ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

非絶対性(相対性)

 
  非絶対性(相対性)
 
 
神は絶対だから、神の言葉も絶対で、信仰は絶対だ、という主張は成り立ちません。
人が聖書の言葉を絶対とするのは、人に過ぎない自分の解釈を絶対とすることです。
人と人の産物は、絶対になることはありません。
 
神は絶対だが、人の信仰が絶対になることはありません。同じ理由で、人の信仰が、完全になることもありません。
 
神は、人を、ご自身とは違って、不完全に造られたからです。
 
神が人を完全なものとして造ることは、とりもなおさず、ご自身をコピーすることになり、四位以上の神になり、神が、それを好まず、望まなかったということなのでしょう。
 
私たちは、自由意志を持つところの、神の似姿であり、完全コピーではありません。
 
 
したがって、神が、造られたものを、すべてよかった、と言ったからという理由で、"所在不明の名無しの猫かぶり"というHNで、悪意だけのカルト教祖シャロームが、おのれを正当化することは、笑止であり、背教であり、決して成り立たないことです。
 
気をつけてください。シャロームは、羞恥心がなく、罪悪感もないので、どんなに否定されても、否定そのものを無視してきます。そして、いつも、まともな説教が出来るつもりで、横柄な態度と、それをごまかす丁寧語で、コメントを入れて、丁寧語で、荒らしてくるかもしれません。
 
好意的に、また、肯定的に付き合うと、気づかぬうちに、シャロームと同じように、言葉についても、自分の理解にしがみつくようになり、ごまかしの世辞や嘘ばかり言うようになり、自らの知性と感性による理路や直感・直観が出来なくなり、人格が破壊されてゆくと思います。実際、シャロームの仲間は、似たような自己愛、自己中心、訂正不能という特徴を持っています。
 
信仰の相対性は、人間の罪性、つまり不完全性から、理解できることなのです。しかし、今の幸福を離れてしまいそうな気がするのか、信仰者同士のつきあいを優先してしまうのか、多くを考えることを避けて、理解の殻を閉ざしてしまう人が多いような気がします。
 
その極限が、楽山やシャロームなどの易坊類なのです。
 
現状維持というのは、新しいものを考えることさえ拒否してしまうならば、成長不能になることです。そこには、役に立たず傍迷惑な捏造境地の自己満足があるだけで、成長するための道はなくなります。自分納得の不変のエゴの境地を信仰?と呼ぶようになってしまいます。超常自認のシャロームが、その典型です。
 
絶対でないということは、あるところはダメであり、あるところは優れている、ということでもあります。そして、不変というものに固着していないからこそ、良き訪れと導きがあれば、成長するということでもあります。
 
 
悪しか考えないような者も現にいますが、多くの人間には良心があります。罪の性質だけでなく、良心という賜物も与えられて人は生まれてくるのです。
 
良心は、言葉で内容を条文のように説明するよりは、まるく、潤いと、温もりに満ちた心で、柔和、共感、思いやり、など、人間の、悲しみの共感と、愛と慈しみを育てます。
 
このことは、悪しきことを考えるときには、良心からの良い感情がなくなることから分かります。まるくないから、とがっており、乾燥して、傷つきやすく、傷つけやすく、癒しにくくなっており、冷たくなっていることを、自省できる人は、自分でも分かるでしょう。
 
絶対性というものを、人間が身につけようとすると、多く、カルトに見られるように、冷たく前進する軍隊のような同じ顔を向けるようになり、いかなる忠告も批判も聞かなくなり、結局、精神の活性が著しく損なわれて、単方向に突出し、良心があればブレーキがかかるようなことを、行動に移してしまう衝動に走らされてしまいます。
 
絶対性を身につけることが、人間には、いかに無理であるかを表しています。
 
人は、神という絶対の存在を覚え、恐れることによって、絶対性への欲望を捨てて、むしろ、人間味に溢れた相対的存在となることができます。それが、信仰者の敬虔であり、上の良心の性質を、より豊かに身につける準備となり出発点となるのです。
 
 
そういう相対的な人間のあり方をバカにしているのが、今は"名無しの猫かぶり"と名乗っているシャロームであり、その結果、絶対性に成り上がったシャロームは、この世で、いちばん醜い破壊人格のモデルとなってきました。
 
ごまかしに、バカ丁寧語を並べて、聖書語を並べて、いい気になっているようですが、シャローム自身だけが進行性の破壊に気づかないでいるのです。
 
こうなってしまうと、いつも、相手を下に見て、笑っており、何か言っても、殆ど理解できないがゆえに、屁とも思わないでいられるのです。ゆえに、自分は疲労せず、他者を疲労させるだけの存在となります。彼を、疲労物質と呼んだ所以であります。
 
さらに、関節の付き方が逆であるような、前後がおかしくなっているような、ガラクタの人形のような、屁理屈や詭弁をこしらえて、整えたと感じるようになり、豪語して、さらに、現実との乖離が進んで、病識や自覚が、ますます、なくなるという悪循環の暗黒の地獄谷を、この地上で、ヘラヘラ笑いながら、フラフラ歩むことになるのです。
 
これが、絶対性を身につけようとする者が、また、身につけたと思い込む者が、知らないあいだに、自らを破壊して、非人間となってゆくプロセスです。
 
自らの不完全性、つまり非絶対性・相対性を自覚しない者は、総てのことに適切に対処しているつもりの訂正不能な固着・執着だけになり、あらゆる選択において失敗が重なり、転げ落ちてゆき、しかも、それを、ことごとく、人のせいにしてゆきます。
 
そして、言うのです、神の平安のうちにあると。それは、無為と無視の停滞と沈殿に過ぎません。
 
宗教には反宗教が、信仰には反信仰が、キリストには反キリストが、悪魔性に、現れます。
 
総ての人が、不都合を、望ましい形で乗り越えるわけではなく、罪の性質が勝ってしまう場合があることを、聖書は語っています。そこを分けるのは、反省・修正機能の有無であります。
 
 
人間は、不完全で、不安定です。
 
しかし、その自覚があるからこそ、伸びしろがあり、成長可能なのです。
 
 
(2020年01月25日)
 
 
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