ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

まとめ芝居(2)

 
  まとめ芝居(2)
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24983246.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、いい加減な理路と、作為的な詭弁と、無反省のもたらす、乾いた垢のような嘘と詭弁と認識不足が、漏れてきます。
 

*知
知と聞くと、『知の原理』の冒頭で紹介されていたピンの話を思い出す。自分の通っていた支部ではこの影響を受けて、何か問題があると決まって「ピンは何か」という議論になったのだった。今でもこのピンの話はいい話だったと思う。
ただこれはアランのエッセーにある話を、大川隆法が紹介したものであるから、大川隆法というよりアランが偉かったということだろう。考えてみればこの話に限らず、大川隆法の話の中で、自分が感動したことの多くは、他者の受け売りであって、大川隆法自身が発見体得したものではないことが多い気がする。

 
困りますね。ピンは何か、と言いながら、いい話だったと、説明も解説も無しです。
 

ああそうだ。大川隆法の本…たしか『太陽のメッセージ』だったような気がするが、浜辺の足跡の話を読んで大いに感動したことがあった。守護霊がおぶってくれているという話で、こんな話ができる大川隆法はすごいと思ったものだった。でもそれからずいぶん経ってから、曽野綾子の『老いの才覚』で、これと同工異曲の詩が紹介されているのを読んで仰天させられたのだった。浜辺の足跡の話は大川隆法のオリジナルではなくて、キリスト教の方ではとても有名な詩だったのだ。こういうのはズルいと思う。(参考・浜辺の足跡 ・Footprints 『浜辺の足跡』 アデマール・デ・パロス)
仏陀再誕』にある草笛の音の話は、今でも好きだが、もしかしたらこれも仏教説話かなにかが元ネタになっているのかもしれぬ。

 
フットプリントの詩は、いつも助けてくれる神を描いている好い詩ですが、残念ながら、欠点として、戒める神と懲らしめる神への恐れを描いていません。その結果、カルトに、いいように利用されています。凶悪カルトの偽善者シャロームも引用していました。
 

さて前置きはこれくらいにして本題に入ると、HSでは与える愛のためには知が必要だとしていたと記憶しているが、自分の経験からするとこれは違うように思う。
たとえば生かす愛の実践のために知を用いようとした場合、自己の内面をよくよく観察すれば、心に理想を描き、自分の影響力を行使して、相手をそれに近付けようとしていることに気が付くだろう。つまり、「Aはこうあるべきだ」として、現実のAが自らその方向に進むように誘導しようとしている。これはHS的には奪う愛だろう。愛に知を持ち込めば多かれ少なかれこういう落とし穴は避けられないと思う。

 
HSというカルトのことですから、愛のために知が必要というのも、奪う愛以前に、愛ではなく、思いこみや信じ込みから従順への誘導のことでしょう。
 
恐ろしいことですが、楽山は、「愛に知を持ちこめば・・落とし穴は避けられない」という結論に結び付けてきます。愛が偽物であれば、知?を持ちこむ話も、嘘なのです。
 
楽山の話は、愛と知を結び付け、カルトという前提もなく、知が誘導であり、ゆえに、愛の落とし穴は避けられない、などと、成り立たない話を前提にして語る、愛をおとしめる詭弁です。カルトには、楽山やシャロームなどの易坊類がそうであるように、愛は成り立たず、信じ込ませる詭弁・誘導があるだけです。
 

またHSでは、知の世界より信の世界の方が広いとしていたと記憶している。「知ることと信じること」という論考だったろうか…。自分はこれは反対だと考える。人は知っていることしか信じることはできないのだ。

 
知っておれば、信じる必要はない、ということで、楽山は、宗教と信仰には、まるで関心を持てない人だということが明らかになっています。
 

神、霊、あの世、宇宙人…などの観念、言葉を知ってから、それを信じる、信じないという選択が生じる。もう少し詳しく書けば、特定の観念、言葉を知ってから、それが現実かどうかの確認があり、その結果現実と確認できなかったものについて、信じるか、信じないかという選択が生じる。知の世界は、信の世界よりもずっと広いし、信の世界と不信の世界は同程度の広さを持つのだろう。信の世界はそれほど広いというわけでもない。

