ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

超常と日常

 
  超常と日常
 
 
聖書に書いてある超常現象
つまり
処女懐妊
物や肉体の奇跡
肉体の復活について
信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。
 
何故なら
超常現象の奇跡を信じても
そういう奇跡は、
少なくとも、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで
もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから
超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。
 
 
物や肉体の奇跡は
神のみのわざです。
神のみに任されることです。
人が自分の都合で
神のわざを信じ込むのは
不遜というものです。
 
心の奇跡は悔い改めであり
神と人との関係において起こることです。
心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を
信じますと言っても、
信じると何が起きるというのでしょう。
 
処女のまま妊娠しますか、
何か超常現象を起こせるようになりますか、
死んでも肉体が蘇りますか、
誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。
むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。
地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。
その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。
信じたら超常の奇跡が起こると言われても
実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。
病気になってもすぐ治るのでは
病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
超常に執着することで生じる鈍感さは
日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。
 
奇跡に頼ってしまえば
人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから
奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは
神の御心に任されていることです。
 
信仰は
信じれば奇跡が起こる
という交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は
怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると
もっと考えるべき日常のこと
人間としての節操や
愛と共感そして真実の追求など
人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが
超常現象を信じることは
思考と感情をゆがめてゆくのです。
大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら
驚きを持ってみるでしょう。
それで命が助かったら感謝もするでしょう。
しかし、驚きと感謝以上にはなりません。
私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
 奇跡に頼って
 過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
 その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
 理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
 ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
 その上にあぐらをかいて、
 もはや人間とすら思えない状態になっています。
 この人のどこが救われた人なのでしょう。
 滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は
超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。
 
 
私たちは、私たちに与えられている良きもの、
つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において
それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。
多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、
キリストに正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。
彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
 聖書において
 教条と戒律主義に陥った者たちは
 儀式の形式を守ることで
 良心の実質を疎かにして
 守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
 彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
 選ばれた者という自覚に思い上がり
 そしてキリストを殺す者となり
 神の怒りを買いました。
 
信仰は
共感の可能な心によってのみ受け取られ
悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。
どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、
神のごとくであることを求めない敬虔によって、
代わりに人間らしい心を与えられ、
育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるには、
徹底して、神の完全との違いを明らかにして弁えていくしかないのです。
 
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れの傾向が生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても、神の前に、何よりも、正直な告白であること以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのであります。
 
 
(2020年07月06日)
 
 
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