇跡である場合にのみ、あなたはそれを信じるべきなのだ。
(同上、p.254)
これで大分、分かりやすくなった。でもまだピンとこない。

 
楽山は、分かりやすくなったと言っていますが、楽山は、奇跡が、人知を超えた現象であることを、理解していないから、このような見分け方で納得してしまうのです。幼稚だと思います。
 

それは著者も承知しているのか、さらに一つの例を用いて説明してくれている。
それは、二人の少女(エルシーとフランシス)が撮影したとされた妖精写真である。
これについて、次の二つのうち、どちらの方がより有り得ないことかというのである。
1 妖精、つまり羽のある小さい人が本当にいて、花のあいだをひらひらと飛び回っていた。
2 エルシーとフランシスがそれをつくり上げて、にせの写真を撮影した。
(同上、p.255)
こたえは言うまでもない。
妖精が実際にいたというより、
年頃の少女たちが偽写真を撮って遊んだという方が、いかにもありそうなことである。
2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではないだろう。

 
当たり前のことです。多くの超常的奇跡は、そのようなものだから、奇跡と呼ばれるのです。
 

また、著者はファティマの奇跡についても書いている。
以下の三つのうち、どれが一番もっともらしいかというのである。
1 太陽が実際に空を動き回り、おののく群衆に向かって落ちてきたあと、もとの位置にもどった(または、太陽が動いたかのように見えるように、地球が回転のパターンを変えた)。
2 太陽も地球も実際には動かず、7万人が同時に幻覚を見た。
3 まったく何も起こらず、すべてのできごとは誤報か、誇張か、単なるでっち上げだった。
(同上、p.257-258)

 
ありそうな度合いは、3>2>1です。当たり前のことです。これを理解して、どうなるのでしょう。
 

このこたえも言うまでもないようである。
流れとしては、前よりも後の方が奇跡から離れている。
著者の説くヒューム方式からすれば、
太陽が大空を動き回り踊っているようだったというのは、現実の奇跡ではなかったようだ。

 
奇跡から離れている、という捉え方ではなく、当たり前に、奇跡から離れたほうが、現実的、というだけのことです。楽山が、あたかも見分け方の法則のように、まともそうに書いていることに惑わされてはいけません。あくどい詭弁だな・・
 

この考え方からすると、
どうもこの世に奇跡なんてものは存在しないようにも思えてくるが、
逆に言えば、だからこそ、それは奇跡と言えるのかもしれぬ。

 
奇跡は存在しないように思えることですから、これは、存在しない奇跡が存在するのが奇跡、という、循環論法になっています。楽山の奇跡肯定のための詭弁です。以上の見分け方はインチキです。だまされないようにしてください。
 

奇跡は有り得ないことだから奇跡なのだろうし、
単なる嘘や錯覚にすぎぬことを奇跡だと思い込んでしまわないようにするためにも、
以上の方法を上手に活用したいものである。

 
以上より、楽山は、極めて幼稚な言葉で誘ってきています。霊が分かるっぽいと言っていたところの、楽山の勧めることを真に受けてはいけません。
 

ちなみに、この方法は、霊能者の鑑定にも使えそうだ。
1 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できる。
2 彼は、神や霊と話すことができて、この世とあの世を自在に行き来できると嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。
この場合、1より2の方が奇跡だとは言えなかろうし、結論はいうまでもないことである。

 
当たり前のことを、さも、新発見でも語るように言う楽山の言は、実に、くだらないと思います。
 

また、これは神を自称する教祖にも応用できそうだ。
1 彼は、神の生まれ変わりである。
2 彼は、自分は神の生まれ変わりだと嘘をついている。またはそのように勘ちがいしている。
この場合も、2は1以上の奇跡とは言えないので、1は本当ではなかろうということになる。

 
このような考え方だと、神の子イエス・キリストも神聖ではない、ということになりそうですし、それを狙っての、楽山の詭弁であることが、ここで、明らかになっています。
 
つまり、キリストの神性を否定して、ただの人間と見なして、さげすみながら、あわれみたいのでしょう。心の問題など、お構いなしに、宗教を語れば、詭弁だけが、まともに見えてきて、楽山のように、そして、詭弁と幼稚な短絡で、自分は奇跡を見分けられるのだと思い込むようになるのでしょう。
 
そこで利用されるのは、物や肉体の奇跡は、ないよね・・と言う印象を吹き込みやすいということです。
 
楽山は、奇跡には否定的なのでしょうか。シャロームは、物や肉体の奇跡を、肉体の復活を含めて、信じるのが信仰だと思っているようです。
 
どちらも、いちばん大事な、心と魂の奇跡について、全く無頓着であります。興味も感受性も持っていないと言ったほうがいいでしょう。
 
私は、物や肉体の奇跡が実際あったかどうかは分かりようがなく、かつ、それを信じ込んでも、人間にとって、生きる支えにはならないと主張しています。
 
しかしながら、キリストの、物や肉体に起こる奇跡は人間が信じなくても分からないと言っても、楽山が全く気づかないし考えもしないところの、もう一方の、魂に起こる奇跡は人間が共感できるものなのです。
 
孤独からの解放による癒しや慰めという魂に起こる奇跡は、驚くべきことであると同時に、愛と共感から生まれてくるものなので、人を生かす力を持っていて、かつ、信仰者には、しばしば起こっていることであります。楽山のインチキの詭弁とは大違いです。
 
楽山は、自己愛が強すぎて、魂の奇跡を受け取る心の器を失っているために、物や肉体の奇跡ばかりにこだわり、その結果、キリストの恵みを、少しも受け取れなくなっているのです。
 

こうしていろいろと考えてみると、やはりこの判断方法は、嘘、いかさま、勘違いに惑わされないためには有用であるようだ。いつでも活用できるように覚えておきたいと思う。

 
詭弁をもって惑わしているのは、「惑わされないために」と言っている楽山のほうなのです。超常が分かるっぽい立場に固執するところの、楽山の詭弁の誘惑を、真に受けてはいけません。
 
人間の手が届くところにあり人間が大切にするべき心の問題を疎かにして、人間の手の届かない超常の奇跡に安易に救い?を求めるのがカルトの特徴です。
 
楽山の説く宗教と信仰こそ、嘘、いかさま、勘違いの惑わしです。よく、こんなインチキな話と記事を、出してこれたものです。楽山が偽りである証明も、もはや、十分ではないかという気がします。
 
この記事に書かれていることは、とても幼稚なことですから、活用できるような代物ではありません。楽山は、信じるということの心と感性がないために、代わりには決してしてはいけないところの、だますという手練手管のほうに頼ってしまい、こういうことに手を出すしかなくなってしまっているのです。
 
楽山の記事は読んでみて、え?、なんなんだ?、くさい、・・と気持ち悪さだけが追っかけてくるような、程度の低い記事です。書けば書くほど、胡散臭さと怪しさが、どんどん増してくる楽山です。
 
 
(2019年12月25日)
 
私のブログは、酷い話題が多いですが、その原因となっているところの楽山やシャロームなどの易坊類は、集う仲間がいれば、いっそう、のぼせて大仰なことを豪語して、クリスマスを祝うでしょうね。
 
巷は、クリスマス商戦から、どんちゃん騒ぎになるのでしょう。そして、26日になると、街は一変して、クリスマスの跡形もなくなり、すべて正月の装いになるのです。毎年、同じです。
 
私は・・ひっそりとロウソク一本でも灯そうかな・・メリー・クリスマス・・
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html