ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

現実と幻想

 
  現実と幻想
 
 
今回は、ちょいと哲学風味ですが、風味だけです・・。
 
この世界に存在する私たちは、
主観と客観に分けて物事を考えている。
そこに、直感と感情と思慮をもって、世界に対して何らかの判断をしている。
 
私たちは、感じることで、考えて、ときに、ひらめいて、その結果、さらに考えている。
そうして、個人の世界観を作っている。
 
しかし、その判断は、いずれも、五感という感覚をもとにしている。
 
時間も、空間も、総ての現象を、感覚で得られた経験から考えている。
 
ちゃんと測定して、結果が、いつも出ていると言っても、測定も結果も、結局、感覚である。
 
起こっていることは、起こっていると感覚していること。
 
感覚していることから、それを実体と見なしているのだ。その可能性までも。
 
時間は、記録と記憶により、空間は、再現性により、強化されている
と、無意識に、見なしている。
 
つまり、実体が存在する必要はないのである。
 
実体がなくても、実体を認識している。
 
必要なのは、共同幻想である。
 
共同幻想をさせている、何らかの摂理、何らかの存在があるのかもしれない。
いや、なくてはならない存在である。
 
それを、探ろうとするが、探る対象が、幻想であるなら、探りようがない、
という世界に住んでいる。
 
 
前に、1.ほぼ恒常的で、2.ほぼ秩序だっていて、3.ほぼ双方向であるような世界を感覚したら、私たちは、それを、実体のある世界だと認識する、というようなことを書いたことがある。個人における世界の成立条件である。
 
夢の世界では、気持ちよかったり、慌てたりする。しかし、夢は覚める。
病的な幻覚妄想の世界では、病者は支配されることもあるが、時間経過または薬物治療によって、変化し軽快する。
どちらも、秩序立っているとは言いがたく、再認識できるほど恒常的とまでは言えない。
 
現実の世界では、ほぼ、という曖昧さにおいて、上の3条件を満たしている。
ということは、この世界では、
 
「現実は、3条件を満たす幻想であることと、同値である」(命題Aとする)
 
が成り立つ。
 
しかし、そのために、一つ条件を加える必要がある。
それは、個々人の見る幻想が、共有されていること。
 
個人の存在だけでは、3条件の表れはバラバラになり、命題Aは共有されない。
 
では、幻想の共有を成り立たせているのは、誰か。
 
キリスト教的には、神ということになるのだろうか。
 
 
現実世界は幻想と同値であるなら、感覚している世界の実在は証明されない。感覚が担保しているだけである。感覚は不安定になりうるので、世界の実在は、不安定になりうる。
 
私たちは、ひょっとしたら無形の、感覚と思考の主体に過ぎないのかもしれない。

  
同値ということは、現実は幻想だ、ということであり、
また同時に、幻想は現実だ、ということでもある。
 
また、現実が幻想であるとしても、同値であることの性質として、見えるものは比較的はっきりしていて、かつ、痛みを感じることも、痛みが返ってくることもあるという世界である。
 
だから、幻想だから何をしてもいい、ということにはならず、また、現実だから決定的だ、ということにもならず、結局、価値基準をどこに置くかということになる。生も死も、人間は、相対的である。
 
神が、人に幻想を見せている、と決めつける必要はない。
同値だからである。幻想=現実なのだ。それを実世界として感覚し体験している。
 
キリスト信仰的には、さらに深入りして理屈を考える必要はない。同値だからである。
 
いったい、現実と同値である幻想を、幻想だからと否定する必要も根拠もない。
 
信仰者にとって、現実=幻想、つまり、同値というのは、どちらにせよ、人の言葉において呼び名が違うというだけである。
 
私たち人間は、感覚を通してのみ、世界(現実または幻想)を体験している。
 
総ては、神の懐で踊っており、神が造り、神が壊すものであり、人は、それに対して、降伏と従順の志だけで、同伴してくださり、救われるというのである。
 
人の言葉と思考の上で、現実であれ、幻想であれ、神から与えられるところの、私たちの、生きる場所も、遊ぶ時間も場所も、変わりはしない。
 
神という絶対の良心が、現実という幻想を見せているなら、むしろ、喜ぶべきかもしれない。
 
生も、そして死も、人間は、人生も、絶対の神の前に、相対的である。
 
死後の世界は知りようもないが、死と孤独の恐怖は、絶対の神の前に、相対化される。
 
信仰者は、いつも、神の前で、生きているのである。
 
 
むしろ、神の絶対には及ばなくても、神の似姿に造られた私たちは、特に信仰者は、良心の成長を信仰に委ねているのだ。そこに、欠くことの出来ない必要で大切なものはそろっていて、私たちが訪れるのを待っていると言えるだろう。
 
そのことが、キリスト信仰が知能や形式を要求しない根拠であり、信仰と知能、信仰と特殊な才能、信仰と特別の感性、信仰と目に見える美形が、相関しないことを表している。即ち、万民救済の根拠でもある。
 
このことは、神のもとで、総ての人間は平等、という根拠でもある。
 
 
大きく包みながら、ご自身を、軽々に見せることは、なさらない神であります。
 
創造と摂理を支配し、幻想か実在かを問わず、人間に、豊かな経験を与え、ときに耐えがたくて嘆いても、常に再生と敬虔へと帰る道を用意しておられる神に大きく包まれる、という、アガペー(神の愛)を信じる縁に恵まれた人々は、共に生きる地上で、孤独という崖っぷちを過ごすときにも、同伴を乞うことを、祈りのうちに、忘れないだろう。
 
 
※※
傍迷惑も省みず、軽々にしゃしゃり出てきて、神を、言葉だけ引き寄せて、おのが身の飾りとしたり、おのれの客観性や絶対性に思い上がる者たちだけが、おのれのみすぼらしい偏在に気づかず、妄想の実在を信じ込んで、一途に信仰も愛も希望も拒んで、無為の現実を平安と呼んで、捏造した中立や救済を吹聴して、あらゆる有意義な活動を、見過ごしたり、捨てたり、邪魔したりしていることは、神に敵対する反信仰の役割が、必然のうちに自己破壊に至ることを示して、戒めとなっている悲劇といえば悲劇なのです。
 
 
(2020年01月23日、同日一部修正)
 
 
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