 
楽山は、知らないと気が済まず、偽りの知識と思考を振り回してきました。その体質が明らかになっています。全能の神を知ってから信じるというのは、最初から出来ないことです。
 
信仰は、神・キリストを信じるのであって、その材料は、自分が聖書を読んで、どう感じたかにかかっています。そして、聖書に感動した人は、キリストに希望を託すようになります。
 
楽山は、聖書を読んで、何も受け取らなかったのなら、知って信じる信仰どころか、感じて信じる信仰にも縁はないでしょう。知ってから信じる、というのを、神に当てはめる楽山の思い上がりの酷さが浮き彫りになっています。
 
現実において確認できなかったというのも、字面の知識にこだわっているからであり、感性も知性も、頭も心も、反省せず学習しない楽山においては、信仰に至る器と成っていないのでしょう。
 
楽山は、恐らく、目に見えるものと字面だけでは信仰は語れないことを、自己愛の自尊過大から認めたくないようですが、信仰を語れば、いつも、的外れになってきた理由を自ら表しているのです。
 
だから、自分の知の世界に悦に入るほど慢心し、はてしない神の世界を愛することも恐れることも出来なくなっています。カルト信者の多くは、そうなのかもしれません。
 

最後にHSでは、霊的知識の大切さを説くが、この世では霊界も過去世も何も知らない状態で、いかに善く生きるかが課題とされているとすれば、いたずらに霊的知識を求めるのはおかしなことであるし、一種のカンニングと同じ不正行為となるだろう。

 
カルトは、その人が罰せられるだけの「カンニングと同じ不正行為」ではなく、他者を巻き込んで人格と人生を破壊してゆくところの、インチキで悪質な詐欺行為なのです。
 

この世において霊界では決して会うことはできない存在から高度な法を学ぶというのは有り難いことではあろうが、波長同通の法則からすれば本来の自分の霊格以上の教えは聞いても聞こえず、そうたやすく身につくものでもない。ましてや霊的知識の学びを自発的に求める者ならともかく、伝道と称してそれを欲しない者に無理強いしても仕方ない。それはカンニングの強要と同じくらいに間違ったことである。

 
カルトというのは、難しい言葉や言い方を好みます。偉大さを装うためです。そういう話を聞いていると、結局、教祖だが持っている能力という話になるでしょう。そこで、カルトの悪臭にも醜悪さにも気づかない者だけが、カルトに魂を売り渡す経過と結果になるのです。
 

*反省
 HSでは反省の前提として、正信…正しい信仰が必要だと説いていたと記憶している。たしか『真説・八正道』だったろうか。
 自分の考えでは、これはHSの教えを基準にして判断することであり、教団に尽くす善き信者になるための反省ではあっても、善く生きる善き人になるための方法ではない。

 
楽山は、宗教と信仰を語るのに、自分の、字面しか見ないような思考を正しいということを前提としています。つまり、カルト教祖が、自分自身になっているだけです。楽山は、まさに、自分の善き信者になっているので、それは、全く、人間として善き人には成れない生き方なのです。
 

たとえば、この場合の反省は次のような形になるだろう。
・自分は、エル・カンターレの教えに背かなかったか?
・自分は、エル・カンターレの教えを実践できたか?
こういう反省を繰り返していたら、善き信者になることはできるだろうが、万人が認める善き人になるのは難しいだろうことは明白だ。

 
楽山は、カルトの教祖中心を語りながら、万人が認める善き人になるのは難しいなどと言っていますが、万人が認める善き人などいません。楽山の高慢な楽天的誇大的な軽口が滑っています。楽山の、謙虚でないところが、あちこちに表れていますし、書けば書くほど、子供の洟(はな)垂れのように、さらに表れるでしょう。
 

反省の前に、正信としてエル・カンターレ信仰をおけば、どんなに反省したところで、エル・カンターレ信仰自体は反省の対象にならず、それが正しいかどうか吟味することはできなくなる。反省とはすべてをその対象とするからこそ効果があるのであって、何かを神聖不可侵としてしまっては意味がなかろうと思う。

