ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

避け所

 
  避け所
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。
聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。
しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。
 
旧約聖書(口語訳)の詩篇から
全部ではないですが「避け所」という言葉を載せてみます。
 

 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
セラ:
(ネットより)
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神のほうを向きます。
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。
祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。
 
言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。
 
神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、
また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、
 
 なぜ、人は、
 
主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、
 
 と告白しないのでしょう。
 
聖書に書いてあることは、大方、
私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。
 
善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目がゆきません。
私たち人間は、善も悪も、最後までたどることなど出来ません。
 
卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、
悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、
信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。
それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、
何の意味があるだろうと思います。
 
非力、ということだけではなく、
正しさを決めつけすぎている、という意味です。
総ての時空を支配する神に向かって
目に見えて明らかであることだけをもって善悪と言っているのではないか。
 
したがって、私たち信仰者は、
自分で思っている以上に、神に対して罪を犯していると思います。
 
罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、
心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、解放と癒し、ゆえに、
時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。
祈りに答えて与えられるものであって、万能と人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。
 
正直以外通用しないが、正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの、神の前なのです。
 
 
(2020年03月05日)
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
メモ)
いまだにPC・OS・ブラウザ・設定・英語表記には不慣れです。特に英語表記だと、setting なんて押したら、なんだか、とんでもない変更をしてしまうのではないかと思ってしまいますが、なんとか、ブラウザEdgeを、ようやく日本語表示に変更できました。
URL欄の右のいちばん右端の「…」をクリックして、その中の設定setting をクリックして、言語language を日本語にします。それで、ページ内検索の表示も分かりやすくなりました。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html   
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html