ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

自慢を公開?

 
  自慢を公開?
 
 制度的宗教と個人的宗教 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23849114.html
 楽山日記(LD)
 
 
書物をあげて、自分を褒めたい、という、楽山の目的が明らかになっています。総てが、こういう目的のためだけに書いている楽山の、もう一度言いますが、不潔さが全開です。
 
性懲りのない人です。宗教を制度か何かと、勘違いさせたいようです。
宗教は、糧として信仰を支える基盤であって、言葉、形、概念、歴史などの総体です。
 
惑わされないでください。悪気のなさが楽山の狡猾な芝居です。批判を受け取る、批判に対して答える、ということが無いのが、楽山やシャロームなどの易坊類の特徴です。
 
批判されたものだから、子供の喧嘩根性が根底にあると思いますが、その幼稚さをごまかすために、学者の名を利用して、自慢しているのですから気持ち悪さが倍増です。
 
楽山が、不具の者、即ち、心の、具(そな)わらざる者、ということが表れています。
楽山が、偽善者、すなわち、偽りの善の者、ということでもあります。
 

本を読んでいると、自分なりに考えていたことがすでに活字となっていることを知り、やっぱり自分が考えるようなことは、とっくにどこかの誰かが考えているんだなと思わされることがあるが、今回はこの箇所がまさにそれだった。

まず思い浮かぶのは、宗教の領域を二分する一大区分である。その一方に、制度的宗教があり、他方に、個人的宗教がある。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.49)
 」

 
宗教に2つあると言っています。それは、どういった目的と用途による分類でしょうか。宗教にも信仰にも、正邪はあっても、本質において、分類はありません。
 
分類には、分かりやすくするとか、特徴を明確にするとか、テーマを分けて扱いやすくする、とかの、利便性という目的があります。人が分類するのですから、元々の本質とは別の、便宜的な考え方です。
 
それを、楽山は、二分する一大区分と大袈裟に口を開けて、本質から外れることを考えもしないで、得意げに、自分は考えていた、つまり、自分は学者レベルだと誇示しているのです。
 
邪悪な者は、とにかく宗教を概念か物品のように扱い、仕分けでもして、さげすみたいので、このような話をでっちあげることになります。的外れに思い上がった楽山の、上から見る視線が全開です。
 
ことごとく外れてゆく、しかも、それを無視して、さらに理屈を付けて自慢する、偽善とカルト宣伝と芝居好きなナルシシストの愚かは、ここまで来る。 
 
「自分なりに考えていたことがすでに活字となっている」に、吐き気のするような思い上がりと、耐えがたさと、救いがたさを感じます。
 

自分は宗教には組織的な宗教と個人的な宗教があり、組織的な宗教は特定の教義を持ち、信者たちはそれに合わせるものであり、個人的な宗教は組織的な宗教の定める枠には束縛されず、自分の神のイメージに忠実でいることであり、人にはそれぞれ個性が存することや今後はより個人の尊重が尊ばれるだろうことから、将来的には宗教といえば個人的な宗教が主流となってゆくのだろうと想像したりしていた。

 
教義があるのは、言葉に出来ることの骨子をまとめておく必要からであり、信仰のためであります。2種類あるのではなく、信仰のために宗教があるのです。
 
楽山は、信じられないような勘違いの上で宗教を語ろうとする高慢だけの人であり、宗教も信仰もけがしてゆくことしかできない人でしょう。今もそうですが、人の言うことを受け取らす、学習を何もしなかったから、分類?して、幼稚な理屈をこねて自己満足するのです。
 
宗教は、組織的な面と、個人的な信仰と、言い換えれば、教理および信条と、個人の秘密であるところの神そしてキリストとの関係という個人的な面があるのであって、つまり、2つの面という見方があるのであって、決して、2つに分類されるのではありません。
 
楽山は、キリスト教とキリスト信仰を破壊しようとする反キリストなので、手段を選ばず、あらゆる偽りの言葉による詭弁を弄して、宗教と信仰を、自分の支配下に置いた気分を求める餓鬼なのです。
 

少々妙なたとえであるが、旧日本軍では物資不足から様々なサイズの軍靴を用意するのは難しく、そのため兵隊に対して「軍靴に足を合わせろ!」とはっぱをかけることがあったというけれど、この話にのっていうならば、組織的な宗教は教義に自分を合わせるものであり、個人的な宗教は自分に教義を合わせるものだということになる。

 
信仰には、当然、努めるべきこととして、個人が、神のほうを向いて祈るということがあります。個人には個人だけの事情があるからです。当たり前ですね。
 
宗教は、信仰の集団・組織・形式・歴史・言葉などを総合した呼び名であろうと思います。
 
信仰は、個人と神の関係、地上では個別のもので、かつ、自分に教義を合わせたりしてはいけません。それをしているのは、楽山その人であります。つまり、自分の世界観妄想に、宗教を合わせて分けているのです。
 