 
楽山は、カルト教祖などは全く神聖ではないのに、教祖を利用して、神聖不可侵のほうを否定しようとしています。白々しい詭弁です。
 
神聖は、元々、不可侵であり、知ることも、分かることも、見えることも、この地上では出来ない存在として、在って在るもの、という言い方をします。人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。
 

*発展
自分の記憶では、発展とは愛の拡大であり、より多くの人々を幸福にすることだと教わったように思う。これには、なるほどと共感できる。

 
発展を、愛の拡大と言っているのは、どこで教わったのでしょう、HSなんでしょうか。楽山は、なるほどと共感できる、と書いています。HS独自の意味付けであろう"発展"という熟語、・・抜けきっていない部分でしょう。
 

でも大川隆法の主張を聞いていると、信者数、公演回数、霊言回数、著作数の多さを繰り返し強調し、それらを増やすことをもってHSの発展と自分の偉大さの証明としているようだ。常々唯物論は間違いだと言ってはいても、この主張を見る限りはかなり唯物論的な思考、価値観によって発展をとらえているようでおかしい(笑)。

 
唯物論的、というより、俗物的と言うべきでしょう。
 

また大川隆法は、自己を発展させる方法として自己変革の必要性を説いているが、これは香山リカが指摘しているスピリチュアルにハマる人の特徴に合致している。氏によると、スピリチュアルにハマる人は、自分が変わりさえすればすべてがうまく行くと考える人が多く、自分の抱えている問題について、歴史的社会的な視点から考察し、対策を講じようという意識が希薄であるらしい。(参考『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』香山リカ著)

 
自分が変わらなければと思うのは、よくあることで自然ですが、「自分が変わりさえすればすべてがうまく行く」と言うのは思い込みであり、さらに、これらを他者にだけ当てはめて言うのは、まさに、楽山やシャロームなどの易坊類がやっていることです。
 

HSは常識に欠けるだとか、社会性が欠如しているという批判はよく聞くし、信者でも世間解について云々することは珍しいことではないけれども、これには発展、自己変革、自己責任など、HSの教えに社会性が欠けていることと関係していることは否めないだろう。これらは一面の真理を語っていないこともないだろうが、問題の原因をなんでも個人に帰すればよいわけではないのだ。

 
カルトは、常識に欠けてゆきます。珍妙な人間離れした妄想信条を持つと、それが、常識を駆逐してゆくからです。鋭敏になるのでも、能力を得るのでもなく、欠ける方向、鈍麻する方向に、しかも、固定してゆくのでしょう。まさに、楽山に、それを見ています。
 

そういえば自分が会員だったころ、社会制度について意見を言ったら、先輩会員から「制度を変えたって心が変わらなければ何も変わらない」と言われて、ハッとさせられ感動したことがあったが、このことからすると当時の自分はまさに香山リカが言うところのスピリチュアルにハマる人だったのだろうと思う。とほほ。

 
今は、いや、ずっと、自己愛に嵌って、嘘、詭弁、印象操作、刷り込み、などによって、嵌らせることと保身に懸命なようです。
 
もう一度、言いますが、人間は、ただ、神のもとにある自覚をもって、正直に祈る暮らしの中で、神に対して劣る者としての謙虚さ、すなわち敬虔を学ぶのです。
 
これまでの楽山の記事の、詭弁と嘘の流れから、楽山には、この正直さが、ありません。
 
楽山が、学習障害の人であるなら、かつ、それを自覚しているなら、それなりに生きる道はあるはずですが、楽山は、それを探し求めるのではなく、どこまでも、宗教家気取り、批評家気取り、読書家気取りに、しがみついて、どんどん、いちばん向かない方向を選んで、背伸びばかりして、自己愛性の害毒をまき散らして、同情の余地も、自立の余地も、自分で潰(つぶ)しているのです。
 
つづく。
 
 
(2020年06月02日)
 
 
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