ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

聖書の悪用

 
  聖書の悪用
 
 
聖書は悪用されやすい。曲解されそうなところが結構あるからです。心があれば、避けられるのですが、心が無く、悪意しかない者によって、悪用されます。
 
悪用する者は、言葉面だけを利用します。一部を全部に当てはめて言い張ったり、文脈を無視して恣意的に解釈してきます。
 
 
まず、「さばく」という言葉について、ここは悪用しようがないと思いますが、同じ言葉で違う意味、肯定と否定表現、ということで、あげておきます。
 
ヨハネ書の
「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。」
「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、」
「終りの日にその人をさばくであろう」
というのがあります。
 
ここは、前後を引用すれば、意味の違いが分かるでしょう。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:39
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
9:40
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41
エスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:39-41、新約聖書
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:47
たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
12:48
わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
 (ヨハネ書12:47-48、新約聖書
 
9章のほうは、さばくとは、正邪の正しい判断を明らかにすること、と解釈することができます。その正しい判断によって、見えない人が見えるようになった・・と、逆説的な恵みの話になります。
 
12章のほうは、さばくためではなく赦し救うため、ということを言っているのでしょう。守らない人があっても、さばかず、つまり、邪と決めて滅ぼしたりせず、赦し救うということのようです。
 
また、今ではなく、終末のさばきというものがあるとキリストは言っています。
 
私は原語を知らないし、終末も今は知らないわけですから、詳しいことは分かりませんが、おおよそ、上のような違いがあり、文脈によって理解が可能です。
 
 
次に、実際に、悪用された例です。
 
 (創世記、口語訳)1:31
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
 (創世1:31、旧約聖書
 
はなはだ良かった、という言葉を、こう書いてあるから自分は正しいという自己正当化に使う者がいます。
 
創世記では、その後、人間の罪について、アダムとエバの話が載っているし、聖書全体に、人間の罪の歴史がいっぱい載っているわけですから、いつも被造物が良いわけではないことは明らかです。
 
ゆえに、神が造って、そのとき神が被造物は良かったと言ったと書いてあるから、自分も正しいという解釈が、的外れも甚だしい自己正当化であり、成り立たないのも明らかです。とても幼稚な悪用です。この詭弁は、むしろ、その被造物の最も悪質なあり方を、逆に、表しているのです。
 
このように、自己正当化をするような偽善は、むしろ、その偽善の悪性を表してしまう、という逆説が成り立つことが多いです。
 
 
つづいて、情欲の聖句
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
カルトは、これを守るべき教えと言い張ります。「女」→「他人の妻」と訳が変わったから守れるというのです。さらに、守って完全になれるとまで言い張っていました。
 
地上において、人は、教えを守って完全になることは出来ません。完全は神の義であり、人に与えられるのは悔い改めと赦しによる信仰の義であります。この2つの区別がカルトには出来ていませんでした。
 
情欲は湧いてくるものです。湧かないようにしようと思って、湧かないようにすることは、できません。行為とは違うのです。女一般でも、他人の妻でも、いっしょです。
 
守れるものがいるかと問い、いないだろう、だから、総ての人に、悔い改めと赦しが必要であると、キリストは説いているのだろうと思います。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
 (マタイ9:17、新約聖書
 
そしてカルトは、訳が変わったことを、この聖句の古い皮袋の喩えを持ち出して、こちらに向けてきたのです。カルトは、節操がないので、都合の良いものには、すぐ飛びつきます。
 
新しい皮袋とは、キリストが来て新しい契約の時代になったことを表すのでしょう。一方、訳が変わっても、神もキリストも、聖書の伝えるところも、何も変わってはいません。新しくなったかのように、訳の問題を、皮袋に喩えるのは間違っています。
 
反省し、修正して、変わってゆき、成長するべきなのは、私たちです。
 
 
カルトは、こちらが異を唱えると、あざ笑うか、でなければ、怒ることしかできないようです。大そう興奮して、私が私のブログにひっそり書いていた個人情報を持ち出し、また、私の書いた詩のようなものを持ち出して、ダメ人間とか親不孝とか精神病とか、やたら侮辱してきました。この時点で本性は荒らしだと判断できます。カルトは、理と心をもって説くことができないのです。
 
そうして、カルトは、見える、分かっている、知っている、守っている、完全になれる、などと言って、最初は、丁寧に、教えようとしてきますが、異を唱える者には、居丈高に、高飛車に、おとしめることばかり言ってきます。
 
カルトのように、聖書を勝手に決めつけることが、どれだけ神に背いて自分を高めることになってしまうかということです。神は、私たちが、完璧には分からないことを既にご存じなのです。書いてあるからと言葉面にだけ、こだわって、いじくって、分かったふりをしたり、意地を張ったりすることは、御心を思わないで、信仰を空しくするだけなのです。
 
 
(2020年01月26日)
 
 
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