ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

人間が受け取れること(改)

 
  人間が受け取れること(改)
 
 私の記事「人間が受け取れること」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12508188715.html
  補足修正して再録します。
 
 
信仰は
神・キリスト・聖霊という神性について
それぞれ、こうだ、と信じることではありません。
そういう信じ方を決めつけ思い込みの信じ込みと言っています。
 
信仰は
人が神のもとにあるという希望です。
それは絶えることのない希望です。
 
信仰は
キリストの愛によって
絶対孤独から解放された人間が
キリストの愛に答えて
キリストを愛することです。
 
人間が受け取ることの出来る信仰とはどういうものでしょう。
 
超常の奇跡も仕組みも
人間が、分かったと受け取れるものではありません。
しかし聖書に書いてあるのだから否定されるものでもありません。
 
教理としてまとめられた解釈は糧(かて)となりますが、
それを、そのまま話しても、
恐らく人間に対する説得力はないでしょう。
 
教理は、聖書解釈から、妥当な道筋を表したもので、
それを信じ込んで、信仰となるわけではないのです。
私たちは、経験の中から、敬虔な信仰を学んでゆくのです。
 
そういう手に負えない救いの仕組みについて
神に任せるしかない超常の話について
私たちは正直に、分からない、と答えるべきであります。
それが神のもとにあって
人が不完全であることの自覚であり
敬虔なのです。
 
敬虔は礼儀ではありません。
敬虔は信仰に密接に結びついており
信仰になくてはならないものです。
 
人間には何が分かるのでしょう。
人間に分かるのは人間に起こることです。
また人間によって営みとできることです。
 
人間には知性と感性があります。
どちらにも直観的または直感的な理解というものもあります。
この2つの熟語の区別は、私の中では、はっきりしてはいません。
人間に起こることでも心の中のことは
人間には明確につかむことの出来ないことが多くあります。
 
知性に拠って理路となり実行可能となること
感性によって納得できて心を活発にすること
これらは人間にとって
完全ではなくとも
手に負えることです。
つまりこれらを用いて聖書を読み
これらを用いて信仰生活で必要なことを考えてゆきます。
 
聖書の中で
処女懐妊、奇跡、肉体の復活について
人間は、そう書いてありますと言っても
それを理解することは出来ません。
これらは神のわざですから
神のものは神に任せるべきであります。
 
神に任せることについて
生命保険のような保証を得たと思うのはカルトのすることです。
神に任せたのであれば
喜びをも悲しみをも、最後には地上での死をも
与えられることを受け容れるべきでしょう。
 
 
聖書の中で
キリストと人間が交わって
キリストが何を見抜いたか
そして、交わした言葉と態度が、人間にとっては何よりも重要です。
 
聖書の中で
キリストが、いかなる人を救ったか、
キリストが、いかなる人を批判し否定したか、
この両方から、キリストの意志と意図を読み取るべきです。
 
そして、聖書を読んで、キリストに癒やされた経験があるなら、
それは、魂の奇跡、または、心の奇跡と、呼ぶべき奇跡なのです。
この奇跡だけは、人間に理解可能です。
 
 
既に、記事に書いたことではありますが、
 
 (創世記、口語訳)4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 (創世4:5、旧約聖書
 
カインは、創造主が省みなかったとき、憤りました。
相手は創造主なのだから、本来、深く悲しんで理由を聞くべきだったのです。
 
カインのこういう在り方は、サイコパスの特徴ではないかと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:20-22、新約聖書
 
守ってきたという青年の高慢をくじくために、キリストは、総てを捨てるように、青年に言います。
そして、青年は、出来ないことを言われたので、悲しみながら立ち去ります。
カインとは違うところです。
この青年が、その後、どうなったかは、聖書には書いてありませんが、
この青年に、その後の導きがありますようにと、祈るのには十分でしょう。
 
このように、神から、そのときは離れてゆく、という人にも違いがあります。
そこに、救いに与(あずか)るために必要なヒントが書いてあるように思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書
 
カインと、青年の、2つの聖句で表された、怒りと悲しみは、不都合なことが起ったときの感情として、憎しみと暴力につながるか、反省と悔い改めにつながるか、という大きな違いがあります。
 
それは、そのまま、人間の感情の方向が、御心に、適(かな)うか、適わないか、ということでもあります。聖書は、怒りよりも、悲しみを、信仰の義に至る経過としているようです。
 
カインは、その後、弟アベルを殺します。殺したら、取り返しがつきません。
 
青年のその後は、書かれていないようですから、推測するしかありませんが、立ち去っても、戻ることは可能です。悲しみは、内省やアドバイスによって、元気を取り戻すことが可能な感情です。
 
憎しみは、外に向かう攻撃性で、暴力につながりやすく、
 
悲しみは、内に向かう分、反省につながる可能性があります。
 
悔い改めの正直な祈りは、多く、悲しみを経ています。怒りや憎しみからは生まれません。
 
怒りは、とっさの反応として湧き上がってくるものです。それが、憎しみという持続する陰性の感情になるかどうかは、とても重要だということです。
 
悲しみは、長く続くと、心の病につながることもあり、悲しまないでいられるほうがよいのかもしれませんが、生きておれば、自他ともに人間は不完全ですから、多かれ少なかれ、悲しみは、必ず訪れてくるものです。
 
悲しみと、憎しみと、どちらを抱えている人に、人は近づこうとするでしょう、言うまでもなく、前者であります。助けになれる可能性があるからです。
 
怒りには、義憤というものもあります。不正に対する怒りであり、短絡しなければ、必ずしも、いつも悪いとは言えません。しかし、憎しみや怨念になってしまうと、災いとなることが多いでしょう。
 
最も災いなのは、無感情と無反応です。何があっても、感情的にならないのではなく、感じないでいる者は、また、感じなくていいと思っている者は、結局、さらに感性が鈍麻してゆき、無反省になるので、そこから、知性も進まなくなってしまうのです。
 
無感情、無反応、無反省は、人間ならば、ありえないことのよう思われますが、傾向としては、人格障害において起こりえます。カルトの刷り込みなどによっても、起こりえます。帰結するところは、人格崩壊、または、自暴自棄の混乱状態となってゆくでしょう。
 
 
(メモ的に)
 
神のほうが人から離れてゆくことはありません。
神の全知全能は、人の総てをも知るのであって、離れることはないのです。
だから、人は、離れても、いつでも、神のもとに帰ることが出来ます。
神は、いつも、待っておられるということです。
 
神ではなく、人のほうが、勝手に離れてゆき、
神への節操を忘れて、正直な告白と悔い改めをしなくなることがあり、
そういう者に限って、心の中に別の守り神?を捏造してゆきます。
そして、盛んに讃美するのです。
 
神は人を裏切りません。
自由意志のない動植物は神を裏切りません。
 
人だけが神を裏切ることがあります。
その中で最も重い罪は、自分に都合の良い偶像を神?と言っていることです。さらに、自己正当化と自己顕示欲のために、それをキリスト教の神だと言い張ることです。
 
 
(2019年08月18日)
(2020年08月21日、加筆修正して再録)
 
 
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