楽山が知っているのは、言葉としての名前だけです。本質については、まるで知らないことを批判されたので、向きになって、ボロを出し続けています。しかも、分かりもしない学者の名前を利用することを常套手段としています。
 
神を軍靴に喩える楽山の愚と悪が明らかであり、楽山が、神を冒涜するために、宗教をおとしめている悪意は、もはや、宗教と信仰を語ろうとする人々の敵と言ってよいものです。
 
揶揄、芝居、カルト支援、嘘、欺瞞、印象による宣伝と詭弁、訂正不能、自己中心、言葉の暴力性と粘着性、楽山の害は、頭のおかしい精神病質者の悪意の企みであり、言葉だけ整えたつもりで慢心するインテリ気取りの偽善と言ってよいのです。
 

当然のことながら、著者の主張はこれよりもずっと理性的かつ穏当、妥当なものであり、私の考え方とは全然別だともいえるのではあるが、ただ宗教を個人的なものとそうでないものとに分けた部分については、共通しているようなので、この点については自分の考えは全くの見当違いというわけでもないと認めてもらえたようで愉快な心持ちはする。

 
信仰を度外視して、宗教を分けることで、分かるのは、楽山の精神が、硬い陶器が壊れるように、柔軟さを喪失して、いかなる色も失っている、ということだけです。
 
だから、幼稚なことに喜々として、恥を知らず、恥をさらすのです。気に入らないものを無視するようになったときからの、宿命かもしれません。学者の説と、自分の根深い妄想観念を並べて、共通しているなどという楽山の傲慢は、節操のない野卑な欲望であります。
 
妥当なものと、楽山が、著者を評価しています。妄想的自画自賛からしか物の言えない楽山に、そのような批評家の資質は皆無であります。楽山に、まともな思考がないのは、今までの批判記事で明らかです。
 
誰も、世辞以上には、褒めてくれないから、とうとう、自分で自分を褒め出した、という印象に尽きること、考えないのでしょうか。
 
学者つまり学ぶ者としての、いかなる資質も持たず、気取りだけがある楽山の、みにくさと、みじめさだけが、明らかになってきました。これからも、ますます、そうなってゆくでしょう。楽山の自分らしさは、好ましい人間らしさと相容れないもので、この地上では成り立たないものであります。
 
楽山の「自分の考えは全くの見当違いというわけでもないと認めてもらえたようで愉快な心持ち」・・こういうことで独り舞い上がり、それを平気で言う人なのです。
 
楽山の思慮を、世辞以外では、誰も、褒めていません。もちろん、本も、学者も。
 
必要だから考えるのではなく、どんなもんだい!と言いたくて、平凡で退屈で何の助けにもならない当たり前のことを、学者と同等であるかのように出してくる、そして、並べて悦に入ってしまうのでしょう。
 
自分を褒めるためだけに、書物や文献を引用するなんてことは、何十年続けても、決して成り立つことはありません。ふつうは誰もが、いけないことだと、見苦しいことだと、分かるのです。楽山だけが、分からないで、読書自慢をします。あわれです。
 
人の意見を受け取らなくなったときから、学習と成長は止まります。そして、ストレス耐性も養われなくなります。それでも気づかなければ、人格が、身勝手な欲望によって、捻じれ変形し醜い有り様になります。
 
進行すると、本人は、低格化するので、ますます気づきにくくなります。そうやって、人格の堕落と崩壊が始まり、さらに、進行します。それが、悪い意見も、良い意見も、自分の快楽原則のみに従って無視する者に定められる宿命なのです。楽山は、その宿命を辿(たど)って、わざわざ見せているわけです。
 
私は、自慢したいからではなく、楽山がキリスト教とキリスト信仰をおとしめているから、必要な批判記事を書いています。・・まあ、いいかげんにしてほしい・・というのは、前からあります。
 
楽山についても、まだ批判を始めて約2年なのでシャロームに対する9年ほどではないが、偽善とカルトと自己愛性人格障害、そして、決して見ならってはいけない悪の例として、特徴が列挙できそうな段階まで、少しずつ資料として整理されつつあります。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、実に、よく似ている。したがって、こちらの言うことも似てきます。また、併せて、単独の成りすまし疑惑も生まれてくるというわけです。
 
私の人間としての尊厳は、神様からいただくより上になるということはありません。
 
楽山のように、自慢して、自尊過大になる醜さだけは避けたいと思っています。
 
どうか、楽山を、かわいそうだなんて思わないでください。いつでも反省し修正する機会があったのに、彼は、反省しなかったのです。自分より上に、もっと優れた者や人がいることを認めることができないナルシシストです。そういう修正不能の体質と思うしかない人です。
 
※ 自己愛性人格障害、うぬぼれ屋、ナルシシストnarcissist、( ナルシストnarcist )
 
 
(2020年03月09日、同日一部修正)
 
 
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